慈愛学園では今朝のニュースが話題となっていた。
そのためいつも以上に教室には人がおらず。授業を受ける生徒たちは特別学級の如く、一つの教室に集められて授業を受けていた。
梢と千春もその中に含まれており、クラスの垣根を越えた友情が、そこかしこで育まれている。
「梢ちゃん、次の時間体育だから、鞄預かって貰っていい?」」
高校三年生の体育など、有って無いような時間だが、それでも単位は単位である。
「分かった。行っといで」
学校では私物など、盗まれるためにあるような物で、二人は移動教室の度に、こうして荷物を預け合う。
生徒の大半は机とロッカーと脳味噌を空にしているが、他人の物には平気で手を出す。そのため鞄を肌身離さず持つのが、この学園の常識である。
――んでどうだった、死体あった?
梢が教室に戻ると二人の女子が話していた。黒板には誰が書いたか『自習』の二文字が書かれている。
――警察一杯いたしもうどけてんじゃね?
――血とかは見つかんなかったって。
今朝のニュースにあった事件現場が、この学校からも近いため、生徒たちは野次馬となって殺到していた。
彼女たちにとっては格好の暇潰しであり、学校に残った者たちも、現地の級友たちとのやり取りに夢中だった。
「何か最初に人が叫んでたんだって、キチガイだと思ってスマホで録ろうとしたら、お化けだったんだって」
「へー、何それ」
「あ、梢ちゃんちーす」
「うっす、動画ってどれ」
「これこれ」
女子の一人がスマホを梢に差し出す。そこには正気を失った男が、黒い泥のような何かを怒鳴り付けている所だった。
『オレはオレだよ! 他になんもねえよ! オレだからオレだよ!』
『どうして?』
『うるせええええええええーーーーーーーー!!』
その場の全員が顔をしかめるような絶叫の後、男は泥に襲い掛かった。
殴り、蹴り、刃物まで持ち出して刺すも、泥には効果が無い。それどころか段々と姿が男とそっくりになって行く。
「じゃあ、オレがオレでもいいよね」
泥の表面が男の顔面に貼り付くと、男は狂ったように暴れたが、それは全く取れない。
餌を飲み込むときの首の動きが、顔面を吸う度に起こる。
「うわ、グロ」
「人食いってこと? ヤベーじゃん」
「……」
男の抵抗が止むと、泥は顔から剥がれた。あたかも断面のようになった表面は、犠牲者のデスマスクのようであり、それが徐々に膨らんで行く。
泥の顔は、男の顔になっていた。
そして何も言わないまま、何処かへと立ち去った。
「ヤバくね、顔食って化けるとかエイリアンじゃん」
そんな生態だっただろうかと梢は思ったが、それよりも問題は動画の怪物、界異である。
「コメントにね、これドッペルゲンガーじゃねって書いてある」
(マズイ!)
「何それ」
「え、知らない? 学校の怪談にあるやつ」
梢の一瞬の緊張の後、女子は妙なことを口走り始めた。
「夜中の十二時に女子トイレの鏡を覗き込むと、未来の自分が見えるんだけど、鏡に映った自分が鏡から出て来て、自分を殺すんだって」
「え、何それ」
今度は梢が呟く番だった。
「鏡を壊せれば未来の自分は消えるんだよ」
「遠回しな自殺だな」
「違う違う、悪い未来を消せるかもって賭け」
「なるほどね。で、失敗すると死ぬんだ」
梢は内心で安堵していた。馬鹿校の生徒たちはその場で話を盛ったり、いい加減な自分設定の創作を始めたり、物語が原型をほとんど留めない。
慈愛学園は日本で最も都市伝説に強い結界だと言えた。
「そのドッペルは帰るの?」
「うーん、その後の話は聞かないから、たぶんそのままなんじゃん?」
『…………』
「それじゃね?」
女子二人は『ヤバいことに気が付いてしまった』とばかりに驚愕の表情を浮かべた。
梢はこの分なら学校の生徒たちは安心だと思った。しかし動画のコメント欄に寄せられた言葉は、勝手に拡散されて次の犠牲者候補を増やしてしまう。
「これ皆に教えたほうがよくね?」
「え、でもどこの女子トイレの鏡?」
「そりゃ人が死んでたトイレでしょ」
梢をそっちのけにして、急に自分たちの世界に入り始めた女子たち。
だが彼女は何も言わずにそれを見守った。
(こういうデマや大喜利が飛び交ってる間は、むしろ安全かも知れない)
身も蓋も無い言葉を使うなら、国語の成績が落ちるほど、都市伝説系の界異は発生し難くなる。
原典となる物語が滅茶苦茶になって伝わるため、被害者が襲われる条件を、まず満たせないからである。
(千春にも注意はしたから大丈夫でしょ)
梢は自分のスマホを起動しながら嘆息する。
急に身の周りが物騒になり、環境が慌ただしくなる。落ち着きが失われ、不安が増すとそれだけで疲れが出る。
(こういうときは、その辺の男でも抱くのが一番良いけど、無いか)
出会い系アプリ『血統書』と開くも、自分との相手は登録されていない。
かと言って同じ学校の男子や教師は使いたくない。
(仕方ない、千春を使うか)
預かった荷物の中には彼女の制服が入っている。動画を見ていたこともあり、時刻はそろそろ授業の区切りを迎えそうだった。
「あれ、梢ちゃんどこ行くの?」
「チャイムがなるから千春を迎えに行くの」
「桜之さんって普通の子でしょ。友だちなの?」
「一応はあたしのだと思う」
それだけ言って梢は女子更衣室へと向かった。高校三年生にも関わらず、体育の出席率だけは異常に良いので、大勢の生徒が参加する。
程なくして女子たちが戻り、千春もその中にいた。
「梢ちゃん」
「ほら服。ねえ千春、今夜空いてる?」
「ああ、ごめん。今日はお母さんたち帰って来ちゃうから、私も一旦帰らないと」
その言葉で心の居場所が、既に実家から自分に移りつつあることを実感したが、一方でお預けを食らう形になった。
「そっか。じゃあいいや、また今度ね」
「あっ……その、ごめんね」
「いいの、言わないで」
友人の意図を察して千春は頬を染めた。同衾の経験は一度や二度ではない。
「それより千春、今朝のニュースでテレビもネットもいっぱいだから、検索とかしないようにね」
梢は今一度注意をし、また学校の噂なら、逆に当てにならないので安心だとも伝えた。
「ありがと、梢ちゃんも注意しようね。ファイティング退魔師だっけ、本職になるみたいだけど、やっぱり危ない目に遭わないのが一番だから」
タクティカル祓魔師である。
「うん、ありがと。じゃあ今日は帰り別々だね。予備校もないし」
「そうだね。荷物、ありがと、今度お礼するね」
「こんなことぐらいで一々いいよ。ほら、もう行きな」
――そうして会話を終わらせると、二人はそのまま下校時に分かれた。
夕暮れ空が紫色に染まる中で、今日も同じ一日が終わろうとしていた。
しかし、梢の胸中は落ち着かなかった。
(おかしい。嫌な予感がする)
人間には不幸の当事者となるとき、第六感とでもいうべき感覚を得ることがある。
虫の知らせや理屈の伴わない頭痛や不快感などだ。
(胸騒ぎが止まない。あの日もこんな感じだった)
森塚梢は一人暮らしであり、両親はいない。別居や離婚ではない。
つまり、一人になった経緯がある。
(家まで付き纏ったほうが良いかも知れない。杞憂になってくれないと困る)
帰宅した彼女はスマホを取り出すと、昼間に女子たちが見ていた動画を開いた。
SNSアプリ『グチッター』では、その動画は既に十万件以上の閲覧数を稼ぎ出していた。
「……しまった!」
梢は慌てて外へ出ると、自転車に跨り千春の家へと走り出す。
グチッターのコメントに貼られた動画には、他人の様々な発言が群がっていた。
その中にはドッペルゲンガーについての雑な法螺話や大喜利、間違った内容が無数に連なっていたが、あってはならない物があった。
「電話、メール、お願いだから、とにかく繋がって……!」
コミュニティノートというものがある。
基本的には誤った情報の発信に対して、正確な背景情報を追加し、誤情報の拡散防止や、そのような発信元を遠回しに排除する役割を持ったサービスである。
『ドッペルゲンガーとは』
『この情報は間違っています。正確には』
一連のいい加減なコメントの一つに、追加されたコミュニティノートの内容は、与太話ではない。
善意か悪意か、一つ言えるのは『正しい』内容だということ。
「メールに既読がつかない……!」
――ツー、ツー、ツー。
「ッ~~~~~~~~腐れ脳味噌ッ!」
走って、走って、走って。
二人は必死になって走っていた。
「はあ、はあ、はあっ」
千春は家から離れて、必死になって走っていた。人の多い方へ向かったはずなのに、どんどん見知らぬ場所へと迷い込んでいる。
しかも誰かに、何かに、ずっと後をつけられている。
(梢ちゃん、梢ちゃん、梢ちゃん!)
最愛の友人の面影を脳裏に浮かべながら、乱れた息を整える。来た道を振り返れば、何もいない。
いや。
「なに、誰?」
景色の一部が迫り出すようにして、影とも泥もつかない存在が、少女の前に現れた。
「アナタ、ダアレ?」
界異が呟いた。