【完結】キングヘイロー/zero   作:瑞穂国

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三話目です。
レースへ復帰する決意を固めたお母さまですが、思わぬ不幸が彼女とキングを襲います。


また逢う日まで

 病室を訪れる度、しばらくノックを躊躇う自分がいた。真っ白で清潔な廊下に面した、同じように白く簡素な造りの引き戸。日増しに、その扉を叩く腕が重くなる。緊張で顔が強張っていることに、自分でも気づいていた。

 

「おかさま?」

 

 おかさま――お母さま、と私を呼ぶ声がする。私の左手を、小さな右手が一生懸命に繋いでいる。ふと気を抜けば現実から逃げてしまいそうな私を、その手が辛うじて繋ぎ止めていてくれた。

 キングちゃんが栗色をした真ん丸の瞳で私を見上げている。はしゃぎたい盛りの娘は、けれどこうして病院の中でだけはいつも大人しかった。周りの雰囲気を幼いながらに感じ取っているのだろうか。はたまた、お屋敷とは全く違う様相に緊張しているのだろうか。どちらにしろ、庭園を走り回るお転婆な二歳の女の子はここにはいない。艶やかな鹿毛に気品すら宿した淑女の卵が、私の手を握り締めている。

 キングちゃんは、目の前の扉と、そして私の顔を交互に見ていた。「開けないの?」と訊かれているようだった。

 強張りがほんの少し和らぐ。キングちゃんの前に膝を折った私は、そっとそのふわふわした髪を撫でた。小さな耳が嬉しそうにぴょこぴょこと動く。たったそれだけで、どうしようもなく笑顔になれた。

 

「今開けるわね」

 

 抱き上げて私が言うと、キングちゃんはぶんぶんと勢い良く頷いて、扉を指差した。私もそれに頷き、コツコツとノックをして戸を開く。

 四人用の病室は午後の柔い光で満たされていた。カーテンで仕切られたベッドの内、向かって左の、窓際のベッドを目指す。カーテンの隙間からはペンの走る音が聞こえていた。

 カーテンの隙間から中を窺う。キングちゃんはこの瞬間がお気に入りらしく、クスクスと可愛らしい声で笑って、尻尾を揺らしていた。その笑い声で、ベッドの主はいつもこちらに気づく。

 

「――いらっしゃい」

 

 かけていた眼鏡を外すと、途端に柔和な笑みを見せて、彼は――主人は私たちを迎えてくれた。

 

「おとさまっ!」

 

 この時ばかりはキングちゃんも興奮気味に声を上げる。じたばたと腕の中ではしゃぐキングちゃんを何とか抑えている間に、彼がベッド備え付けのテーブルをどかして膝の上にスペースを作った。私はゆっくりとキングちゃんを降ろす。

 

「おとさまっ」

「うおおっ。キングはいつも元気だなぁ」

 

 ひしと抱き着いたキングちゃんを、彼もまた優しく抱き留める。一週間ぶりの抱擁を二人が交わしている間に、私はキングちゃんの靴を脱がした。病室にいる間は、ベッドの上がキングちゃんの定位置だ。

 忙しなく耳をはためかせてご機嫌なキングちゃんを、彼もまた上機嫌に撫でている。大きな手のひらが、まだまだ小さいキングちゃんの頭なんてすっぽり覆ってしまいそうだ。当のキングちゃんはわかりやすく嬉しそうに笑って、彼の胸元へ柔らかな頬を擦りつける。仲の良い二人の様子に私もつい頬を緩めながら、ベッドの脇に椅子を寄せてきて腰を下ろした。

 一しきりお父さまを堪能したのか、大人しくなったキングちゃんが彼の膝の上に納まる。ちょこんと座るキングちゃんを彼がそっと腕で抱いていて、それが丁度カンガルーの親子みたいだった。またクスクスと笑ってしまう私を、二人は揃ってキョトンとした表情で見つめていた。

 

「よかったわね、キングちゃん。お父さまのお膝に座れて」

「はいっ」

 

 私の言葉に、キングちゃんはキラキラした笑顔で頷く。真っ白い歯を覗かせてニパッと笑う表情が、本当に花が咲いたみたいだ。可愛らしい娘の笑顔が、私と彼を無条件に破顔させてしまう。

 お絵描きをしたいと言うキングちゃんに、持って来ていたスケッチブックと色鉛筆を渡す。さっきまで彼が書き物をしていたテーブルを手繰り寄せると、キングちゃんは早速色鉛筆を動かし始めた。その様子を彼と二人して眺めながら、ふとさっきまで彼がペンを走らせていたものに目を止める。使い込まれたノートに手を伸ばした。

 

「……相変わらず、病室でも仕事をしているのね」

「ああ、うん。本が読めて、手が動かせるうちは、責任があると思っているからね」

 

 彼はまるで当たり前みたいに、こともなげにそう言った。チラリと見遣った枕元の戸棚には、付箋が至る所に貼られた本の山。それと、同じように使い込まれたノート。彼の担当ウマ娘としては、最早見慣れてしまった光景だ。

 

「まだまだ、やってあげたいことはたくさんあるからね」

 

 穏やかに笑う彼へ、どんな表情をしたらいいのかわからなかった。

 彼が倒れたのは、キングちゃんが一歳の誕生日を迎えて少しした頃――私がレースへの復帰を目指して基礎トレーニングを再開した頃だった。もう一年ほどが経つ。

 検査の結果、治療が困難な病気だと言われた。余命は長くとも一年。定期的な通院と治療で痛みを和らげ、余命を伸ばすことは可能だけれど、完治の見込みは薄いという話だった。

 この一年、闘病を続けて来た。入院も今回が初めてではない。彼は常に懸命に病と闘っていた。だからだろうか、余命と言われた一年が過ぎても、笑顔のまま話すことができている。

 

――「最後まで諦めるわけにはいかないよ。君とキングのために、僕は生きていたい」

 

 一度だけ、彼はあまりにも真剣な瞳で、そう断言した。並々ならぬ覚悟に、私はただその手を取って頷くことしかできなかった。「生きたい」と、真っ直ぐな熱意に喉の奥が詰まっていた。

 彼は今も懸命に生きている。そしてこれからも、その命の限りに生きていたいと闘っている。だからこそ、闘病の傍らでも仕事に打ち込んでいるのだ。「走りたい」というウマ娘の夢を叶えるのが、彼の天職だった。

 ノートのページをめくる。トレーニングメニューの試行錯誤のあとがそこへ刻まれていた。走法や適性距離、次のレースへ向けての調整内容、必要なトレーニングの種類、併走の相手や組み合わせまで考えられている。参考にした論文の引用も各所に見られた。彼が留学していたイギリスで書かれたウマ娘に関するレポートもある。

 

「君の分もあるぞ」

 

 すっかりトレーナーの顔つきになった彼が別のノートを手繰り寄せようとした。けれどキングちゃんを膝に乗せていると上手くいかないらしい。彼の手が伸びた方向を辿り、一冊のノートを手にした私は、二人で見やすいようにとベッドへ腰掛けた。私の体を受け止めて、ベッドがギシリと音を鳴らす。

 ぴたりと彼の隣へ寄り添い、ノートを開いて覗き込む。中には復帰までのプランがいくつか羅列されて、それぞれに考察されていた。私が復帰するドリーム・トロフィー・リーグの、ここ最近のレース傾向や注目のウマ娘も別で研究がされている。文字通り、私のための一冊だった。

 ここ一年で重ねて来たトレーニングの結果や現在の状況を踏まえつつ、少しの間レースの話をしていた。しばらく忘れていた感覚だけれど、トゥインクル・シリーズを走っていた頃は、こうしてよく二人で頭を突き合わせていた。

 その時、チョイチョイと袖が引っ張られる。ノートから顔を上げると、今の今までお絵描きに熱中していたキングちゃんが、私と彼を見ていた。林檎色をした真ん丸ほっぺがニマリと笑う。

 

「いっしょ!」

 

 キングちゃんは楽しそうに耳と尻尾をパタパタとして、テーブルの方を指差した。ノートを閉じて傍らに置き、彼と二人でキングちゃんの指差す方を見る。テーブルの上には、キングちゃんが熱中して描いていた絵が一枚。一生懸命な筆致で描かれていたのは、キングちゃんと手を繋いで歩く、私と彼だった。

 鮮やかな秋の色をしたキングちゃんの瞳が、それまでにも増してキラキラと輝く。小さな手を私の方へと伸ばした拍子に、キングちゃんがバランスを崩した。彼と私の手が両側から支えると、その手をキングちゃんが掴む。奇しくも、キングちゃんの描いた絵のように、親子三人で手を繋ぐ形になった。

 

「いっしょ!」

 

 キングちゃんはもう一度そう言って笑う。ニパッと花を咲かせる娘を、私も彼も抱き締めた。キングちゃんがパタパタとはしゃぐ。

 

「一緒だなぁ、キング」

「ふふっ。一緒ね、キングちゃん」

 

 病室のベッドに三人分の笑い声が零れる。今この瞬間の幸せを噛み締めずにはいられなかった。

 

 

 

 お父さまの膝の上で散々はしゃいだからか、面会時間終了の間際にキングちゃんは眠ってしまった。

 ベッドへ横になったキングちゃんは、相も変わらず可愛らしい寝息を立てている。サラサラとした鹿毛が流れて、純白のベッドの上へ零れた。日中は忙しなく動いているふわふわの耳も今はぱたりと寝ている。すっかり夢の世界へと旅立ってしまった天使を、彼は愛おしげに目元を緩めて寝かしつけていた。ポンポンと、大きな手がゆったりとしたリズムでキングちゃんの背中をさする。その様子を、私は半ばぼうっとして眺めていた。

 柔らかな夕陽がカーテン越しに差して、二人の横顔を照らす。優しい父親と、甘えたがりの娘。どこにでもいるようなありふれた家族の姿に、今この瞬間は思えた。

 

「……会うたびに、大きくなっている気がするよ」

 

 微かな寂しさを匂わせながら、それでも心底嬉しそうに彼は呟いた。穏やかな手つきがキングちゃんの頭を撫でる。指先が前髪をすくうと、薄桃の唇をむにゃむにゃとしてキングちゃんがわずかに身をよじった。

 

「……毎日、毎日、成長しているわ。あんまり早くて、びっくりするくらいよ」

 

 昨日までできなかったことが、今日にはできるようになっている。そんなことは日常茶飯事だ。些細な変化の積み重ねに、ある時ふと気づかされる。一日一日、キングちゃんは確かに成長している。その全てを見守ることができないのは多少なりと寂しくもあり、けれどそれ以上に喜びが勝った。

 キングちゃんを撫でていた彼が、満足そうに息を吐いて顔を上げる。私を見つめる目が、ほんの一瞬遠くを見た。彼が今何を思ったのか、その目がどこを見つめていたのか、私には何となく想像がついた。

 

「あっという間だね。……きっと、色んなことが、あっという間だ」

 

 何が、とは彼も具体的に言わなかった。……言わなかったけれど、私は彼の言葉に頷く。考えていることは、私も彼も同じだ。二人で同じ未来に思いを馳せている。

 しばらく想像の翼を広げていた彼は、瞬き一つで現実へと戻り、そして今ここにいる私を見た。無意識のうちに背筋が伸びた。

 

「君はどうだい? デザイナーの仕事は順調かな?」

 

 仕事の近況を尋ねた彼に力強く頷く。

 大学部卒業と同時に、それまで見習いとして所属していたデザイナー事務所へ、私は正式に就職することとなった。デザイナー事務所と言っても広告業界ではなく、ファッション業界――それも競技ウマ娘用の勝負服を専門にデザインする事務所だ。長らく興味のあった業界で、その興味が高じてそのまま私の仕事になっている。

 

「今度、初めて勝負服を担当することになったわ」

 

 これまでは事務所の所長である師匠の手伝いが主だったが、今回初めて一人のウマ娘の勝負服を任された。初めて勝負服を手にする子ということもあって、重大な責任を感じている。

 一生に数えるほどしか巡ってこない晴れ舞台だ。彼女を輝かせるのに相応しい勝負服に仕上げてみせる。

 

「おめでとう……と言うにはまだ早いか。お披露目はいつになるのかな」

「今年の秋レースになる予定よ」

「秋か……楽しみだ」

 

 ベッドで指折り数える彼の言葉に、わずかばかりいつもより長い間があった。胸の奥がちくりと痛む。痛んだ心が顔に出てしまっていたのだろう、彼は私の心を和らげるように微笑みを作って、ポンと優しく頭を撫でてくれた。

 ……彼の病状は思わしくない。宣告された一年の余命を過ぎてなお、こうして普通に会話をすることができているが、それは必ずしも病の完治を意味していなかった。むしろ着実に進行していることをまざまざと見せつけられる。今回の入院も、これまでで一番長い期間になっていた。彼の腕や顔も日に日にほっそりとしてしまっている。

 あまり、時間は残されていないのかもしれない。だからこそ彼は、秋という季節までの時間を意識してしまったのだろう。奇跡を信じ、最後まで諦めずに闘いながらも……心のどこかで最後を覚悟している。その最後が近いことも。そんなこと、言葉にしなくたって、私も彼も重々承知していた。

 ……けれど、たとえ承知していたとて、心は痛むのだ。大切な人へ着実に迫る死の気配に、耐えられる道理などなかった。

 病室の扉を開けるのが、毎回怖くて怖くて堪らない。また一歩最後へと近づいているあなたを目にするのが怖くて堪らない。また一歩私とキングちゃんから遠ざかってしまうあなたを目にするのが怖くて堪らない。もし……もしも、扉を開けた先にあなたがいなかったらと、そんな嫌な想像をしてしまって、怖くて堪らない。

 けれど、何よりも怖いことは、キングちゃんのことだ。三歳にも満たないキングちゃんは、その小さく幼い体と心で、「お父さまの死」を受け止めなければならない。……いいえ、きっとそれは、今すぐにという話ではない。まだ年端もいかないキングちゃん。まだまだ幼く無邪気なキングちゃん。まだまだまだ多くのことを知らない純真無垢なキングちゃん。きっと今はまだ、「死」という言葉さえ、キングちゃんは知らない。それがどういうことなのか、理解はしていない。でもいつか……決して遠くはないいつの日か、「お父さまが亡くなった」ことの意味を理解する時が来る。それは一体、どれほどの悲しみなのだろう。どれほどの痛みなのだろう。どれほど心を苛まれる出来事なのだろう。自分の与り知らぬところで、予感も覚悟も何一つできないところで、ふとした瞬間にたった一つのその出来事の意味を理解してしまった時。キングちゃんはどれだけ傷つかなければならないのだろう。それが何よりも怖かった。

 その痛みを私が代われたのなら。私が痛んだ分だけ、キングちゃんの痛みが和らいだのなら。私が痛んだ分だけ、キングちゃんが傷つかずに済むのなら。どれだけいいだろうかと、そう思う。

 

「――そろそろ、帰るわね」

 

 目尻から何かが零れそうになって、慌てて顔を逸らした。指先で目尻をすくって立ち上がり、帰り支度を始める。面会時間はもうすぐ終わりだ。

 眠ったままのキングちゃんを、起こさないように気をつけながら抱きかかえる。彼はベッドから手を振って見送ってくれた。

 

「……また来るわ」

「ありがとう。でも、無理はしなくていいからね。まずは君自身と、キングのことを優先して」

 

 会えなくても、電話はある。彼はそう言って携帯電話を掲げてみせる。私はそれに頷いて、最後は少しだけ笑って病室を後にした。

 抱きかかえたキングちゃんは目を覚まさない。ただ日増しに大きくなるその存在感を、腕の中に実感していた。

 

 

 

 

 

――結局、彼は退院することなく、そのまま儚くなってしまった。夏も真っ盛りのことだった。

 

 

 

 火葬場へと向かう霊柩車の外には、ぽつぽつと小雨が降り始めていた。ゆったりと丁寧な運転で進んでいく車内に、雨粒が窓や車体を打つ音が時折響く。その微かな音色を右から左へ聞き流し、ぼんやりと薄暗い窓の外を眺めていた。雨に気づいていないのか、どこからかセミの歌う声が聞こえて来る。その喧しさすら遠い世界の出来事みたいで、当の私は「空が泣いているみたい」なんてどうでもいいことを思っていた。

――彼の葬儀は、彼のごく近しい人たちだけでの、簡単なものにした。彼のご両親とも相談して、彼の遺志に沿うようにした形だ。私は実家とは絶縁状態で、彼もまた一人っ子だったから、葬儀には私とご両親、それにキングちゃんと、キングちゃんの面倒を見るメイド長だけが参列していた。本当に小さなお葬式だ。

 ただ、葬儀の前日にはトレセン学園やレースの関係者が多く訪れてくれた。トレーナーや教師、URAの理事、それに彼の担当ウマ娘――私の後輩たちも。すでにレースを引退している子たちも、何人か顔を見せてくれた。訪れてくれた方々とはいくらか言葉を交わしたりはしたけれど、正直何を話したのかよく憶えていない。

 つつがなく葬儀を終えた私たちを、霊柩車は告別の場へと運んでいく。

 代り映えしない景色を見つめるのは辞めて、静かな車内へ視線を戻した。何とはなしに隣の席を見遣ると、鮮やかな花で縁取られた彼の遺影と目が合う。葬場の祭壇からこちらを見つめていた彼は、在りし日の優しい微笑みを向けてくれていた。

 

「――キングちゃんは」

 

 ふと、ただ静かな時間を消費するだけだった車内に、初めて人の声がした。私の隣で遺影を手にするお義父様が私の顔を窺うようにして話しかけている。

 

「キングちゃんは、お利口さんだね。今日もじっと我慢できていて、偉かった」

 

 何かを懐かしむようにしながらお義父様はそう言った。

 葬儀の間、キングちゃんはずっと大人しかった。時折、付き添うメイド長に話しかける声が聞こえてはきたけど、ぐずったり走り回ったりはしなかった。丁度、彼のお見舞いに病院を訪れていた時と同じように、周りの雰囲気を感じ取ったみたいに静かにしていた。

 キングちゃんは今、お義母様とメイド長と共に、爺やの車で後ろについて来ている。

 

「……お見舞いのために、たまに病院へ行っていたからかもしれません」

 

 少し前のことをぼんやり思い出して答えた私に、お義父様は「そうかもしれないね」と相槌を打った。ふと見せた柔らかな表情が遺影の彼と重なる。やはり親子だな、とそんな当たり前のことを今更感じていた。

 チラリと、横目で後ろを気にする素振りをお義父様は見せた。白髪混じりの眉毛がゆっくりと下がる。

 

「お父さんが死んじゃったこと、きっとキングちゃんもわかってるんだね」

「……どう、なんでしょうか」

 

 私自身もずっと気にかかっていることだった。

 やはりと言うべきか、彼の死をキングちゃんが理解している素振りはなかった。亡くなった彼と初めて引き会わせた時も、棺に眠る彼の前で話をした時も、キングちゃんは不思議そうな顔をするばかりだった。死化粧を施した彼を見ても、「おとさま!」とはしゃぐばかりだった。キングちゃんのその反応が、私にとっては救われたようでもあり、同じくらい悲しくもあった。

 この二日間大人しくできたのも、「そうすれば誰かが褒めてくれるから」くらいの、子供らしい認識だったのかもしれない。

 

「……子供は、時々びっくりするぐらい、敏感な時があるからね」

 

 私の気掛かりへ答えるお義父様の声は、どことなく確信めいた響きを伴っていた。少し強くなった雨脚の合間に、穏やかな声がよく通る。私は静かに耳を傾けていた。

 

「私たちが思うよりずっと、しっかり物事を受け止めていたりするものだよ」

 

 お義父様の目がまたチラリと後ろを窺った。先程とは違った色合いの、どことなく愁いを含んだような、何とも言い難い顔色を見せる。きっと私も同じような表情なのだろうと、そんなことが容易に想像できた。

 先達へ答えを求めるように、ポツリと浮かんだ問い掛けが唇から零れる。

 

「……どちらが、子供にとってはいいのでしょうか」

 

 人生の、そして子育ての大先輩は、困ったように眉尻を下げて、細い肩を落とした。

 

「……さあ。どちらがよかったのか、私もわからないんだ」

 

 それも訊いておけばよかったかな、というお義父様の呟きは、火葬場に到着して減速していく車の音に紛れてしまった。

 霊柩車から降ろされた彼の棺に静々と付き従って、最後のお別れをするための小さな部屋に通された。棺の顔のところだけが開かれて、最後に彼の顔を見ることができた。闘病の末に痩せてはいたけれど、生前と変わらず穏やかで優しい表情で眠りについている。斎場で敷き詰めた色とりどりの花が彼の遺体を囲っていた。

 棺の上に花を一輪手向ける。供える花には白い百合を選んでいた。特段、彼が好きだったからとか、そういう理由はなく、単に斎場の方に見せてもらった花の中で一番綺麗だったからという理由だった。自分の分を手向けて、その次にキングちゃんの分を手伝う。私が抱え上げると、キングちゃんは見様見真似で受け取った花を棺の上に並べた。私とキングちゃんの供えた百合が、二輪寄り添って咲いていた。

 彼のご両親も花を手向け、いよいよ棺が火葬炉へと運ばれる段となる。丁寧な口調で案内をしてくれた係員さんが、別れを惜しむ私たちに付き添ってゆったりと棺を炉へと運んでいく。五基が並ぶ炉のうち、一番端の炉の前で私たちは足を止めた。

 黙して待つ私たちの前で、金属製の炉の扉がスルスルと何の抵抗もなく開いていく。ぽっかりと空いた空間には何もない。丁度、彼の棺が収まるだけのスペースが取られている。

 胸にぽっかり開いた穴を冷たい風が通り抜けていった。丁度、彼の棺が収まるだけの空間がそこには開いている。重ねた手のひらをいくら握り締めても、塞ぐことは叶わない。吹き抜けていく風の寒さに立ち尽くして身を震わせていた。ただ、零れ出そうなものを堪える目頭だけが異様に熱かった。

 無情にも彼の棺はすっぽりと炉の中に収まった。係員さんが炉の扉を閉じる。その時だった。

 

「ぃやあっ!」

 

 火葬場の冷たい静寂を切り裂く金切り声が背中から聞こえて来た。メイド長に手を引かれていたキングちゃんの声だとすぐにわかった。

 ハッとして、それまで身じろぎもできていなかった私はすぐ後ろを振り返る。見たことがないほど慌てた表情のメイド長が「お嬢様」と何度もキングちゃんを呼んでいた。その声が聞こえていないように、キングちゃんは一切メイド長の方へ顔を向けなかった。力の限りに泣き叫び、全身を使って繋いだ手を振り解こうとしている。このままメイド長の体ごと引き摺ってしまいそうな勢いだった。

 

「どうしたの、キングちゃん」

 

 私と同じように振り向いたお義母様も、穏やかな声でキングちゃんに呼びかける。涙を堪える瞳で必死に笑顔を作りながら、何とかキングちゃんを宥めようとしていた。けれどその優しい声すらも、キングちゃんには届いていない。この数日、仲良く遊んでいたのが嘘みたいに、キングちゃんは差し出された手を払いのけた。

 いよいよ、キングちゃんの手は、メイド長では繋ぎ止められなくなりそうだ。キングちゃんを呼び続けるメイド長がほんの一瞬、困った表情で私を見た。

 

「――キングちゃん」

 

 メイド長の手が離れるのと、私がキングちゃんを抱き留めるのが、ほとんど同時だった。ゲートから飛び出るその瞬間みたいに加速しようとした小さな体を、何とかこの胸に受け止める。大人のウマ娘である私でも一瞬よろけて倒れそうになった。

 泣き叫ぶキングちゃんの背中をポンポンと撫でて宥める。すっかり絞ってしまった小さなお耳に、何度も何度も名前を囁いた。何とか私の腕を逃れようとする娘を抱き締めるのに精一杯で、「大丈夫だよ」とも、「落ち着いて」とも呼びかけることができない。幼い体のどこにそれほどの力があるのか、ぐいぐいと押されるたびに胸の辺りが苦しくなった。

 やっとの思いでキングちゃんを抱き上げる。一向に泣き止む気配のないキングちゃんは、しばらく足をじたばたとした。でもそれが無意味とわかると、今度は必死に上体を捻って、手を伸ばす。空を掴む手の先に、扉の閉じ切った炉があった。

 

「いやぁぁぁぁあああぁぁっ!」

 

 一際大きな叫び声と共に、ボロボロと栗色の瞳から涙が零れた。キングちゃんの洋服に、そして私の喪服に、ガラスみたいな水滴が染み込んでいく。感情の重みが溶け込んで肩がズシリと沈んだ。キングちゃんの小さな体からは考えられないその重さを、取り零さないようにするだけで精一杯。鋭く深い杭でその場に縫い付けられてしまったのではと錯覚するほど、私の脚はその場からピクリとも動けなかった。

 火葬炉にはすでに火が入れられていた。今更どうすることもできない。静かに手を合わせて首を垂れる大人たちの雰囲気に逆らうように、キングちゃんの激しい泣き声が冷たい空間に響く。けれど、その手はもう、空を掴むようにして炉の方へと伸びてはいなかった。代わりに私の喪服を力一杯に掴み、胸元に頭を埋めて涙を流す。

 ……とんだ勘違いをしていた。幼いキングちゃんには、お父さまの死がわからない、なんて。そんなものはとんでもない、私の思い違いだった。そんなこと、よくキングちゃんのことを見ていれば、わかったことなのに。

 キングちゃんは聡い子だ。この歳で周りの人たちをよく見ている。その場の雰囲気を敏感に感じ取ってしまう。

 例え、言葉の意味はわからなくとも。「死」という概念が理解できなくとも。お父さまにもう会えないということ、これが永遠の別れであること、もう手を繋ぐことも、膝の上に座ることも、抱き締めてもらうことも、全てすべてもう二度と出来なくなってしまうことを、キングちゃんはわかっている。それが、泣いて叫ぶほどに「いやなこと」であることも、どうしようもない理不尽であることも、それ故に悲しむ以上のことができないことも、わかっている。その幼く小さな体と心で理解してしまっている。

 くぐもった泣き声を胸に抱き締める。キングちゃんが必死にしがみつき、額を擦りつける場所が、ただただ熱く痛かった。大の大人でさえ受け止めるのがやっとな「大切な人の死」を、逃げも隠れもせず真正面から受け止めている、その痛み。まだこれから大きくなろうとしている育ち盛りの体と心があげる悲鳴。大きな声と小さな震えが、私の身をも貫いて痛める。

 傷だらけの我が子のふわふわとした髪を、私は何度も何度も撫でた。それ以外にどうしたらいいのか、もうどうしたってわからなかった。

 

「……死んでしまったわ」

 

 掠れた声がやっとの思いで唇から漏れた。たったそれだけの、事実を確かめる以外の意味のない、何ら中身のない言葉。そのはずなのに、震えが止まらなかった。

 

「……お父さま、死んでしまったわ」

 

 キングちゃんの泣き叫ぶ声が一段大きくなって、私の霞んだ言葉など消し去ってしまった。目の前の現実も、私の心ない言葉も、すべて否定して抗うように泣きじゃくる。……ああ、そうしてしまいたかった。こんなもの、受け入れることなど拒否してしまいたい。

 でも、それはできない。どれほど嫌で受け入れ難いことだとしても。泣き叫んで目を背けてしまいたいことだとしても。私は受け止めなくてはならない。残されたキングちゃんと一緒に、ときにはキングちゃんの分まで、受け止めなくてはならない。例え、この脚が震えて一歩たりと動くことができなくとも。焼けてしまった肺ではうまく息ができなくとも。この身のありとあらゆる水が涙になって流れ出ようとも。

 ……頬を燃えるように熱いものが伝っていることに、今更ながら気づかされた。思えば葬儀が始まってから、ようやくまともに涙を流せた気がする。それはきっと、今必死に泣いているキングちゃんのおかげだった。キングちゃんの流す悲しみと共に、私も心の内をようやく零すことができた。

 震える脚を踏ん張って、熱い肺に息を吸い込み、零れる涙もいとわずに、わななく唇を開いた。

 

「お父さま、死んでしまったわ、キングちゃん」

 

 その言葉に、さしたる意味はやはりなかった。けれど、必要な言葉だと、今は思えた。小さな体を振り絞るようにして痛みに向き合うキングちゃんへ、少しでも届いてほしい。その痛みをキングちゃん一人で抱える必要なんてない。私も一緒に痛んでいるのだから。痛みを共有する私の存在が、キングちゃんの体と心を少しでも軽くしてくれたらと、ただそう願った。

 しゃくりあげながらなおも泣き続けるキングちゃんの背を、何度も何度もさすった。「お父さま、死んでしまったわ、キングちゃん」と、何度も何度も意味のない言葉を呟きながら。幼いキングちゃんの痛みが少しでも和らぐように。……もしかしたら、そうしてキングちゃんを抱き締めることで、私自身の痛みも軽くなっていたかもしれない。

 一時間としないうちに、彼は一抱えほどに小さくなってしまった。泣き疲れて眠ってしまったキングちゃんの方が、ずっとずっと重かった。

 

 

 

 

 

 彼の葬儀が終わってからも、慌ただしい日々が続いた。仕事の休みはもらっていたとはいえ、諸々の手続きを終わらせるには決して十分な時間があったわけではない。彼のご両親がしばらく残って手伝ってくれたことが、とてもありがたかった。

 キングちゃんはというと、葬儀の後からは特に取り乱したりすることもなく、いつも通りに伸び伸びと日々を過ごしていた。あの日大泣きしたことが嘘なんじゃないかと、そう思えるほどに、天真爛漫に笑い、元気一杯にはしゃぎまわっていた。その姿に私は随分と救われていた。

 やっぱり、キングちゃんは彼が亡くなったことを、きちんとわかっている訳ではないのではないか。そんなことをチラリと思ったりもした。けれど、どうもそういうことはなく、キングちゃんなりに彼の死を認識はしているらしかった。毎朝起きると、彼の遺骨――四十九日の間は彼の部屋に安置していた――へ手を合わせていた。メイド長と一緒に、毎食祭壇へお供えをしていた。彼が入院している時は、毎日のように「おみまい!」とせがんで会いたがっていたけれど、それも全くしなくなった。

 休みが明けて私が仕事へ復帰しても、キングちゃんの様子は変わらなかった。メイド長には注意して見守ってほしい旨を伝えておいたけれど、普段と変わらずに過ごしているという報告が携帯には入っていた。ご飯をおいしそうに頬張っていたことや、お庭ではしゃぎまわっていたこと、疲れて心地よさそうにお昼寝したことを聞くと、私の心配が杞憂に終わったことを感じて安堵した。

 そうして、四十九日が静かに過ぎていった。少しずつ日常を取り戻しながら、そして新しい日常を受け入れながら。

 

 

 

 納骨の日は、良く晴れた一日になった。九月も末とは言っても、まだまだ夏の暑さが残っていた。日中に体を動かせば、うっすらと汗をかいた。

 葬儀からしばらくの時間を我が家で過ごした彼の遺骨は、お墓の下へ収まってしまった。一抱えほどの骨壺が小さな空間にすっぽりと鎮座していた。遺骨を収める部屋が閉じられた時、最早触れることも叶わないほどに遠く隔てられてしまったのだと、永遠の別れを改めて実感した。

 真新しいお墓に花を供えた。お墓の管理事務所で買ったお供え用の花束は、綺麗ではあったけど随分簡素だった。どこか近くのお花屋さんにでも寄ればよかっただろうかと、ぼんやりそんなことを考えた。そういえば、彼もよく私に花を贈ってくれたなと、懐かしいことも思い出していた。

 一緒に来ていたキングちゃんと、彼の実家から駆けつけてくださったご両親と、お墓に手を合わせた。深く深く、静かに。夏の残り香に包まれながら首を垂れた。そんな私の様子を窺いながら、キングちゃんも同じように手を合わせていた。長いようで短いお別れの時間だった。

 納骨もつつがなく終わり、ご両親と軽く食事をして、私とキングちゃんは屋敷へ戻ってきた。昼食を取ったあたりから眠そうだったキングちゃんに、ご両親が気を遣ってくださった形だ。そのキングちゃんは今、ベッドでお昼寝をしている。

 私はというと、キングちゃんをベッドへ寝かせた後、彼の部屋へと足を運んでいた。屋敷の二階、私とキングちゃんの部屋と並ぶ洋室。書斎も兼ねる彼の部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。

 彼の部屋は綺麗だった。日頃からきちんと整理整頓をして、部屋を綺麗に保つ人だった。彼が入院してからも、メイド長が毎日掃除をして、布団も取り換えてくれている。だから彼の部屋はずっと綺麗に整えられていた。でも、今感じている綺麗さは、そうした掃除や整理の行き届いているというものとは違っている。あたかも、部屋そのものがまるっと空っぽになってしまったかのような。必要なものが全て抜け落ちてしまったかのような。そういう綺麗さを感じた。

 壁を伝うようにしてゆっくりと歩く。真っ先に目に入るのは本棚。彼が愛用していたウマ娘のトレーニングに関する資料が並んでいる。それから、彼直筆のノートも。わずかに空いている隙間は、入院する時に彼が持ち出したところだ。彼が亡くなった後、ノートはサブトレーナーに引き継がれている。本棚の中団には透明なガラス戸がはめられており、彼と私で獲得したトロフィーや盾、賞状を並べていた。それぞれのトロフィーの隣には、丁寧に表彰式の写真まで飾ってある。

 背表紙を一つ一つなぞり、ガラス戸越しにトロフィーを撫ぜて、本棚の前を通り過ぎる。目に入ったのはまっさらな机と、マットレスだけのベッド。生活感はなく、人肌の温もりは感じられない。もうながらく、主は帰っていなかった。

 戻らぬ主人を待つ机の、埃一つ落ちていない天板の上。そこへたった一つだけ、物が置かれている。決して存在を主張することのない、小さな木枠の写真立て。写真が日焼けしないようにか、机の上へ伏せったままにされていた。

 そっと手を伸ばし、写真立てに触れる。使い古された写真立ては彼がずっとトレーナー室に置いていたもので、ながらく私の初GⅠ勝利の写真が入っていた。けれど、キングちゃんを授かって、この屋敷へ引っ越してきた時に、そこへ差し込まれている写真は変わっていた。

 写真立てをめくる。すでに茜を帯び始めた光が、微かにガラスへ反射した。

 飾られていたのは、私と彼が産まれたばかりのキングちゃんを抱きかかえている写真だった。キングちゃんが初めて屋敷にやって来たその日に撮った写真だ。メイド長がシャッターを押したその一枚には、キングちゃんを真ん中にして幸せそのものに微笑む私と彼が映っている。その笑顔は、どんなトロフィーや賞状と共に飾られたものよりも、眩しく見えた。

 

――「大切な宝物だよ」

 

 仕事の合間に写真を眺めては、彼はいつもそう言った。相好を崩す横顔は写真の中の彼と瓜二つで、私は同じように嬉しくなりつつ、若干の照れくささも感じていた。

 写真を幾度となくなぞる。永遠に別たれた愛しい人の笑顔を。そして、小さな小さな私たちの宝物の頭を。すでに枯れ果てたはずなのに、今なお溢れようとする涙を堪えながら、何度も何度も撫ぜた。

 ……闘病生活の間も、彼はこの写真を肌身離さず持っていた。最後に言葉を交わした時も、ベッドの傍らには見慣れた写真立てが飾られていた。私が訪ねると彼が写真立てを求めて、私はその手に幸せな思い出を握らせた。しばらく愛おしそうに写真立てをなぞり、彼はゆっくりと乾いた唇から言葉を発した。

 

――「君ならできる」

 

 視線はどこか虚ろでも、彼ははっきりとそう言った。弱々しい力でも精一杯に私の手を握って。今にも挫けそうな私を励ますように断言した。彼の中へ残っていたものの全てで私の背中を押したのだ。

 そんな言葉に、私は自分の中へあった不安を全て吐き出してしまった。私ならできる、そんな風には一寸たりとも思えなかった。彼の信頼に足る私でいられるとは到底思えなかった。

 

――「あなたがいなければ何一つできない」

――「まだまだちっとも、キングちゃんの誇れるお母さまにはなれていない」

――「私はただの、世間知らずで臆病な、何も成し得ていない小娘に過ぎないわ」

 

 自分で発した言葉の一つ一つがこれ以上なく自分の心を抉った。涙など当の昔に溢れて止まらなくなっていた。随分とか細くなってしまった彼の手に、幼子みたいに額を擦りつけて縋っていた。

 ただただ弱くてどうしようもない私を、けれど彼は静かに見つめていた。穏やかな瞳が私から言葉を奪った。

 

――「君ならできる」

 

 彼はもう一度そう言った。あれだけ吐き出した私の不安を、その全てを知っていると言うように頷きながら、それでも彼は言い切った。その言葉が、信頼が、眼差しが……涙も不安も全て飲み込むのには十分すぎた。

 

――「世界で一番のお母さまになるわ」

 

 涙を拭って誓った。

 

――「何があっても私がキングちゃんを守るわ」

 

 不安を噛み殺して誓った。

 

――「不自由なんてさせない。キングちゃんの幸せを、誰よりも願うわ」

 

 彼の手をしかと握り返し、精一杯に心を奮い立たせて誓った。

 彼は一つひとつに頷いた。その頷きはあまりにも緩慢で弱々しくて、よく見ていなければわからないほどだったけれど、私への確かな信頼が一杯に込められていた。それだけでもう、十分すぎるほどに励みになった。

 笑っていられた、と思う。顔はきっと涙でぐずぐずで。泣き腫らした目は充血していただろう。縋った鼻先が赤くなっていたかもしれない。嗚咽を堪える口元なんて見るに堪えなかったはずだ。でも、笑っていられたと思う。この身の内に未だ残された、キングちゃんと彼が再び火を灯してくれた、なけなしの「一流」という肩書を張って笑えていた。

 

――「だから見ていなさい。この私が一流だって、証明するところ」

 

――彼はそれから少しして息を引き取った。

 今の私には、あの時握った手の感触と、そして約束した言葉が残されている。きっとこの感触と約束を、これから幾度となく思い出すだろう。いまだ未熟でへっぽこな私が、それでもキングちゃんと生きていくために、忘れてはいけない感触と約束だ。キングちゃんのお母さまになるために、心へと刻んだ感触と約束だ。……彼が私に託して残した感触と約束だ。

 写真立てを机に戻し、踵を返して部屋を後にした。閉じていた扉を開きつつ、懐に入れていたものを取り出す。照明にきらりと光ったのは一本の鍵。彼の部屋のものだった。

 部屋の外へと出て再び扉を閉じる。隙間から見える部屋の中を、最後まで未練がましく見つめていた。けれど躊躇わず扉を閉め切る。そしてノブのところの鍵穴へ、鍵を差し込んだ。

 鍵を捻る手が止まった。指先がまだ微かに震える。けれど深呼吸を一つして、部屋に鍵をかける。カタリ。小さな音が廊下に響いた。ゆっくりと鍵を引き抜き、ノブを捻って鍵がかかったことを確かめる。多少押し引きしても、扉が開く様子はなかった。

 

「――メイド長」

 

 一階まで降りてキッチンを覗き、夕食の仕込みをしていたメイド長に声をかける。顔を上げたメイド長は濡れた手をタオルで拭き取り、キッチンから出てきてくれた。

 

「お呼びでしょうか、奥様」

「ええ。メイド長に預かってほしいものがあって」

 

 事態が飲み込めていない様子で、メイド長は怪訝な顔をして首を傾げた。そんな彼女に私は手にしていた鍵を差し出す。メイド長は益々当惑した表情を見せた。

 

「あの人の……主人の部屋の鍵よ」

「旦那様の、お部屋の……」

 

 おずおずと手を差し伸ばして鍵を受け取りながらも、メイド長はいまだ困った様子で私と鍵を交互に見た。私の意図を図りかねているようだ。彼女の疑問に私は答える。

 

「部屋には鍵をかけたわ。私が入れないように」

「……奥様が入れないように、でございますか」

「ええ、そう。――だからこの鍵を、あなたに預かっていてほしいの」

 

 私の依頼を聞いたメイド長は、手にした鍵をしげしげと見つめた。しばらく何某かを考え、今一度視線を上げて私の瞳を見つめる。私の考えを汲み取ってくれたらしかった。

 メイド長はほんのわずかに寂しそうな表情をした。

 

「奥様は……それでよろしいのですか」

 

 私の意志を確かめる問いかけに、無言のまま頷く。四十九日を過ごすうちに、決めていたことだった。

 ……私は決して強い母親ではない。未熟で弱い心の持ち主だ。それでも、私はキングちゃんの「お母さま」だ。世界で一番の「お母さま」になるのだと約束した。キングちゃんの「お母さま」として、その小さな手を握り、前を見て共に明日へ生きていくのだと心に決めた。

 思い出に縋る訳にはいかない。過去を振り返ってばかりなどいられない。いつまでも彼の優しさを支えにしてはいけない。私は、私の脚で、人生というターフに立たなければならない。

 けれど、もしあの部屋に立ち入ってしまったのなら……私は再び彼に縋ってしまうだろう。思い出という過去に頼ってしまうだろう。彼との思い出をなかったことになどできない。けれど明日へ向かって生きていくと決めた以上、思い出ばかりを振り返ることなど、到底できなかった。

 だから鍵をかける。弱い私が、それでもキングちゃんと共にこれからの日々を生きていくために。

 それに……わざわざあの部屋に立ち入る必要もない。一番大切なことは、この手と、この心が憶えているのだから。

 

「部屋は今まで通り、毎日掃除をして頂戴。でも、その時以外は常に鍵をかけておくこと。そして鍵は、メイド長が常に持ち歩くこと。――もし、私が開けてと言っても、決して鍵を渡さないこと」

「かしこまりました。――奥様のお覚悟、しかとお預かりいたします」

 

 答えたメイド長は両の手で鍵を握り締め、深々と頭を下げた。どこからか持ってきた紐に鍵を括り付け、首から下げてメイド服の胸元へ隠す。

 メイド服を整え再度一礼し、そのまま夕食の仕度へ戻ろうとしたメイド長へ、私はもう一つお願い事を追加した。

 

「――もしも。もしも、キングちゃんが……娘がどうしても部屋の中を見たいと望んだら、入れてあげて頂戴」

 

 いずれ、キングちゃんが大きくなった時に、お父さまのことを憶えていないかもしれない。知りたいと思うだろう。私ではなく、メイド長や爺やに尋ねるかもしれない。その時には包み隠さず見せてあげてほしい。キングちゃんのお父さまが確かにいたこと。短い時間だったかもしれないけれど、キングちゃんの存在に幸せを感じていたこと。憶えていないかもしれないけれど、キングちゃんのことをとてもとても大切に愛していたこと。そうした消えない事実も、あの部屋には詰まっている。

 はい、とメイド長ははっきりと答えて頷いた。私は満足して自室へと戻る。着ていた洋服を脱いで、下着も取り換え、クローゼットから取り出したスポーツウェアとジャージに着替えた。レース復帰に向けたトレーニングは今も続けている。今日のノルマはまだこなしていなかった。

 メイド長に声をかけて屋敷を出る。軽く柔軟をしてから走り出すと、髪を柔く撫でつけた風が、そっと背中を押してくれた。

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