それぞれのエピローグ、そして――
視界の端にエメラルド・グリーンの閃光が走った。
理想的なレース展開、得意なバ場、そして想定した中で一番いいコース取り。これ以上ないほどのレース運びをして、渾身の脚を使って集団から抜け出した時点で、私の勝ちはほとんど決まっていた。気を緩めたつもりはなかったけれど、このまま走れば勝てると確信していた。
だからこそ、残り二百メートルのハロン棒を過ぎた時、視界の端に見えるはずのないものが見えて、私は大いに驚いた。
届くはずのない場所から伸びてきたその豪脚は、まさしく閃光という表現が相応しい。風と競い合うように後方から迫る影を見た瞬間、私はそれが誰なのかを瞬時に理解した。高貴なるエメラルド・グリーンの勝負服を着ているウマ娘など、今日のレースには一人しかいなかった。
先輩だ。先輩が来た。今日はこれまでと違う後方からのレースをしていた先輩が、全てを撫で切らんばかりの勢いで猛然と上がって来ていた。
……来るわけない、そう思っていた。冷静に考えれば誰でもわかることだった。だから理性的な私が、先輩の走りを全否定していた。けれどどこかで、先輩なら必ず来ると思っていた。先輩が伸びてくることを望んでいた。それはとても理屈からは程遠い、感情的な理由からだ。結局のところ、私は先輩のファンだった。今だって、どうしたってその姿に憧れることを止められなかった。
先輩が来る。先頭に立つ私と競り合うために。私を追い越し、数年ぶりの勝利を手にするために。端正な表情に玉の汗を浮かべて、力一杯に奥歯を噛み締めて、勝ちたいというウマ娘の本能とでもいうべき感情を隠しもせずに、駆けてくる。
勝負です。そう心の中で宣言すると同時に、私は残る力を振り絞って前に出た。先輩には絶対に抜かせない。何が何でも勝ちたい。そう思って、力の限りに走った。
憧れの背中を追い駆けた。憧れの背中に追いつきたかった。いつか、あの日憧れた綺麗な鹿毛のウマ娘と、同じ舞台で走りたかった。
そして今、あの日描いた夢が、ここで叶っている。
並びかけ、追い抜こうとした先輩にくらいつき、前に行かせまいと力の限り走る。けれど先輩を振り解くことはできない。まるで併走でもしているみたいに、私と先輩はぴたりと寄り添って走っていた。
――ああ、今この瞬間が、永遠に続いたらいいのに。そんなことをふと思った。そしてふと思ったその時、自分が笑っていることに気づいた。それに何よりも驚く。レース中に笑えたことなどいつぶりだろうか。ただただこの瞬間が楽しかった。今こうして走れていることが楽しかった。脚は重くなる一方で、肺も心臓も痛くて苦しくて、汗が目に染みて視界が滲んで――それでも楽しくて仕方がなかった。
……でもわかってる。それは叶わない夢だ。いつかは終わりが来る。そしてその終わりはもう近い。ゴール板は私たちのすぐ目の前だ。
先輩。先輩には悪いですけど、ここで負けるわけにはいきません。先輩に追いつくことが夢でした。先輩と走ることが夢でした。先輩に勝つことが私の夢でした。絶対に譲ったりはしません。今日のレースに勝って夢を叶えるのは私です。
体の内にあるもの全てを振り絞る。最早これ以上のものはどこにも残っていない。勝ちたいという意地と根性だけが私を走らせていた。でも、その意地と根性の強さだけは誰にも――たとえ先輩にだって負けないつもりだ。
その時、グンッと先輩の体が沈み込んだ。ゾワリ、背筋を冷たいものが走る。汗で濡れた肌がピリつく。あり得ないことが起ころうとしている、その予感が私の体を震わせた。
次の瞬間、先輩はさらに加速して速度を上げた。思わず目を見張る。クビ差から半バ身はあった私たちの差がみるみるうちに縮まった。アタマ差、ハナ差、そして並んで――先輩は私の前に出た。
開いた唇が塞がらなかった。何が過去のウマ娘だ。何がもう終わったウマ娘だ。何が勝てるはずのないウマ娘だ。その体のどこに、まだこれだけ走る力が残されていたというのか。
必死に追い縋ろうとしたけれど、私にはもうこれ以上の走りは残されていなかった。先輩との差は縮まらない。それどころか開く一方だ。私が遅くなっている訳ではない、むしろこれまでのベストに近い走りができている。けれど先輩は、それを上回ってみせた。
悔しさが滲む。越えようのない絶望が心に広がる。夢が破れた暗い気持ちが頭の中を覆っていく。
……ああ、でも、それ以上に。悔しさも絶望も……心の内の暗い感情を、全てまとめて吹き飛ばしてしまうほどに。この身に渦巻く全ての感情をさっぱりと洗い流してしまうほどに。
「――綺麗」
鹿毛が揺れている。艶やかな鹿毛がひらりと舞っている。太陽の輝きをその内へ孕み、吹き去る春の風の中ではためく、その鹿毛は見る者を惹きつけて止まなかった。私もその美しさに魅入っていた。
ああ、やっぱり綺麗だな。その輝きは、初めて出会ったあの日から色褪せることなく、私の目の前で優美にはためいた。その背中を全身全霊で追いかけながらも、私の心は初めて恋を知った時のように焦がれている。流麗なフォームのままゴール板を駆け抜けていく先輩に目を奪われ、見惚れていた。結局、私は最後まで先輩には追いつけなかった。
後続の邪魔にならないようコースから外れながら減速し、酸素の薄くなった肺へ思いっきり息を吸いこんだ。途端にそれまで体が意図的に忘れていた疲労が押し寄せる。空を仰ぎ見ながら呼吸を繰り返し、上がり切った息を整えた。雲一つない真っ新な青空が、私たちの頭上には広がっていた。
負けた。端的な事実を改めて嚙み締めた。いつもなら、悔しさと惨めさと情けなさで打ちひしがれるところだった。けれど、今日は少し違う。もちろん悔しさはあって、反省すべき点もいくつかあって、終わったら早速トレーナーと話がしたくて、そんな考えがぐるぐる頭をよぎるけれど。でも私の心持ちは、これまでになく晴れやかで、軽やかだった。忘れていた夢を思い出した、そんな心地がする。そしてこんな風にレースを終えられたのは、他でもない先輩のおかげだった。
「先輩――」
息を整えながら今日の勝者の姿を探した。艶やかな鹿毛のウマ娘の姿はすぐに見つけることができる。大きく肩で息をする先輩に声をかけようとしたその瞬間、先輩はその場から駆け出した。呆気に取られる私には目もくれない。レース直後とは思えない速さで走り出した先輩の向かう先は、大歓声を上げるスタンドだった。ふと見遣ったその最前列に、若い女性に抱えられた、小さな女の子の姿が見える。先輩の娘さんだとすぐに気づいた。先輩と同じ、艶やかな鹿毛をふわふわと揺らしていたからだ。
歓声には見向きもせず、いっそ聞こえてすらいないように、先輩は娘さんのもとへ駆け寄って、そして抱き上げる。覗いた横顔がとびきり眩しい笑顔を浮かべていて、そして同じか負けないくらい、娘さんの方も無邪気にキラキラと笑っていた。
ふっと息を吐く。肩から重いものが降ろせたような、そんな安堵の息。
辛いことも、苦しいことも、悲しいこともあったのは事実だろう。でもターフに立つ先輩は、いつだって眩しいくらいに笑っていた。見つめるこちらの心に焼き付いて離れてくれない、ただただ真っ直ぐで見惚れてしまう笑顔。あの笑顔はきっと偽物でも作り物でもなかった、先輩の心からの笑顔だったのだと、今確信できた。
それだけで、私はもう十分だ。
「先輩――」
ゆっくりと歩み寄り、抱えた娘さんと笑い合う先輩に声をかける。先輩はひらりと振り返り私を見た。幾筋かの汗が伝い、しっとりした前髪が額に張り付く。けれど晴れやかな表情は何よりも美しくて、見紛うことなく私の憧れた一流ウマ娘のものだった。
「おめでとうございます、先輩」
手を差し出した私に、先輩はやっぱり満面の笑みを見せて、「ありがとう」と握手を返してくれる。そんな先輩に対して、私もまたこれまでになく笑えていた。
今日、私の夢は一つが叶い、一つが破れた。でも、また新しい夢ができた。――いいえ、きっと正確に言えば、ずっと前に破れたと思っていた、でも捨てきれなかった夢を思い出した。
先輩。やっぱり先輩は、私の憧れです。私は、先輩みたいな――
「私は先輩みたいな、一流のウマ娘になります」
随分遠回りをした私の宣言を、柔い春の風がそっと後押ししてくれた。
◇
大熱狂の中を切り裂いて、彼女はターフに吹く一陣の風となった。
最終直線へ入った時点で後ろから二番目にいる彼女を見た時、そしてその脚がなかなか伸びてこないのを目にした時、さすがにダメかと手を握った。けれど私の杞憂をよそに、彼女はぐんぐんと加速して、前のウマ娘たちを次々とかわしていった。風になった、という表現が相応しい。あるいは稲妻のよう、と言うべきか。数年のブランクを感じさせない、鮮やかの一言に尽きる末脚の披露だ。
彼女の艶やかな鹿毛がなびく。身にまとうエメラルド・グリーンの勝負服がはためく。彼女が舞い上げた芝と土は、春の優しい風と共に彼女に置き去りにされた。脇目も振らずに彼女は駆け抜ける。瞳の先にゴールのみを映して。
後方一気のごぼう抜きを見せた彼女は、ついに一人だけ抜け出していたウマ娘を――二番人気の子を捉えにかかる。その背中に追いついた時、観客席は熱狂を当の昔に通り越していた。
「いけーっ!」
「あと少しよーっ!」
「差せ、差し切れっ!」
誰もが叫んだ。中には祈る者もいた。滂沱のごとく泣いている者もいた。誰もが目の前のレースに目を奪われ、それ以外のことなど頭になくなる。かくいう私も息を呑み、視線を釘づけにされていた。彼女と、彼女の後輩のデッドヒートの虜になっていた。
追い抜かれそうになったウマ娘もまた、彼女に並んで加速し抜かせまいと必死に食い下がる。ほとんど並んで走る二人に、スタンドはさらに熱くなった。彼女のことも、彼女の後輩のことも、等しく誰もが応援していた。蹴り上がる芝、舞い散る汗、たなびく鹿毛と青鹿毛、その全てに魅入る。あたかもその一瞬が、永遠の時間のように。全力で腕を振り脚を上げる二人の走りが、どこかスローモーションのようにも見えた。
けれど、ついに終わりはやってくる。ほんの数秒のデッドヒートの後、前に出たのは彼女だった。一歩を踏み出すたびにゴールへ近づく。一歩を踏み出すたびに体が前に行く。一歩を踏み出すたびに後輩との差が広がる。
レース場に響く「かわした! かわした!」の実況の叫びは、さらに大きな歓声に飲み込まれた。人という人、老いも若きも、男も女もウマ娘も、そこに居合わせた人々が諸手を上げて声を張り上げ、拍手を送る。広大なレース場に詰めかける数万人の群衆が、あたかも一つの巨大な生き物になったかのようだった。
言葉など当に失った大声援の中を駆け抜けた彼女は、最終的に一バ身ほどの差をつけて一位で入線した。ゆっくり速度を落としながら息を整える彼女の姿に、隠し切れない疲労の色が見える。一瞬ふらりとする場面もあって肝を冷やした。全力を出し尽くしたことは誰の目にも明らかだった。
前代未聞の偉業を成し遂げて引退レースを勝利で飾った彼女に、観客は手が千切れんばかりに拍手を送った。そこに、レース場へ現れた彼女を迎えた時のような、生温い優しさはない。勝者への祝福。偉業への賛美。何より、復活勝利への歓喜。中には引退への寂寥もあったかもしれない。彼女という「一流ウマ娘」の勝利を、誰もが称え寿いだ。
けれど当の彼女はというと、大喝采に応えることはなかった。眩い笑顔で手を振ったのは観客席のファンたちへ向けてではなく、彼女の視線の先にいる一人のためだった。彼女は脇目も振らず一目散に視線の先へ駆け出す。肩で息をしていた姿はどこへやら、という変わり身の早さだった。
彼女の向かう先に誰がいるのか、何となく想像はできていた。
外ラチを潜った彼女が、出迎えた娘さん――キングちゃんを抱きかかえる様子が、ターフビジョンに大きく映し出される。大輪の笑顔を見せるキングちゃんに応える彼女は、これまで目にしたことがないくらい、明るく眩しい笑みを浮かべていた。何かしら言葉を交わしてキングちゃんを抱き締める様子に、観客席からも大きな拍手が送られる。おめでとう、ありがとう、そんな言葉はあちこちから聞こえていて、数えだしたらキリが無かった。
さて、当の私はというと――拍手を送りながら、少し残念な気がしていた。
「……もう少し、早く出会いたかったな」
もう少し早く出会って、彼女の走りを見ていたかった。もう少し早く出会って、彼女の応援をしていたかった。もう少し早く出会って、あと何着か彼女の勝負服を作ってみたかった。
私が作った勝負服で笑う彼女を、もう少し見てみたかった。
詮無いことを考えている。でも、そう思わずにはいられなかった。だって――
「――そんなの見せられたら、ファンになっちゃうじゃん」
キングちゃんを大事そうに抱えたまま、最後まで競り合った青鹿毛のウマ娘と握手を交わす彼女は、汗を一筋伝わせる顔に満面の笑みを浮かべていた。輝き照らす太陽にも、瞬き光る星々にも、煌めき宿す宝石にも見える、眩いばかりの笑顔。そんな風に笑う彼女を目にしてしまったのなら、その魅力に見惚れて心奪われて虜になってしまうのは必然だった。
きっとこの場の誰もが、彼女のファンだった。
温かな拍手に包まれるスタンドから一足先に踵を返す。今日、私の仕事はもう少し残っている。ウィニング・ライブと、その後に執り行われる彼女の引退ライブ用の衣装も、製作したのは私だ。着付けも私が担当することになっている。
一流の彼女に相応しい、一流の仕事で彼女をライブに送り出す。その決意を胸に、私は彼女の控室へと足を向けた。
◇
最後まで見届けたかったのに、滲んだ視界はそれを許してくれなかった。
東京レース場名物の、長い長い最終直線。青々とした芝の敷き詰められたその直線を一筋の光となって駆ける彼女を目にした時、私の中から余計なしがらみは何もかも吹き飛んだ。大外から鮮やかに先頭へと駆け上がっていく彼女を目にした時、最早溢れ出るものを止めることなど叶わなかった。
「いけっ! 走れーっ!」
頬をぼろぼろと伝う熱い雫も、霞んでぼやけて用をなさない視界のことも、何もかも構わなかった。ただただすべてを振り絞って叫ぶ。喉が熱くて燃えそうだった。肺が痛くて破れそうだった。体中の水分が涙になって流れ出してしまうのではと思った。でも、それでも構わない。ただただ力の限りに叫ぶ。涙を零して声を張る。喉も肺も潰れたって構わない。私が持ち得るもの全てで彼女を応援したかった。
滲んだ視界にはもう何も見えていない。ただぼやけてなお鮮明な輝きを見せるエメラルド・グリーンの勝負服だけを捉え続けた。その勝負服が全てのウマ娘を抜き去り、ただ一人一着でゴール板を駆け抜けた瞬間、私はその場に膝から崩れ落ちた。手にしていた花束の入った紙袋を抱えるようにして、ただひたすらに泣き叫ぶ。ぼろぼろと滴る涙は、拭っても拭っても止まらなかった。
「おめでとう……おめでとう……っ」
何度も何度もうわ言のように呟く。目の前の、たった一つの彼女の勝利が、心の底から嬉しくて堪らなかった。
……彼女は、私の青春の光そのものだった。彼女のいる場所が――レースという世界が、私の青春の全てだった。そこに全てを賭けた。自分の全力をぶつけた。持ち得るもの全てを出し尽くして挑み続けた。それでも勝てなくて、辛くて苦しくて、いつしか目を背けた。でもそれが……まるで自分の青春を無駄なものだったと、他ならぬ自分自身が言っているようで、それが一層苦しかった。それだけではなかったはずなのに、辛く苦しいことしか思い出せなかった。
今日の彼女の勝利は、そんな私の青春を、「無駄なものなんかじゃない」と言ってくれているようだった。
思い出した。思い出したよ、色んなこと。辛いことも、苦しいことも、確かにあったけど。でも楽しいこともあったよ。嬉しいこともあったよ。今でも思わず笑えるようなこと、たくさんたくさんあったよ。
だからきっと……私たちの青春は、無駄なものなんかじゃなかった。やっと今日、それを思い出すことができた。
涙を拭うことは諦めて立ち上がる。彼女がそうしていたように、自分の両の脚でしっかりと立ち、胸を張って顔を上げる。滲んだ視界に彼女の姿が見えた。娘さんを抱きかかえて眩く笑う。あの頃と変わらずに、いいえそれ以上に輝く彼女を見ると、私も自然と笑顔になった。
「ありがとう」
今日、私の輝かしい青春が、ようやくその幕を下ろした。
ウィニング・ライブの開始時刻が迫り、観客たちは順次会場へと移動していく。
レース中も花束を抱えていた私は、ようやく回収場所へ足を向けた。抱え続けたせいでやや皺がついた紙袋。中には花束と、それから悩んだ末に手紙も入れていた。それを、丁度回収に来ていたスタッフさんへ手渡そうとした時だ。
コツン。高らかなヒールの音が廊下に響く。聞き覚えのある音だった。思わず振り返る。
ちょっと悪戯っぽい表情を浮かべて、そこには彼女が立っていた。勝負服からライブ用の衣装に着替えている。髪もセットし直した様子だった。
声が出ない私に、彼女は目元を緩めて笑った。
「――来てくれないかと思った」
私はハッとして勢いよく首を振る。
「絶対来るよ。花束、渡したかったから」
その時、さっき渡した花束を、スタッフさんがニコリとして私に差し出してくれた。感謝の意を込めて会釈をし、紙袋を受け取る。私はそれを彼女へと直接手渡した。
「――優勝おめでとう。あと、無事の引退、お疲れ様」
「ありがとう。――ふふっ、あなたに花束をもらえるなんて、最高のはなむけだわ」
花束を受け取った彼女は、くすぐったそうにコロコロと笑った。随分久しぶりに会ったけれど、そういうふとした瞬間の表情にあまり大きな変化はないように思える。元々、どちらかというと大人っぽく振舞っていたから、多少歳を重ねても違和感はなかった。むしろようやく年相応になったようにも思える。でも、やはり学生だった頃の彼女が重なるので、私としてはどことなく少女のようなあどけなさを感じていた。
紙袋から花束を出していいか尋ねた彼女に頷く。丁寧な手つきで取り出した花束に、彼女は目を眇めた。そしてとても大事そうに花束を抱える。その姿が雑誌の表紙のように絵になっていて、私はしばらく見惚れていた。
「――ありがとう。こんなに綺麗な花束……大切に飾るわね」
しみじみと感想を述べた彼女に、今度は私の方が照れてしまう。レース場から少し距離はあったけれど、人伝に聞いた評判の良いお店を選んでよかった。嬉しそうな彼女を見て、そう思った。
ライブの準備が近いという彼女を、別のスタッフが呼びに来た。ライブ前の忙しい時間帯に、こうしてわざわざ出向いて来てくれたことが、何とも彼女らしい。私が改めてお礼を言うと、彼女は朗らかに笑って、気にしないでと答えた。彼女自身が会いたかったから来たのだ、とも。
花束を再び丁寧に紙袋へ戻した彼女は、少し名残惜しそうに「それじゃあ」と言った。私もそれに頷き、頑張ってねと送り出す。ひらりと手を振って踵を返し、彼女はスタッフに案内されていった。シャンと背筋を伸ばして廊下を歩いて行く背中に、私はもう一言声をかける。
「いってらっしゃい。――ライブ、楽しみにしてるねっ!」
私の声に彼女はくるりと振り返った。艶やかな鹿毛がひらりと舞い踊る。白い蛍光灯の照らす中、彼女はニカッと白い歯を覗かせて満面の笑みを見せた。
「任せなさい! ――いってきますっ」
自信たっぷりに答えて、彼女は歩いて行く。その背中を見送った私は、束の間その余韻に浸ったのち、決意も新たにライブ会場を目指した。
◇
思い出せる限り一番幼い頃の記憶は、果てまで澄み渡る真っ青な空を背にして、緑のターフに二本の脚で立つ、一人のウマ娘の姿だった。
幼い頃の記憶なんて本当に曖昧なものでしかない。多くの人は自分が三歳だった頃のことだって憶えてないという。私だってそうだ。小さい頃のことなんて何一つ覚えてない。好きだったというお菓子やぬいぐるみを見せられてもピンとこない。何冊も丁寧に作られたアルバムをめくっても、敷き詰められた写真に映る自分自身は何だか他人みたいで、不思議な気分がするものだ。
あの時の記憶もやはり曖昧だ。いつの頃だったのか、どういう場所だったのかはアルバムをめくるまで思い出せなかった。大きなレースだったから、きっとターフに立つウマ娘には割れんばかりの喝采が浴びせられたはずだ。当時の私の背ではレース場なんて見えないだろうし、一緒にいたメイド長が抱えてくれていただろう。メイド長はきっと何某かを私へ話しかけただろうし、私もきっとそれへ興奮気味に答えていたはずだ。だけど、そうしたことは一つも思い出せない。何となくそんな気はするけれど、幼い私の記憶には残っていない。
思い出すのはいつだって、眩い笑顔で手を振ってくれた、たった一人のウマ娘のことだけだ。
かっこよかった。誇らしかった。眩かった。今思うと、子供心にそういうことを感じていた気がする。息をすることも、瞬きすることも忘れて、食い入るようにその姿を凝視していたような気もする。そうでなければ、きっとこんなに鮮明に思い出すこともできない。私というウマ娘の一生は――キングヘイローというウマ娘の生きる道は、この記憶から始まったと言っても過言ではない。
……思えばあの日あの瞬間から、私は漠然と、けれど確かに、こう思うようになったのだろう。
いつかこの人のように――お母さまのようになりたい、と。