最終話 “水柱”潤間辰綱
鍛錬に鍛錬を重ね、何十、何百もの鬼を斬ってきた。
これまで培ってきた経験。隊士の最高位である、柱を任されているという自負。鬼狩りとして、剣士として、自分の腕に覚えがあった。たとえ十二鬼月、上弦の鬼であろうと、自分は勝つ。そんな自信を辰綱は持っていた。
“上弦の参”である猗窩座との戦闘から四半刻後。
有利な間合いを確保するために動き回ったことで、戦いの場は当初の山道から大きく離れ、今は切り立った崖の近くにまで移動していた。崖の下では雨で増水した川が勢いよく流れている。
「はっ……はっ……」
辰綱の息は荒い。全力で動いている上に、型を連発し過ぎていた。加えて出血は少なく致命傷こそないが、体のあちこちの骨に罅が入っているのが感覚的に分かる。
「太刀筋、打ち込み、足運び、反応速度、状況判断、そして闘気。どれを取っても素晴らしい。剣閃に鮮やかな流水を見た。受けも巧みだ、よく捌く。水の柱はこれまでも何人か殺してきたが、これほどの奴はいなかったぞ」
対する猗窩座は無傷。厳密に言えば、辰綱は確かに攻撃を喰らわせている。斬り落とした手足は一つや二つではない。胸や腹に人間なら致命傷になる傷も与えた。だが──。
「だからこそ残念だ。そんなお前が放った斬撃も、俺の体にはもう痕さえ残っていない」
──くそが……治るのが早過ぎんだよ。
辰綱は歯噛みし、内心で毒づく。
頚を斬られることを除き、鬼はどんな傷でも再生する。とは言え、さすがに一瞬で元通りとはいかない。
しかし眼前の猗窩座は瞬く間に傷が再生する。異常な速度だ。これまで相手にしてきた下弦の鬼達でさえ、ここまで早くは再生しなかった。
「それに引き換え、お前はどうだ。その受けた傷が治るのにどれだけ時間がかかる? 治ったとして、負傷の前と同じ動きができるのか?」
加えて攻撃は正確無比。一撃一撃が、確実に急所を突いてくる。防御も隙がなく、背後からでも死角からでも、こちらの攻撃に対応してくる。手傷は与えられても、肝心の頚には届かない。
──向こうには決定打を与えられないのに、こっちは一手間違えれば致命傷。やってられるか。まぁ、鬼相手にそんなものは今に始まった話じゃないが……。
考えられるのは、最初に発動していた、“羅針”なる血鬼術の効果。あれでこちらの動きを恐ろしいほど正確に察知してくる。
──相手の動きを読む。どこをどう攻撃すればいいのか、どこからどう攻撃されるのかが分かる。そういった勘を日々の鍛錬や鬼との戦闘で養ってきた。分からなくはない。分からなくはないが──。
「そもそも鬼と人間では生物としての優劣が決まっている。人間のお前がどれだけ食い下がろうが、鬼の俺に勝てる道理はない。全て無駄なんだよ」
──これが上弦か……。
実際に戦って分かったのは、猗窩座の実力は少なく見積もっても柱三人分か、それ以上に匹敵すること。今の柱が半数揃ってもどうなるか。
この鬼の上には更に上位である二体の鬼と、鬼舞辻がいる。敵の、斬るべき連中の強大さを、辰綱は否が応でも実感する。
「だからこそ、これだけの才がある者が無為に死んでいくのは惜しい。分かるか鬼狩り、水の柱よ。お前は鬼になるべきだ。鬼になって更に鍛錬を積んでゆけば、いつかは俺と対等に渡り合うことだって不可能じゃない」
猗窩座による再びの勧誘。敢えて実力差を見せつけ、改めて誘う腹積もりだったのか。
鬼そのものはともかく、その身体能力を、一度も羨ましいと思ったことはないと言えば嘘になる。
人間は受けた傷がすぐに治りはしない。手足が欠損すれば、もちろん永遠に失われたまま。鬼との戦闘で手足を失い、剣士として生きる道を断たれた絶望から、自らの命を絶っていった隊士達も中にはいる。
だが──。
「くどいんだよ」
やはり鬼になろうとは、辰綱は微塵も思わない。
「鬼殺隊はな、誰かが
仮に鬼になって、今より遥かに強くなれたとする。だとしても、人間を辞めたその瞬間から、それはもう自分ではない。その時点で“潤間辰綱”は死ぬのだ。
「俺は一生、人間だ」
その言葉に、猗窩座の目の色が、先刻の鬼を踏み潰した時と同じく、対象への興味が完全に失せたものに変わる。
「他人を、弱者を守る、助ける。……くだらない価値観だ。もういい分かった不快だ。そこまで人間でありたいのなら、無様に老い衰える前にこの場で死ね」
「やってみろ」
──これまでも殺す気だったろうが、もう様子見じゃないな。本気で来る。
鬼の殺気と全身を苛む痛みを無視し、辰綱は刀を強く握り締めた。
戦闘が再開される。
猗窩座から繰り出される攻撃が、更に激しいものになっていく。そう辰綱が感じるのは、負傷のせいで動きが鈍くなっているからだけではないだろう。
打ち合いの最中、地を這う蛇のように、猗窩座が身を低くして間合いに滑り込んできた。
「“破壊殺・脚式
「ぐぅ……っ!!」
強力な蹴り上げが、辰綱の腹に直撃した。空気とわずかな胃液を吐き出すだけで済んだのは、忍ばせていた短刀が、自分の脊椎の代わりにへし折れてくれたからかもしれない。
体が浮き上がって宙を舞う辰綱を逃がすまいと、蹴りの勢いで跳躍していた猗窩座が右腕を大きく振りかぶった。
「“破壊殺・
「肆ノ型 “打ち潮・乱”!」
空中で身を捻って技をぶつけ、辰綱は反動で間合いの外に逃れた。
直後に振り下ろされた猗窩座の拳は地面を打ち砕き、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、山の一角を揺るがす。
こちらの動きを察知する能力があったとしても、最適解な対応を可能にする身体能力は、奴自身の力量によるもの。おそらくは鬼として生きてきた長い時間の、ほぼ全てを戦いや鍛錬に費やしている。正に鬼、修羅道の化身だ。
それでも辰綱の心は折れていなかった。相手が自分より強かろうが、そんなものは勝つことを諦める理由にはならない。
ここで自分が負ければ、この鬼はこれから先も人を殺す。大切な者の命を奪われ、嘆く誰かが現れることを、毛ほども気にせずに。
──こいつの頚を斬る。たとえ今ここで、刺し違えたとしても!
絶え間ない激しい動きと、常に鬼という存在そのものに抱いている怒り。そして、かつてない強者との削り合いに、辰綱の感覚が錬磨されていく。
「うっ……!?」
その時、猗窩座が辰綱の一太刀を躱し、すぐさま左手で刀を掴み取ってきた。刃が握った手に食い込んで血が流れることなど意にも介さず、自由になっている右腕から突きが繰り出される。
掴まれた手から刀を引き抜く暇はない。刀で受けることはできない。考えている暇もなく、辰綱は反射的に行動に移っていた。
「何……!?」
猗窩座から初めて驚愕の声が漏れる。
放たれた猗窩座の拳を、辰綱は左手で真正面から受け止めていた。
「さっさと……放せ!」
「……っ…………!!」
先の鬼と同じく、まさか人間に素手で正面から受け止められるとは夢にも思っていなかったのか、猗窩座は辰綱の蹴りを腹に受け、掴んでいた刀を手放して大きく飛び退く。
辰綱は拳を受け止めた手のひらの皮が裂け、腕全体が軋んでも、気にも留めていない。それ以上に気がかりなことがあったからだ。
──何だ? 体が熱い……。
秋の終わりの冷たい雨に打たれているのにも関わらず、全身が燃えているかのように熱い。心音が早まって、全身の隅々まで血が駆け巡っている。全集中の呼吸により常に行われていることが、常以上の速度で行われていく。
我が身の明らかな異常事態にも構わず、辰綱は動いた。
猗窩座が反応よりも、わずかに早く距離を詰められるほどに体が軽い。振るう刀もまた、羽毛のように軽い。
繰り出される相手の反撃がそれまでより遅く感じられる。体が傷だらけなのに、動きが冴え渡って仕方ない。
分からないことだらけなこの身体能力向上が、生きる上で大事なものを代償にしていることだけは、辰綱にも理解できた。
これだけの動きを人間がずっと続けていられるわけがない。程なくして肉体の機能的な限界が来て、体はまともに動かなくなるだろう。
──こいつが今の俺の動きに、完全に対応し切る前に勝負を決める……!
辰綱は怒涛の勢いで、猗窩座を崖際まで徐々に追い立てていく。そして、回避行動で猗窩座の両足が地面を離れた瞬間を見逃さず、辰綱は踏み込んだ。
「壱ノ型──」
両手で握る刀を、肩の位置で構える。
この状況なら回避はできまい。防御行動を取ろうが、その防御ごと断ち斬れる確信が辰綱にはあった。
「“水面斬り・凪”!!」
一切の揺らぎのない、凪いだ水面を描く太刀筋。渾身の一刀が、鬼の頚を断つ。
──そう辰綱は確信していたのに、何故か刀は、猗窩座の胸と両腕を横一線に両断していた。
「……あ? ──ぐぅおっ!!」
辰綱の口から漏れる呆けた声が、呻きに変わる。猗窩座の胸から下の半身に、蹴りを決められたのだ。
──こいつ、空中を足場にしやがった……!
頚を狙われていた猗窩座は、刃が届く寸前に両足で虚空を踏みしめ、わずかながら跳んでみせた。これにより狙った位置がずれてしまい、辰綱が斬ったのは頸ではなく、その下の胸部になってしまったのだ。
空気の拳打を飛ばしていたことを考えれば、不可能ではないのだろう。現にやってのけている。
「ははぁっ……!」
猗窩座は凶悪な笑みを浮かべながら、胸と一緒に斬り飛ばされた両腕をすぐさま生やした。そのまま生えたばかりの腕で、宙を殴りつけた勢いで移動。一度も地面に触れることなく胸から下の半身と合体する。泣き別れして間もない二つの肉体は、すぐに一つに元通り。そして──。
「“破壊殺・
猗窩座の左右の拳から四発ずつ、八つの連打全てが、辰綱を直撃した。
辰綱にできることはもう、全身に力を入れて堪えるくらいだった。しかし、上弦の技はそれだけでやり過ごせるような代物ではない。
元より不意の一撃を受けた直後だった辰綱は、その場に留まりきれずに吹き飛ばされた。
「うっ……ぅごぼぉ……!」
泥の地面を転げ終え、体の中から込み上げて口から溢れ出たそれは、真っ赤な鮮血。
──どこか……臓器が潰れたか。
生命活動に必要であろう内臓が破裂し、数える意味もないほど、全身の骨が砕けた。おまけに折れた
「惜しかったな。背筋が冷えたのは本当に久方振りのことだ」
そう言って猗窩座が自身の頚に軽く手刀を当てる中、辰綱は吐血しながら震える足で立ち上がる。先刻までの体の軽さはどこへやら、今は見えない巨大な手に、上から押し付けられているかのように体が重い。
「その体でまだ立つのか。致命傷だと分かっているはずだ。助かるには鬼になるしかないと」
「だから……なら──ごほっ!」
声と一緒に血が零れ落ち、泥水と混じり合う。息をする度、肺に刺さった骨の隙間から余計に空気が漏れていく。
「誰がなるか……」
「愚かを通り越して、哀れみを覚える頑なさだな。だが案ずるな。その身は残さず喰って、俺の糧にしてやろう」
「……やってみろ。やれる……ものならな……」
辰綱は体を震わせながら、刀を上段に構えた。
「その前に……俺の刃がお前に届く」
「…………放っておけば、それだけで死ぬのだろうが……」
致命傷を受け、なおも戦闘の姿勢を崩さない辰綱を前に、猗窩座は呆れたような表情を見せつつ、再び構えを取った。
「いいだろう。その闘気、俺の手で確実に消してやる」
──そうだよな。乗ってくると思ったよ。
猗窩座は辰綱の思った通りの行動を選択した。
間合いの外から拳圧を飛ばすだけで事足りるのにそうしないのは、鬼としての優位性に確固たる自信があるからだ。
「水の……呼吸 捌ノ、型──」
猗窩座が動く。一直線の最短距離で、形のある死が迫ってくる。
これが人生最後の一刀。上段構えの体勢から、辰綱は刀を振り下ろした。瀕死の身でありながら、寸前で痙攣は止まり、幾度となく繰り返してきたその動作に、揺らぎは一切ない。
「──“滝壺・
ッドオオォォン!!!
振るった刀は猗窩座の体だけに留まらず、地面に叩き込まれた。日輪刀が折れるほどの勢いで放った唐竹割に、砕けた地面が激しく震動を始める。
長続きの雨に緩んでいた地盤は、これまでの戦闘の余波に加え、今の一撃が決め手となり、耐え切れずに崩れ出したのだ。
辰綱は重力に身を任せ、瓦礫と共に崖下を流れる濁流の中に落下していった。
それまで立っていた周囲一帯の崩落から逃れ、猗窩座は新たにできた崖の端で、下方を眺めている。
崩落した土砂が轟々と流れる川の勢いを妨げてはいるが、それでも全体の四割は下流へと流されている。
鬼狩りの姿は見えない。落下後は眼で追っていなかったので、瓦礫と共に沈んだのか、流されていったのか判断はつかない。
──ここ数十年の中では、図抜けた使い手だったが……。
戦闘の途中、鬼狩りの身体能力は明らかに向上していた。殺すのを惜しんでいたとはいえ、そこからよもや、刃が頚に届く寸前まで追い込まれるとは思いもしなかった。
──それに最後の一撃、足場の破壊が狙いだったのだろうが、あと少しずれていれば……頚諸共、縦に両断されていたかもしれない。
繰り出した腕どころか、右の肩口から腰元まで斬り裂かれてできた傷は、すでに再生して痕もないが、それでも余韻めいたものがまだ残っている。
それでいて、あそこまでの強さを持ちながら、鬼になる選択をしない。今回の鬼狩りに限った話ではなく、これまで戦ってきた柱は、誰一人として鬼になる誘いに頷きはしなかった。
脆弱な人間であることに執着し、血の滲む鍛錬をして得た強さをあっさり手放して死んでいくことが、猗窩座には心底理解できなかった。
──それでも結局……死ねば意味はない。
自らの手で仕留めこそし損ねたが、あの体ではどの道手遅れ。如何なる処置をしたところで、もう命を繋ぐには間に合わない。ここまで荒れている川に飛び込んでは尚のことである。
喰えなかったのは確かに惜しいが、これ以上の執着は本当に無意味でしかない。
──『鬼殺隊はな、誰かが鬼にこれ以上、大切な者の命を奪われないために、守るために戦ってんだ』
「──っ!」
気付けば猗窩座は、裏拳で手近な木をへし折っていた。
あの鬼狩りの真っすぐな視線と言葉が、今になってひどく癇に障る。弱者が淘汰されていくのは自然の摂理。これに逆らい、ましてや命を懸けるなど愚かでしかない。
では何故ここまで気に喰わないのか。それは──。
「…………どうでもいい」
その理由を追求する意味を見出せず、修羅という言葉が相応しい鬼はその場を後にし、雨夜の闇へと消えていった。
空は曇天のままだが、長く降り続けた雨がようやく止んだ頃には、もう夜明けが近かった。
それまでいた山の麓から数里離れた川岸で、虫の息ながら辰綱はまだ生きていた。
瓦礫に押し潰されず、濁流に沈まず、流されていた過程で更に傷が増えても、欠けた手足はない。それは辰綱が何をしたわけでもなく、ひとえに偶然である。
流されている間、辰綱にはほとんど意識がなかった。今こうして陸で突っ伏しているのは、たまたま川が蛇行する流れに差しかかり、引っかかる形で流れ着いただけのこと。
──運が良いのか悪いのか……。
この状態でまだ生きていることに、辰綱自身が驚きだった。もっとも、それももう時間の問題だが。
体内の血がほとんど流れ出てしまったからか、掠れた呼吸が漏れ出る口からは吐血もしなくなった。声を発する余力も、指を動かす力さえない。
内臓を潰された当初は極限状態だった故に、痛みを大して感じなかったが、今は痛みどころか全身の感覚がない。全身が濡れているのに寒さも、たっぷり水を吸った着物の重みも、まるで感じない。
──……上弦があそこまで強いとは思わなんだ。喰われて奴の糧にだけはならないよう、その場から離脱するのが唯一できる抵抗だった。あわよくば脳天から股下まで真っ二つにしてやりたかったが……そう上手くはいかないか。
連日の雨で不調をきたしてしまった鎹鴉の漁火を、今回の任務で辰綱は連れて行かなかった。いたら戦闘を見届けさせて情報を本部に伝えられたかとも考えたが、あの猗窩座が見逃していたかは微妙なところだ。そうでなくとも戦闘の余波に巻き込まれていたか、ともあれ自分と一緒に始末されずに済んで、かえって良かったかもしれない。
──とうとう死ぬのか……。
死ぬこと自体に恐怖はない。鬼狩りとして生きると決めた時点で、覚悟はとうにできている。ただ、まだ鬼を滅ぼしていない、始祖の鬼舞辻を倒していないのに、道半ばで死ぬことが辰綱には心残りだった。
──すまん皆、また柱の席が欠ける。苦労をかけるが左近次、後は任せた。お前ならもうすぐ柱になれるだろう。栄舟先生、先に逝くことになって申し訳ない。鉄井戸さん悪い、また刀折っちまったよ。……そうだ、ひささんにまた飯食いに行くって約束してたんだ。悪いことしたな……。
同僚達、弟弟子、師匠、鍛冶師、支援者。次々によく知る顔が脳裏に浮かんでは消え、次に主君の顔が浮かぶ。
──……お館様。前に仰っていたこと、信じてもいいですか?
──『──光り輝く道を歩いていた。ずっと先の方では、光がより強く輝いている。でもそこへ向かうまでの道は光が段々と減り、暗くなっていくんだ』
──『──これから先の未来で、屈指の実力を備えた鬼狩り達が集っていく』
産屋敷が視たという夢の断片、予知夢とその解釈。
本当はそんなものを頼りにしたくはなかった。もちろん産屋敷を信頼していないからではなく、不確かで曖昧なものに丸投げし、後は他人任せのような形になるのが、辰綱は気に入らなかったのだ。
だが、全身全霊で鬼と戦った末、力尽きようとしている今は、それに望みを賭けたくなる。
──我ながら都合のいい野郎だな。
自分の俗っぽさが少し可笑しくて、辰綱はかすかに口角を上げる。
先刻は鬼の手前、人を守るのが鬼殺隊だとか講釈を垂れたが、少し前までは故郷の村を壊滅させた鬼の頚を斬ることを第一に生きてきた。
そんな自分は何かを誰かに遺せていたのだろうか。心残りとまでは言わないが、少しだけ気になった。
──俺は……未来に……繋げられたのか? お……れ…………は──。
その日の昼過ぎ。捜索していた隠の部隊によって辰綱は発見される。すでに息を引き取っていた辰綱の背中には、波の模様に似た“痣”が、破れた着物の間から覗いていた。
辰綱の痣について知るのは、遺体を回収した隠の数名と、彼らから報告を聞いた産屋敷のみ。戦っていた猗窩座も、辰綱自身ですら、その存在を知ることはなかった。
気付けば辰綱は小舟に座っていた。周囲は薄く霧がかかり、空も岸も見えない。
少し前にも来た、三途の川──と辰綱は思っている場所。
「またここか。ところで三途の川ってのは、渡るんじゃなくて横切るものじゃなかったっけか?」
今回小舟に乗っているのは、辰綱一人だけではなかった。
「なぁ親父」
振り返ると、背後で父の辰吉が力強く櫂を漕いでいた。
「……叔父貴には会えたか?」
「ああ。
「そうか。なら良かった」
ここが本当にあの世だとして、辰吉があの世の入口に留まっていたのは、自身の弟である甲次郎を見届けるためではないかと考えていた。その推測は当たっていたらしい。
「お前までこんなに早く来ちまうとは、思いたくなかったが」
「それで慌てて迎えに来てくれたのかよ? 俺だって爺になるまでこっちに来たくはなかったよ」
「……後悔はあるか?」
「そりゃあるとも。まだ道半ばだったからな。前に親父に言われた、“役目”も果たせたのかどうかも怪しい。ただ……」
死の間際に、人はそれまでの人生を振り返るという。辰綱もそうだった。
走馬灯で見た記憶の多くは、幼少の頃の漁村の光景や、鬼との戦闘よりも、自分が助け、自分を助けてくれた人々の姿。
「俺がやってきたことは無駄じゃなかったんだと、本当に最期の最期で納得できた。だから……満足はしているよ。一応な」
復讐以外は二の次と思っていたつもりが、案外自分は人が好きだったらしい。
小舟の進む先を見つめる辰綱の表情は晴れやかなものだった。
そんな辰綱を、辰吉が唐突に頭を撫でた。
父にそんなことをされるのは初めてで、辰綱はしばらく硬直してから、なんだか照れ臭くなって皮膚の厚い手を払った。
「ええい……! よせよせ、何歳だと思ってんだ」
「何歳だろうが、俺には息子なことに変わりない」
「へっ……人間、死ぬと素直になるのかねぇ」
昔はあれだけぎこちなかったのに、父親と普通に会話ができていることに、今になって気付いた。これも大人になった証かと、内心で辰綱が感慨深いものを抱いていると、周囲の霧が晴れ始めた。かすかに潮の香りがしてきて、前方には岸が見える。
岸際には小柄で細身な女性が一人立っていた。
辰綱の記憶にはない。走馬灯にも出てこなかった。なのに、初めて会った気がしない。微笑んでいる優しげなその顔を、初めて見た気がしない。
「なぁ……親父。あの人って……あの人はまさか──」
「あれには気の済むまで撫でさせてやれ」
不覚にも潤む両目を一度閉じてから、辰綱は大きく深呼吸をして口を開いた。
「…………これまでのこととかさ、話したいことが沢山あるんだ」
「そうか。なら一から聞かせてくれ。俺達に」
漁師と剣士の父子を乗せ、小さく手を振る女性の元へ小舟は進む。
命を懸けて鬼狩りとして生きた自分の想いは、未来へ繋げていけたのか。
その答えが潤間辰綱に伝えられるのは、これより五十年後の冬の終わり。
鬼殺隊が所有する墓地で、年齢を重ねた弟弟子の鱗滝左近次に、墓前で手を合わせられながらのことであった。
江戸の世が終わり、明治の頃も過ぎ、時は大正。
日がほぼ沈んだ冬の夕方、足音に気付いた三郎が家の窓から外を覗くと、籠を背負った少年が足早に歩いている。
少年は山に住む炭焼き小屋の息子だ。今日も町まで炭を売りに来ていたらしい。
この時間に雪の積もる山を歩いていては、家に辿り着く前に完全に夜になってしまう。百歩譲って灯りのある町ならまだしも、夜闇を出歩くのは危険すぎる。子供となれば尚更だ。
三郎は少年を慌てて呼び止めた。
「うちに泊めてやる。来い。戻れ」
少年は困った様子で大丈夫だと言い、いかにも帰りたそうだった。赤みの入った瞳を山の方へ向けている。
孤独で偏屈な年寄りの家に泊まるのが嫌なわけではなく、六人兄弟の長男として、父親を亡くして寂しがっている弟妹達の下に早く戻りたいのだろう。
少年が優しい子であることなど、町の人間同様、三郎とて百も承知だ。だが、今の少年と同じか少し下の歳の頃、三郎は幼かった妹と共に、人喰いの鬼に襲われた恐怖を微塵も忘れてはいなかった。窮地を救ってくれた鬼狩りのことも、その時の言いつけも。
「いいから来い!! 鬼が出るぞ」
三郎が声を張って引き留めると、結局少年は渋々とだが、従って家の中に入ってくれた。
あれからそろそろ五十年は経つ。あれ以来、
生きていれば自分よりも更に年寄りだ。すでに亡くなっているのか。引退して後進の育成に専念しているのか。それとも、未だ現役で鬼を狩り続けてくれているのか。
そんなことを考えながら眠って一晩が経ち、朝早くに家に帰っていった少年を、三郎は手を振って見送った。
昨晩の内に鬼にされていた妹を人間に戻すため、鬼との闘いに身を投じることとなった少年と三郎が再会するのは、これより数年後のことである。
願いを託し、想いは繋がる。
一時は目に映らず。絶たれて見えたとしても。しかし、確かに世を
それは天地を繋ぐ、水の如し。連綿と紡がれる、人の意志なり。