鬼滅の刃・外伝 水は流れてまた廻る   作:クリアウォーター

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第捌話

 第捌話 寄せては返す波の如く

 

 

「…………どこだ、ここ」

 

 “下弦の壱”である巨口と戦っていたはずなのに、気付けば辰綱は一人小舟に座っていた。

 周囲には白い霧がかかり、空も岸も見えない。

 

「まさか、ここがあの世か? ……三途の川って思ってたよか広いんだな」

 

 何もない周囲を見渡す辰綱。直感的にここが川だと思ったのは、潮の香りがしないからだ。

 不思議なことに帆はなく、水面も流れている様子はないのに、小舟はひとりでに進んでいく。聞き知った話と違って、あの世の道のりというのは中々に気を利かせてくれるらしい。

 その時、前方で影が見えた。辰綱は反射的に刀を手に取ろうとしたが、腰に差しているはずの日輪刀がない。

 影は段々と鮮明になり、やがて辰綱が乗るものと同じ形の小舟が、そして小舟に乗っている者が現れた。

 

「親父……」

 

 日に焼けた肌に、がっしりとした体つき。刈り込んだ短髪に、厳めしい顔立ち。その顔を最後に見たのは十年前、辰綱が一方的に家を飛び出した時と同じ姿をした父、辰吉だった。

 

「あんたがいるってことは、ここは本当にあの世なんだな」

「…………」

 

 互いの舳先が軽く当たり、進んでいた小舟が止まる。

 辰吉は唇を真一文字に引き結んだまま、何も言わない。別に怒っているわけではなく、これが彼の素の表情なのだ。

 

「しかしなんだ、他に誰もいないんだな。もっとこう、ずらっと人が並んでいるものとばかり思ってたが」

「…………」

「ところで、とっくに死んでるのに何だってまだあの世の入口にいるんだよ? 天国にゃ行けなかったのか?」

「…………」

 

 ──懐かしいな、この気まずさ。……それにしたって、いくら無口でも短い相槌くらいは打ってくれたんだが……。

 もしかしたら本当に怒っているのかもしれない。辰綱にはその心当たりがありすぎた。

 

「…………村を壊滅させた鬼がな、本当に親父だったのかって、一度も考えなかったわけじゃないんだ。むしろしょっちゅう頭に浮かんできた。まぁ、鬼が死んだはずの叔父貴とは夢にも思わなかったけども」

 

 家に亡骸も血痕もなかったのは、村を襲う鬼から皆を助けようと、外に出ていたからではないかと。実はあの時の人の形を成していない亡骸のどれか一つが、父だったのではないかと。そんな推測をしなかったのかと言えば嘘になる。

 

「でもきっと、その方が俺にとって都合が良かったんだ。村人を皆殺しにした鬼は肉親であるからこそ、生き残った自分がその責任を取らねばならない。そういう動機が、生きる上での理由になるから」

 

 そもそも深く考えないようにしていた。考えたくなかった。あの時のことを鮮明に思い出そうとすると、心が抉られるように痛むから。

 記憶を頭の隅に追いやって、自分に都合よく解釈した。

 ひたすら体を鍛え、剣技を磨いた。それこそ死に物狂いで。あの痛みに比べれば、血反吐を吐く鍛錬も、鬼との戦闘で死にかけることさえも苦ではなかった。

 

「そういう生き方を、剣の師匠や担当の鍛冶師は特に気にしてくれたんだが……」

 

 ──『──怒りで心を乱しちゃいけねえ。囚われちゃいけねえ。呑まれちゃいけねえ。恨み一辺倒で刀を振るう奴ぁ、成長も早えが、何かの拍子であっさり逝っちまう。そんな奴らをごまんと見てきた』

 

 ──『──刀は鋭く、それでいて脆い。岩より硬い鬼の体を斬れても、横から力を加えられたらあっさりと折れる。儂は何かの拍子でお前さんもそうなってしまうんじゃないかと心配だよ』

 

 師の栄舟、刀鍛冶の鉄井戸の忠告めいた言葉が思い起こされる。

 

「どっちにも大丈夫だと答えておいて、その結果がこれだ。……ごめん。ごめんなぁ、親父。こんな馬鹿息子でよ……」

 

 とうとう目を合わせるのに耐えられなくなって、辰綱はうなだれる。目が潤むのを堪えるのが精一杯の抵抗だった。

 

「それでいいのか?」

 

 少し(しゃが)れた声で辰吉が重々しく口を開いた。

 

「え?」

「お前の仕事は、ここで後悔して落ち込むことか?」

 

 辰綱が顔を上げると、辰吉と目が合った。その目は刺すような軽蔑の視線ではなく、しっかりとこちらを見据えた真摯なものだった。

 

「お前は漁師じゃなく剣士になったが、どんな生業でも根っこは同じだ。漁師になったら魚を獲る。剣士になったら剣を振るう。何であれ、自分のしてきたことの成果は後になって必ず分かる。それまでは役目を果たせ」

「役目ったって……俺はもう──」

 

 その時、止まっていた辰綱の小舟がいきなり動きだした。しかも前ではなく、後ろへと下がっていくではないか。

 

「まだこっちに来るには早い。それもお前が自分を鍛えた成果だ」

「親父! 俺は──」

「感謝しておけ。丈夫な体に──産んで──に────」

 

 辰吉の姿が小さく、声も遠ざかってよく聞き取れなくなっていく。

 そうして、あれだけ穏やかだった水面が激しく揺らぎ、四方八方から波が起こって小舟と諸共に辰綱を呑み込んだ。

 波が完全に覆いかぶさるその寸前。遠くに見えた父親の顔は、微笑みながら泣いているようだった。見間違いかもしれないが、辰綱には確かにそう見えたのだ。

 

 

 

「──っかはぁ……!」

 

 意識が戻った直後、辰綱は木の上で詰まった息を吐き出した。

 

「生きてる……。そうだ、あの時吹っ飛ばされて……痛っ……」

 

 木の幹にぶつけたせいで痛む後頭部をさすりながら、この状況を辰綱は思い出した。

 巨口の血鬼術により生み出された、分身の肉塊に視界を遮られる中、迫る巨口が背中から生やした特大の鋸歯をどうにか防ぐも突進の衝撃は殺しきれず、ここまで飛ばされて後頭部と背中を木の幹に強く打ち付けて気を失ったのだ。

 辰綱は起き上がって地面に降りると、頭と背中のみならず、体があちこち痛んだ。

 身に着けている深い青色の着物は、今や鮮やかな赤色に浸食されていた。斬られた箇所から流れる血は、出血に相応の傷はもちろんのこと、わずかに掠めた箇所からも止まる気配がない。呼吸による回復を強く意識してみても、ほとんど変わらない。

 よくよく見れば今までいた場所から、血が木を伝って下まで垂れていた。あの鋸歯には傷口からの出血を継続させる効果があるのかもしれない。

 

「思いのほか遠くまで吹っ飛んだな」

 

 そんな呟きと共に、木々の陰から巨口がのそりと姿を現した。

 

「まったく手間取らせてくれる。あの状態でまさか仕留め損ねるどころか、手傷まで負わされるとは」

 

 巨口の手には一本の短刀が握られていた。一撃を受ける寸前、辰綱が懐から取り出して投げつけたものだ。この短刀は以前使用して破損した日輪刀を、鉄井戸に打ち直してもらったものである。

 その短刀の刀身を巨口はこれ見よがしに齧り、そのまま顎の力だけで噛み砕いてみせた。

 

「ぺっ……流石に柱、骨がある。だが、それだけ血を流すのは辛かろう。俺の“沖飢刃”でできた傷は時間が経っても塞がらない。流れる血は俺の鼻に位置を知らせ、徐々に弱って最後は俺に喰われる」

 

 よくできているだろう? と砕いた短刀の破片を吐き捨てた巨口が、頬まで裂けた口角をつり上げて、ぐっぐっぐっと喉を鳴らした。

 

「結局、少しばかり寿命が延びたに過ぎん。無駄に抵抗しないで観念しろ」

 

 その言葉を皮切りに、鮫の頭をした巨口の分身体が四方八方から現れ、辰綱を取り囲む。事前に生み出して配置していたようだ。

 傍から見れば窮地でしかない状況下で、辰綱は常以上に落ち着いていた。怒りが限界を超え、かえって冷静になるのともまた違う。

 ──呼吸で止血しようとしても、完全には血が止まらないからか。このまま放っておけば死ぬんだろうが、妙に頭の中が晴れていく。

 先の父親とのやり取り。あれがただの夢だったのか、それとも短時間ではあるものの本当に死の淵に立っていたのか。その真偽について今はどうでもよかった。

 思い出したことがある。

 二人で暮らしている中で父は、飯時には旨い物を多く寄こしてくれた。ひどく冷え込む寒い冬の夜には、自分の布団を掛けてくれた。熱を出せば付きっきりで、寝ずの看病をしてくれた。

 父は息子に無関心で冷たい人間ではなかった。面と向かって何かをせずとも、確かに親の情があったのだ。

 自分が思い出そうとしなかっただけで、己の過去にあるのは苦痛だけではない、温かい思い出が確かに宿っている。

 

「……あぁ、そうだな親父」

 

 取り囲む分身体の群れが、尖った牙をむき出して一斉に殺到する。

 

「役目を果たすよ。それが鬼殺隊(おれ)だ」

 

 気絶している間も握っていた日輪刀を、辰綱は構える。その目にはもう迷いはなかった。

 

 タンッ、タタタンッ、タタタタタァンッ! 

 

 弾けるような音が立て続けに響いた瞬間、辰綱に襲いかかっていた分身体は残らず両断されていた。

 水の呼吸 玖ノ型“水流飛沫(すいりゅうしぶき)”。地に足を着ける時間と面積を最小限に、縦横無尽に動き回りながら斬り込む型である。

 

「なっ──っ!?」

 

 自らの手駒が一息の間に全滅したことを、巨口が認識するより早く、辰綱は巨口の右脚を断ち切っていた。すぐに振り返り、体勢を崩して片膝を着く巨口の首裏めがけて刀を振るう。

 ところが、またも巨口は背中から鋸歯を──それも前方に向けて極端に鋭角に生やし、日輪刀を受け止めた。

 

「“螺穿鮫”!」

 

 更には全身に鋸歯を生やし、回転で辰綱の日輪刀を弾く。

 巨口は横倒しにしたつむじ風のような勢いで移動を始め、進行方向にある地面や木々を抉り飛ばしていく。

 ──土を掘り進める必要ない分、さっき地中から奇襲してきたよりも回転の速度が上がった。しかも正確にこっちに向かって来やがる。

 分析しながら移動する辰綱を、巨口は回転したまま追いかけてくる。あれだけ回っていたら周囲の視認など不可能なはずなのにそれができるのは、こちらの血の匂いを辿っているからか。

 あれでは普通に斬ろうとしても弾かれるだけだろうが、やりようはある。あらゆる局面に対応できるのが、水の呼吸の強みである。

 辰綱は不意に足を止め、背後へと向き直った。

 

「漆ノ型──」

 

 狙うは回転の影響が最も少ない部分。軸の中心、その一点。自分を八つ裂きにせんと迫る、巨口へ刀を上段に構えて切っ先を向け、両腕の捻りを加えた両手突きを放つ。

 

「“雫波紋突き・岩貫(いわぬき)”!!」

 

 ッドドドドドドドドドドォッ!! 

 

 強い衝撃が刀どころか、辰綱の全身を襲う。視界が真っ赤に包まれ、それでも辰綱は刀を突き出したまま不動の姿勢を取り続けた。

 

「ぐ……ぐぅああ……!!」

 

 背後からする呻き声に、全身に返り血を浴びた辰綱は顔を拭う。振り返った先には、突き技に自ら突っ込む形になり、体を縦に斬り裂かれて倒れ伏す巨口の姿があった。

 脊椎の真芯を貫くつもりだったが、頭蓋の硬さと回転のせいで少し逸れたらしい。

 血だるまになった巨口は、顔と体が縦半分に泣き別れの状態だった。自身の回転の勢いも手伝ってか、半ば自爆気味に断面が引き千切れ、見るも無残な有り様だ。

 人間なら即死だが、その肉体は徐々に再生している。こうなると頚を断たねば死ねないというのは、辰綱にはもはや呪いに感じられた。

 

「観念するのはお前の方だったな」

「ぐ……くそが……」

 

 辰綱は先刻言われたことをそのまま返しながら、再生を終える前に頚を断とうと巨口に近付いていく。だが──。

 

「ぐっ、うっ…………がああああああああああ!!!」

 

 呻き声が咆哮に変わると同時に、巨口の真下の地面が盛り上がり、地響きを立てて何かが飛び出してきた。

 それは、これまでも巨口が生み出してきた分身体だった。ただし、大きさはこれまでの数倍で、肌は青白いものではなく深紅に染まっている。

 分身体は顎が外れんばかりに口を開け、一口で半身しかない巨口を呑み込んでしまった。

 

「何だぁ、共喰いか……!?」

 

 辰綱が驚いたのも束の間、巨大な分身体は四肢をびんと突っ張って痙攣し始めると、全身の肉を波打たせながら凄まじい勢いで姿を変えていく。

 すぐに痙攣が収まり、立ち上がった分身体──もとい巨口は大きく変化していた。

 白と濃灰色による二色の肌と、縦に潰れた三日月型の紋様はそのままに、背丈は二丈を越え、体型は達磨のように、四肢は丸太並みに太く。頭髪が消え失せ、分身体と同様の完全に鮫のそれへと変貌。二つの足で立っていることを除き、人間の原型をほぼ留めていない。ついでに羽織っていた万祝衣装までご丁寧に肉体から作り出し、丈を合わせている。

 以前に一度だけ目にしたことのある、海の向こうから連れてこられた象をも越える巨躯になった異形を、辰綱はじっと睨んだ。

 見掛け倒しでないことは図体のせいだけでない、数段増した威圧感から窺える。

 

「分身に本体である自分を喰わせながら融合……いや、内側から再吸収したのか。その姿(なり)がむしろ……」

「そうとも、さっきまでが仮初の姿……」

 

 腹に響く、更に低い声になった巨口が忌々しげに唸る。

 

「このままでいるとやたらと腹が減るんでな。ここ最近は人間を喰ったら、(はらわた)の大部分を体から切り分けていた」

 

 つまり先の分身体は、大勢の人間の血肉を蓄え待機していた、非常用の兵糧であり、自らの一部だったのだ。

 

「お前を──柱を倒した後の上弦との“血戦(けっせん)”の前祝いに取っておく予定だったが……」

 

 巨口が話す中、周囲の茂みからまたも分身体が数体現れる。ただ、今回は刀傷の痕があった。

 手傷を負った鬼の分身体。傷つけられる者は限られる。辰綱が嫌な予感を抱くと同時に、今度は分身体を追って来た隊士達が現れた。

 

「どこまで逃げ──」

「潤間殿!?」

「こ、こいつが……本体、なのか……?」

「あの左眼の数字、十二鬼月!?」

 

 あちこちの方角から現れた隊士達は、柱と十二鬼月が対峙する場所に来たことにそれぞれが戸惑いを見せる。

 

「ここまで飛んで行ったお前を追う前に、“稚児”をあちこちにばら撒いておいた。他の鬼狩りに遭ったら、適当に相手をしつつ俺の元へ戻ってくるようにしてな。何故だか分かるか?」

 

 三重に並んだ牙を覗かせて、巨口がにたりと笑みを浮かべた。

 言われるまでもなく辰綱には分かっていた。要は撒き餌だ。鬼やその痕跡を見逃すわけにはいかない隊士達が、必ず食いつく餌。

 

「さぁ……お前達も俺の腹を満たせ」

「全員! すぐにここから──」

「血鬼術“群喰貪婪(ぐんじきどんらん)”!!」

 

 巨口の黒目がちな両眼がぐりんと裏返り、血走った白目を剥いた。鮫が狙った獲物を襲撃する時の仕草だ。

 巨口の全身の肉が蠢き、いくつもの鮫の頭が形作られる。そして、十を超える鮫の頭は体から蛇のように伸びていき、この場にいる全ての隊士へと一斉に襲いかかった。

 

「っああああ!!」

「がっ……!」

「壱ノ──」

 

 鮫の頭は瞬く間に人を一口で喰えるほどに巨大化し、集まった八人の隊士の半分が喰い千切られた。かろうじて避けた者や、型を出して抵抗する者もいたが、ほとんど傷を与えられていない。

 辰綱は弐ノ型“水車”で自分に迫る頭の一つを縦に両断し、そのまま前方にいた隊士を襲う、もう一つの頭を横から斬り落とすも、斬った二つの頭はこれまで以上の早さで再生を始めていく。

 真の姿となった巨口は力も回復速度も、先ほどまでの比ではなくなっていた。

 

「光栄に思え、俺に喰われることを! 十二鬼月の力になれることをぉ! ぐぐぐぐぅぁはははははははぁ!!」

 

 巨口が勝ち誇ったように吼える間も、鮫の頭は隊士達への蹂躙を止めずに貪っていく。

 一刻も早く鬼の頚を断たなければ全滅する。失血も相まって、辰綱にも猶予がなかった。

 

 ヒュゥゥゥゥゥォォォオオオ……──

 

 辰綱が常に行っている呼吸をより強く意識して行うと、風の逆巻くような音が口から漏れ出し、周囲に響く。

 ──この技で一気に頚を断つ。

 

「水の呼吸 拾ノ型──」

 

 駆け出す辰綱に、即座に反応した三つの頭が牙を剥く。

 

「──“生生流転(せいせいるてん)”!」

 

 辰綱は全身の筋肉を駆動させ、回転斬りを放った。時間差をつけて辰綱に向かってきた三つの頭、その歯牙は一つとして辰綱に届かずに斬り裂かれる。

 更に辰綱は回転を続けながら、巨口に向かって前進していく。これに危機感を抱いたのか、他の隊士を攻撃していた頭の残り全てが辰綱に舵を切り替えた。

 空を裂く度、頭を斬る度、回転は数を増すごとにその切れ味を増していく。

 これこそが水の呼吸で最高の威力を持つ連撃の型、“生生流転”。その様は大海の荒ぶる波が作り出した龍に、狂暴な鮫の群れがなすすべなく呑まれていくようだった。

 とうとう巨口が体中から生やした頭の全てを斬り落とし、残りは本来の頭部のみ。新たな頭が前に本来の頚を断つ。

 その時、白目を剥いている巨口が、確かにこちらを睨んだのを辰綱は見た。

 

「舐めるな……!」

 

 呟く巨口の肌から鱗状の物体が生え、何重にも重なり合いながら全身を覆う。細かく小さいが、これまでの鋸歯を生やす血鬼術の応用のようだ。尖った鱗を纏った握り拳で、辰綱を迎え撃とうとしている。

 ──ここだ! 

 迫る攻撃を前に、辰綱はかっと目を見開いた。

 巨口の拳の真芯は避けつつも刀と衝突した瞬間、辰綱は刀を握る両手を除く全身を、一気に脱力した。

 巨体の質量に鬼の膂力が加わった一撃は、人間一人を容易く吹き飛ばす。視界の端で裂けた口をつり上げて嗤う巨口が見えた。

 脱力していた辰綱は、風に煽られた木の葉のように宙を舞う。──狙い通りに。

 辰綱がまだ隊士にもなっていない昔、師である栄舟は言った。

 

 ──『向かってくる強い力に対してよぅ、真っ向から受け止めるんじゃ駄目だぁ。受け流す。それができてこその水の呼吸の使い手よぉ。そしてその先、受け流すだけに終わらず、力の波に乗って操る、己のものにする。それができりゃぁ、おめぇは──柱に相応しい剣士になるだろうなぁ』

 

 先ほどまでとは逆回転で、錐揉み状に落下する辰綱が振るう刀の先には、獲物を仕留めたと確信した表情が崩れる鬼。

 

「“生生流転・波濤(はとう)”!!!」

 

 激しく逆巻く水龍が、飢えた鮫に喰らい付く。

 巨口の攻撃の勢いも利用した回転斬りは、鱗の守りを物ともせずにその頚を断っていた。

 着地する辰綱に一拍遅れて、鱗の鎧が剥がれていく巨口の頚が、鈍い音を立てて地面に落ちる。続けて頚のない巨体が仰向けに倒れ込み、ずぅんと地面を揺らした。

 

「あ……あ゛あ゛……」

 

 呻き声に振り返ると、頚だけの巨口は変化する前と後、人と鮫の頭が混ざり合った、恐ろしい形相を浮かべていた。

 頚を斬ったことでその頭と体は崩壊を始めてはいるが、その速度はかなり遅い。並の鬼のようにすぐには消え去らない、その生命力の高さも十二鬼月たる由縁なのだろうか。

 ──叔父貴……。

 人間だった頃は、自分にとてもよくしてくれた、叔父の甲次郎。その成れの果てが死にゆく光景に、辰綱は鬼を討伐した達成感よりも、やるせない感情が湧き上がる。

 

 ──『よっ、辰綱。元気でやってるか?』

 ──『辰綱、これから海に出るんだ。手え貸してくれよ、駄賃は弾むぞ』

 ──『どうした辰綱、また兄貴絡みか? しょうがねぇなぁ、どれ、俺が人肌脱いでやるよ』

 

 どうして人を喰う鬼になってしまったのか。どうして村の人間を皆殺しにしたのか。自分の前で見せていた振る舞いは仮初のもので、ずっと本当の感情を隠していたのだろうか。分からないことだらけだ。

 何にせよ、彼はあまりに人を殺しすぎた。それは赦すわけにはいかない。ただ──。

 辰綱は苦しげに呻き続ける頚に近付き、刀を構えた。

 

 

 

 思い出したことがある。

 物心がついた頃から、ふと気付けば自分の中に、渇望が居座っているのを感じていた。具体的にそれが何なのかは定まっていない。ただ何をしても、満足という気分が長続きした憶えがなかった。

 兄がいた。童の頃は青瓢箪だった自分とは違い、昔から体格が良く、同世代よりも早くから大人達との漁を許されていた。

 あんな風になりたかった。羨ましかった。憧れと共に芽生えた妬みは、無理やり心の奥底に押し込めようとした。

 だが、成長し体がいくらか逞しくなっても、体格も漁の腕前も兄には及ばず、劣等感は拭えない。

 そんな中で兄と比較し、自分を小馬鹿にしてくる奴らがいた。そいつらは絶対に許さないと決め、事故に見せかけて密かに手をかけていった。

 憎悪は欠片も表には出さず、むしろ友人関係を築き、疑われる余地もない状況が整うのを待ち続け、好機を見るや動く。実行が何年越しになろうとも、待つのは苦ではなかった。

 そんなある夜のこと。密かに海へ出て、舟に乗せた亡骸を魚の餌にしようとしている現場を初めて目撃され、心臓が飛び出るかと思った。

 目撃者であるその男が骸を見ても動じていないからでも、その瞳が縦長の瞳孔で血のように真っ赤だからでも、海面に立っているその足の下で、何かが蠢いているからでもない。

 ただただ生物としての格が違うと、脳が警鐘を鳴らし、次の瞬間には舟の上で平伏していた。

 その行動は正解だったようで、男──あの御方より血を分け与えられた。人間という脆弱かつ窮屈な器から解放され、鬼になった瞬間だ。

 それから今までのことは憶えている。

 舟に乗せた亡骸を残さずに平らげてその場を後にし、行く先々で人間を喰った。

 喰えば喰った分だけ自分の力が増していき、わずか十年で十二鬼月の“下弦の壱”にまで上り詰めた。このまま着実に力を付けていけば、ここ六十年近く顔ぶれの変わっていないと聞く、上弦になることとて夢物語ではない。

 一つ懸念事項を挙げるとするなら、ここ最近はいくら人間を喰っても満たされなくなっていた。満足感を得られないのだ。飢餓状態に陥る間隔もどんどん短くなっており、同族である鬼にまで喰いつく始末。

 柱を始末し、あの御方の血を多く頂ければ、この飢餓感は癒せるだろうと思った。

 だというのに、敗北した。頚を斬られた。

 再生できずに死にゆくしかない中で、柱の鬼狩りが近付いてくる。

 刀を構えた。すでに勝敗は決したというのに、追い討ちをかけようとしている。それも当然か、鬼に憎悪がなければ鬼狩りなどやっては——。

 

「水の呼吸 伍ノ型“干天(かんてん)慈雨(じう)”」

 

 鬼狩りが崩壊していく頚の根元、そこよりやや上部を斬った。途端に断面から発生していた激痛が消え去る。新たな断面からは痛みがなく、それどころかわずかな温もりさえ感じられる。まるで、やさしい雨にでも打たれているかのような。

 

「……じゃあな」

 

 鬼狩りがこちらを見下ろす。この眼差しには憶えがあった。かつて一度だけ同じ眼差しを向けられた記憶がある。

 鬼になってから一年後に訪れた、故郷の漁村。特に足を向けた理由はない。鬼になってから人間時代の記憶はなかったし、ただ行き着いただけの話。

 だが、村を見ていると漠然とした飢餓感が湧き上がった。この渇きを癒したくて、村人を片っ端から喰っていると、一人の男が──兄が銛を片手に家屋から出てきた。

 もちろん銛一本で、鬼の自分をどうにかできるわけもない。抵抗はされたが、銛と共に腕も喰い千切って無力化した。

 しかし、血まみれで息も絶え絶えの死に際だというのに、自分に対して向けてきた兄の眼差しから伝わる感情は、恐怖でも怒りでもない。

 哀れみだった。憐憫、可哀想なものを見る目。この鬼狩りが向けているものと同じだ。

 あの時はその視線がひどく気に入らなくて、肉の一片も残さずに兄を喰ったが、別に兄のことは嫌いではなかった。無口で常に無愛想だったが、何かと目をかけてくれていたのを知っていた。

 仮に、抱えていたものを兄に打ち明けていたとしたら、何かが変わっていたのだろうか。今となっては遅すぎる考えだが。

 それに兄の息子、甥のことだって──。

 

「向こうで親父によろしく言っといてくれ。……多分、あんたを待ってる」

 

 ──あぁ、そうか。お前、お前だったのか……。大きくなったなぁ……。

 もう口も崩れ去り、声も出せない。数字が刻まれた左眼で、甥の姿を焼き付けるのが精一杯だ。

 ──何の因果か……でも……俺を殺してくれたのが……お前……で──。

 飢餓感ではない、この感情の正体が何かを理解する前に、意識が暗闇に沈んでいく。

 ただ、悪い気分ではなかった。

 

 

 

 目玉の最後のひとかけらも塵になり、鬼が完全に消え去ったのを見届け、辰綱はようやく日輪刀を鞘に収める。

 ──介錯に使う慈悲の剣技。栄舟先生が必要だと言ったのが、少し分かった気がする……ん? 

 ふと、鬼のいた場所に何か落ちているのを見つけた。

 拾い上げたそれは、金色の刺繍が施された龍の頭の一部、万祝衣装の切れ端だった。これだけは鬼の肉から作ったものではない、元は父が持っていた本物だ。手のひらに収まる切れ端一枚になっても、懐にしまっていたらしい。彼は人間だった頃の記憶はないと言っていたが、それでも思うところがあったのだろうか。

 

「終わった……」

 

 辰綱は自分の懐に切れ端をしまうと、安堵しながら地面に突っ伏した。

 そして、生き残った隊士、駆け付けた鴉の漁火や隠らに駆け寄られる中、深い眠りについた。

 

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