梢が界異を退けてから数日。周辺でのドッペルゲンガーに関する話は出なくなった。
人々が面白半分に呼び出そうとしても、祓魔師が探し出そうとしても、件の影法師は姿を見せなくなった。
「高三にもなって中間試験ってどうかと思うんだよね」
「でも早く帰れるからいいと思う。うちのは問題簡単だし」
自転車を押しながら歩くのは、黒い長髪をなびかせる高身長の女生徒。
その隣を華奢な体付きをした、三つ編みの女生徒が歩く。
「連休明けにこういうあったなーっていうの、これが最後だと思うと、ちょっとだけ憂鬱じゃない?」
「ラスト女子高生だもんね」
長身の女生徒は名を森塚(もりづか)梢(こずえ)と言った。祓魔師の見習い、予備役とでも言った存在で、就職と進学の狭間で揺れる立場にある。
「うちの馬鹿校ともあと少しの付き合いか」
まだ午後にもなっていない時間帯を、特に予定の無い二人が歩く。行先は決めておらず、家に帰る気も無かった。
「バイトも無ければ客も入ってないから、駅前をうろつくくらいしかすることないのよね」
携帯電話を取り出して梢は呟く。現代女子高生にとって売春を含めた副業は常識になりつつあった。
「それなんだけどさ、梢ちゃん」
不意に隣の女生徒が歩みを止める。何かを切り出そうとして、自分の手を握りもじもじとさせている。
県境の昼下がりには、他に人影も無かった。
「どうしたの千春」
千春と呼ばれた女生徒は少し俯いた。彼女は警官と看護婦の親を持ち、この先も進学が決まっている。
先日界異に襲われ、自らを奪われかけたとき、梢に救出された。
それ以来、自分の気持ちに気付いて以来、心中に変化が有った。
「今日もうち、親いないんだ」
「うん、知ってるけど」
梢は千春を自宅によく招いたが、一方で千春の家を訪ねることは少ない。
生まれも育ちも風聞も良くない自覚があるので、彼女の親に見つかると彼女が責められるのだ。
それを嫌ってある程度の距離を置いている。
「たまにはさ、昼間から、しちゃおっか」
「千春……」
梢は千春を見た。伏した眼は濡れて、熱い情炎を湛えている。視線の先にいる女に、求めて止まないことを訴えている。
「どうせ夜も帰って来ないよ。明日は土曜日だし、明日までずっとしてたって、あっ」
梢は同い年の少女の顔を両手で包むと、自分のほうへと向けた。
『…………』
無言の間が続き、千春が腕を伸ばした。梢は身を任せて、静かに目を閉じる。
折れそうなほどに脆い体を支え、捧げるように首を垂れる。
一繋ぎの繭のように、呼吸が連動し、吐息が行き交う。
「……今日は随分と積極的だわね」
「嫌だった?」
「好きよ。でもなんで」
梢は千春の首筋に唇を移しながら、その体を抱えて、自転車の荷台に乗せた。
当人もサドルに跨り、ゆっくりとペダルを漕ぎ出す。
「私ね、あの怪物に襲われたとき、梢ちゃんが取られるって思って、それが怖くなって、必死だったの」
少女は荷台から相手の腰に手を回し、背中に耳を付けた。流れる景色を横目に、心臓の音を聞こうとして。
「私ね、梢ちゃんが欲しくなったの」
「だから今日してあげるけど」
「そうじゃなくて」
駅前に近付くに連れて人込みが増え、二人の声が小さくなる。
「私が梢ちゃんにして欲しいんじゃないの。梢ちゃんが欲しいの」
「千春」
名前を呼んだものの、その先が言葉にならない。相手の言わんとしていることは分かる。
だが梢と千春の関係は友人ではない。あくまでも片方が依存の裡に、そのような念を抱いたに過ぎない。
しかし梢もまた、千春の依存が心地好かった。
「おかしいよね。私、梢ちゃんのものなのに」
服従、所有、隷属、依存。そして情愛。
「私が上になっちゃいけないのに」
独占欲の炎を自覚したとき、千春は友の胸の中で無く娘から、女へと変じていた。
「梢ちゃんを欲しがる気持ちがどんどん大きくなって、そうしたら」
その結果、上下の逆転にも似た衝動が起きる。幼い支配欲の現れである。
「いいよ、別に」
「えっ」
「あたしを好きにしても」
対して梢の心は穏やかだった。歪な愛情と恋慕の齎した執着が、否応の無い自身の肯定となって表れた。
分かち合える物と言えば孤独程度の物。
この若き祓魔師にとって、千春が影法師の毒牙に掛かり、自己と向き合うことで目覚めた炎は、梢にとって紛れも無く光であった。
「快気祝いでもいいし、何もなくたっていい。あたしを欲しいって言うなら、あんただって良いのよ」
「……そっか」
千春は背中一枚を隔てて、雨の音を聞いていた。
いつもこの女から聞こえる、心地好い雨と風の音。捕まっても良いと言いながら、いつも傍で包み込んでくれるのは、決まって梢である。
しかし誰の物になっても構わないというのは、本心だろうとも分かっていた。
地に足を付けているようで、どこか糸の切れた凧のように、彷徨い漂っている。
「私じゃなきゃ嫌だって、言って欲しいな」
「調子に乗らないの」
ピシャリと話を打ち切られ、会話が中断する。
(まだ脈は、あるはずだよね)
おねだりは断られたが、それからは自分次第だと千春は思った。先のことなど考えられないが、既に二人は高校三年生だ。
時間は残されていない。
千春がこの夢を見続けるためには、同じ地の底に落ちねばならない。
「私も祓魔師、目指してみようかな」
「止しな。今度は守れないかも知れないよ」
梢はこれが幼稚な当てつけではないと理解していた。わざわざ道を踏み外してまで、二人の時間を伸ばそうとしているのだと。
「あんた霊能力の類は無いでしょ」
「無いけど、一般の経理とか、資格取ってさ」
その言葉に祓魔師予備軍の女性は自転車の運転を危うくした。
現実から目を背けて繋がる二人のために、将来のことから目を背けるかのように、将来のことを語り始めた少女。
現実逃避のために真面目に未来のことを考え出した千春に、梢は思わず吹き出しそうになった。
「ふっふ」
「梢ちゃん?」
「あんたってさあ、案外図太かったのね」
「えっ?」
何だか急に馬鹿らしくなって、梢はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
速度が増して、人のいない住宅街へと突入する。
「わっちょっと、危ないって」
「千春―」
「何、どうしたの?」
「今日泊まるから、後で買い出しに行こう」
自転車が風を切り、二人の暗雲を振り切って行く。
「あたしだけ真剣になって損したわ」
「それってどういう意味?」
「今夜は寝かさないってこと!」
今夜、この愛しい従属物を抱こうと決めて、梢は千春の家へと急いだ。
(彼女に変化が有って、何時か終わりが来るとしても、その時はその時よ。なるようになるわ。それで良かったのよ)
ドッペルゲンガーと戦ったときと、何所か似た街並みを進み、千春の家に到着すると、梢は彼女を降ろした。
「待ってて、今鍵開けるから」
平日の日中ということを差し引いても、千春の家には生活感が無かった。
夫婦の寝室に番が揃っていたときは数えるほどしか無く、不貞を働く時間も甲斐性も無い。
雛を置いて放棄された巣。
それが梢から見た桜之家の有様だった。
「そういえばご両親の部屋ってどこだったっけ」
「二階の和室だけど、それがどうかした?」
「折角だし、今日は二人の部屋を使っちゃおうか」
「えっ!?」
千春が素っ頓狂な声を上げた。家に招き上げたのは自分だが、まさか両親の部屋で情事を誘われるとは思っていなかったのだ。
「嫌?」
「嫌じゃ、ないけど……」
「じゃあダメ?」
「ダメじゃ、ないけど……」
梢が玄関のドアを後ろ手に閉める。千春に歩み寄り、飲み込むように掻き抱く。
「今日は何だかね、無性にあんたを、汚したいのよ」
そう言って梢と千春は、もう一度唇を重ねた。
街から界異の影が消えた裏で、二人の女が一つに影を重ねた。
<了>
このお話はこれにて終了となります。