【完結】キングヘイロー/zero   作:瑞穂国

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二話目です。
全開のプロローグに続いて、今回はキングが産まれてからのお話になります。


あなたはキング、私の宝物

 傍らの小さな温もりを気にしながら微睡んでいると、病室の扉が控えめにノックされた。閉じていた瞼を押し上げてベッドに上体を起こし、私は扉の方を見遣る。この病室を訪ねてくる人物には、二人しか心当たりがない。

 

「どうぞ」

 

 ベッドから扉の方へ返事をすると、すぐに引き戸が開いてノックの主が顔を見せた。部屋の様子を窺うようにして静かに足を踏み入れる男性――私のトレーナーでもある主人を、私は軽く手を上げて出迎える。それに、彼もまた手を上げて応えてくれた。

 カラリと、彼は殊更注意深く、静かに扉を閉める。

 

「寝ちゃったかな?」

 

 ベッドの脇まで足音を忍ばせてやって来るなり、彼はどこか残念そうに小声で尋ねた。彼の視線がベッドの横に並べられた新生児用のベッドへ向けられる。ベッドには、ついさっきまで一心不乱におっぱいを飲んでいた娘――キングちゃんが横になっている。お腹が一杯になったからか、キングちゃんはすやすやと安らかに寝息を立ててお昼寝中だ。

 

「ええ、少し前に。おっぱいを飲んだら、ころん、だったわ」

「そっか。大物だね」

 

 小さく笑い声を零した彼は、しばらくキングちゃんの寝顔を見つめていた。おっかなびっくり、正しく繊細なガラス細工にでも触れるように、彼の指がキングちゃんの握った拳をつつく。眠ったばかりのキングちゃんからは何も反応が無いまま、それでも彼は嬉しそうに笑った。細くなった目が愛おしさで満ちていくのがわかって、私は自然と頬を緩める。

 我が子の愛らしさを存分に堪能したのか、ようやく部屋の椅子を引っ張って来て、彼がベッドの脇に腰を下ろす。伸びてきた手が今度は私の手を取り、優しくさすってくれた。温かい指先の感触を私は静かに感じ取る。

 

「君はどうだい」

 

 彼が最初にかける質問は、昨日も一昨日も変わらない。私は苦笑いを漏らした。

 

「見ての通りよ。もう、何ともないわ」

 

 私の言葉を見極めるように、彼は黙してじっと私の目を見つめる。繋いだ手が少し力を強くした。目元に見え始めた皺が深くなる。彼自身の安堵がその表情に滲み出ていた。

 キングちゃんが産まれて、もう四日が経った。初日は随分と体も辛かったけれど、今はすっかり落ち着いている。ぐずったキングちゃんをあやすくらいの余裕ができてきた。まだまだおっかなびっくりではあるけれど、病院の補助も手厚くて助かっている。何より、こうして毎日面会に来てくれている彼が、心の支えになっていた。

 

「そっか」

 

 安堵を明確に乗せた優しい声で彼は頷き、またしばらく私の手をさすってくれた。柔らかな手つきと、暖かな感触。触れられたところから彼の温もりと優しさが私の内へと流れ込む。おかげで安らかに一息を吐くことができた。

 すっかり私を労わる態勢に移ってしまった彼へ、私は手のひらを委ねたまま尋ねた。

 

「あなたこそ。毎日面会に来ていて……トレーニングはいいの?」

 

 彼の本業はトレーナーだ。私以外にも複数のウマ娘を担当している。けれどこうして、毎日のように面会にやって来ては、トレーニングを見ることはできないだろう。春のレースも本格化していることだし、私のことで彼の仕事に支障が出ることは避けたい。彼に迷惑をかけることだけはしたくなかった。

 私の言葉に、彼は再び笑って、「安心して」というようにポンと私の手を叩く。

 

「この一週間だけは、って了承してもらったよ。メニューは一通り考えているし、比良坂もいるから問題ない」

 

 一昨年からチームへ加入したサブトレーナーの名前を出して、彼はそう説明した。彼女にとってもいい経験になるだろう、と一瞬だけトレーナーとしての顔も覗かせる。私とそれほど歳の変わらない女性サブトレーナーは、私の目から見てもこの二年で随分頼もしくなった。チームの後輩たちからも信頼されている。

 ともかく、と彼はもう一度強く私の手を握った。柔和な表情ながらも、真っ直ぐな決意を秘めた瞳が私を見据えていた。優しい笑みに目を奪われる。

 

「今は君が最優先だ。君と――僕たちの娘が」

 

 はっきりと言い切って彼は笑った。ほんの少しだけ覗かせていたトレーナーとしての表情は鳴りを潜め、今は私の旦那様として――いいえ、可愛い娘を見守る父親としての顔が前面に出ている。未熟な私を支え励ますその声が、堪らなく頼もしく嬉しかった。

 開いていた左手も、彼の手のひらに重ねる。まだ心の奥底へ残って拭えない不安を、彼の温もりで少しずつ和らげた。

 

「ありがとう」

 

 彼と、そしてキングちゃんと一緒なら、きっと大丈夫。そう、確かに思えた。

 

 

 

 経過観察の検診の結果が良好で、退院の日取りも決まって部屋に戻った。

 再びベッドへ収まった私に、彼は紅茶を一杯淹れてくれている。ポットへお湯を注ぐと、いつもトレーナー室で嗅いでいた柔らかな香りが辺りに漂った。トレーニング後のささくれ立った心を解きほぐしてくれる香り。レースの世界に身を置いていても、あの香りを嗅ぐ瞬間だけは、穏やかな心地でいられた。しばらくはそんな大切なことさえ忘れてしまっていた。

 

「――はい。どうぞ召し上がれ」

「ありがとう、いただきます」

 

 受け取ったカップに口をつける。温かな湯気と飲み物が私の内へと沁みてきて、自然と瞼が下がった。香りと温もりを堪能して、琥珀色の液面へ息を吐く。揺れる波紋の合間に私の瞳が映っていた。

 一口を味わってカップをテーブルへ置き、私はベッドの脇を見た。診察前まで、そこには産まれたての天使が眠っていたけれど、今はベッドごといなくなっている。診察へ行く前に看護師さんが預かってくれたのだ。私が夕食を終えるまでは、他の赤ちゃんと一緒に面倒を見てくれている。

 ほんの少しだけ、違和感を感じていた。大切なものが欠けている寂しさ。まだたった四日しか顔を合わせていないのに、もうキングちゃんは私にとってなくてはならない存在になっていた。

 

「――キングがいないと、お茶の味が違うかな?」

 

 私の様子に気づいたのか、彼はそう言って尋ねた。私の顔を窺う彼も、カップへかけた手が止まっている。私は正直に頷いた。

 

「不思議ね。まだたった四日しか顔を合わせていないのに。何だかもう、随分長い間一緒にいるみたい」

「……十月十日(とつきとおか)、君のお腹にいたんだ。そう思えるのも当然だよ」

 

 当たり前のことだと彼は微笑みをたたえて言った。むしろ私の方が、豆鉄砲を喰らった鳩のようにキョトンとしてしまう。言われてしまえば何ということはない、当然の理由に今更気づかされる。そしてそれに気づいたことが、やっぱりどうしようもなく嬉しかった。

 自分のお腹に手を当てる。少し前まで、そこにはキングちゃんがいた。確かに鼓動を響かせていた。時折元気一杯にお腹を蹴ったりもしていた。まるで早く会いたいと言っているように思えた。私も早く会いたいと返事をしていた。

 そうして、すくすくと大きくなったキングちゃんを始めて抱いた時。その時の喜びと言ったらもう、私の知り得る言葉では言い尽くせないほどだった。文字通り、キングちゃんが私の全てだと、そう思った。

 

「今でもまだ信じられないわ。私が、あの子をこんなにも愛しく想えるなんて」

「そうかな?」

 

 彼は別段不思議に思う風でもなく、紅茶を口にしていた。

 

「君はきっといいお母さんになる、僕はずっとそう思ってるよ。きっと、たくさんの愛をキングに注ぐことができる、ってね」

 

 私は黙って彼の言葉を聞いている。カップを置いた彼は揺るぎない視線で私を見つめた。柔和な色の瞳は彼の誠心を語っている。決して嘘偽りなどないことは私にもよくわかった。

 彼はうっすらと笑う。笑った時の目元がやっぱり優し気だなと、そう思った。

 

「僕もいいお父さんになるよ。キングにとっても、もちろん君にとっても、いい父親にね」

 

 穏やかな笑みの奥に秘められているのは、確固たる強さの芯が通った決意だった。

 手にしたカップの紅茶へ視線を落とす。白い蛍光灯を反射する琥珀色の液面は、私の心を示すように揺れていた。そこへ映る私の顔もゆらゆらと陽炎のように定かではない。

 決意はある。……でも、それは彼ほど揺るぎないものではない。決意など簡単に折ってしまいそうな不安で一杯だ。自信なんてどこにも……欠片すらありはしない。キングちゃんがお腹の中ですくすくと育っているのを感じる度。ぐずるキングちゃんをこの腕に抱いてあやす度。お腹を満たして穏やかに眠る天使の寝顔を目にする度。誓いと不安が私の中で大きくなり、せめぎ合った。

 それでも……それでも、あなたのお母さまになりたいと、そう思ったのだ。

 

「……なれるかしら。キングちゃんのお母さまに」

「なれるよ。君なら」

 

 彼は即答して、自信ありげに、確信するように笑う。しばらくの間の後に、私も精一杯の決意をもって頷いた。

 二人分の紅茶がゆっくりと空になった。カップを洗って部屋に戻り、帰り支度を始めた彼を、私は呼び止める。

 

「ねえ、()()()()()。一つ話があるの」

 

 掛布団の上で重ねた両手を強く握った。このところ――キングちゃんを授かって、そしてキングちゃんのお母さまになると決めた時から、ずっと温めていたことがある。決意と呼ぶには随分遅くて曖昧な話を、彼にするならば今しかないと思った。

 帰り支度の手を止めて、彼は私を見る。この身の内でぐるぐると渦巻く熱いものを、深呼吸一つでゆっくりと冷ました。胸からせり出してくるものを、私は今日初めて言葉にする。

 

「私……もう一度、レースに復帰したい」

 

 震えそうになる両の手を、一際強く握り締めていた。

 私の言葉がよほど意外だったのだろう。彼は真ん丸に目を見開いて、しばらく何も声を発しなかった。私も、それ以上に言葉を発することができず、ただじっと温めていた決意だけを込めて彼を見つめる。面会時間終了間際の部屋に、束の間ピンと張り詰めた空気が流れた。それはあたかも、レース前の控室で出走の順番を待っている時の、体を内から焦がしていくような緊張感一杯の時間に似ていた。

 私の言葉を見定めるように、彼が目を細めて私を見つめる。そこにいるのは、私と苦楽を共にしてきた歴戦のトレーナーだ。そしてそれに黙して対峙する私も、彼の担当ウマ娘としてここにいる。

 言葉を選ぶ間の後、殊更ゆっくりと彼は口を開いた。

 

「……トレーナーとして、できうる限りのサポートをしよう。――しかし、正直に言うと驚いた。まさか君が復帰を望むとは、思っていなかったよ」

 

 彼の言葉はもっともだ。キングちゃんを授かって、予定していたレースの出走を全て取り消した時、彼だけには引退の意向を伝えていた。復帰を望む声は知っていたけれど、もうレースの世界へ戻る気はなかった。走ることなど、もう当の昔にすっかり嫌になってしまっていたからだ。誰にも言わないようにしていた私の本心に、彼だけは薄々気づいていたらしく、その時も止められることはなかった。

 ……けれど。今は全く別の気持ちが私の中から湧いて出ている。

 

「……ええ、そうね。私自身驚いているわ」

「理由を聞いてもいいかな」

 

 彼はいまだ私の真意を探るようにこちらを見つめていた。真剣に問いかける瞳に見据えられると喉が詰まる。具体的な言葉を用意していた訳ではなかった。ただ一つ確かなものとして、このままではいけないと思っている。

 握り締めた自分の手へ視線を落とす。しばらくの間、言葉を探していた。

 

「……私は、キングちゃんが誇れるようなお母さまになりたいの」

 

 さっきまでキングちゃんのベッドが置かれていた場所を見遣る。例えそこへいなくても、産まれたての愛しい娘の顔は容易に思い描くことができた。寝かしつけたキングちゃんの、天使の寝顔を横に見ながら微睡む時間が、ここ何日かのお気に入りだ。そして一息をつきながら目を閉じると、瞼の裏に浮かぶ光景がある。ほんの少し未来の話だ。

 キングちゃんは、どんな風に成長していくのだろう。寝返りは上手にできるだろうか。掴まり立ちを見守ることができるだろうか。初めてのおしゃべりは何て言うのだろうか。ご飯は何を好きになってくれるだろうか。お外で遊ぶならどこが気に入りだろうか。どんな子守唄を聞きたがるだろうか。どんな子とお友達になるのだろうか。どんな人と恋をするのだろうか。――春も、夏も、秋も、冬も、どんな風に笑ってくれるのだろうか。

 まったく、気の早い話だ。キングちゃんは今を一生懸命に生きている。ただそれだけで十分に愛おしい。けれどどうしたって想いを馳せてしまう。これからキングちゃんがその二本の脚で歩んでいく道行きが、私は楽しみで仕方がないのだ。

 ……だから。そうやって、これからを生きていくキングちゃんの瞳に映る私には、キングちゃんが誇れるお母さまでありたいと、そう思った。輝かしい未来へ駆けて行くキングちゃんに、胸を張れるお母さまでありたいと、そう思った。強く、強く、そう思ったのだ。

 翻って、今の私はどうだろうか。キングちゃんが誇れるお母さまだろうか。キングちゃんに胸を張れるお母さまだろうか。自分の中で、答えは明白だった。

 

「中途半端なままだわ、今の私は。……レースしか知らないのに。走ることしかできないのに。そのたった一つのことさえ投げ出して、目を背けて、逃げ出して……どうしようもないくらい、へっぽこじゃない」

 

 私の言葉を聞く彼は、否定も肯定もしなかった。ただ静かに私の声を聴いている。誠心誠意、私の率直な感情を受け入れてくれているのがわかった。ああ、私は果報者だ。今更ながらに気づかされる。私が選んだ人は、いつも私の話を静かに聞いてくれて、そして大事なところで優しく背中を支えてくれる人だ。

 決意は固まった。不安も焦燥も恐怖もあるけれど。それでも顔を上げて、真っ直ぐ彼を見つめ返せるくらいには、確かな決意だ。

 

「このままでは終われない。だから最後まで走り切りたいの。……そして証明してみせる。私は、キングちゃんが誇れるようなお母さまになれるんだ、って」

 

 走ることしか知らない私には、それがたった一つ、何かを成し遂げる方法だった。

 それ以上言葉は出なかった。これまで感じたことの無いほど強烈な衝動が私の中へ渦巻いているのに、それ以上何かを告げることができない。この身の内に燃え盛るものが言葉を詰まらせるほどに大きなものに思えた。

 走りたい。単純で明快な、ウマ娘の本能とも呼べるこの衝動に、これほどまでに強く突き動かされたことなんて、これまで一度としてなかった。

 彼はそれ以上私へ問いかけなかった。私の答えに納得してくれたのだろうか。彼は何も言わないまま深々と頷いて、そして笑った。彼には珍しい、随分と愉快そうで、どこか挑戦的な色合いの笑み。私がそんな彼の表情を見つめていると、大きな手が伸びてきてポンと私の頭を叩いた。

 

「十分すぎる理由だ」

 

 それだけ告げて彼は席を立つ。今日の面会時間は終了だ。

 また来る、と言い置いて部屋を後にする彼へ手を振る。引き戸を開いたところで振り返り、彼は口角を吊り上げた。

 

「しばらくは忙しくなりそうだ。――君の復帰プランと、トレーニングメニューを考えないと」

 

 彼の言葉に、私も悠然と笑ってみせて、そしていつものように返事をする。

 

「ええ、そうね。私のために尽くす権利をあげるわ」

 

 私の答えに満足したのか、彼は今日一番可笑しそうに笑って、そして廊下へと消えていった。

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