慈愛学園を東京側に出れば予備校がある。学校を辞めた元教師による無認可校で、予備校という名前だが値段は格安。
基本的に勉強の場を提供し、結果を担保しないという点では、認可校と全く違いは無いため、問題がある訳ではない。
――今日の世界史は暗記テストを行う。教科書を見ても良いので、テキストをよく読んで、穴埋めを行うように。テスト用紙を十枚出せたら自習にしても構わない、
教壇に立つ講師から紙束が配られると、梢は黙々と言われた通りにした。基本的に勉強嫌いの彼女にとって、問題の解き方に絞って教えるこの私塾は、やり易く、居心地が良かった。
(学校の教科書も使って良いから助かるわ)
見れば知った顔もちらほらといた。梢の高校が馬鹿校とはいえ、全ての生徒がそうとは限らない。
家庭の事情で通わざるを得ない者もいて、そういう生徒は特別学級のように隔離され、真っ当な授業を受け、足りない分はこうして学ぶ。
現代はネット上での教材に恵まれているが、そのネットが与えられていない子もいる。
この塾にいる受講者の大半は、そんな生まれや家庭に振り回された末に流れ着いた、漂着物のような物だった。
――はいそこまで。答案を回収する。
紙束を前に送り、梢は軽く伸びをした。周囲を見回して同じ学校の女子に手を振る。
「森塚さん、一緒に帰らない?」
「ん。そうしよっか」
授業が終わって近寄って来たのは、同学年の桜之(さくらの)千春(ちはる)だった。
高校三年生なのに、中学生のような背丈と華奢な体付きの女子で、整った顔立ちも地味な三つ編みと、今時珍しい黒縁の眼鏡に埋もれてしまっている。
「もう真っ暗だね」
「流石にこの時間じゃなあ」
外は既に夜の九時を回っている。帰れば十時であり、プライベートな時間はほとんど残されていない。
寿命の前借りとも言える受験対策の時間は、若人の健康と体力と青春を、否応なく削る。
「どうする、今日泊まってく?」
「うん。家までだと一人になるし、親もいないから」
千春の家は梢の家より遠く、親も泊まり込みの多い職業らしく、彼女が一人で過ごすことも多い。
あまりに不用心であり、無関心であった。
「夕飯はどうする?」
「もう遅いから、軽くでいいよ」
「分かった」
帰りに二人でファミリーレストランへ寄り、軽食を摂ってコーポ森塚へ移動する。
梢の部屋には二人用の布団や歯ブラシなどが有った。千春のためである。
「ただいまー」
「お帰り」
来客のはずの彼女が言って、家主のはずの梢が答える。
風呂を沸かして入り、予め用意されていた寝巻に着替え、着かれた体を休ませる。
「ごめんね、梢ちゃん」
「いいから」
ここが自宅とばかりに千春は寛いだ。二人の馴れ初めは高二の夏だった。
例の予備校で知り合い、梢のほうから距離を縮めた。思い詰めたものが彼女にあり、心配してのことだった。
「じゃあもう灯り消すね」
「あ、梢ちゃん、その」
「何、千春」
「また、させて欲しいの……」
梢は電灯のスイッチを切り、部屋を暗闇で満たしてから、千春の唇を塞いだ。
そのまま呼吸を繰り返し、彼女の頭を撫でる。
「ん、ふうー、ふぅー」
既にこの世の何処にも居場所の無い、千春の危うさを見て、梢は彼女を手籠めにした。狙い通り千春は梢にどっぷりと依存した。
その依存が梢には、心地好かった。
「ほら」
寝巻の前をはだけて、シャツを捲る。こうなることは分かっていたので、ブラジャーは付けていなかった。
見えないはずの乳首に、千春が吸い付く。赤子のように。
「よしよし、いいこいいこ」
梢は乳を吸われながらも、友人とも恋人ともつかない女を抱いた。
髪と心の解けた娘は、口に含んだ乳首を離さぬまま、さめざめと泣いた。
自分は何をしているのかという情けなさ、孤独さ、悲しさ。何時からかもわからない、長い間の孤立が、彼女の中の時間を止めていた。
「ごめんね、ごめんね、梢ちゃん……」
「いいから」
高校三年生、18歳。
大事な時期だと誰もが言うが、その誰もが彼女のような人間に、見向きもしない。
実年齢よりもずっと幼い千春が、自分を親に見立てて甘える姿が、一線を越えて身を持ち崩す様が、梢には愛おしかった。
「母乳が出ればもっと良かったんだけど」
「普通は出ないよ」
「適当に客で作ろうか? 子供」
「そこまではいいよ。怖い」
この上ない優先と愛情を示されて、千春は怯えた。壊れかけた彼女にとって、梢の誘惑はいつも、破滅を感じさせる甘美な響きがあった。
だからこそ恐ろしく、それに気が付く知性が、気に入られる理由でもあった。
「そう、もういいの?」
「うん。ありがとう。梢ちゃん」
口から離されて糸を引く先端は、ぬめりと帯びて固くなっていたが、梢はそれ以上を求めない。
「分かった。おやすみ、千春」
「おやすみなさい」
二つ一組の布団の中で、二人の女がようやく眠りに着く。
平和とも不和とも呼べぬ一時だったが、間違いなく彼女たちは癒されていた。
――翌日。
「梢ちゃん、朝だよ」
「ん、おはよう」
「お早う」
既に制服に着替えた千春に起こされて、梢も布団から起き上がる。朝になってようやくブラジャーを付け、諸々の支度を済ませる。
「朝ご飯、作っておいたから」
「ありがとう。何か悪いね」
「いいの。食材勝手に使ったし」
千春のために買ったテーブルには、千春が作った朝食が並んでいた。
梢は会話の足しにと、リモコンを片手にテレビのスイッチを入れる。
『今朝のニュースです。昨日未明、東京都と神奈川県の境にある住宅街で、女性の変死体が発見されました』
「相変わらず嫌な話しかやってないわね」
彼女たちが物心付いた頃には既に、テレビはつまらないものだった。
耳目を傾けても明るい話題など、滅多に有るものでは無かった。
「それじゃあ頂きます」
「いただきます」
『警察の発表では遺体に外傷や薬物の使用が認められず、しかし周囲に争った形跡があることから、何らかの界異に遭遇したものとして、境界対策課に協力を要請したとのことです』
(界異……この辺で……)
「やだ、場所近いよ」
報道された地域は梢たちの住む辺りと、先日祓魔師として出動した繁華街に近かった。
「千春、しばらくスマホ見るのやめな」
「え、なんで?」
「この前聞いたんだけどさ、この界異ってやつ、知ってる人の所に来るんだって」
梢は先輩祓魔師から聞いた、都市伝説型の界異について、それとなく説明した。
当然ながら、ドッペルゲンガー自体には触れずに。
「しばらくは犯人当てやマスコミの飛ばし、あと被害者バラシがネットに出回るから、そういうの目にしたら、あんたの所にも出るかも知れない」
白米を口に含んでから味噌汁を啜る。
一人の時はものの数分で粗末な物を、数分で平らげる梢だが、二人の食事のときは、いつも千春の食べる早さに合わせた。
「そっか。でもネット無いのは辛いんだけど」
「私も期待はしてないよ。自分ならやるし」
無理を承知で言う友人は、黙々と食事を続けた。
「ねえ、梢ちゃん」
「本当にやることないよ。ただそういう情報には近寄らないで欲しい」
「そうじゃなくて、ごはん、おいしくなかった?」
言われて梢は、最初に言うべきこと忘れていたことに気が付く。
「ごめん。美味しいよ。ありがと」
「どういたしまして」
「テレビ消そうか」
「いいよ、そのままで」
ホッとしたように笑う千春を見て、梢も内心で胸を撫で下ろす。真面目な話を優先して、日常を疎かにしかけていた。
寝起きで神経質になっていたのかと反省する。
「今晩は、私がごはん作るよ」
「まだ私泊まるって決まってないけど」
「あ」
「また今度ね」
それから二人は他愛ない話をして、共に学校へと向かった。
この日はまだ、穏やかな時間が続いていた。
以後更新は不定期となります。