「ねえ、わかる? 好きな人と食べると、食べ物がちょっとだけ魔法にかかったみたいになるの。あの味、この香り、全部が。もっともっと素晴らしく感じるの!」
以前、こんなセリフを本で読んだ。
ゼイゲンという男と、それ以外の人間との違いは、きっとそれだ。
ゼイゲンは美味しくて、他は不味い。
だからゼイゲンは、私の『好きな人』というやつだ。
*
朝日が窓から差し込んだ。網膜を貫く刺激が起床を促す。
「ん……」
光から逃げるように寝返りを打つと、彼の裸体が目に入った。
私達は好きな人同士――恋人が行うという儀式を終え、そのまま眠りに着いていたのである。
規則正しい寝息に合わせ、胸が上下している。手を当ててみたら、鼓動の震えを感じ取れた。
一度手を離し、彼がそうしたように胸に舌を這わせてみる。
「んふ……」
まだ眠気が残っている。
目を閉じると、微睡みの中へ落ちていった。
*
リープは他の人間について口にすることは無くなった。
その代わりという訳でも無いだろうが、半年に一度の、人里への買い出しに着いてくるようになった。
「薬草と、竜鱗は売れるかな」
価値のありそうな物を手あたり次第にバッグへ詰めていく。ああ、それと。
「貨幣も復活したんだったな、そういえば」
色々あって貨幣経済は崩壊していたが、最近は辺鄙な里にも流通し始めたのである。
油断すると使えなくなってそうだが、やはり便利である。積極的に集めていこう。
「……昔のやつはどこに置いてあったかな」
……思い出せないので忘れよう。どうせ役に立たないし。
「よし」
大量に詰めたバッグは異様に膨らんでいるが、破れる様子はない。"いくら物を詰めても破れない魔法"を、試行錯誤の末に完成させたのである。やはり魔法は便利だ。
「リープ」
返事はない。そして姿も見せない。
「リープ、まだか?」
寝室の扉を開ける。
彼女は姿見の前に居た。
簡素な布を纏った、人間の服装を纏っている。
人の里へ行くのだから当然だ。
彼女は何が気に食わないのか、頭に巻いた布を解き、再度巻き直していた。
(これは時間が掛かりそうだな……)
2人で行く時は、のんびり歩きながら向かうので数日掛かる。
角隠しの変装用なので頭のそれは今巻く必要は薄いし、巻いても夜には外す。
だのにこうして毎度毎度拘るのである。
(お気に召した帽子が見つかると良いんだけどな。気難しいしな)
人間のセンスが彼女に追いつくには、数千年は掛かるに違いない。
椅子を引いて彼女の後ろに座った。
相変わらず巻いた布をまた外していたが、機嫌が悪いわけではないようだ。最近ようやく理解できるようになった、気がする。
「ねえ」
彼女が振り返り、意見を求めるように呼んだ。惚れ惚れするような、朗らかな笑顔である。
――答えを間違えるなよ、俺。
「ああ、良く似合ってるよ」
*
不揃いの石を積み上げ、隙間を粘土で埋めた家。そういった建物が雑多に立ち並ぶ。昼時は過ぎているため、突き出た煙突から出ている煙は少ない。
家の感覚が広い場所は寄り合い所のようになっており、今は多くの人で賑わっていた。どうやら行商が来ているようである。中々タイミングを合わせづらいので、運が良かった。
「何か欲しい物あるか?」
必要な物の売買を済ませ、リープに問いかける。竜鱗は旅人が高値で買い取ってくれたので、懐にはかなりの余裕ができた。
「ん~~~……」
リープは行商人が広げた物品の前でしゃがみ、唸り始めた。また時間が掛かりそうなので、俺も後ろで商品を見る。
この行商人は日用品の類は扱っていないようだ。エルフ細工の飾りや、ドワーフ製のカトラリー等。中々お目に掛かれない高級品を扱っているようである。
(こんなもん抱えて旅してるなんて、よほど腕っぷしに自信があると見える)
行商の男は背こそ高いがドワーフに見える。年は160ほどだろうか。商売人にあるまじき無口ぶりである。ドワーフ特有の伸びた髭は微動だにしていなかった。
リープも唸るのを止め、じっと微動だにせず眺め続けている。
「……」
(……なげえな)
リープはもう少し、多分もう少しだけ時間が掛かりそうである。
行商人を盗み見る。特に気にしていないようだ。良かった。
(……)
だが少し経ってから、視線を感じ始めた。行商人の視線だ。やっぱり迷惑だっただろうか。
謝意を示そうと顔を向けると、当然向こうもこちらを見ているのだから目と目が合う。
目を見れば何を考えているかは大体読み取れる。例外は魔族の女くらい。いやエルフの女も怪しいかも。
それはともかく。
この男から感じたのは……憐憫か?
(何でだ……あ)
ふと視線を落とすと。
リープの頭に巻いていた布が、緩んでいて、隙間から、ちらりと角が。
「やべ」
「ぁ! や! 触んな! ~~~~~~!!!!?」
咄嗟に隠す。暴れるので覆いかぶさるように隠す。リープも口ほど本気で暴れる気はないようで、ほどなく沈静化した。
既に日は傾き、人影もまばら。行商人の前には誰もいなかったのは幸いだ。
しかしまあ。
「――――――見た?」
目の前のドワーフは、見ちゃっただろうなあ。
ドワーフはこちらの狼狽など意に介さないと言わんばかりに、のろのろと髭を動かし言った。
「買うのか。買わないのか」
……多分、解けた変装を見なかったことにしてくれたのだと思う。
「あれ欲しい」
疑惑の本人は本当に興味がないのだろう。頭は固定しているので指だけを指して、当初の目的を口にした。
指の先にあるのは手のひらサイズほどの、円形の容器か。
ドワーフは無骨な指でその容器を開く。
中身は絵具だろうか。ペースト状の赤色の物体。
「口紅だ。使い方は分かるな?」
ドワーフは明らかにリープへと問いかけ、そしてリープは強引に頭を縦に動かした。
それを受け、ドワーフはリープに口紅を手渡した。
「今日はもう店仕舞いだ。帰りなさい」
商売を終えた行商人は、そう言ってひょいひょいと商品を仕舞い込んでいく。
腕の下から突き上げるような衝撃。
「帰るでしょ?」
リープが言った。
「あ、ああ。そうだな」
店主はまだ商品を仕舞い込んでいる最中だ。これから彼はこの村に宿を借りるのだろうが、俺たちはこのまま帰宅し、道中は野宿になる。本当なら俺たちも宿を借りたいが、流石にリスキーである。さっきの件もあるし、あまりリープを1人で人に近づけるべきじゃない。
(このドワーフ、何であんな視線を。それにリープは何で口紅なんて)
色々と気になることはある。だがリープの前で視線の意味を聞くのは躊躇われたし(これはただの勘だが、良くないと思ったのだ)、口紅についても、これまた何となくリープには聞きづらかった。店主は何か知っていそうだったが……。
(リープには先に帰って貰って……。いや1人にするべきじゃないって)
これはもう本当にしょうがない。
この場は諦めて、次の機会、その時に改めて確認することにしよう。
そう結論し帰路に着いた。
最も、このドワーフとはもう会うことは無かったのだが。
*
寝室の扉を閉じる。ゼイゲンの気配は外。おそらく薪を集めている。ここに来る可能性は低い。
それを確認した後、椅子に浅く腰掛け、容器の蓋を開いた。練り込まれたバラの香りが部屋全体に広がっていく。
軟膏のような口紅を指で掬い、唇に沿わせて塗っていく。軽く一周した後、口を軽く閉じ余剰分を落とした。
そして姿見に自分を映す。
――不自然な発色だ。人間はこういうのが良いのだろうか。
(とりあえず聞いてみよ)
ゼイゲンのために付けたのである。直接聞いてみるのが一番であろう。ドアノブに手を掛けた。
「……」
しかしふと嫌な考えが頭をよぎった。
もし、もしもだ。こっちの方が良いと言われたらどうしよう。
頭に趣味の悪いボロ布を巻いていた時のことを思い出す。
『ああ、良く似合ってるよ』
「チ……」
でもそれは私を覆い隠してまでやることではない。
何故なら、私が、彼と、恋人関係を構築するためにやるからである。
乱雑に口紅を拭い、容器を引き出しの奥に投げ込んだ。