梢は自転車を走らせていた。
通学路から駅へ、駅から住宅街へ。
「こっちか……!」
祓魔師の中には霊感や五感に優れた者がいる。匂い・音・肌と、彼らは様々な手触りで界異の存在を感知する。
探索用の道具が開発された昨今でも、現場の術者の直感は、往々にしてそれらを上回る。
(人がいなくなった。領域に入ったんだ)
喧噪は遠ざかり偽りの街並みに入り込む。
森塚家は怨念を抱えた霊能者の家系であり、両親を失ってからは似非宗教施設として、売春業を斡旋する場と化していた。
言わば穢れのパワースポットであり、そのような場所に長く住んでいる梢は、境界の向こう側の空気に馴染んでいた。
(分かる。気分は最悪なのに、どんどん気分が良くなってくる)
異界の空気に触れると、安らぎを覚える自分がいた。
身近に異変が起きたこともある。それでも彼女は無事だった。
梢は界異に愛されていた。
「千春―!」
梢は叫んだ。他に誰もいないことは分かっている。だからこそ、名前を呼ぶ者は自分しかいない。
「千春、返事をして! 千春!」
長身の肉体から放たれる大音声が、異界の街へ吸い込まれる。
(あの子がもしも追われているなら、この中の奥へと追い立てられるはず。現実の音や匂いがするほう、それが来た道)
梢は一度立ち止まると、深呼吸をして目を閉じた。
全神経を集中させて少しでも退路を割り出す。既にこの偽物の街に入って十分は走っていた。
「あっちが現実だから、吹いてきた風が……」
聞き取れないざわめきを背にし、吹いてきた風を検める。
体に触れているように思える風はその実、彼女の髪を揺らすことは無く、指を舐めて見れば、風など吹いていないことは明らかだった。
「異界の出現は基本的に、出現した界異を中心に広がる、だったっけ」
タクティカル祓魔師に就職するために、勉強しておいた事柄を思い出して判断する。
「それなら!」
梢は再び自転車を漕ぎ始めると、確実にこの空間の主の元へと近付いて行く。
そしてその一方で。
「アナタ、ダアレ?」
闇から迫り出した泥、ドッペルゲンガーが、千春の前に現れた。
噴水の動きを遅くしたような体が波打ち、頭部と思しき頂点を獲物の少女へと向ける。
「あなたこそ誰、何……!」
千春は恐怖に耐えつつ、少しずつ後退する。
目を逸らさず、背中も見せず、さながら猛獣を相手にするかのように。
「アナタ、だアレ?」
「あなたこそ誰!」
梢が見た動画を、千春も見てしまっていた。誰かが余計な正しさを流布したが、その前には対処法も幾つか呟かれていた。
曰く、決して質問に答えない。
曰く、逆に質問を投げ返す。
曰く、別の人間の名前を教える。
どれも気休めのようなものだったが、人々の助かりたいという一心は、存外度し難いものであった。
注目を集めた動画にぶら下がったその要素は、原典とこの界異に付随され、問答無用の攻撃を選択肢から奪っていたのだ。
「あなたは私じゃないわ」
千春の言葉にドッペルゲンガーが動きを止める。
「ワタシは、アナタじゃ、ナイ……」
「あなたは私じゃないし、私はあなたじゃない」
「アナタ、ダアレ」
話が堂々巡りを迎えたことに、千春は焦った。
眼前の怪物は問いを発し、その問いに答えても、答えられなくても、襲って来る。
最初と最後が同じである以上、理攻めは意味を為さない。
「あ、あなたはドッペルゲンガー。影法師とも言われていて、別人に成り替わる怪物なの。私とは違う。私は怪物じゃないもの」
次に千春が試みたのは、相手に『相手の情報を与える』ことだった。
「私は人間。あなたは怪物」
「わたし、どっぺる……」
影法師が再び動き出す。この試みはある意味で成功し、ある意味で失敗した。
相手を取り込む性質の界異に、敢えて情報を与えて定義付けしようとする。
それ自体は千春の思惑通りだった。
「そう、私とは違う。だから、あっ!」
泥のような体が伸びて、彼女に纏わりつく。臍の緒のように繋がったドッペルゲンガーが、徐々に千春の姿を象って行く。
「あなたに、なる」
何が間違いだったのか。
それは偏に正しい情報を与えてしまったことにある。
「やだ、やだやだやだやだ!」
泥を掴んで引き離そうとするも、腕は沈み、通り抜けるばかり。
時間が経つに連れて、影は目の前の女性にどんどん近付いて行く。
「私、さくらの、ちはる」
ごぽり、と音がして、首の部分に穴が開き、人の声がした。
他人の距離から出た自分の声は、やはり他人の声。それでも自分の音だと理解できることが、恐怖を掻き立てる。
「違う、違う、違う! 私じゃない! やだああああ!」
まるで臍の緒から自分自身を奪われているような気になり、千春は半狂乱になって泣き叫ぶ。
「おとうさん、いない。おかあさん、いない」
「なんで、そんなこと」
「こずえちゃん」
「――――!」
影法師は獲物の記憶を読み取り、着々と成り替わる準備を進める。
その中で、相手の大切な人のことまで、明らかにしていく。
「こずえちゃん。すき。こずえちゃん、やわらかい。こずえちゃん、おいしい。こずえちゃん、こずえちゃん、こずえちゃん、こずえちゃん、こずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃんこずえちゃん」
影と泥は今や完全に千春の姿になっていた。
「こずえちゃんは、わたしのなまえ、よんでくれるの、うれし」
「うわあああああああああああああああああああああああ!!」
その瞬間、千春の頭が飛び散った。
「違う! 違う違う違う違う違う違う違う違うっ!!」
ドッペルゲンガーの頭を、千春が渾身の力で殴ったのだ。
引っ掻き、叩いて、恐怖を塗り潰す憎悪が、その血と髄を烈火の如く熱していた。
「お前なんか私じゃない! 梢ちゃんはお前の名前なんか呼ばない! 梢ちゃんの千春は私だ! 私があの人の千春なんだ! お前が私になったった、梢ちゃんは絶対にお前なんか呼ばない!」
傷付けられることも、自分の命が脅かされることも、どうでもよかった。
「梢ちゃん」
ただ自分から、大切な存在を奪われることへの怒りが。
森塚梢が自分以外の誰かを、自分と思うことへの許せなさが。
「黙れええええええーーーーーーーー!!」
千春を衝き動かした。
「梢ちゃんがいなかったら、私は私じゃないんだ。お前が私になったって、お前は私になれないんだ! 梢ちゃんはお前の名前なんか呼ばない! だから、お前は私になんかなれない! 私とお前は違う!」
強がりにも似た強烈な依存から出た本心が、ドッペルゲンガーを戸惑わせる。
少なくともこの獲物の虚勢や、苦し紛れの嘘ではない。そういう精神が伝わっていた。
「出ていけ、私たちから出ていけ! ごぶっ」
乗っ取りや成り替わりの失敗を感じ取りながら、しかし界異は千春の顔面に頭部をへばり付けた。
元の都市伝説には撃退した話や、難を逃れるエピソードが存在しない。そのため犠牲者を出しては、また振り出しに戻る。
都市伝説型の界異が再発する所以である。
「がぼ、ごぼ、ぐぶう」
次第に顔が痺れ、感覚が喪失していく。
動画にあった男の末路が脳裏を過ぎる。
(梢ちゃん……ごめんね……私……)
息が切れるのが先か、顔が奪われるのが先か。
空っぽの走馬燈を埋めるのは、友人が出来たこの一年のことばかりだった。
「千春!」
水の膜を越えて、声が聞こえた。
何かが影法師を跳ね飛ばし、顔が解放される。
「えっほ、げほ、げほ、おえ!」
その場に倒れた体が抱き起こされる。何度も嗅いで、溺れた女の匂いがする。
「……梢、ちゃん……」
「間一髪だったね。良かった」
朦朧とする意識の中で、千春は唇が強く吸われるのを感じた。
「ごめんね、心配、かけて」
「うん。ほんとよ。馬鹿な子」
もう一度抱かれ、唇が触れ合うと、千春は安心したように気を失った。
一方で、自転車に轢かれたドッペルゲンガーは、奪い損ねた女の形を捨てて、泥と影に戻っていた
「お前、私の物に手を出したね」
迫る影法師に背を向けながら、梢は立ち上がった。
日の落ちた異界に、乾いた風が吹く。
「楽には死ねないよ」
これこそは羅刹の念。
女の情念である。