キングヘイローまとめにも登場する裁縫師とお母さまのお話です。
私が天職に選んだ裁縫師という職業は、競技ウマ娘用勝負服の仕立てを主な仕事としている。勝負服デザイナーと対を成す、勝負服製作には無くてはならない職業だ。
専門学校を経て裁縫師の世界へ飛び込んだ私が師事したのは、長らく業界で活躍してきた「職人」とあだ名される人で、私は親しみと敬意を込めて「師匠」と呼んでいた。弟子入り早々に「五年で独り立ちしろ。できなければ追い出す」と宣言した師匠は、以降猛然と私に彼の持ち得る技術や経験、人脈を教え込んでくれた。後から知ったことだけど、彼は私を最後の弟子にして、第一線から身を引くつもりだったらしい。
必死に喰らいついて仕事をこなし、ようやく一人でもまともに仕事を任せてもらえるようになったのは、師匠に師事して四年目のこと。
彼女と初めて顔を合わせたのは、師匠と懇意にしている勝負服デザイナー――「先生」がうちの仕事場を尋ねて来た時だ。先生は元々欧州を中心に活躍していたデザイナーで、そんな先生のもとに見習いのデザイナーとして師事していたのが彼女だった。
彼女は現役の競技ウマ娘だった。それも、誰もが知っているような――もちろん私も知っている、錚々たるタイトルを獲得してきた
ただ……何度か仕事を共にして、彼女のデザインを見たりもした私の感想は、「あまりパッとしない」というものだった。センスも技術もあるのだが、逆に言えばただそれだけだ。こちらを惹きつけるものもなく、もちろん誰かを輝かせるなどもっての外。佳作ではあるのだが、常に最優秀作を求められる勝負服の世界では今一つ物足りないものだった。
「貴女、どう思うかしら? 彼女のデザインについて」
一度、先生に尋ねられたことがあった。率直に聞かせて、とわざわざ付け加えられたので、私は思っていたことをそのまま答えた。先生は「やっぱりね」と私の意見におおむね賛同を示した。他人事めいた冷たい声音に、ほんの少し残念がる響きが混じっていたのを憶えている。
なぜなのか。私の疑問に先生は答えてくれた。
「彼女にはデザインしたいものがないのよ」
裁縫師に得意とする衣装のジャンルがあるように、デザイナーにも得意とする分野があるのだという。中世ドレス風や近世軍服風、和装、洋装、伝統的衣装から最近流行りの服まで。そういったモチーフとするデザインという意味合いもあるが、より大まかな括りとして言えば「どういうウマ娘のためにデザインしたいのか」、「ウマ娘のどういう部分をデザインに落とし込みたいのか」というのもデザイナーの根幹をなす部分として欠かせないと、先生の言葉はおおむねそんな意味合いの話だ。そして、彼女にはそれがない、と先生は判断していた。
「デザイナー志望はね、大なり小なり『デザインしたいもの』という根幹を持って業界に飛び込んでくるわ。根幹のないデザインなんて、張子の虎と一緒よ」
残念だ、と先生は言った。技術もセンスもあるのにもったいない、とも。
「彼女がこの業界で一流になるのは、難しいでしょうね」
聞けば、師匠と同じように自身の引退を考えていた先生は、彼女を最後の弟子にする腹積もりだったという。ネームバリューのある彼女なら、自身の技術を教え、築いてきた人脈を譲り渡すのに申し分ないだろう、と。けれどどうも、その当ては外れたらしい。一流になれないのなら、技術はともかく人脈は譲れないと先生は言った。それは、自身の腕を信頼してくれている人たちに失礼だから、と。似たようなことを、師匠にも言われたことがあったなと、私は思い出していた。
――先生とそんな話をしてから半年ほど。彼女は登録していたレースへの出走を全て取り消した。妊娠と出産、育児のためという理由だった。
彼女のデザインが変わったのは、妊娠した彼女のお腹が少しずつ目立ち始めてきた頃だった。
とある地方トレセンの、制服と体操着のデザインを刷新するデザインコンテスト。その最終審査に並ぶ五つのデザイン案の中に、ひと際目を引くデザインがあった。特に体操着のデザインが秀逸で、見た目もさることながら動きやすいように縫い目の位置や素材にまで気が配られていた。デザイナーの欄には彼女の名前。正直、私は驚いた。それまでの彼女からは考えられないほどに、見る者を惹きつける力のある作品だった。
結局、そのコンテストでは、別の著名なデザイナーの案が採用された。ただ、トレセン所属のウマ娘には、彼女のデザイン案を根強く推す者が多かったと聞く。
以来、彼女は何かしらを掴んだのか、見る人を惹きつけるデザインを産み出すようになった。元々あった技術とセンスがよく活かされていた。
「どうかしら、彼女のデザイン。率直に聞かせて頂戴」
以前と似たような質問を投げる先生は明らかに上機嫌だった。私は以前と同じように、思った通りのことをそのまま答えた。
「彼女、デザインの根幹を見つけたんですね」
私の言葉に、先生はやはり嬉しそうに頷いた。何かきっかけがあったのだろうか。そう尋ねると、やはり子供を授かったことが大きいだろうと答えがあった。話はそのまま、例の地方トレセンの新しい制服と運動着の件になった。あの案件は、ぜひやらせてほしいと、彼女の方から頼み込んできたという。彼女が見習いになって初めてのことだったそうだ。
あまりの勢いに気圧された、先生はそう言って笑った。
「身重の体なのに、方々駆けずり回ってね。無茶するんだから」
直接、地方トレセン所属の学生や教師に話を聞きに行ったこともあったという。電話やメールでもやり取りを重ね、徹底的に彼女らの意見を集めたそうだ。それで納得がいく。あれだけ学生からの支持が根強かったのは、そういう背景があったからだったのだと。
これからもっと仕事を任せていく、先生は実に愉快そうにそう言った。
「貴女にも、ぜひ彼女と仕事をしてほしいわ。これは私の予言だけど、きっといいパートナーになるわよ、貴女たち」
さらに言葉を付け加える前に、先生は真紅の双眸のうち右の目をパチリと閉じた。
「今のうちに、たくさん貸しを作っておきなさい。――彼女、そのうち一流になるわよ」
言葉通り、彼女と仕事をする機会が増えた。……というより、先生によって意図的に増やされていたのだと、後にしてみれば思うのだが。ともかく本当によく仕事を共にした。彼女が娘さん――キングちゃんを出産して落ち着いた頃からは特によく同じ案件に携わることになった。勝負服の製作だけでなく、ライブイベントの企画、ファッションショーの運営、ウマ娘専門ブランドとのコラボレーションなど、多岐にわたる仕事の内容は挙げ出したらキリが無い。勝負服製作だけに留まらず様々な取り組みをしていた先生らしい采配と仕事内容だった。当時、師匠のもとから独立したばかりだった私にしてみると、ありがたい限りだった。
先生のもとで見習いとして手伝いをしていた彼女だが、次第に案件ごとの任される比率が大きくなっていった。例えば、勝負服製作の打ち合わせとデザインのラフまでできたところで、先生が後は彼女に任せたりしていた。細部のデザインや生地の打ち合わせ、そして裁縫師である私への依頼などは彼女がこなす。打ち合わせに同席するだけだった頃を思えば目覚ましい進歩だ。そんな訳で、日に日に彼女と接する機会は増えていった。
彼女は人の話をよく聞いて仕事をしていた。依頼者の話はもちろん、本来下請けであるはずの私の意見もよく聞いてくれた。その上で、彼女自身の考えも丁寧に説明していた。仕事上の衝突は珍しくなかったが、そういう彼女の姿勢もあって取りまとめた最終的な方向性にはいつも納得していた。
気づくと、彼女と仕事をするのが楽しくなっていた。先生の言った通りになったのかなと、そんなことを思っていた。プライベートな話をぽつぽつとするようにもなったりして、本当に友人のような関係になりつつあった。
そんな折、彼女が初めて一人のウマ娘の勝負服製作を最初から最後まで担当することになった。その勝負服を作る裁縫師として、私に声がかかった。
彼女は張り切っていたけれど、別段気負っている様子もなかった。頬を叩いて入れた気合いが空回りしていることもなかった。ただいつも通りに、よく人の話を聞き、丁寧に自分の意見を説明し、ひたむきに精力的に勝負服のデザインへ取り組んでいた。初のGⅠ出走ということで期待と不安がない交ぜになっていた様子のウマ娘とそのトレーナーも、彼女の姿勢を信頼していた。
ただその一方で、打ち合わせの帰り道やコーヒーで一息を入れる間のような、ふと仕事のスイッチが切れる一瞬に、疲労と憔悴で一杯になった表情を見せていた。担当したウマ娘よりも、よほど彼女の不安の方が大きそうに見えた。最初、私はそれを彼女なりに感じているプレッシャー故のものだと思っていた。けれど、数度の打ち合わせとメールのやり取りの末に勝負服のデザインが固まった頃、それが全く見当違いだったことを知った。旦那さんが亡くなった、と言って彼女が私との予定をキャンセルしたのだ。
彼女の代わりにやって来た先生から、少し前から体調が思わしくなかったこと、ここ一か月ほどが山だと告げられていたことを聞いて益々驚いた。けれどそれで納得もした。仕事中はそうした事情を表に出さないよう気を張っていた分、ふと気が抜けた瞬間に影が見えていたのだろう。
さらに一週間後の打ち合わせでは、先生ではなく彼女が顔を出した。彼女は真っ先に頭を下げ、急な予定のキャンセルと先生による代打を謝罪した。本当に何とも思っていなかったし、反対に心配していた私は、慌てて彼女に顔を上げさせた。忌引きも開けたから今日から普段通りに仕事をする、彼女は改めてそう言った。ひたむきな姿勢は相変わらずで、私はついぽろりと「大丈夫?」と尋ねてしまった。気を張って無理をしているのではと、そんなことを勝手に思っていた。
「ええ。――大丈夫よ、ありがとう」
返ってきた返事はとても穏やかだった。陰りはどこにも見えず、大きな不安を取り払ったように思えた。私はその言葉を信じることにした。
デザインの細部――生地や縫い方について喧々諤々の意見を交わし、採寸から勝負服の製作、衣装合わせまで、怒涛の日々が過ぎ去った。そうして彼女が初めてデザインした勝負服は完成し、依頼主であるウマ娘に披露された。袖を通し、鏡に映る自分をくるりと一周見回したウマ娘が、興奮を押さえられない様子でキラキラと笑っていたのが印象的だった。裁縫師としては見慣れたはずの光景だけれど、特に大きく心が弾んだ。そして初めての大仕事を終えた彼女も、後ろからウマ娘を見守って満足そうにしていた。
当初の予定通り、私たちが担当した勝負服は秋のレースでお披露目された。彼女の誘いで現地に駆けつけた私は、初GⅠ出走となるウマ娘にたくさんのファンから声援と勝負服の感想が送られているのを聞いた。レースには惜しくも敗れてしまったけれど、その夜のウィニング・ライブまで、ウマ娘は終始誇らしげな笑顔を見せていた。そんなウマ娘を見つめる彼女は、やっぱり憑き物が落ちたような清々しい表情をしていて、けれどその日は真剣な決意の炎を瞳に宿していた。
――それから数日後。彼女からの発表が大きく世間を騒がせた。
「来年の春、レースへ復帰します。目標はスプリング・ドリーム・トロフィーです。――私はそのレースで現役を引退します」
新しい勝負服の製作を依頼したい。そう彼女から連絡があったのは、レースへの復帰と次走での引退を発表した彼女への取材がひとまず落ち着いた、十二月頭のことだった。
スプリング・ドリーム・トロフィー――彼女の引退レースでは、新しい勝負服を着たい。そう言って彼女は自身で起こしたというデザイン画を私に手渡した。緑を基調として、決して豪奢なところのないシンプルなドレスだった。走る時の風でふわりと広がる様子が容易に想像できた。素敵なデザインだと思った。
ただ、不思議にも思った。GⅠレースの常連だった彼女は、勝負服を何着も持っていたはずだ。わざわざ新しく準備することもないだろう、そう思った。
私の率直な疑問に、彼女は律儀にも答えてくれた。曰く、彼女の勝負服というのは、いつも彼女の実家――「光輝なる一族」が用意していたものだそうだ。サイアーの大家でもある彼女の実家の、広告塔としての役割が多分に含まれた勝負服で、彼女自身の意見はあまり反映されていなかった。
「勝負服の出来には満足しているし、用意してくれたことに感謝もしている。けれど……今までの勝負服を『私のもの』と思うことは、どうしてもできないのよ」
彼女自身、色々と考えたであろうことは想像に難くなかった。私へ語って聞かせる間も、彼女は真剣な表情で思考を巡らせていた。
胸を張って「私のもの」と言える勝負服が欲しい。それが彼女の辿り着いた結論だったようだ。
「勝負服は、まず第一に、他の誰でもなくウマ娘自身のものであってほしいの」
あるいは、ある程度の月日を勝負服デザイナーの卵として過ごしてきたがゆえに、改めてそのような考えに至ったのかもしれない。ともかく私は納得し、彼女の新しい勝負服を作ることを承諾した。
そこからはいつもの通り、怒涛のような毎日だった。日々勝負服デザイナーとしての仕事をこなす傍ら、復帰に向けて本格的なトレーニングも続けていた彼女はとにかく時間がなく、合間の小さな隙間時間を見つけてはデザインの打ち合わせを持った。いつものことではあるけれど、彼女の衣装へのこだわりは強く、デザインと実現性を巡って私たちの議論は絶えなかった。私も彼女も意見をぶつけ合うのに一切の遠慮はなかった。そんな中途半端なことをしたら、反対に相手が許してくれないこともよく知っていた。
最終的なデザインがまとまったのが年の明けた一月の末。そこから勝負服を製作して最初の衣装合わせが二月末。細かな調整を挟みつつ完成させた勝負服は、本番一週間前の共同記者会見で初めてお披露目された。
――そして今日。彼女は新しい勝負服に袖を通し、最後の舞台に立つ。
◇
春のGⅠ戦線も開幕した、東京レース場。熱狂する観客席の喧騒は、けれどさすがに控室までは聞こえてこなかった。小さな部屋を満たすのは声援でも拍手でもなく、微かな衣擦れの音。誰もが声を発さないがために、いつも以上に鮮明にその音が響いた。
レースを控えたウマ娘の控室に足を踏み入れるのは初めてのことではない。勝負服の裁縫師として、レース前最後の衣装チェックや着付けに呼ばれることはままある。ゆえにレース前の張り詰めた雰囲気にも慣れていた。けれど、今日はまた格別だった。
鏡の前に立つウマ娘が、私の作った勝負服を着付けている。微塵の綻びもないように、細心の注意を払って袖を通していく。ゆっくりとではあるけれど、その手捌きは随分と洗練されて無駄がなく、まるで茶道のお点前を見ているようだった。一つひとつの所作が丁寧で優雅に映る。
首元へ飾ったクロスタイにブローチを留める。それですべての準備が整った。彼女はシャンと背筋を正す。すらりと揺るぎのない立ち姿と同じくらい、鏡越しにこちらを見つめる視線も真っ直ぐだった。
「どうかしら」
確認を求める問いかけに一歩前へ出て、彼女の勝負服へ触れる。普段仕事をしていると、衣装の調整をする私を、彼女の方が後ろから見守ることになる。けれどこうして、競技ウマ娘としての彼女に見つめられながら最終チェックをするのは、何だか妙な心地だ。きっともう二度と味わえない感覚だろう。 尻尾通しを隠すリボンのバランスを整えたくらいで、勝負服の確認は終了した。
「――ん、完璧だね」
頷いて、ちらりと横を見る。そこには、先程から緊張した面持ちで彼女を見守る女性が立っていた。胸元に煌めく中央トレーナーのバッヂ。彼女のチームのトレーナー――彼女の旦那さんからチームを引き継いだ元サブトレーナーだ。
私と目が合うと、トレーナーはハッとして小さく頷いた。その様子を彼女もまた横目で見つめている。鏡に映る表情が少しだけ緩んだ。
十分ほど待っていると、レース場のスタッフが控室をノックし、後五分でパドックへの入場が始まることを告げた。彼女もトレーナーも引き締まった表情で短く返事をし、席を立った。二人の後ろに続き、スタッフが開けてくれているドアからパドックへと続く廊下へ出る。
けれど、扉を閉めたところで彼女はぴたりと足を止めてしまった。不安そうに覗き込んだトレーナーが口を開く前に、彼女の唇が動く。
「トレーナー。先にパドックへ行っていてくれるかしら」
「……わかりました」
長考の末頷いたトレーナーは、最後まで彼女のことを気にかけながらも、スタッフと共に足早にパドックの方へと向かって行った。あとには私と彼女だけが残される。
トレーナーの姿が完全に見えなくなると、彼女はうちに溜め込んでいたものを全て吐き出すように深く息を吐いた。力まで抜けてしまったのか、足元がふらつく。慌てて支えようと私が腕を伸ばすのと、彼女が辛うじて壁に手をつき足を踏ん張ったのがほとんど同時だった。「ありがとう」とうっすら笑った顔に小さな汗が伝う。壁についた手と、廊下に踏ん張る足が震えていた。
「……しようがないわね、私ったら」
深呼吸を繰り返す合間に彼女が呟いた。それまでの、決して折れることなどないように逞しく、シャンと胸を張って凛々しかった姿はどこにもない。満足に歩くことすらままならぬ産まれたての小鹿みたいな一人のウマ娘が、そこにはいるだけだった。
けれど、彼女は決して、膝を折ることはしなかった。私は言葉をなくして、その姿を見つめることしかできなかった。
「レースが怖かったことなんて、これが初めてではないのに」
ぽつりと呟き、彼女は俯きかけた顔を上げた。壁に手をつきながらも一歩を踏み出す。カツン。蹄鉄とヒールが廊下を打つ。震える彼女の恐怖がその響きにも混じった。
カツン。また一歩、彼女は歩を進める。歯を食いしばる横顔に覚悟が宿る。すると不思議と、その背が伸びた。未だ脚は震え、壁についた手はたどたどしい。けれどその歩みには、振り絞ったなけなしの力強さが宿る。
カツン。カツン。ゆったりと歩を進めた彼女はいよいよ壁から手を離し、支えをなくして震える脚だけで立つ。その上体がふらりと揺れて倒れかけ、けれども彼女はもう一歩前に踏み出しながら踏ん張った。噛み締める奥歯の音が聞こえたような気がした。
カツン。カツン。一歩を踏み出すのに尋常でない精神力を消費していることが、端から見ていても伝わってくる。いっそ倒れてしまった方が楽なことなど、素人の私でもわかった。それでも彼女は歩みを止めない。ただ真っ直ぐに前を見て、けっして俯くことなく、膝を折ることなく、歩みを進める。脚はガクガクで、細い肩も小刻みに震えていた。けれどすでに、その背筋はすらりと真っ直ぐに伸びていた。
右手をそっと胸元へ重ね、彼女は一際大きく深呼吸をした。曲がることなど知らない視線で廊下の先を見つめ、彼女はゆっくりと唇を開く。
「私は一流のウマ娘。――キングちゃんが誇れるような、一流のお母さまになるって、そう決めたんだから」
それが、彼女が今日レースに挑む理由であり、勝負服に込めた想いだった。
……結局のところ、彼女の勝負服は「彼女のもの」ではなかった。いえ、彼女の願いと祈りと誓いを込めた、という意味では間違いなく「彼女のもの」ではあるのだけれど。あえて彼女の勝負服を誰かのものとするのなら、それは紛れもなく「娘さんのためのもの」だった。多分これまでも、そしてこれからも、彼女は誰かのために、何より娘さんのために走り続けるのだろう。きっとそれが、彼女の選んだ生き方だ。
だからその勝負服は、誰よりも美しく眩く輝いた。
そっと手を伸ばし、彼女の背中に触れる。彼女は驚いた様子で振り向き、目を見開いて私を見た。汗を一筋垂らす「一流のお母さま」へかける言葉など、一つしか思いつかなかった。
「いってらっしゃい。――キングちゃんが待ってるよ」
彼女はぱちくりと瞬きをして私を見つめた。やがて紅を引いた唇がついっと吊り上がる。栗色の瞳を爛々と輝かせて、彼女は自信たっぷりに――あるいはそれが虚勢だったとしても――笑った。
「ええ。――いってくるわっ!」
ポンッ、と背中を叩く。それを合図に、彼女は一歩二歩と踏み出した。ゆったりとした歩みが少しずつ早くなり、軽やかなリズムを奏でて加速し、最後には蹄鉄の音も高らかに駆けていく。その背中がパドックの方へと吸い込まれるまで、私はずっと見守っていた。
足を踏み入れたレース場の観客席はすでに大盛り上がりだった。夢の第十一レース、ドリーム・トロフィーともなればその熱気も理解できる。かつてトゥインクル・シリーズを盛り上げたウマ娘たちによる夢の共演だ。観客の熱狂も頷ける。
パドックでのウマ娘たちのお披露目はすでに終わっている。今は本バ場入場を待っているところだ。
やがて、歓声と拍手がざわめきとなって観客席に広がった。パドックより繋がる地下バ道から、出走するウマ娘たちが姿を現したのだ。
紅白の燕尾服を身に着けた誘導ウマ娘を先頭にして、出走するウマ娘たちがターフに足を踏み入れる。手を振ったり、ポーズを決めたり、思い思いに観客へアピールをしながら、一人また一人とコースへ駆け出していく。押し寄せた観客たちも、それぞれの応援しているウマ娘に激励の言葉を贈り、手を叩いて応援していた。当然ながら、レースで人気を集める子にはより大きな声援が送られていた。特に、ほとんど差がなく一、二番人気に推されている二人への注目が高く、観客席の盛り上がりも大きなものとなった。
――そして、彼女が現れた。
彼女の登場は、出走する十五人のウマ娘のうち、十五番目だった。地下バ道から彼女が姿を現すと、大きな拍手が送られる。けれどそれは、それまでのウマ娘たちに送られていたものとは、大きく様相が異なった。柔らかで暖かな響きが重なる。激励というよりも祝福のように聞こえた。「おかえりなさい」、そんな声があちこちから聞こえてくる。
レースに戻って来てくれたこと、再びターフに立つ彼女が見れたこと、それが喜ばしいのは事実だろう。けれどそれは、決して期待ではないようだった。彼女が勝つとは誰も思っていない。事実、彼女の人気は下から数える方が早かった。
観客席の前に立った彼女は、拍手を送る観客たちを端から端までゆっくりと見渡していた。拍手の音色の違いは、彼女だって気づいたはずだ。それに何を思っているのか、コースから遠い私の場所からでは、何もわからなかった。私の見つめる中、彼女は恭しくカーテシーを決めて、そのままくるりと踵を返し走り去る。
「頑張れー!」
せめて私だけでもと叫んだ声は拍手と歓声に紛れてしまい、彼女へ届いたのかはわからなかった。青々とした芝を軽く流して走る彼女は、チラリとだけ観客席の一角を窺い、そのまま芝に脚をならしていく。観客席の関心は、すでにスクリーンへ流れる各ウマ娘の様子へと移っていた。
しばらく「返し」が続くと、思い思いに脚をならしていたウマ娘たちが、設置された発バ機の前まで集まってくる。発走時間は近い。枠入りが始まるまではあの場所で待機となる。腿上げをしたり、脚を伸ばしたり、反対に何もせず呼吸を整えていたりと、各ウマ娘で待ち方は様々だ。そうした中で、ゲート前の雰囲気がキリキリと張り詰めていくのを感じた。
彼女はというと、出走するウマ娘の一人と何やら話し込んでいるようだった。勝負服から見るに、二番人気のウマ娘だ。知り合いだったのだろうか。ともかく二人は向き合い、何やらただならぬ雰囲気を醸し出しつつ、言葉を交わしていた。
一体何を話しているのだろうか。ハラハラしながら見守っていると、観客席が再び大きな拍手に包まれた。見れば、スーツにハット姿のスターターが、スタンドカーへ乗り込むところだった。手元の時計を見ると、発送時刻丁度だった。
スターターが手にした赤い旗を上げる。それがファンファーレ開始の合図だった。トレセン学園音楽科の学生たちがファンファーレを奏でる。スプリング・ドリーム・トロフィー専用の豪華なファンファーレだ。聞き届ける観客も一体となって手拍子を打つ。いよいよレースが始まる、その緊張感がたちどころにレース場全体を満たしていった。
ファンファーレが響く中、ウマ娘たちの枠入りが進んでいく。彼女もすでに先程のウマ娘と話し込むのはやめ、自分の枠入りの順番を待っていた。大外の彼女がゲートに入るのは一番最後になる。
ファンファーレが鳴り止み、一人また一人とウマ娘たちがゲートへ収まっていく。大舞台の経験が豊富なウマ娘ばかりということもあるのだろう、嫌がる素振りを見せる者はいない。皆すんなりと枠入りを進め、すでに偶数番のウマ娘も入り始めている。
そして一番最後、彼女だけが残された。十五番のゲート前で待っていた彼女は、大きく深呼吸をすると歩を進め、ゲートに収まる。後ろ扉が閉まると、いよいよ出走準備完了だ。ゲート内で各ウマ娘が構える。それを観客も固唾をのんで見守る。
刹那の静けさ。ターフに吹く青い春の風。雨露含んだ芝の薫り。
そして、今――