【完結】キングヘイロー/zero   作:瑞穂国

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七話目、いよいよ大詰めです。
お母さまが引退レースへ挑むお話です。


キングヘイロー/zero

 澄んだ青空へ響き渡るファンファーレを、どこか遠くへ聞いていた。

 今まさにレースが始まらんとする張り詰めた雰囲気、それはあたかも一杯まで引き絞られた弦のようで、今にもちぎれ飛んでしまいそうな危うさと共にあらゆる音すら奪い去る静寂を孕んでいる。事実、盛大なファンファーレとそれに合わせた手拍子、観客席の喧騒とは裏腹に、ゲート前の私たちの周囲に流れる空気は至って静かだった。その只中に私も身を置いている。

 身を翻して自身のゲートへと向かって行く後輩の、その背中で揺れる煌めく青鹿毛を、私は辺りの空気と同じように静かに見つめていた。絶対的な自信、けれどその裏に大きな不安と葛藤、絶望を背負っているのがわかる。かつての私がそうだったから、そして彼女にそれを背負わせてしまったのが私だから、尚更にそれがわかる。

 ……ひどい話だ。慕ってくれた後輩に、私を追い駆けてレースの世界へ飛び込んだ後輩に、レースを辞めようとした私に「先輩と走りたかったです」とまで言って引き留めてくれようとした後輩に、私は何てものを押し付けたのだろう。輝かしい未来で溢れた瞳に憧れの色を一杯に詰め込んだ後輩が眩しくて、その眩さから目を逸らすしかない自分が腹立たしくて、そしてその苛立ちを他でもない後輩にぶつけてしまった。そうしたら、その後輩が苦しむことなんて、わかりきっていたのに。ひどい話だ。先輩として、競技ウマ娘として、あるまじき醜態だ。……一流なんて程遠い、とんでもないおばかさんだった。

 どうしてこんなものを背負わせたのか。後輩には、そう叫んで私を責め立てる権利がある。胸ぐらを掴んでありったけの罵詈雑言を浴びせかけたって許される。そしてその全てを真正面から受け止める義務が私にはあった。

 ごめんなさい。その言葉が何度も口から出そうになった。今もまた、後輩の背中を見送りながら、開きかけた唇から呟きが漏れ出そうになる。けれどそれを、唇を噛み締めて堪える。謝罪の言葉は、自分が楽になるためだけのものだ。今更謝ったところで、彼女が救われるわけじゃない。ただ私が、罪の重さから逃れられた気分になるに過ぎない。最早言葉ではどうにもならない。言葉だけで済ませてはいけない。

 ()()()()()()が、また一つ増えた。

 ゲート入りが進んでいくのを見守り、私もまた自身のゲートの前に立つ。とはいえ大外の私の枠入りは一番最後だ。まだしばらくは時間がある。

 自分の順番が来るまで待つ間に、ゲート越しにゴール板正面付近のスタンドを見遣った。けれどこの距離で人だかりの中に目当ての人を見つけることは難しかった。「返し」へ入った時に見えたのはあのあたりだったかしら、と目を凝らす。多分あのあたりに、キングちゃんを抱きかかえたメイド長と、比良坂()()()()()――あの人からチームを受け継いだ元サブトレーナーが控えている。

 一つ、大きく息をする。

 

――「武運長久をお祈りいたします、奥様」

 

 恭しく一礼して激励してくれたメイド長の姿を思い出した。

 

――「今までありがとうございました。いってらっしゃい」

 

 震えながらも笑顔で手を握ってくれた比良坂トレーナーの姿を思い出した。

 

――「おかあさま、がんばってくださいっ」

 

 何より、無邪気な笑顔で送り出してくれた、キングちゃんの姿が思い出された。随分おしゃべりが上手になった。キラキラした瞳でそう告げられてしまって、その気にならない母親などいないだろう。少なくとも私は、何倍も何十倍も何百倍も、力が漲ってきた。

 それに、彼女たちだけではない。今日の勝負服を共に作り上げた仕事のパートナーもどこかにいる。パドックで懐かしい顔を見かけたから、きっと彼女もどこかで見ている。それから……()も空の上から見守ってくれているはずだ。

 勝ちたい理由を一つずつ胸にしまっていく。私の横で枠入りは順調に進んでいた。すでに偶数番のウマ娘たちがゲートへ入り始めている。もうすぐ私の番がやってくる。

 背中を一筋汗が伝った。一瞬、足がすくむ。ゲートへ入ることが――レースへ出ることが堪らなく怖かった。

 今までもそういうことはあった。レースを前にして震えが止まらなくなることなどしょっちゅうだった。勝たなければいけない、そう思うほどに怖くなった。負けてしまえば義務が果たせない、それが怖かった。託された夢と希望に応えられないことが怖かった。

 でも、今日の恐怖は少し違う。誰も私に期待などしていないことは、痛いほどに感じてきた。すでに引退も同然だったウマ娘、それも本格化の時期はとうに過ぎ去り、能力が衰退し始めたウマ娘。そして走る相手は、国内最高峰のレースへ出走することを許された、選りすぐりのメンバー。誰が見たって結果は明らかだった。勝てるはずがない、誰もがそう言った。……他ならぬ私もそう思っている。

 トレーニングを積んでも以前ほどタイムが伸びてこなくなった。後輩たちとの併走ではついていくのでやっとだった。参加した模擬レースでは七人立ての四着が最高順位だった。勝つことは最早厳しい、私の経験と本能がはっきりと告げていた。

 勝ちたい、そう思うほどに、周囲との絶望的な力の差に恐怖した。到底届くはずのない壁を見上げて、ただ呆然と膝をつくしかない恐怖。「無理かどうかは、私が決める」、後輩にはそううそぶいたけれど、そうでもしていなければ倒れてしまいそうだった。

 ……それでも、勝ちたいと思ってしまった。勝ちたい気持ちだけは決してなくならなかった。

 わかっていた。この気持ちを手放してしまえば楽になれる、と。諦めてしまえば恐怖することもない。簡単なことだと何度も悪魔が囁いた。けれどそれはできない相談だった。私の心に諦めという文字はどこにもなかった。

 ただ勝ちたいと思った。勝ちたいと思えば思うほど怖かった。それでもその恐怖と闘い、勝ちたい気持ちを失わないと私は決めていた。

 いよいよ、ゲート入りを待つのは私だけとなった。先にゲートへ入った後輩たちが、視線は寄越さずとも私の方へ意識を向けているのがわかる。私がゲートに収まれば、それが発走準備完了の合図だ。

 深呼吸を一つする。レース前に震えて仕方のなかった脚は、今はしっかりとターフを踏み締めていた。そして迷いもどこにもない。

 前へ一歩を踏み出す。錆びついた「一流」を張って堂々と、シャンと背筋は伸ばしてゲートへ足を踏み入れた。私の体が狭い空間に収まると、係員さんが後ろで扉を閉める。体勢完了だ。

 刹那の静けさが辺りを満たす。青い春の風がターフの上を攫った。そこへ雨露含んだ芝の薫りが混じる。

 

 

――そして今、ゲートが開いた。

 

 

 目の前のゲートが開いた瞬間、スタンディングスタートで構えていた十五人のウマ娘が一斉に駆け出した。横目に見えた感じ、大きく出遅れた子もいない。全員横一線、ほとんど揃ったスタートになった。

 一歩二歩と加速していくウマ娘たちに観客席からは拍手が送られる。スタンドの前を通過する時、口々に応援しているウマ娘へ叫ぶ声を聞いた。その声を胸に仕舞いつつ、脇目も振らずに駆けていく。すでに位置取り争いは始まっていた。ここからのおよそ二分半、一瞬たりとも気を抜くことはできないレースだ。

 今年のスプリング・ドリーム・トロフィー、通称SpDTのコースは、東京レース場二千四百メートル。ダービーやオークス、ジャパンカップと同じコースだ。スタートしてすぐにカーブが始まるコースであり、位置取り争いは内目の枠の方が有利とされている。実際、大外の十五番からスタートした私が加わるより前に、内ラチの側では熾烈な駆け引きが展開されている。ここへ後から加わる余地はない。けれど、私はそれでよしとした。

 最初のコーナーへかかる頃には、すでにある程度の隊列が形成されつつあった。大外になったおかげというべきか、駆け引きの様子や各ウマ娘の位置取りはよく見ることができた。大方の予想通りにハナを獲ったのは、内枠を引き当てた逃げウマ娘。ゲート裏で真っ先に私へ声をかけてくれた子だ。抜群に良いスタートダッシュを決めた彼女は、そのままスーッと前へ出て楽に先頭へ位置取った。二番手とはすでに二バ身ほどの差をつけている。そしてその二番手の後ろに先行集団が形成されていた。バ場の重さもあり、昨日今日と後ろからのレースは全く決まっていない。前目につけて抜け出すのが勝ち筋だと判断したウマ娘がほとんどだ。後ろを選んだのは、位置取り争いを経て結果的に後ろになったか、元々後ろからのレースしかできないかのどちらかだ。

 先行集団の真ん中あたりに、チラリと煌めく青鹿毛が見えた。良い枠からスタートを切った後輩は、集団の中央付近やや外側に走る位置を見つけたらしい。しかもピタリと、一番人気のウマ娘をマークしている。彼女がちょうど蓋のような役割となり、一番人気のウマ娘は身動きが取れなくなっている。一方で、彼女自身はいつでも動きやすい位置だ。前も横も空間が開いている。上手いやり方だ。

 私はというと、先行する集団からは距離を取り、隊列後方に位置を定めた。チラリと窺ったところ、私の後ろには一人しかウマ娘はいない。位置取り争いには完全に出遅れて、加わることすらできなかった形だ。けど、これでいい。枠順が発表された時点で、こういうレース運びをすることは、比良坂トレーナーとも決めていた。復帰を決めた頃から、彼と相談して模索していたことでもある。

 元々、私は集団の中団から前目につけて、最終コーナーあたりから抜け出す先行のレースを得意としていた。所謂「王道」と呼ばれる走り方だ。逃げたウマ娘にはぴたりとつけてじりじりとスタミナを削り、控えたウマ娘には先に抜け出すことで追いつかせない。レース展開を握りやすい位置を取ることで、自分の得意とする展開に持ち込み、勝ってきた。

 けれど、復帰してトレーニングを再開してからは、この走り方では勝てなかった。理由は明白で、逃げウマ娘をすり潰せるほどにプレッシャーをかけ続けることも、差し・追込ウマ娘を寄せ付けないだけの脚を残しておくこともできなくなっていたからだ。スタミナがなくなっていたとも言えるけれど、彼も比良坂トレーナーも原因はもっと総合的なもの――心臓の強さや筋力の衰えだと考えていた。スタミナを改善したところでどうにかなる問題ではない。それが私たちの結論になった。

 様々試行錯誤を重ねた結果辿り着いた方法、それが脚質転換だった。今までの前目につけてレース展開を握る先行の走りを捨て、最後の末脚勝負に全てを賭ける追込の走りに変える。可能な限り体力を温存することで、最後の最後での全力発揮を可能にしようという目論見だった。

 後方から運ぶ走り方というのも、レースにおいては「王道」と言えた。レース展開はコントロールできないために多少の運要素はあるけど、常に周囲の動きへ気を配る必要のある先行と違って自身の走りに集中できる。ただ、言うは易く行うは難しだ。先行するレースが身に染み込んでいた私にとって、後方からのレースは馴染みがない。ペース配分、コース取り、スパートの勘どころ、全てを一から身に着ける必要があった。何度も繰り返し練習し、レース映像も参考にして、模擬レースで試したりもしてみた。けれど、最後までものにできたとは言い難い。ただ少なくともこのレース運びであれば、ラスト三ハロンだけはこれまでとほぼ同じくらいの脚を使うことができた。

 そして今日、私はそのただ一点のみを信じて走っている。

 額を汗が伝う。カーブを走っていると、視界の端に先頭のウマ娘が見える。感覚として今どれくらいの距離があるのかもわかる。今まで私が経験してきたレースでは考えられない位置取り。スタート直後の今の時点でこれだけの差があるのか、そう思うとどうしても気が逸る。届かないのではないか、呼吸の合間に何度もそんな考えが過り、無意識のうちに私を前に出そうとする。でもそこで、気持ちの逸るままに脚を進めては意味がない。ただじっと堪えて、呼吸を落ち着かせる。一瞬の息の乱れですら体力を奪う。一瞬力がこもるだけで体力を奪う。その一瞬の油断が最後の最後に勝敗を分けるカギになることだってある。それだけは身をもって理解していた。

 かつての自分の経験則を可能な限り封印する。どちらにしろ、今はまだレースが始まったばかり、第二コーナーへかかろうとするところだ。今から焦っていては身がもたない。自身の走りやすいペースを維持することに集中する。呼吸も鼓動も脚の動きも乱さず、ただし前だけはよく観察していた。前を行くウマ娘の動きは、コース選択の良い判断材料になる。

 その、前を行く各ウマ娘はというと、予想通りに内の荒れたバ場を避けている節があった。一番顕著なのが先頭を行く逃げウマ娘で、第一コーナーに差し掛かる頃こそ内ラチ沿いに行く素振りを見せたけれど、今はかなり間隔を取って外を回っている。リードを作っておきたい心理からすると内を走りたいのだろが、脚を取られては元も子もないという判断だろう。探り探り内に入ろうとする様子はあるけれど、随分大きくぽっかりと空間が開いていた。

 ただ、もちろん出走するウマ娘の中には、そうした荒れて力のいるバ場をこそ得意とする者もいる。その中で私が特別目をつけていたのが、最内一番に収まっていたウマ娘だ。過去の実績からすると私と同じかそれ以上に力のいるバ場を得意とするタイプで、田んぼのような不良バ場もあれた内ラチ沿いも何のその、という走りをしていた。枠順的にも、最も内ラチに近い位置でのコース取りをすることになるだろう彼女が、私のコース選択においては一番わかりやすい指標になるはずだ。

 各ウマ娘が外へ外へと回る一方で、一番のウマ娘は内ラチから体一つ分ほど離した位置を選んでいた。内ラチ沿いがトンネルのようにぽっかりと空いている中で、彼女の姿だけがはっきり見える。彼女が走る位置を確認した私は、もう体半分ほど内ラチから離した。内ラチからの距離は体一つと半分。この位置でなら脚を取られずに走れる。距離のロスも最小限で済む。

 私が第二コーナーを回る中、先頭集団はコーナーの終わりに差し掛かり、向こう正面の直線に入っていった。体を内ラチに寄せたことで、ぽっかり空いた空間から前の様子も見ることができた。各ウマ娘はやはりここでも荒れた内のバ場を避けている。恐らくレース後半も同じようにコースを選ぶウマ娘が多いだろう。そうなると、最終コーナーの終わりで大きく外へ膨らむ可能性が高い。バ場の状態は外の方がいいかもしれないけれど、距離のロスは大きくなる。であれば早めに位置を上げて距離ロス少なく前へ抜け出してしまいたいのが先行集団外目のウマ娘たちだろう。しかし力のいる重いバ場で早めの仕掛けをしてしまうと、最終直線で伸びを欠く可能性が大きい。早めの仕掛けというのは、余程力のいるバ場に自信があるウマ娘でなければ取りにくい選択肢だ。そして……この条件を満たすウマ娘は、他ならぬ後輩一人だ。最終コーナーから抜け出していくとしたら、彼女以外には考えられなかった。

 内ラチ沿いの空間から、見える範囲で先頭集団の様子を窺う。隊列に大きな乱れはない。前後の位置取りに変化は見られなかった。向こう正面に入り、まもなくレースも折り返し地点だ。最後の叩き合いのためにも、少しずつ位置取りを気にし始める頃だ。実際、前の辺りでは自分に有利な位置を探す競り合いが始まっている気配がした。しかしあまりうまくいっていないところを見ると、集団外側を回っているウマ娘たちはいまだ厳しくマークを続けているらしい。こうなると動きやすいのはやはり外側のウマ娘だ。バ場状態のいいところを選んで好きなように走っていける。内を走るウマ娘は外か前のどちらかが開くのを待つしかなく、仕掛けはワンテンポ遅れる。その点、単独で後方を走る私は、仕掛けのタイミングを邪魔されることはない。ただその代わり、大きく外を回ってバ群をかわすか、わずかな隙間へ糸を通すように集団を捌くか、選ばなければならない。経験とセンス、そして多少の運が問われることになる。

 千メートル通過のハロン棒を追い越したのは、体内時計で六十秒よりコンマ数秒早く、先頭から遅れてコンマ八秒ほど。先頭のウマ娘はミドルペースよりやや速いペースを作った。ハイペースとはいかないが、バ場状態を考えれば十分に速い。後方からの追い込みは決まらないと見て、先行勢との我慢比べ――どこまで粘れるか勝負を選んだ形だろう。先頭集団のウマ娘たちも差は詰めていきたいだろうが、早めに動き過ぎて共倒れになっては元も子もない、というのが本音だろう。それ故に誰も動かない。動けない。

 ジトリ。額を汗が伝う。気持ちが逸る。ああして、全ての考えを割り切り、覚悟を決めて逃げるウマ娘は強い。早く捉えて潰してしまわないと危ない、そう言って経験則が警鐘を鳴らす。頭をよぎるのはかつて競い合ったライバルのこと。最後の最後の最後まで絶対に粘り切る、見上げた根性を持ったウマ娘は、いつも私の前で汗の輝く葦毛をなびかせていた。その粘りには感心すると共に、何度か悔しい思いもさせられてきた。

 踏み込んだ足に力が入りそうになる。無意識のうちに位置を上げようとする自分へ言い聞かせるように、私はそれまでと同じ呼吸のリズムを繰り返した。ほんの一瞬だけ目を閉じる。髪を容赦なく撫でつける風の音を聞く。鼻先を掠めていく春と芝の薫りを嗅ぐ。コースの向こうへ続く果てしなく蒼い空を見る。そうすると、世界にはまるで、淡々と同じリズムで脚を踏み出し、走り続ける自分だけになったような錯覚をした。ターフビジョンを挟んで観客席から離れたからだろうか、ここへは歓声も届かない。ただ芝のコースを踏み締める感触と、私を包む春の陽射し、そして自身の鼓動と呼吸の音を心の内へ刻む。……ああ、そういえばこれがレースの感覚だった。今更ながらにそんなことを思って、図らずも唇の端から笑みが漏れた。

 束の間心を落ち着けて、自分の走りへの集中力を取り戻す。位置取りもコース選択もこのままだ。二人のトレーナーと考えた戦法と、力のいるバ場を得意とする自身の能力、そしてこれまでの数多のライバルとのレースが培ってくれた経験と状況判断、レースの勘を信じる。今の私が優秀な後輩たちと競える、それが全てだった。少なくともその全てを、後悔など微塵も残さないほどに、全力でぶつけていくしかない。

 長いバックストレッチを走り切り、ウマ娘たちの隊列はいよいよ第三コーナーへ差し掛かった。東京レース場名物の大ケヤキが視界に映る。私たちがその大きな影に入る数秒の間、スタンドからは私たちの姿が見えなくなる。そしてこの数秒の間に、レースが大きく動くことは珍しくない。

 ぐらり。先頭集団がまるで一つの生き物みたいに大きく動いたのが、私の位置からだとよくわかった。誰か一人が、という訳ではない。動く素振りを見せた誰か一人に釣られるようにして、集団全体が動いた。どこか整然としていた隊列が乱れる。意を決して外に持ち出す者、前に活路を見出す者、じりじりと位置を上げつつもまだ機を窺う者、様々いることだろう。しかし第三コーナーから第四コーナーへと入っていくこの位置が、このレースの天王山だと多くのウマ娘が判断した訳だ。そしてその判断は、往々にして正しい。

 コーナーを走ることで、再び前の様子が見やすくなる。先頭の逃げウマ娘と二番手の差はすでに一バ身。さらに固まっていた先頭集団が横に広がり始めている。そしてその中に、外から悠然と理想的な針路を取り上がっていく後輩の姿が見えた。やはり集団が広がりきる前に、前へ仕掛け始めた形だ。

 レースはすでに後半戦。決着の時が刻一刻と迫る。汗の伝う肌がピリリと痺れた。内ラチ沿いの、脚を取られるギリギリの位置を曲がりながら、私もその時を待った。視線は先頭のウマ娘と、そしてその先のゴール板にのみ向ける。激動の第四コーナーはもう間もなく終わりを迎えようとしていた。

 先頭のウマ娘が、内ラチから体三つほど離して最終コーナーを走り切り、最後の直線に入った。ぐっと体が沈み込み、彼女はこれまでにも増して気合いの入った走りを披露する。歯を食いしばる音がこちらまで聞こえそうな気がした。最後まで絶対に残して見せる、その気迫がひしひしと後方まで伝わってくる。

 けれど、勝利にかける想いは、この場に集った誰もが同じだ。

 各々の針路を取りつつ横へ広がり、先行集団も逃げるウマ娘へ食らいつく。内ラチ沿いを選んだ者もいたけれど、ほとんどは外目外目へと持ち出した。そして長い脚が使える者は、すでにラストスパートを掛けて上がっていく。さらに私の後方でも、ずっと控えていたウマ娘がエンジンをかける気配がした。内ラチ近くに針路を取った私をかわそうとしている。

 ……まだだ。まだ、控える。勝負は最後の直線に入ってからだ。そう念じて、仕掛けたい気持ちを抑える。東京レース場の直線は自分で思っている以上に長い。脚が足りなくなることはままある。だから「ここしかない」という瞬間をじっと待つ。私にとってそれは、コーナーを曲がり切り、前方に広がった先行集団を捉えた時だ。

 内ラチ沿いだった針路をやや外へと持ち出す。横目で窺いながら、後ろのウマ娘の進路を妨害しない程度に、自身へ有利な位置を探す。この長い直線でいい脚を使いたければ、さすがに内ラチ沿いは選べない。外を回して一気に前へ出る。

 横に広がった先行集団を見遣る。集団は広がっているが、当初想定したような横一線と言うほどまでにはなっていない。先頭集団後方に位置取っていたウマ娘は、無理に外を回すのではなく前が開くのを待つことにしたようだ。よって集団の外の方にはぽっかりと空間が空いている。抜けるとしたらあそこだ。そしてその一点に狙いを定めた時、ついに私も最終直線に入った。

 頃合いは良い。「返し」の時に踏み締めた感触から、この位置のバ場状態も悪くないことがわかっている。むしろ私にとっては理想的なくらいだ。

 いける。やるなら今だ。私は一つ大きく息を吸い、奥歯を噛み締めた。

 ここから仕掛ける。ここから、まとめて抜き去り、勝ちに行く。

 私だって、勝ちたいのだ。

 それまで以上に強く踏み込む。加速の時間は一瞬。いかに少ない歩数で早くトップスピードへ乗れるか、それが切れ味勝負だ。奥歯が鳴るほどに噛み締めると、前を見据える視界が一瞬歪む。力の限りでターフを踏み締め、私は仕掛けた。

 

「――え」

 

 ……けれど、スパートがかからなかった。一瞬で違和感に気づく。仕掛けようとしたその瞬間、踏み込む脚に力が入らなかった。いつもならあたかも飛び上がるように加速する体が、今日はまったく前に行かない。相も変わらず、私は後方から二人目の位置で走っている。前の集団と差が縮まる様子はない。

 

「なんで……どうして……っ!」

 

 再度スパートをかけようとしながら原因を探る。スタミナを残せていなかったか。バ場が想定以上に悪く脚を取られたか。あるいは何か脚におかしいところがあるか。けれどそのどれも違う。体におかしなところはない。脚は十分に残っている。過去例のないくらいに好調だ。それなのに……もう一度試しても、私はスパートが切れなかった。

 額を伝った一筋の汗が鼻筋に沿って流れる。食い縛った歯から漏れる苦しい呻きは春の風に攫われた。酸素が薄くなっているのか、見据えた前の景色が薄く霞んでいく。ただ力の入らない足元の感触だけが妙に鮮明だった。

 動け、動け、動け。心の中で何度も念じた。言うことを聞かない体に何度も鞭を打つ。奥歯が軋むほどに食い縛り、渾身の力を発揮しようとする。けれど何をしてもダメだった。私の脚は全く動かない。前に進むことを拒んでいるかのようだった。

 滲んだ視界の向こうに、駆けていく先頭集団の背中が見える。一人抜け出したのはやはり後輩だろうか。青鹿毛をなびかせる背中が、絶望的に遠く思えた。

 ……ああ、ダメだ。唐突に理解した。私はきっと走れない。

 

「……ごめん。ごめんね……キングちゃん」

 

 焼けた肺を悔しさと惨めさと情けなさが覆っていく。根性と意地と矜持で支えてきた心が今にも折れそうだ。

 ……わかっていた。最初から勝つことが難しいなんて、わかっていた。周りの誰もが無謀だと言った。私自身もその困難さを理解しているつもりだった。……それでも走りたかった。死に物狂いで足掻いた。突きつけられる常識と現実に抗い続けた。でもそんなのは……幼子が駄々を捏ねるのと変わらなかったのかもしれない。今更変えようのない現実を、受け入れられないと地団駄を踏んでいただけに過ぎないのかもしれない。

 ……勝ちたかった。かっこいいお母さまでいたかった。キングちゃんが誇れるお母さまでいたかった。何もかもを中途半端で投げ出して、逃げ出して、そんなのちっとも一流じゃないと思った。キングちゃんの前で胸を張れる、一流のお母さまになりたかった。キングちゃんが駆けていく未来を――苦しいことも辛いことも、想像がつかないほどにたくさんあるだろうキングちゃんの道行きを、少しでも明るく照らせるようになりたかった。

 勝ちたいと思った。心の底から強く強く、勝ちたいと思った。競技ウマ娘として走って来て、こんなにも強くただ一つの勝利を望んだことは初めてだった。誰かに望まれたわけではなく、いつしか背負った義務のためではなく、ただ純粋に勝ちたいと思えた。産まれて初めて、私は真に自分の走る意味を見出せた。

 勝ちたい。

 勝ちたい。

 勝ちたい。

 ……でも、それは叶わない。

 

 

「――おかあさまっ!」

 

 

 

 俯き、首を下げかけたその時、聞こえたキングちゃんの声にハッとした。滲んだ視界の中、観客席を見遣る。けれど人だかりの中に、キングちゃんの姿は見つけられなかった。当然だ。だってキングちゃんは、ゴール板のすぐそばのスタンドにいるのだから。レース場を覆いつくす大歓声の中、まだ三つにもならない幼子の声など聞こえようはずもない。まだ四百メートルは距離のある場所からの声など聞こえようはずもない。

 でも、確かに聞こえたのだ。鳴り止まぬ拍手の中、響きわたる大歓声の中、駆け抜けていく風の轟の中、私は確かにその声を聞いた。……聞き間違えるはずなんてないじゃない。私の宝物。私の世界一大切な娘。私の愛しいキングちゃん。いつも眩い笑顔で私を呼ぶいとし子の声を、聞き間違えることなどありえない。

 呼んでいる。キングちゃんが私を呼んでいる。ただそれだけで十分だ。

 その声に応えないなんて……母親失格よね。

 

「――今、行くわ」

 

 呟き、今一度一つ息を吸った。燃え滾る肺を冷たい空気で強制的に冷やす。見据えるは前のみ。軋むほどに奥歯を食い縛り、力の反動に備える。そして――力の限りに、ターフを踏み抜いた。

 瞬間、私の体は春風を纏い、一筋の稲妻となった。

 一歩、二歩、踏みしめる度に体が加速していくのを感じた。視界の端で流れる景色の速さがみるみるうちに変わっていく。やがて私の動体視力をもってしても、観客席を追うことはできなくなった。けれど問題はない。元より、私が見つめているのは前を行くウマ娘の集団と、その先にあるゴール板のみだ。

 視界の端を残り四百メートルのハロン棒が通過した。私の体はまだ加速を終えていない。けれどこの時点で、先頭集団と差が縮まり始めたのがわかった。特に、荒れたバ場に脚を取られている数名とはぐんぐん差が縮まる。バ場適性の有利が働いた形だ。けれど一人、重いバ場にも対応している後輩だけは、今なお前へ前へと走り続ける。勝ちたいのなら、彼女をかわさなければならない。

 残り二百メートルのハロン棒を視界に捉えたところで、ようやく先頭集団の最後尾に取りついた。重バ場に苦しむ四人を外からまとめて捉えてかわす。不利とわかっていながらそれでもなお果敢に重バ場に立ち向かうウマ娘たちを横目に前へ出る。先頭集団はまだ続く。その一番先頭に青鹿毛のウマ娘が走っていた。

 一人、また一人、大外からウマ娘たちをかわしていく。今、自分が一体どのあたりにいるのか、それはわからない。ただ前だけを見つめていると、私の前にはまだ何人かのウマ娘がいて、その全てをかわさないと一着になれないことだけはわかっていた。だから力の限り走る。走り粘るウマ娘に何とか食らいつき、追い縋る裂帛を渾身の末脚で振り切る。そうしてひたすらに前へ、前へと進む。途切れ途切れの思考の中でぼんやりと思い出したのは、尊敬する先輩のこと。私も、私のライバルも、鮮やかな大外一気の末脚で撫で切ってみせた、偉大なる「ミス・パーフェクト」のこと。いつも余裕のある笑みを見せていたけれど、もしかしたら彼女もこんな気持ちで必死に追っていたのかもしれない。

 残り二百メートルのハロン棒が目にもとまらぬ速さで視界の端を走り抜けた。序盤から先頭に立ってレースをけん引し、最後の最後まで粘りに粘って根性で走り続けていた逃げウマ娘をついにかわす。背中から「クソーッ!」と悔しさの滲む雄叫びが聞こえた。しかしそれも、後ろへと流れていく春の風と共に置き去りにする。残るはあと一人。最も理想的なレース運びをして、水分が多い荒れたバ場も得意とする、青鹿毛の美しい後輩だけになった。その背中までは最早一バ身差もない。

 焼ける肺に無理矢理空気を送り込んで、一層強く踏み込み、その背中に追い縋る。走れば走るだけ筋肉に乳酸が溜まって脚が重くなる。それでもなお懸命に手を振り、脚を前へ前へと踏み出す。走れ。走れ。走れ。心の中で何度も何度も自分を激励する。その度にこの体が前へ出る。後輩との差を少しずつ縮めていく。

 前を行く後輩も追い上げる私に気づいたのだろう。チラリと目線だけ寄越した横顔がわずかに驚いた様子を見せた。けれどそれもほんの一瞬だ。彼女は前を見てすぐに私へ併せてきた。半バ身……いいえ、クビ差まで縮まり、今しも抜きされそうだった私たちの距離がそこでぴたりと止まる。前にいるのは後輩の方だ。綺麗な青鹿毛を構うことなく振り乱し、一心不乱に駆ける。食い縛る奥歯の音も、風になびく髪のはためく音も、零れ漏れる小刻みな呼吸の音も……もしかしたら、早鐘のように打ち付ける心臓の音も。体が触れるほどに近くで併走していれば聞こえてきた。それと同時にひしひしと伝わってくる。勝ちたい。あまりに純粋な、ウマ娘の本能とでも言うべき秘めた闘志が、私の肌をピリピリと刺した。

 ああ、この瞬間が永遠に続けばいいのに。そんなことをふと思った。叶わない夢だとわかっていた。だからほんの一瞬の気の迷いだ。

 勝ちたい。ここにいる誰もがそう思っている。そんなこと、今更言われるまでもなく、わざわざ確認するまでもなく、皆がわかっている。きっと、そこに優劣なんてない。どの想いも等しく大きく強く輝かしいものだ。多くの夢と期待をかけて走っている。絶対的な差などどこにもありはしない。

 ……でも。

 ……だけど。

 ……それでも。

 それでも、今この瞬間は胸を張って断言できる。一度は捨てたはずの錆びついた一流を掲げて、抜けるような青空へ大声で叫ぶことができる。――ここにいる誰よりも「勝ちたい」と思っているのは。ここに集った誰よりも勝ちたい思いが強いのは。ここで走る誰よりも大きな勝ちたい想いを抱えているのは。他の誰でもない。今ここで前を見て、痛い心臓と熱い肺を振り絞り、磨いて信じた両の脚で駆けているこの私が、誰よりも強く勝ちたいと思っている。

――勝ちたい。もっと前へ。疲労の余りに気を抜けば下げてしまいそうな首を上げ、意地と根性とプライドで前を睨み続ける。

――勝ちたい。もっと強く。あの人と二人過ごした日々の中で鍛え上げた私の脚を、誓いと約束と思い出の全てで強く踏み込む。

――勝ちたい。もっと速く。吹きつける風を追い越し、走り抜ける稲妻と競り合い、想いと願いと祈りを速さに変えて駆けていく。

 勝ちたい。

 勝ちたい。

 勝ちたい。 

 

 

 

――勝つんだ。

 

 

 

 春風がそっと私の背中を押した。

 

 

 踏み込んだ一歩で前に出る。踏み込んだ一歩でゴールへ近づく。踏み込んだ一歩で大地を蹴り、踏み込んだ一歩で芝を巻き上げた。

 後輩が驚きで目を見張る。クビ差がアタマ差へ変わり、ハナ差もなくなって――そして私は、彼女の前に出た。

 追い抜いたその瞬間、汗水垂らして鬼気迫る表情の後輩が、笑ったように見えた。まるでこの瞬間が楽しくて仕方がないように。レースが楽しくて堪らないように。走ることが幸せの全てであるように。そんな風に笑って見えた。

 そして……私も同じように頬を緩めていた。ああ、そうだった。それは長らく忘れていた、けれど確かに心の奥底へ眠り続けた、懐かしい感覚だった。

 勢いそのままに走り続ける。稲妻となってコースを駆け抜け、蹴飛ばした芝を舞い上げて、置き去りにした風に髪も服も尻尾も汗もなびかせた。後輩が追い縋ってくる気配はあったけれど、私は抜かせなかった。自分でも信じられないほどのスピードで残りの百メートル弱を走り切り――そして、ゴール板までも駆け抜けた。

 追いつく者は何もなかった。私は一着でゴールしたのだ。

 勝った。その実感よりも先にどっと疲労感が押し寄せる。減速していくにつれて息が切れ、思い出したように体が重くなる。脚なんて、今更になって震え出した。今しも力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、寸でのところで堪える。なんとか体勢を保ったまま、私はようやくの思いで脚を止めて、一つ息をした。

 次の瞬間、大地が震えるほどの大歓声が東京レース場に響き渡った。荒い呼吸を繰り返し、私はスタンドを振り返る。誰がどうのこうの、というのはもうそこにはなかった。ただ居合わせた全ての人たちが叫び、両の手を叩き、祝福を送っていた。あまりに色んな声が入り乱れるものだから、その一つ一つを聞き取ることは難しい。でも、私の名前を呼ぶ人がいることはわかった。「おめでとう」、心の底からの祝福が私に贈られているのがわかった。

 ……勝った。勝ったのだ。ようやくその実感が追いついて来て、私の身を焦がす。胸の内から込み上げてくるものがあった。

 会いたい。ただ強くそう思った。今すぐに会いたい。息を整えることも忘れて、私はその衝動に従った。万雷の喝采に包まれ熱狂するスタンドの中に、私はたった一人の姿を探していた。そしてあの子を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。

 スタンドの最前列、外ラチから一番近いところへ眩い笑顔を見つけた途端、私は自分でも信じられないくらい自然に、ありのままに、頬を緩めて大きく手を振ってしまった。胸の内から溢れ出るものそのままに笑ってしまう。自分でもどうしようもなかった。随分長く感じられた競技ウマ娘生活の中で、こんなことは初めてだった。

 轟く歓声はなお止む気配はない。勝者を祝福する声、敗者を激励する声、全てのウマ娘を称える声。割れんばかりに拍手が響く。けれどそのどれも、私の耳には入っていなかった。いつものように、勝者の義務として観客の声援に応えることもなく、自らの存在をアピールすることもなく、私はただ脇目も振らずただ一人のもとへ駆け寄った。レース直後の疲労などどこかへ忘れ去って、真っ直ぐに外ラチの方へと駆けていく。広い東京レース場の、何万人と集まった観客の中でただ一人、今は愛しいあの子の声だけが聞きたかった。

 何よりもまず、私の愛してやまないその名前を呼びたかった。

 

「――キングちゃんっ」

 

 彼女の名前を――愛しい我が子の名前を呼ぶと、たったそれだけで世界が鮮やかに彩られた気がした。それはまるで、春に花が咲き誇るように。夏に太陽が輝き照らすように。秋に山と木々が色づくように。冬に大地が白銀を纏うように。私の世界は、想像もつかないほどに豊かな色彩で溢れていった。そうして、鮮やかな景色のその只中に、キングちゃんは大輪の笑顔を咲かせていた。

 駆け寄った勢いそのままに外ラチを潜り、観客席の前に立つ。キングちゃんは目と鼻の先で笑っていた。そんな彼女を見ていると、私は一層相好を崩してしまう。一方で、キングちゃんを抱きかかえるメイド長は、どこか驚いた表情をしていた。無理もない。私自身、レース後にこんなにはしゃいで好き勝手していることに、驚いているくらいだ。でも今は、私の思うまま、心のままに体が動いている。

 

「おかあさまっ!」

 

 メイド長の腕の中でキングちゃんは今しも飛び跳ねそうな勢いだ。無邪気な笑顔が小さな両の手を懸命に私の方へと伸ばす。私はそれに益々破顔して、同じように手を伸ばし、キングちゃんの小さな手を握った。なお私によじ登ろうとするキングちゃんをメイド長から受け取って、胸の内に抱き締める。私を見上げるキングちゃんは興奮で頬を赤らめ、小さなお鼻をふんふんと鳴らして、愛らしい耳をパタパタと揺らしていた。それがあまりにも可愛らしくて、私とメイド長は二人して笑ってしまう。

 

「おめでとうございます、奥様」

 

 改まった口調で、メイド長は姿勢を正し、恭しく頭を下げた。けれど私とキングちゃんを見つめる表情が、いつも以上に穏やかな笑みを見せる。なんだか少し照れくさくて、でも嬉しい気持ちは隠せなくて、私は頬を熱くしながら「ありがとう」と答えた。キングちゃんの髪を梳く指先がくすぐったくて仕方がなかった。

 

「おかあさまっ!」

 

 胸の内でなおもキングちゃんは興奮気味に私の名前を呼んだ。小さな手で勝負服を握り締め、ぐいぐいと引っ張って身を乗り出そうとするキングちゃんの体を、私と目線の高さが合うようにもう一度抱き上げる。キングちゃんは、その大きくてまあるい栗色の瞳を、まるで宝石みたいにキラキラと輝かせて、私を見つめていた。ターフに吹く微かな風が揺らすふわふわの鹿毛の間に、きっとこれ以上に綺麗なものなんてあり得ないほどの笑みを零す。あんまり鮮やかで、眩しくて、輝かしくて、私は思わず目を細めた。純真無垢な双眸の真ん中に私の姿が映っている。いとし子を抱く幸せに満ちた私の表情が、幾千幾万の煌めきの中にあった。

 

「おかあさま、すごいですっ!」

 

 真っ白な歯をニカッと覗かせて、キングちゃんはそう言った。まだ拙い言葉で、憶えたばかりの言葉で、知っている限りの言葉で、彼女の中にある興奮を伝えてくれた。勢い良く息を吐くたびに、小さなお鼻がお餅みたいに膨らんだ。愛らしい唇を開くたびに、マシュマロみたいな柔らかさの頬が朱に染まった。満面の笑顔を見せるたびに、数多の宝石にも勝って瞳が輝いた。まだまだ幼い体の、その内にあるものをすべてを私へ伝えようとするように、キングちゃんはいくつも叫んで、そして笑った。その言葉と笑顔の一つ一つに頷くたび、私はこれまでの人生で一番の幸福を噛み締めた。今こうしてキングちゃんを抱き締め、その笑顔を見つめて言葉を交わす瞬間が、何よりも嬉しかった。私のこの体のどこかに、これほどの喜びがあったのだと、初めて知った。

 今日というこの日のたった一つの勝利を、これほどまでに嬉しく思えたことなどなかった。

 そしてそれが、キングちゃんのおかげだと知っている。

 あなたのために勝ちたいと思った。あなたのお母さまになるために勝ちたいと思った。あなたの未来のために勝ちたいと思った。他の誰でもない、これは私とあなたの勝利。……いいえ、あなたの勝利。だから私は、こんなにも嬉しく思える。勝ちたい、初めて自分からそう思えたから、私は今こんなにも嬉しいのだ。

 

「キングちゃん。――この勝利はあなたのものよ、キングちゃん」

 

 胸の内へ抱き締めるキングちゃんに語りかける。キングちゃんは不思議な顔をするばかりだった。私の言葉は難しくて、多分まだ全てはキングちゃんに伝わらない。でもそれでいい。いつか私の言葉の意味が――この勝利の意味が、あなたに伝わる日が来るのなら、私はそれで十分だ。

 キングちゃん。私のキングちゃん。私の愛しいキングヘイロー。これはあなたに捧げる勝利。あなたへの感謝。あなたへの願い。あなたへの祈り。

 私のもとへ産まれてきてくれたキングちゃんに。私に歓喜と幸福の全てを授けてくれたキングちゃんに。私の愛しいキングちゃんに捧げる勝利。 

 

 

 

「――愛しているわ。今までも、これからも……ずっとずうっと、愛しているわ」

 

 

 

 あなたが二本の脚で歩いて行く道が、どうか輝かしく素晴らしいものでありますように。

 どれほどの困難が待ち受けようとも、それすらも乗り越える眩いものでありますように。

 

 

 両の腕でしっかりとキングちゃんを抱き締める。擦り付けられた頬と、髪を撫でる小さな耳が、無性にくすぐったくて堪らなかった。

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