【完結】キングヘイロー/zero   作:瑞穂国

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四話目です。
かつての、お母さまの「取り巻きーズ」だった一人のウマ娘のお話。


現実という名の怪物

 小学生だった頃の私は、地元ではそこそこ名前の通った、()()ウマ娘だった。

 元々走ることは好きだった。幼稚園の頃から友達と駆けずり回って遊んだし、近くにあったちびっ子用トレーニングコースの常連だった。そのうち周りよりも足が速いことに気づいて、小学校に入る頃にはそれが確信に変わった。特に秀でたもののなかった私は、さらに走ることにのめり込んでいった。

 地元のクラブチームに所属したのは、母の勧めがあってのことだった。つい数年前にできたばかりのチームだったけど、サイアー――この頃はまだよく意味がわかっていなかった――の支援があるとかで、指導内容が充実しているチームだった。指導をしてくれるコーチとも相性が良かったこともあり、私はチームへの所属を熱望した。母もそんな私を応援してくれた。

 走ることに夢中になった。タイムが良くなるとコーチが褒めてくれた。授業で走るとクラスメイトが「すごい」と言ってくれた。そしてレースに勝つと母が笑って喜んでくれた。私も、そうした周囲の反応が嬉しかった。

 小学校中学年になると、市や県が開催する本格的なレースにも出場できるようになった。私はどんなレースでも常に上位争いに食い込んだ。一着を取ったことも、一度や二度ではない。チームで初めて県のレースで一着になったのも私だった。コーチは「あなたは私たちの期待の星よ」と喜んで、髪型が崩れるほど頭を撫でてくれた。

 小学校高学年になると、当然のようにこんな話が出た。

 

「中央トレセンに進学してみないか」

 

 五年生の担任の先生は、期待に満ちた眼差しで大真面目に私に提案した。走ることに打ち込んできた以上、私だってその選択肢は常に意識していた。テレビの画面で、あるいは実際にこの目で、見つめて憧れ続けた舞台に私も立てるかもしれない。そう思うと興奮で眠れなくなった。

 学費は高いけれど、母は二つ返事で了承してくれた。コーチも「あなたなら大活躍できるわ」と背中を押してくれた。

 学科、面接、実技の三科目に分かれるトレセン学園の入試科目のうち、実技については、クラブチームでの実績をもって免除された。残る学科と面接も、周囲の協力もあってなんとかクリアできた。合格通知が届いたことを報告すると、皆が諸手を上げて祝福してくれた。

 地元から旅立つ日には、駅までたくさんの人が見送りに来てくれた。大きな横断幕まであったりして、若干の気恥ずかしさを覚えつつも、大きな声援には心からの笑顔で手を振って応えた。

 こうして私は、晴れて真新しい制服に袖を通し、中央トレセン――日本ウマ娘トレーニングセンター学園の門をくぐった。

 

 

 

 トレセン学園のレベルの高さは、入寮初日からたっぷりと味わうことになった。新入生に限っても、県大会の決勝レースで一着――つまり私と同じくらいの実績を持つ子がごろごろいた。県で上位争いをしていた子なら数えきれないほどだ。中には県選抜として全国大会で、あるいは日本選抜として国際大会でレースを走った経験のある子もいた。海外からの留学生もいた。クラブチームに所属していなかった子でも、実技試験を共に走った相手へ大差をつけて勝った子が何人もいた。言ってしまえば、それくらいのレベルの子はトレセン学園では当たり前だった。だからこそ私は燃えていた。実力が拮抗しているのなら、私たちに大きな差はない。これだけのメンバーが集まっても、私なら負けない。そんな、無根拠な自信があった。

 けれどただ一人だけ、七百名を超えた新入生の中にあって鳴り物入りで入学したウマ娘がいた。

 私が彼女を初めて目にしたのは、入学式のその日だった。理事長やトレーナー、在校生の祝辞を粛々と聞き届けると、最後に新入生代表の言葉になった。生徒の名前が呼ばれると、広い体育館の雰囲気が俄かに変わったのを感じた。小さなざわめきがさざ波のように広がった。その真っ只中で、凛とした声が響いた。

 席を立ち歩き出した彼女に、私は一目で心を奪われた。少し前に小学校を卒業したばかりとは思えない、堂々たる立ち姿。ステージへと向かていく足取りには迷いも緊張もなく、むしろ軽やかですらあった。踏み出す一歩に合わせて揺れる鹿毛が、差し込む春の陽射しを受けて艶やかに輝いた。匂い立つ気品、静かなる自信、厳かなる光輝。例えるのならば、どこぞの格式高い貴族の令嬢、あるいは連綿と続く王家の姫。同級生のはずの、決して背丈のある方ではない少女の背中が、まるで十も歳の離れた大人のように大きく見えた。

 詩歌を披露するように、あるいは激励の訓示を述べるように、いっそ高らかな凱歌を歌うように新入生代表の言葉を述べた、美しい鹿毛のウマ娘。彼女は「光輝なる一族」と呼ばれるサイアーの大家の出身だった。「光輝なる一族」現当主の愛娘で、いわば秘蔵っ子という位置づけだ。クラブチームには所属していなかったけれど、その実力は折り紙付きで、入学試験の成績は堂々の総合一位。特に実技の成績が圧倒的で、彼女が走ったところを見たという子曰く「まったく次元が違う」とのことだった。

 呑気だった私は、彼女の噂話を聞いても特にこれと言って感想を抱かなかった。ただひとを惹きつける「華」のようなものを持った、綺麗なウマ娘だなと思っていた。クラスが同じだったこともあって、友達になれたらいいなとも思っていた。

 学園生活が本格的に始まると、私は身をもって彼女の才覚を知ることとなった。前評判に違わず彼女は優秀だった。学科では常にクラストップの成績、学年でも上位一桁以内。けれど驕ったところは一つもなく、いつも真面目に真剣に授業に取り組んでいた。おまけに理解に曖昧なところがなく、わからないところを尋ねたクラスメイトへも丁寧に説明してくれた。入学式で見せた気位の高い佇まいとは正反対に至って気さくで、さらに話をするのも聞くのも上手くて、そしてよく笑った。彼女の持つ「華」のこともあり、彼女はすぐにクラスの人気者になった。

 そして何より、レースの才能が抜群だった。スピードもさることながら、センスと器用さもあった。不良バ場をものともしないパワーもあった。授業で何度か模擬レースをしたことがあるけれど、彼女はいつも一着でゴール板を駆け抜けた。私も一緒に走ったけれど全く歯が立たず、大きく離されてゴールした。最早才能の違いを目の当たりにした劣等感とか、純粋に「すごい」という感嘆を通り越して、目の前を走る背中に見惚れてしまった。一切乱れない流麗なフォームで、太陽を孕むビロードがごとき鹿毛をなびかせ、風とも稲妻とも競える速さで駆けていく姿がひたすらに綺麗だった。

 文武両道、才色兼備、そんな四字熟語がこれほど似合うウマ娘もいなかった。前評判を貶めるどころか、むしろそれを上回ってみせる活躍に、彼女の名声は益々高まった。

 

 

 

 彼女と仲良くなったきっかけ――初めて話したきっかけは、たまたま昼食の席が同じになったからだった。

 カフェテリアの一番日当たりがいい場所で昼食を取っていると、背中から私の名前を呼ぶ声がして驚いた。振り向くとトレーにニンジンハンバーグ定食を乗せた彼女が立っていて、隣の席に座っていいかを尋ねた。私が緊張しながら「もちろん」と答えると、彼女はニコリと微笑んで隣の席についた。

 何かを話さないと、とグルグル考えていた私のことを知ってか知らずか、先に口を開いたのは彼女だった。前から話をしてみたかったのだと言われて驚いた。たまたま一人でいるのを見かけて思わず声をかけてしまった、と照れくさそうに話す彼女にドキドキした。私もあなたと話をしてみたかった、そう告げると彼女は「そう?」と小首をかしげて、やっぱりくすぐったそうに笑った。

 彼女は私の走りを褒めてくれた。いつも後ろからプレッシャーを感じている、走っていて常に身が引き締まる、そんな趣旨のことを真剣な眼差しで伝えてくれた。でも私の走りは、全然彼女には届いていなかった。その話をすると、彼女は本格化の話をしてくれた。ウマ娘として能力が大きく成長する本格化を迎えれば、どうなるかわからない。

 

「あなたの走りは、まだまだ伸びるわ。私もうかうかしていられない。――ま、それでも負けたりなんてしてあげないけどっ」

 

 最後に負けず嫌いなところを見せた彼女に、思わず吹き出して笑ってしまった。「私も負けっぱなしは嫌かな」、そう言って答えると、彼女は心底愉快そうにして不敵に笑った。

 話しの流れで、お互いがレースの世界へやってきた理由も話した。彼女は実家の――「光輝なる一族」の期待を背負って学園へ入学し、レースでの活躍を目指すのだと言った。私はクラブチームや地元の皆、母の期待を背負って、レースの世界へ挑むと決めたのだと語った。お互いに境遇が似ているな、そんなことを思った。それはどうやら彼女もだったらしく、私の話を聞いた彼女はころころと肩を揺らして笑い、「同じね、私たち」とやっぱり愉快そうに答えた。

 それからというもの、彼女とは行動を共にすることが多くなった。毎日のご飯はもちろん、一緒に勉強をしたり、朝早くに自主トレをしたり。とは言っても、勉強と走りについては彼女の方が私より数段上で、私はいつも教わってばかりだった。その代わりという訳ではないけれど、私はよく彼女を遊びに連出したり、流行りのものを紹介したりしていた。お嬢様育ちで世間の常識とはややずれたところのあった彼女は、いつも楽しそうにしていた。話題の少女漫画を熱心に読み耽っては、私のベッドで顔を真っ赤にして悶えるので、微笑ましくありつつも時々目のやり場に困った。

 一緒に過ごす機会が増えると、私は改めて彼女の魅力に気付かされた。普段の彼女はというと、気さくで驕ったところがなく、一方で負けず嫌いなところもあって、何より自信があって堂々としていた。自分のことを「一流ウマ娘」と名乗って憚らなかった。そんな彼女は、困っている人を放っておけない人でもあった。難しい顔をしている人がいると必ず声をかけていた。一人悩んでいる人がいると暖かい紅茶を差し出していた。泣いている迷子の子供がいれば、一緒に手を引いてご両親を探してあげた。そんなことがしょっちゅうだった。彼女は「これも一流としての義務(ノブレス・オブリージュ)よ」と当たり前のようにしていたけれど、その優しさを目にする度に私は彼女に惹かれていった。彼女の振る舞いは正しく「一流」そのもので、私もその一流を目指そうと思えた。

 第一学年も終わる頃には、私はすっかり彼女の虜だった。彼女と私、それから私と同じような同級生二人を含めた四人で一緒にいることが多くなった。彼女の方も、交友関係は広かったはずだけれど、特別仲良くしているのは私たちぐらいのようだった。

 

「心から『友人』と呼べる人くらい、自分で選んだっていいでしょう?」

 

 少し困ったように笑って、彼女がそんなことを言ったことがあった。私と同級生二人が、三人まとめて「取り巻きーズ」なんて揶揄されるようになった頃だった。

 私たちは想像もしなかったし、彼女も明確に口にしたりはしなかったけれど。「光輝なる一族」のご令嬢である彼女の交友関係は、多分に実家の影響を受けていたのかもしれない。実際、「今日はトレーナー協会の会長と会食があるから」だとか、「URA理事の娘さんとお茶会があるから」だとか言って、予定が合わなかったことが何度もあった。クラスを見ていても、あからさまに彼女と――彼女の実家とお近づきになりたいという魂胆が見え透いた生徒もいた。彼女は人当たりが良かったし、大人だったから、ごく普通に親し気に応対していた。けれど、見ているこちらとしては、彼女自身ではなく彼女の実家しか目に入っていないような態度には、腹立たしいものもあった。きちんと彼女自身の魅力に目を向けてほしかった。

「取り巻きーズ」なんて呼び方の出所も、そうした彼女へお近づきになろうとした生徒たちだった。私たちへの当てつけなのは明白だった。だから、私たちは気にしないことにした。むしろ堂々と「取り巻きーズ」を名乗ることにした。彼女の取り巻きとして恥ずかしくないウマ娘でいようと思った。

 彼女は最初、少し戸惑っていたけれど、でも最終的には結構ノリノリだった。「最高の取り巻きね!」そう言って眩く笑う彼女の笑顔が何より嬉しかった。

 

 

 

 彼女に担当トレーナーがついたのは、中等部一年も残り少なくなった春のこと。同期の中では一番早かった。イギリス留学帰りの優秀な若手トレーナーで、彼女の実家が逆スカウトという形で彼女の担当トレーナーにしたらしかった。

 

「私のパートナーとして、申し分ないトレーナーね!」

 

 彼女は上機嫌だった。デビューの時期も決まって、そこへ向けた本格的なトレーニングにも取り組んでいた。午後の授業を彼女と共にできないのはちょっと寂しかったけれど、それ以上に誇らしく、また負けていられないと発奮もした。

 そんな私にトレーナーがついたのは、三度目の出走となる選抜レースの後。すでに彼女がデビュー戦を八バ身差の一着で飾ってからのことだった。さらに私のデビューは、抽選に何度か外れたこともあって、年末近くになった。

 お互いにチームへと所属し、トゥインクル・シリーズを戦うためのトレーニングへ打ち込み始めると、一緒にいる時間というのは必然的に短くなった。二年生からはクラスが別になったのも大きい。けれど変わらずに、ご飯を食べたり休養日に出掛けたりは続けていた。時間さえ合えば、お互いのレースを応援しに行ったりもした。彼女の「取り巻きーズ」として、いつだって全力で彼女を応援していた。彼女も、どれだけ忙しくても私たちのレースを必ずチェックして、観戦に来たり、応援のメッセージをくれたりした。

 ただ……私たちの歩んだ道は、あまりにもかけ離れていた。私がデビュー戦を三着で終えた頃、彼女はすでにジュニア級GⅠの注目株だった。私が三戦目にして未勝利戦で勝利を収めた時には、彼女はジュニア女王としてティアラ三冠路線へ挑んでいた。私が七戦目で二勝目を挙げる前に、彼女は世代でもトップクラスの実力者へと駆け上がっていた。オープンクラスで四苦八苦していた私をよそに、彼女はシニア級の先輩と肩を並べて競い合っていた。

 ……同じだと思っていた。同じね、と彼女も言った。私たちの走る理由は多分同じだった。でも……持って産まれた才能の差が、私と彼女の道を隔てていた。いいえ、彼女の走りが、彼女の才能だけでもたらされるものでないことは知っていた。彼女は才能に甘んじることなく、その才能を磨く努力を惜しまなかった。

 才能を持つ者と持たざる者がいたのなら、持たざる者は努力することでしかその差を埋められない。でも才能を持つ者が努力を惜しまなかったとしたら。その差は永遠に埋まることはない。

 私には才能があったのかもしれない。でも多分それは、彼女の持っていた才能には遠く及ばないものだった。ウサギと亀のようなものだ。彼女が怠惰なウサギだったのなら、亀のような私も努力次第で追いつき追い越せたかもしれない。けれど彼女は、努力するウサギだった。私も含めた「取り巻きーズ」が尊敬してやまないほどにひたむきな努力家だった。先へ先へと進んでいくウサギに、亀が追いつけるはずはなかった。

 それに、私からすればそれだけ圧倒的だった彼女をもってしても、いついかなる時も勝てるとは限らなかった。彼女と同じティアラ路線出身でありながらダービーを勝ったウマ娘とは、常に一進一退の攻防を続けてきた。そのダービーウマ娘と共に全戦全勝の先輩に挑み、伝説と言われるほどの熱戦を繰り広げながらも三着に敗れた。シニア級に入ってからは、留学生のウマ娘と互角に渡り合いながらも、辛酸をなめ続けた。彼女ですらそうなのだ。私のようなちっぽけな才能は、ターフに吹く風の前にいとも容易く飛ばされてしまう。

 無根拠だった自信は当の昔に霧散した。ただ……走ることだけは辞めなかった。辞めたくなかった。期待している、応援している、そう言ってくれた人たちの顔が浮かんだ。地元の駅で見送ってくれた大きな横断幕が浮かんだ。走ることにしか打ち込んでいなかった私を、いつも笑顔で見守って応援してくれた母の顔が浮かんだ。その期待を裏切りたくはなかった。彼女のように華々しく期待に応えることは、私の才能では難しいかもしれないけれど、それでもみんなの想いに応えたかった。辛くて苦しくて悔しいことばかりでも、兎にも角にもひたすら我武者羅に喰らいついた。全力を尽くして走り続けた。そのおかげか、GⅠとはいかずとも重賞レースへの出走権だけはギリギリ確保し続けていた。もっとも、その肝心の重賞レースでは、全く結果を残せていなかった。

 

 

 

 私の青春は、気づけばあっという間に消費されていった。高等部も二年になった春、珍しく母から電話がかかってきた。寮の通話スペースで受話器を取ると、今まで聞いたことがないくらい深刻そうな母の声が聞こえてきた。

 

『もう、高校二年生なんだから。レースは辞めて、こっちに帰ってきたらどうかしら』

 

 足元がガタガタと崩れるのを感じた。いつも私を応援してくれて、期待をもって送り出してくれた母の姿は、そこにはもうなかった。ただ純粋に娘の将来を案じる親心だけが受話器の向こうから伝わってきた。

 何のために走っていたのだろう、そう思った。もう走る必要もないんじゃないか、そう思った。いいことも楽しいこともあったけれど、どちらかといえば辛いことや苦しいことが多かった。彼女のような才能に恵まれない私は、レースに出れば悔しい思いをしてばかりだった。重賞レースでは全く歯が立たず、そんな重賞レースの勝者ですら彼女の足元にも及ばない。私と彼女の間に一体どれだけの才能の隔たりがあったのか、時が経てば経つほどに思い知らされた。

 わかった。そう言いかけて、でも寸でのところで思い留まった。最後に彼女と走りたかった。最後に一度くらいは、尊敬する彼女と本番の舞台で手合わせしたかった。

 

「もう少しだけ走らせて」

 

 母にはそうお願いして電話を切った。私は一つのGⅡレースを目標に定めた。GⅠレースの前哨戦で、彼女が叩きとして使う可能性が濃厚だった。そこで彼女と走ると決めた。そしてそのレースで彼女と勝ち負け争い――掲示板に入れなければ、レースをやめることも決心した。

 トレーナーとも相談して、直近のレースを死に物狂いで掴み取り、目標としたGⅡレースへの出走を確実にした私は、彼女にお茶をしないかと声をかけた。思えばシニア級に移って以降、彼女が各メディアに引っ張りだこになってからは、ゆっくりお茶をする機会も減っていた。

 引退のことは伏せて、彼女と同じレースへ出走することを告げた。少し疲れた様子に見えた彼女は、その一言でパッと表情を明るくして喜びの言葉を漏らした。嬉しくて堪らないという様子は、いっそ大袈裟なくらいだった。私も嬉しかった。彼女と走ることが、一つ大きな目標でもあったからだ。

 

「共に全力を尽くしましょう!」

 

 握った手を勢い良く振った彼女に、私も何度も頷いた。今ある私の全力を彼女にぶつけよう、そう心に誓った。

――結果は散々なものだった。トレーニングもこれ以上ないほどに積み、調整も慎重に重ねて、最高の状態でレースへ挑んだ。一切の遠慮なく、自分の持ち得るもの全てをぶつけ、文字通り死力を尽くして走った。けれど私の着順は八着だった。ゴール板を駆け抜けた直後にふらつきながら膝に手をつき、全身から汗を噴き出して、苦しい肺に何とか新鮮な空気を送り込む私とは対照的に、余力を残したまま最後は楽に流して一着となった彼女は涼しい顔をしていた。続くGⅠへ向けての意気込みを観客へ語る余裕すら見せた。

 ああ、敵わないな。ウィニング・ライブで見事にセンターを務めあげる彼女の背中を見つめてそう思った。諦めはついた。大きなものを背中から降ろすことができた。

 次の日には、トレーナーにチームからの脱退届を出した。トレーナーは惜しんでくれたけれど、私の決意は変わらず、最後には「次の道でも頑張ってくれ」と暖かく見送ってくれた。

 しばらくはいつも通りに学園生活を送った。ただチームへの所属もなくなったために、午後のトレーニングの時間はひたすらに暇だった。少しして地元の高校に欠員があったため、夏休み中に転入試験を受けることにした。それから諸々の手続きを進め、夏合宿期間中の八月頭に退寮する運びとなった。籍だけは八月までトレセン学園に置くけれど、もう学園へ足を運ぶことはなかった。

 退寮の日、全ての荷物を運び出し終えて、寮監さんや守衛さんに挨拶をし、身一つで門をくぐった私を、夏合宿へ行ったはずの彼女が待っていた。容赦ない夏の陽射しが頭上から降り注ぐせいか、彼女の顔には大きな影ができていて、どこかやつれた印象を受けた。色が褪せた瞳が、まるで絶望の淵の、その一歩手前に立っているように見えた。

 

「今までありがとう。これからも元気でね。手紙、書くね」

 

 できるだけ明るくお別れの挨拶をした私を、彼女は黙ってじっと見つめていた。瞳に宿る光がずっと揺れていた。開きかけの唇からなかなか言葉は出なかった。

 

「――あなたと走れて、嬉しかったわ。とても楽しかった」

 

 ようやく重い口を開くと、彼女はそんなことを言った。私は何も言えずその言葉を聞いていた。いつもの自信に溢れた様子が嘘みたいに、彼女は縋るように、懇願するように、私に何かを求めていた。

 

「あなたの才能は本物よ。今回はたまたま運が悪かっただけ。きっとまだまだこれからよ。次はきっと勝てる。また私とだって走れる。――何も辞めてしまわなくたって、いいじゃない」

 

 プツリ。自分の中で何かが事切れた。

 

「……貴女さえ」

 

 私を繋ぎとめようとする手を振り解いた。俯いた拍子にポロポロと焼けるような雫が滴り落ちた。引退を決めてからついぞ流れなかった涙が、今になって溢れ出てきた。

 

「貴女さえいなければよかったのに」

 

 お腹の底から絞り出すように声を出した。彼女のような眩い才能がいなければ。才能があって努力もできる一流のウサギがいなければ。亀の私でも勝てたはずなのに。今こんな思いをして学園を去ることもなかったのに。母の期待を裏切ることもなかったのに。心のどこかで思っていたことが口をついて吐き出された。

 けれど……言ってしまって、そして明らかに傷ついた彼女の顔を見て、すぐにハッとした。わかっていた。こんなのは八つ当たりだ。彼女が悪いわけじゃない。現に彼女一人がいなかったとて、私があのレースに勝てたわけじゃない。私が勝てなかったのは、私に勝てるだけの才能がなかったからだ。絶望的な才能の差を埋めるだけの何かもなかったからだ。彼女には何の罪もない。

 むしろ逆だ。彼女がいなければここまで走り続けてなどいなかった。母の進言に待ったをかけることなどなかった。彼女がいなければ、最後にこれだけレースへ打ち込むことなどできなかった。いつだって私の前にいて、眩いその背中で立ち続けた彼女がいなければ、私は当の昔に諦めていた。どちらがよかったのかはわからない。でもきっと、後悔も未練も少なかったのは、最後まで全力を尽くし続けた方だと思った。

 ごめん。ごめん。こんなこと、言いたいんじゃない。拭っても拭っても溢れる涙を止めることも叶わず、自分の情けなさ不甲斐なさに今すぐ消えてしまいたい気持ちを抑えて、たった今の自分の言葉を否定した。それで彼女を傷つけたことがなしになるわけじゃないのはわかっていた。でもできうる限りに否定した。それが全てじゃないって、伝えたかった。

 貴女がいたおかげで楽しかった。貴女と友達になれたことが嬉しかった。いつもいつも、たくさんたくさん、ありがとうと思っていた。

 私の言葉の一つ一つに、彼女は殊更優しく頷いてくれた。

 ぐしゃぐしゃになった顔を上げて、最後に精一杯笑った。未練も後悔もやっぱりあって、でもそれ以上に全力でやり切った自信もあった。

 彼女を思いっきり抱き締めた。戸惑いながらも遠慮がちに抱き留めてくれた彼女の背中を数度叩いた。

 

「今までありがとう。レースは辞めちゃうけど、貴女のことずっと応援してる。……私の分まで、頑張ってね」

 

 彼女が微かに息を呑む音が聞こえた。背中に回された腕の力が強くなった。ギュッと、確かに彼女の存在を感じ取れるほどに私を抱き締め、彼女は短く「ええ」と答えて頷いた。

 学園を去る私を、彼女はずっと見送ってくれていた。お互いの姿が見えなくなるまで、私たちは手を振り続けた。

 角を曲がって彼女が視界から消えた時、私のレース人生は終わりを告げた。

 

 

 

――それから、幾ばくかの時間が流れた。

 地元の高校へ転入してしばらくは、「中央トレセンからの転校生」として多少話題に上がっていた。けれど私が何も語らなかったこと、何か大きなタイトルを獲った訳でもないことからそれもすぐに落ち着いた。残りの高校生活を、私は至って順調に送ることができた。

 トレセン学園での超ハイペースな授業進行に慣れていたからか、授業自体の理解度は高く、おかげで成績も常に上位だった。大学受験の時期になると、地元の大学や私立の大学であれば十分に狙えたけれど、少し背伸びをして東京の大学を志望校に選んだ。浪人を挟みつつも晴れて第一志望に合格し、私は再び地元を離れて東京で学び始めた。

 レースのことは意図的に忘れるようにした。興味が無い訳ではなかったけれど、未練がましくなるのも嫌で、可能な限り触れないようにしていた。ただ、大学の友人やサークル仲間の間で話題に上がったりもするので、大きなレースの結果ぐらいはチェックしていた。それと……彼女の出走したレースの結果も見ていた。

 私が学園を辞めてからも、彼女とはしばらく手紙のやり取りが続いた。でも別れ際のこともあって、私はあまり気乗りしなくなってしまった。そのうちにやり取りの間隔が伸び、大学受験が佳境を迎える頃に彼女から返事が来なくなった。そのまま改めて連絡を取ることもなく、自然消滅のような形になっていた。でも、彼女のレースだけは、ずっと応援し続けていた。

 私が辞めた後の彼女は、やはり強いままだったけれど、大きな目標とするGⅠレースでは勝ちきれない状態が続いた。強い後輩たちが現れたのが大きな要因だった。時には掲示板を外すこともあった。でも、大学部に進学してドリーム・トロフィー・リーグへと移籍すると、ドリーム・ダービー・トロフィー――ドリーム・トロフィー・リーグ移籍初年度にのみ出走できるレースで久しぶりのGⅠ級レース勝利を収めた。ドリーム・トロフィー・リーグは先輩後輩含めて強豪揃いだったけれど、彼女は一つ何か感覚を取り戻したのか、その後も勝利を重ね、ドリーム・トロフィーを三つも制した。

 けれど、ドリーム・トロフィー・リーグも三年目になった夏、彼女は突然登録していた全てのレースを辞退した。妊娠と出産に伴う長期休養が、それから少し後に発表された。お相手は彼女のトレーナーだった。

 進退について彼女は明言しなかったけれど、世間からは復帰を望む声が多く上がった。出産後のレース復帰というのは例がない訳ではないけれど、その道を選ぶのは多数派ではなかった。でも彼女ならあるいは、と思ったけれど、それ以降彼女は一切表舞台に姿を現さなくなった。そのうちに報道の熱も収まり、図らずも彼女と赤ちゃんの十月十日を静かに見守る形になった。

 元気な娘さんが誕生したことをひっそりと報告した彼女は、けれど進退については変わらず明らかにしなかった。一部の記事で現役復帰を示唆するような報道があったものの、そこからまた音沙汰はなかった。ただ次第に、世間は彼女を引退するものだと思い始めた。そんな状態が一年も続けば、彼女はすっかり過去の人になっていた。一度だけチラリと聞こえてきた噂では、勝負服のデザイナーとして働いているらしかった。それが益々、彼女の引退説を濃厚にした。

 大学を無事に卒業し、そのまま東京で就職した私は、新卒一年目を慌ただしく過ごすうちに、世間一般と同じくすっかり彼女のことを忘れていた。目まぐるしい日々の中で青春の落とし物を思い返す暇はなかった。けれどある時――丁度、お盆休みを利用して帰省し、久しぶりにほっと息を吐こうとした時、私は否応なく彼女のことを思い出すことになった。トレーナーだった彼女の旦那さんが亡くなった、そんなニュースが流れたからだ。

 トレセン学園でも屈指の優秀なトレーナーだったこともあって、大きなニュースになった。それを見越してか、トレセン学園から発表があったのは、旦那さんの告別式が終わった翌日だった。彼女もまた、報道各社へ向けてコメントを寄せていた。世間の誰もが、かつてレースの世界を賑わせた若き未亡人を哀れんだ。

 けれど、驚くのはまだ早かった。旦那さんが亡くなったニュースから二か月後、彼女から思いもしない発表があった。

 

「来年の春、レースへ復帰します。目標はスプリング・ドリーム・トロフィーです。――私はそのレースで現役を引退します」

 

 

 

 

 

 

 随分久しぶりに足を運んだ東京レース場は、ウマ娘レースファンでごった返す大賑わいを見せていた。それもそのはずだ。今日はドリーム・トロフィー・リーグ最高峰のレースの一つ、スプリング・ドリーム・トロフィー。GⅠのそのさらに上とも言われる舞台なだけあって、観客の注目度も高かった。人が密集している状況というのは、首都圏に住んでいればそれなりの頻度で目にするけれど、それでもふと圧されてしまう。軽いめまいを覚えた私は、手にした紙袋に入った花束を大事に抱えつつ、レース場内へと歩みを進めた。

 春のGⅠ戦線がすでに始まっている東京レース場では、至る所に直近のGⅠレースの宣伝ポスターや、各レースの歴代優勝ウマ娘の写真が貼られている。もちろん、今日開催されるスプリング・ドリーム・トロフィーのポスターもあった。一番目立つのは、去年同じレースを制した青鹿毛のウマ娘。ドリーム・トロフィー・リーグでも屈指の実力者であるそのウマ娘は今日のレースにも出走しており、一番人気と大差ない二番人気に推されていた。

 一方で、今日を限りに引退する彼女の人気は、青鹿毛のウマ娘からは程遠い、後ろから数えた方が早い人気順だった。

――彼女の、突然の復帰と引退宣言は、世間を大きく騒がせた。過去の人になりつつあったとはいえ、錚々たるタイトルを獲得してきた、いわば一つの時代を築いたウマ娘だ。多くのファンが彼女の復帰に沸き立った。

 ただ、それから少し時間が経って熱狂が冷めると、冷静な分析をする人たちが増えていった。出産を経てのレース復帰、競走能力の衰える年齢、何より過去に例を見ない三年超というブランク。いかに彼女がかつて「一流」と呼ばれたウマ娘だとしても、これだけの不安要素を払拭するのは不可能に近いというのが、大方のレースファンの見解だった。

 そして、不安は現実のものとなる。復帰を宣言したことで、彼女のトレーニングの様子やタイムが伝えられるようになった。しかしどれも芳しい数字とは言えなかった。それを裏付けるように、参加した模擬レースの結果もパッとしない。かつての、威風堂々たる傑物の走りは、今の彼女からは感じられなかった。

 一週前、そして最終追切でも、彼女の時計は振るわなかった。私も映像を見たけれど、私の目でもわかるくらいに彼女の走りは平凡だった。かつての、目を奪われるほどに圧倒的な、風とも稲妻とも競える走りはすっかり鳴りを潜めていた。能力の衰退というのを、はっきりと目にしてしまった。

 今の彼女に、第一線で走り続けている後輩たちと競える力があるとは思えない。

 

――「いくら元一流ウマ娘でも、さすがに勝つのは不可能だ」

――「あんなに強かった彼女が無残に負けるところなんてみたくない」

――「もう、過去のウマ娘でしょう? 大人しく引退すればよかったのに」

 

 そんな声はあちこちで聞いた。否定したかったけれど……否定できる材料は何も持ち合わせていなかった。一ファンとして、当然彼女を応援している。けれど元競技ウマ娘として、勝つことは無理だと冷静に考えている自分もいる。それが、彼女を裏切っているようで、心苦しかった。

――申し訳程度に買った彼女の名前が入った応援チケットを鞄へ仕舞い、私はパドックへと足を向けた。遅めのお昼ご飯を済ませてからレース場にやって来たので、時間的には丁度今日のメインレース――夢の第十一レースであるスプリング・ドリーム・トロフィーに出走するウマ娘たちのお披露目が始まるはずだ。

 足を踏み入れたパドックはこれまでにも増して人でごった返していた。大きく広いことで有名な東京レース場のパドックが、人垣で埋め尽くされんばかりになっている。すでに続々とウマ娘たちがパドックへ現れており、観客のざわめきの中に時折拍手が混じった。私も背伸びをしながらパドックを見つめ、ウマ娘たちに拍手を送る。

 GⅠと同じく、ドリーム・トロフィー・リーグのレースも勝負服で走ることになるので、パドックの様子はさながらファッションショーのようになっていた。派手な演出や音楽はないが、一人また一人と現れるウマ娘たちはそれぞれにポーズを決めたりして、観客に自慢の勝負服をアピールする。ドリーム・トロフィーへ出走するだけあって、どのウマ娘も自分を見せるのが上手だ。颯爽と歩き、ポーズを作り、笑顔やウィンクを振りまくだけで場が煌びやかになる。その度に、観客席から拍手が送られた。

 彼女が現れたのは一番最後だった。大外十五番のウマ番と共に、彼女の名前が読み上げられる。深紅の幕が上がると、勝負服姿の彼女が歩み出た。

 彼女が着ていたのは、見たことがない勝負服だった。彼女はいくつか勝負服を持っていたけれど、私が学園にいた頃に着ていたものでも、その後ドリーム・トロフィー・リーグに進んでから着ていたものでもない。新緑の芽吹きを思わせるような――あるいは、その胸元に輝くブローチと同じ、温かで高貴な輝きのエメラルドのような、緑の勝負服。決して豪奢なところのないシンプルなドレスだ。スラリとした魅惑の生足を彼女が踏み出す度、ふわりとスカートが揺れる。臆することなく、シャンと背筋を伸ばし胸を張って堂々と歩く彼女の姿と合わさり、優雅な力強さを感じさせた。

 一際大きく暖かな拍手が彼女へは送られた。「おかえりなさい」、そんな声も聞こえた。先にパドックへやって来ていたウマ娘たちも、何人かは準備運動の手を止めて彼女へ拍手を送る。彼女はしばらく拍手を一身に受け、観客席を見渡していた。彼女がこちらを向いた時、一瞬目が合ったような気がして、かぶっていたハンチングを目深にする。どうにも気まずさのようなものはあった。

 一通り観客席を見回した彼女は、その場で美しいカーテシーを決めた。身についた自然な所作に思わず見惚れてほうっと息が漏れる。拍手は益々大きくなった。

 パドックに集った出走ウマ娘たちは、本バ場入場の号令がかかるまで各々体を解す。独特の緊張感はありつつも、出走する各ウマ娘の表情はいまだ穏やかで、和やかに言葉を交わしていたりもした。レースの話をしている人はほとんどいない。休日はどうしただの、この間の遠征がどうだの、注目している後輩だの、そんな話ばかりだ。リラックスはしつつも、適度な距離感を保っている。

 やがて、やって来た係員さんが「とまれ」の号令をかける。いよいよ本バ場入場の時間だ。話を弾ませながら準備運動をしていたウマ娘たちがチラリと係員さんの方へ目を遣る。すでにぱたりと会話は止んでいた。たった一言の号令でピンと空気が張り詰める。一瞬でアスリートとしてのスイッチが入った感触に、思わず背筋が震えた。

 ウマ番が一番のウマ娘から続々と地下バ道へ入っていく。パドックの観客が一斉にレース場へと移動する中、私は最後までウマ娘たちを――彼女を見つめていた。落ち着いた佇まいで待っていた彼女は、一番最後に地下バ道へと入っていく。

 

「……頑張れ」

 

 取り出した応援チケットを手に握りしめて呟き、私もまたスタンドへと足を急がせた。

 

 

 

 人だかりの中に立てる場所を見つけて、紙袋に入った花束を抱きかかえながらコースの方へ目を向けると、丁度ウマ娘たちがターフへと足を踏み入れるところだった。地下バ道を抜けたウマ娘がウィナーズサークルの横から現れる。所属チームとトレーナーの名前と共にウマ娘が紹介され、スタンドからは拍手が巻き起こった。そのウマ娘を応援しているファンからは大きな声援も飛ぶ。それに大きく手を振り、あるいは笑顔を見せ、気合いを入れて叫び、ウマ娘も応える。その背中がターフを踏み締めて「返し」に入ると、もう一度拍手が起きた。

 一人、また一人とスタンド前に現れてはパフォーマンスをして、ウマ娘たちは「返し」に向かって行く。大きなターフビジョンには、「返し」中のウマ娘の様子も映し出された。パドックやウィナーズサークルでの様子とは打って変わって、鋭い眼光を煌めかせるウマ娘たち。レース本番へ向けて集中力を高めていた。

 ふと、一際大きな拍手と歓声が上がった。見ると、ウィナーズサークルに青鹿毛のウマ娘が立ち、スタンドへ目を向けていた。拍手と歓声はそのウマ娘に対して送られている。前年のこのレースの覇者であり、今日も二番人気に推されているウマ娘だった。ドリーム・トロフィー・リーグでも屈指の実力者という評判通り、前哨戦となる春最初のレースでは完勝。年明けすぐのウィンター・ドリーム・トロフィーで一着だった一番人気のウマ娘と、人気と注目を綺麗に分け合っている形だ。中には今日のレースを「二強対決」と言う人もいた。

 実力者らしくと言うべきか、風に揺れる青鹿毛から漂うオーラは、他のウマ娘とは一線を画しているように思えた。声援に応えてターフへ駆け出していく背中は見るからに逞しい。

「やっぱり、先輩かっこいい……」

 すぐ近くの、どうやら青鹿毛のウマ娘の後輩らしい学生が感嘆の声を漏らした。憧れの色に染まる横顔をチラリとだけ見遣る。思えばその昔、「取り巻きーズ」の皆と共に彼女を応援する時の私も、あんな顔をしていたかもしれない。

 次々とウマ娘たちが「返し」に入っていき、その一番最後に彼女が現れた。観客席を見上げる彼女に、万雷の拍手が送られる。「おかえりなさい」、「今までありがとう」、パドックの時と同じように、数年越しにレースへ復帰した大スターを歓迎し祝福する声で溢れた。それまでのウマ娘の時とは雰囲気の違う、温かな空気がスタンドに流れる。

 でも、周りと同じように拍手を送りながら、私はどことなく違和感を感じていた。何度も彼女の応援のためにレース場へ来たことはあるけれど、記憶にあるあの時とは何かが違う気がした。その正体をなかなか掴めないまま、ともかく拍手を送り続ける。

 静かにスタンドを見回した彼女は、やはり美しいカーテシーを決めた。レース前の彼女といえば、恒例だったのは一流の名乗りだ。よく通る声で自身の名前を名乗り、勝利を宣言する。常に自信に満ち溢れたパフォーマンスに観客も熱狂した。けれど今日はそれがなく、彼女は摘まみ持ち上げたスカートを元へ戻すと、そのまま踵を返して駆け出していく。

 

「頑張れー!」

 

 その時、どこかから声が聞こえた。タイミング的に、今駆け出していった彼女へ向けられた声援だった。違和感の正体に気づいた私は、ハッとして目を見開く。

 

――「頑張れー!」

――「今日も応援してるぞー!」

――「最高のライブ、楽しみにしてます!」

 

 今日の彼女には、いつも聞いていたような期待の声は、どこからもかけられていなかった。誰も彼もが、ただ彼女の復帰を祝うのみだった。ターフへと舞い戻った過去の英雄を称える、まるでただの式典のように。誰も彼女が勝てるとは思っていない。誰も彼女に期待などしていない。

 胸がキュッと痛くなって、花束を抱く腕に力がこもった。悔しかった。あんなに才能溢れたウマ娘だったのに。あんなに強く美しいウマ娘だったのに。あんなに多くの夢と期待を背負ったウマ娘だったのに。今はただ無事に第一線から身を引くことを願われている。それが悔しくて悔しくて堪らなかった。

 頑張れ。どこかで叫んだ誰かのように、私も「返し」に向かっていく背中へ声援を送ろうとした。けれど開きかけた口から声が出ない。頑張れ、のその一言目の形に開いたままの口を、私は大人しく閉じた。

 勝てるはずがない、そう思っているのは私も同じだった。そんな私が今更、どんな顔をして「頑張れ」なんて、彼女に言えるのだろう。噤んだ口をどうしても開くことはできなかった。

 手にした応援チケットを握り締める。心の奥底、まだどこかに残っていた、彼女の勝利を信じる自分が声を上げている。それが最後の最後に、「頑張れ」と小さくささやかな祈りの言葉になった。

――あっという間に出走時刻がやってくる。「返し」を終えたウマ娘たちがゲート裏で待機する中、ついにスターターが現れた。確かな足取りでスタンドカーへと向かって行くハット姿の紳士へ、観客たちが拍手を送る。それが一つ発走時刻の合図のようなもので、思い思いに準備運動をしていたウマ娘たちが一斉に動きを止めた。その視線はただ真っ直ぐにゲートを捉えている。

 スタンドカーに乗るスターターが深紅の旗を振り上げる。するとレース場にトレセン学園音楽科の学生によるファンファーレが鳴り響いた。この日のための特別なファンファーレに観客が手拍子で応える中、いよいよ各ウマ娘の枠入りが始まる。

 レースに慣れている子が多いだけあって、枠入りは順調に進んでいく。ファンファーレが鳴り止んで、その余韻に大きな拍手が送られている間に、奇数番のウマ番のゲートインは終わっていた。ただ一人、大外十五番の彼女だけが残されて、今度は偶数番のウマ番の枠入りが始まった。こちらもスムーズに進んでいき、気迫のこもった表情のウマ娘が続々とゲートの中へ収まっていく。

 そして最後に、彼女がゲートへ入る番になった。

 十五番のゲート前で一度立ち止まり、彼女は一つ深呼吸を挟んだように見えた。スッと滑らかにゲート入りを済ませてきた彼女には珍しい。表情は窺えないが、もしかして彼女でも緊張したりするのだろうか。そんなことを考えているうちに、彼女は一歩を踏み出して、ゲートへ歩みを進めた。足取りに迷いは見受けられなかった。いつも通りに堂々と、シャンと伸ばした背筋で、艶やかな鹿毛を揺らして、狭いゲート内に身を落ち着ける。これでゲートインは終了、体勢完了だ。待ってましたと静かな興奮に包まれ拍手を送る観客。ゲートの中で各ウマ娘が身構えた。

 刹那の静けさ。ターフに吹く青い春の風。雨露含んだ芝の薫り。

 そして、今――

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