第参話 積もり重なる
人がほとんど立ち入らない山中の川。
辰綱は一人、水練をしていた。それも常人ならば、碌に息継ぎもできずに流されていく急流に逆らいながら、ほとんど同じ位置に留まり続けている。
これが辰綱の鍛錬の一環だった。水練は全身の筋肉と共に心肺機能も鍛えられ、“全集中の呼吸”の能力向上にも役立つ。今やその気になれば、半刻近く潜水して泳ぎ続けることもできる。
全集中の呼吸は心肺機能を向上させ、大量に取り込んだ空気中の酸素を血管から全身の隅々まで行き渡らせることで、身体能力を常人よりも遥かに引き上げる特殊な呼吸法。鬼殺隊士が鬼と渡り合うための生命線でもある。
辰綱は更にこれを瞬間のみではなく、四六時中行える“全集中・
一呼吸してから、春先のまだまだ冷たい水中に、辰綱は全身を沈めた。
水の中はどこか落ち着く。気分が安らぐ。これで潮の香りがする海水ならなお良いのにと思うのは、漁村に生まれ、海が生活に深く根差していたからか。
しかし、そんな川の流れも、辰綱の心の澱を完全に洗い流しはしてくれない。人を襲う鬼が全て滅びない限りは。鬼殺隊が、自分が全ての鬼を滅ぼさない限りは。
しばらく水練を続けてから、頃合いを見て辰綱は川から這い上がる。褌一丁の体のあちこちにできた、鬼狩りによる傷痕を伝う雫が、木漏れ日に反射して輝いていた。
木剣のぶつかり合う音と、年若い使い手達の気合が、武家屋敷の裏庭に響く。
その光景を、辰綱は屋敷の縁側に腰かけて眺めていた。
「皆、いつもより気合が入ってらぁ。誰かさんの手土産のお陰かねぇ?」
少し震えた声をした、着流し姿の老人が辰綱の隣に並んだ。その顔は三割近くが、右目と右耳を覆う形で巻かれた包帯で隠れている。
彼は
この屋敷は栄舟が隊士候補達を育てる場所であり、かつては辰綱も左近次ら同世代の仲間と共に、栄舟から教えを受けていた。
辰綱はふふんと鼻を鳴らし、自慢げに胸を張る。
「そうでしょうとも。この俺が手ずから仕込んだ、火加減も塩加減も完璧な魚を腹一杯食ったんだ。力も入ろうものです」
水練を終えたその足でこの屋敷を訪れた辰綱は、川で捕った魚を
木剣を打ち合う一組の少年らの片方が、相手の剣を弾いて一撃を入れた。尻餅をついて倒れた片方の少年に手を差し伸べ、二人はまたすぐに剣戟を再開する。
「今の一撃を入れた方は中々。片方も良いのが入ったのに、すぐ仕切り直すとは根性ありますね」
「あの二人は次の選別を受けるでなぁ」
辰綱の見立てに、栄舟が顎髭を撫でつけながら答える。
鬼殺隊に入隊するには、育手の了承を得てから“最終選別”と呼ばれる入隊試験を受ける必要がある。
会場は鬼殺隊が保有する、年中藤の花が咲き狂う“
弱い鬼と言っても、最終選別時以外に人間を喰う機会がなく、常に飢餓状態で共喰いまでする鬼達は手加減などするはずもない。まだ隊士ですらない候補者にとっては、非常に困難な相手になる。
故に合格者は少なく、ほぼ確実に死者が出る。生き残れたとしても身体や精神に傷を負い、二度と刀を握れなくなることも珍しくない。
過酷な内容だが、それでもこれから鬼を狩っていくにあたり、この試験をこなせないようなら、先はないのもまた事実であった。ちなみに辰綱の場合は、修業を始めた一年後に最終選別に挑んで合格している。
「……なぁ辰綱よぅ。階級、見せてくれや」
「え? あぁ、はい。『階級を示せ』」
唐突な栄舟の頼みに、辰綱は右手で拳を作り、ぐっと力を込めた。すると、辰綱の右手の甲に“水”の一文字が浮かび上がる。
鬼殺隊士は特定の言葉と筋肉の膨張で文字が浮かび上がる、特殊な刺青を手の甲に施され、その文字が自分の現在の階級を表す証明になる。柱の場合は、自身の扱う呼吸の一文字で表される。
「儂ぁよぅ、これまで何人も剣士を育ててきた。そん中でも柱にまでなったんは、おめぇだけだぁ」
栄舟は辰綱の手を取り、浮かび上がった文字を乾いた手でひと撫でした。
「儂自身、とうとう柱にゃなれずに隠居して久しい。
栄舟は感慨深げにそう言ってから、指を辰綱の手の甲から離した。
「おめぇだけじゃない。今まで育ててきた左近次や他の隊士らも、ここにいる小僧っ子らも、みぃんな儂の自慢だ。だからこそよぅ、おめぇらにゃ胸張って生きててほしいんだぁ。だからよぅ……そう気ぃ落とすなや」
「……先生にゃ敵わねえなぁ」
栄舟に心中を見抜かれていたことに、辰綱は頭を掻いた。
「任務かぁ?」
「よくあることです。鬼は斬っても、襲われた人はもう手遅れだった」
昨夜、鬼に人が襲われている現場に急行した辰綱は、即座に鬼を始末した。
だが、襲われていた者は既に血を流しすぎていた。血止めなどの応急処置の甲斐もなく、体力の少ない年寄りだったこともあって、今際の際に自分が住んでいる村の場所を辰綱に伝え、その場で息を引き取ってしまった。
老人の意を汲んで、その亡骸を村の遺族の元まで運んだ辰綱だったが、待っていたのは感謝の言葉ではなかった。
「『どうしてもっと早くに助けてくれなかったんだ』と言われました。『そうしたら死なずに済んだのに』とも。去り際にはその家の孫かなんか、童には石まで投げられましたよ」
「そりゃぁ……災難だったなぁ」
「いや、災難なのは遺された家族達です」
恩を仇で返すような真似をされた辰綱だったが、彼らに怒りは抱かなかった。やり場のない悲しみの矛先を、こちらに向けることしかできない遺族達を責めることなどできようか。
何よりその心中は、他ならぬ辰綱自身がよく知っている。
──『全員死んだ! 殺されてた! ぶら下げた刀は飾りかよ? 何が鬼狩りだ。鬼から人を守る? 何も守れてねえじゃねえか!!』
もうずっと昔、まだ鬼の存在さえ知らなかった頃。我が身以外の全てを失った自分を助けてくれた、鬼狩りにぶつけた罵詈雑言が辰綱の脳裏をよぎった。
「……何より俺が心苦しいのは、助けた相手や関係者に罵倒されることじゃない。救えるものを救えなかった、この手から零れ落ちていったものへの申し訳なさです」
辰綱は自分の両手をじっと見た。刀を振るい続けてきた手のひらは、革で覆ったように分厚く、刀の握りだこができている。紛うことなき鍛錬を重ねた剣士の手。鬼という存在がなければ、こうなるはずもなかった手。
鬼に襲われ、失われた人間の命が戻ることはない。刀を手に取ってから早十年。どれだけ体を鍛えても、どれだけ技を磨いても、どれだけ鬼を倒しても、世の無常さは辰綱の努力を嘲笑うかのように立ちはだかってくる。
「だから俺は、せめて一体でも多くの鬼を斬ります。ゆくゆくは“鬼の祖”も。それくらいしか俺にできることはないから」
「心構えは立派だがよぅ……そんな言い方すんない」
栄舟は息巻く辰綱を窘めてから嘆息する。
「そこんとこだけが心配だぁ。さっき小僧っ子達の前で型ぁ実演してくれた時も、伍ノ型だきゃあ、ほんのちぃとばかり太刀筋がぶれとった」
「あの技は出すまでに隙が多すぎます。それに使いどころが限定的すぎる」
当然の如く師に見抜かれていたことに、辰綱は反論する。口に出すと、自分でも言い訳じみた口振りに聞こえた。
十種ある水の呼吸の型の内、伍の型は慈悲の技。苦痛なく鬼の頚を斬る技だ。辰綱はこの技を実践で使った回数は、他の型より圧倒的に少ない。精々が鬼になった者の家族や知人の前で、せめてもの情けにと使うぐらいだ。
何より、その意義をあまり見出だせない。もっと言ってしまえば、この型を編み出した開祖の考えが理解できなかった。
──少なくとも、親父相手に絶対使わんがな……。
「んでも、必要な技さね」
言い訳がましく文句を垂れる辰綱を前にして、栄舟はやれやれとばかりに頭を振ってから、辰綱の傍らに置いてある、中に番茶が残る辰綱の湯飲みを手に取った。湯飲みをゆらゆらと傾かせると、その動きに合わせて茶が揺れ動く。
「水はどんな形にもなれる。角張った升に入れりゃ四角く。丸い水鉢に入れりゃ丸く。時には岩をも砕いてどこまでも流れていける」
かつての修行中に何度も耳にした教えを口にする栄舟は、湯飲みを持ったまま手を上に向けて振るった。その勢いで中の茶だけが飛び出し、落下に合わせて栄舟が腕を不規則に動かすと、茶は一滴残らず再び湯飲みに収まる。現役を退いても、磨いた技術が錆びてはいない証左だ。
「ありとあらゆる状況へ対応できることこそ、水の呼吸の真髄なり。儂はそう教わり、おめぇらにもそう教えてきた」
「もちろん、忘れちゃいませんよ」
「要するに儂が言いてえのはよぅ、別に鬼を赦せってんじゃねえ。怒るなとは言わん。けんども、怒りで心を乱しちゃいけねえ。囚われちゃいけねえ。呑まれちゃいけねえ。恨み一辺倒で刀を振るう奴ぁ、成長も早えが、何かの拍子であっさり逝っちまう。そんな奴らをごまんと見てきた」
包帯に隠されていない栄舟の左目には、深い悲しみの情が宿っていた。これまでの、それに目の前で稽古をする教え子達を、これから死地に向かわせることへの自責の念だろうか。それをわざわざ聞いて確認するほど、辰綱は野暮天でもない。
「そんなん儂ぁ、もう見たかねえ……」
「先生。俺ぁ少なくとも、鬼を前にして剣筋を乱しはしません」
辰綱はすっかり冷めた茶の残りを飲み干し、すっと立ち上がる。
「なんてったって柱ですから。鬼殺隊の屋台骨がそう簡単にぐらつくわけにはいかんでしょう?」
そして、恩師を安心させる意味合いも込めて、にかっと笑う。
「まぁ、大船に乗ったつもりで任せてくださいや」
「ん……そうかい。分かってんならいいさ」
栄舟も辰綱につられるようにして、皺が深く刻まれた顔に笑みを浮かべた。
「さて……お前ら集まれ! 全員まとめてかかってこい。四半刻の間に俺から一本でも取れた奴ぁ、この場で隊士と認めてやるぞ!」
栄舟に深く一礼してから、辰綱は稽古中の隊士候補達を相手に素手で乱取りを始めた。
そうして発破をかけた少年達のこれからの武運を祈りつつ、大人げなく全員を投げ飛ばすのであった。