また、この度は当作品をお読みいただきまして、ありがとうございます。
皆様からの評価やコメントはありがたく頂戴しております。引き続きどうぞよろしくお願いします。
前回のあらすじですが、
・ついに小町さんとせつ菜さんが邂逅しました。
・八幡さんの中で戸塚さんの評価がまだ上がりました。
・八幡さんは平塚先生と戸塚さんに頼まれて、会場スタッフのバイトを急遽することになりました。
今後も細々と執筆してまいりますので、引き続き、私の妄想ごとにお付き合いいただければ幸いです。
「……おう。じゃあ、行くわ」
そう言うと、比企谷くんはポケットに手を突っ込み、下を向きながらスタッフの受付に向かっていきました。その歩き方は、急いでいるわけでも、迷っているわけでもなく――ただ、周囲から一歩距離を取っているように見えます。
いつも、そうです。考え事をしているのか、それとも、周囲に意識を向けすぎないようにしているのか。
少なくとも、何も考えていない人の立ち振る舞いではありません。書類一つ仕上げるにしても、言葉を慎重に選び、何度も確認を重ねていました。必要以上に丁寧で、効率だけを考えれば遠回りにも見えるやり方。
……気が休まらないのではないでしょうか。
「さて。小町さん。私は出演者用の控室へ向かいますが、もう観客席の方へ行かれますか? それとも、表にあるグッズショップの方へ行かれますか?」
「そうですねー。良かったら、優木さんともう少しお話したいんですがー」
……何と言うことでしょう。
私の方がわずかに背は低いはずなのに、気づけば小町さんが、上目遣いでこちらを見上げていました。
きらきらとした目。胸の前で手を組み、祈るような仕草。
「はいっ。私でよければ」
勢いに押されて、思わず頷いてしまいます。
「ホントですか!? わぁ~嬉しい」
その笑顔は、疑いようもなく本物でした。
……眩しすぎます。
「ところで、うちの兄ですがー、ちゃんとできていますか?」
その一言で、足が止まりかけました。
「ちゃんと……?」
「あ、言い方悪かったかも。えへへ」
悪びれた様子もなく、小町さんは笑います。
「びっくりするくらい何もしない人です? 学校から帰ったら即ゴロゴロ。休日もゴロゴロ。人生ゴロゴロ選手権があったら優勝しますね」
「……」
頭の中に浮かぶのは、淡々と書類を処理し、段取りを確認し、指示されなくても動いていた彼の姿。
――ゴロゴロ?
「えっと……それは、小学校の頃のお話、でしょうか?」
「いえ、現在進行形です!」
即答でした。
「友達もいなかったですし。遊びに行くとかもなかったし。基本、一人でした」
あまりにも軽い口調。深刻さはなく、事実を並べているだけの声音。
けれど、その言葉は、私の中で引っかかりました。
一人。ずっと。
「だから今のお兄ちゃん見てると、ちょっと面白いんですよ」
「……面白い、ですか?」
「はい。『え、こんなに動く生き物だったっけ?』って」
悪意は感じません。むしろ、小町さんは少し誇らしそうでした。
けれど私は、言葉を失っていました。自分から前に出ることはなくても、周囲から頼られれば応え、投げられた役割を途中で放り出さない人。
そういう人だと思っていたのです。
――かつては、誰とも関わらず、一人で過ごしていた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられます。
……それって。
「それにですね!」
小町さんは、ぱっと声を明るくしました。
「最近のお兄ちゃん、すっごく頑張ってるのが分かるんですよ。口では文句ばっかり言ってますけど、なんだかイキイキしてるんです」
「イキイキ……」
思わず、そう呟いていました。
「疲れてるはずなのに、不思議ですよねー」
控室へ続く通路は、相変わらず慌ただしい。けれど、私の内側だけが、妙に静まり返っていました。
――怠惰。
――一人。
――友達がいない。
小町さんから聞く比企谷くん像は、私の認識とは大きく違います。
責任感があって。冷静で。必要なことを、必要な順番でこなす人。
「……」
足取りを乱さないようにしながら、考えます。
今の彼は、どうしてこうも変わったのでしょうか。……いえ。「変わった」と決めつけるのも、まだ早い気がします。
「でもですねー」
小町さんは、私の沈黙を気にする様子もなく続けました。
「能力は高いんですよ。だから、頼むとあっさり終わらせちゃうんです」
「……そうなんですか」
「はい。まぁ、自分からやろうとはしませんけど」
自分から前に出ない。けれど、任されたことは放り出さない。
それは、確かに――今の彼と重なっていました。
「だから、今のお兄ちゃんは……」
小町さんは少し考えてから、にっと笑います。
「『誰かに必要とされてる』って感じがして、見てて嬉しいんです」
その言葉が、胸の奥に、静かに沈みました。
必要と、されている。かつて一人で。誰とも関わらず。ゴロゴロしていた人が、今は誰かのために動いている。
――それを、今の自分と重ねるのは、きっと違います。
私は、そっと首を振りました。
「……小町さん」
「はい?」
「比企谷くんは……昔のこと、あまり話さないですよね?」
「そうですねー。めんどくさいって言います」
やはり、そうなのですね。控室の扉が視界に入ります。私は小さく息を整えました。
立派だと思っていた人は、最初から強かったわけではない。でも、それだけで彼を理解した気になるのも、違う。まだ、何も分かっていません。
けれど。
「ありがとうございます、小町さん」
「え? 何がですか?」
「……いえ。色々と」
ドアノブに手をかけながら、思います。平塚先生が言っていた意味が、少しだけ分かった気がしました。比企谷くんの「今」を、結論を急がずに見てみたい。それは、衝動ではなく。
思慮の末に芽生えた、静かな関心でした。
***
「というわけです。ここまでの説明で質問はありますか?」
「いえ……大丈夫かと」
戸塚さんによる突貫で行われたミーティングは、マジで聞きほれるような美声の中、何をすればよいか明確になった資料と、各工程での優先順位事項に注意事項が加わったものとなっていた。
とはいえ、石橋を叩いて渡らないほどリスクヘッジに長けた俺だ。注意事項が起きた場合の対処法などを質問すると、それらにも嫌な顔をせずに一つ一つ答えてくれる戸塚さん。
この人、マジで優秀なんじゃね?
「最後になりますが、関係者用パスをかけているだけで、持ち場とは異なる管轄の質問をされます。その場合は、直ぐに私につないで、自分の仕事を優先してください。臨機応変に対応しようとするとうまく行きませんから」
「はい。わかりました」
「すまないな。比企谷。急遽だが」
「……いえ。仕方ないでしょう。こればっかりは」
本当にそう思った。やるからには、手を抜けない。
最初はよくある「体調不良を装ったサボり」かと思った。だが、ミーティング中に本来担当者から電話があり、前日まで気になった点や引継ぎ事項を口頭で説明された。マジの鼻声で、電話越しでも相当辛そうなのが分かったし、戸塚さんへ送られてきた資料には赤ペンでびっしりと加筆されていた。
ここにもまた、シャチク人がいたらしい。まさに『類は友を呼ぶ』だ。
「優木さんの出番前後は抜けて構わないからね」
「はい。ありがとうございます。とはいえ、状況次第では一緒に対応することになると思います」
「そこまで気負う必要ないよ。でも、そう言ってもらえるなら助かるかな。よろしくね」
戸塚さんは自身の仕様書を「トントン」と揃え、バインダーファイルに収めた。
「では平塚先生。比企谷くんをお借りします。私の方で記入が必要な書類は」
「ああ。帰る時に受け取りに来るさ。さて、私は一足先に失礼するよ」
そういうと、平塚先生はその長い腕を伸ばしては手をひらひらとさせて挨拶してこの場を後にする。
……関係者席はそっちじゃなくね? あ。20歳以上限定のお手洗いの方か。
「じゃあ、私も持ち場に行くね。何かあったら無線で呼んでね」
「……了解です」
相変わらず柔らかい表情を見せる戸塚さんに、俺は小さく頷き、視線を逸らした。
べっ……別に、気になるわけじゃないんだからねっ!
全く持って需要がなく、自分自身でキモさを自覚したところで、改めて自分のタスクと追加されたタスクを整理する。
同好会の一員としてやることは、優木の誘導だ。時間になったら控室にいる優木をリハ室に誘導し、終了後は控室へ戻して出番前のスタンバイ。これは前回のフェスで経験済みだし、今回の会場は動線も単純で正直ラクな部類だ。
問題は、追加された業務の方なわけで。
今回の控室は大部屋で、着替え、メイク、SNS用撮影など用途が多い。そこにペーパータオルやアルコールシート、お茶や紙コップといった備品を切らさないように補充する。
つーか着替え中に男性スタッフが入っていいものなのかね?と話を聞いた瞬間「近未来のセクハラ・痴漢行為」への不安が募るのだが、そこは「流石、イベント会社」といったところだ。
着替えは必ずカーテン内で行うことを徹底されている。着替え途中で着替え場所から出てくることは禁止。
確認書類にやたら署名させられた理由も今なら分かる。撮影も行われる場所で変なものが写り込んだら大惨事だ。良くできたルールだこと。
備品については、最初から大量に置くと無駄に消費される。結局、小出しに補充するしかない。でもなぁ、控室から備品室まで距離あるんだよな。メンドクセ。
で、問題はリハ室の方。こちらは常駐1名と共に出演者の使用後は直ぐに原状復帰し、次の人間を誘導するわけで。掃除がもたつくと、次を呼ぶ時間が遅れるわけで。そうなれば、徐々に遅れが生じて、プログラムの進行にも影響が出てしまう。要するに俺は『遅れを生まないための雑務』を引き受けたわけだ。
……1日新幹線の名誉清掃員ってところか。何とも引き受けたくない1日〇〇なわけで。どうせなら「1日マッカン宣伝隊長」を引き受けてみたいものだ。……ってこんな見た目が悪い人間に宣伝なんて無理だな。
あれ?もし優木が有名なスクールアイドルになって、マッカンのCMに出たら、大量にマッカン貰えるんじゃね?なにこれ。めっちゃいいじゃん。
……って今日がアイツのラストだっつーの。
気持ちが少し前向きになったところで、直ぐに後ろ向きになったところで、与えられた仕事に取り掛かる。
リハ室に向かう途中、『そろそろ飲み物が切れます。補充お願いします』と無線が入る。開始1分後にはすぐに別の仕事が入るとか、一体どうなってるんだよ。ただでさえ人と関わるなんて俺には無理難題だというのに『連携』とか、マジで難易度MAXなんだが……。
通路を走ることは禁止されているため、早歩きでリハ室に向かう。
「……失礼します」
ノックをして中に入ると、フローリングの床には「虹が落ちた」のかと錯覚するぐらいに色鮮やかなテープが張ってあり、駐在するスタッフさんが音出しを行っている。
あぁ。これがバミリってやつか。たしか、ステージの立ち位置とか確認するための目印だったか。
「ヘルプの比企谷です。時間なので最初の組を誘導します。よろしいですか」
「はい。こちらは準備OKです」
「承知しました。では、誘導を開始します」
そういってリハ室の扉を閉める。……ふぅ。なんとか噛まずに済んだな。っと、ひと安心している場合じゃない。飲み物の補充もあるんだったな。
再び早歩きで備品室へ向かっては、段ボールを台車に乗せてお茶と水を控室へ運ぶ。常に早歩きなため、歩く暇もないのか、5月だと言うのに既にシャツが肌に少しだけ張り付くほどの汗をかき、その感触が少しだけ気持ち悪い。
ホントに労働ってするもんじゃねーな。
ネックストラップに付属された時計で時間を確認すると、そろそろ1組目のリハを始めなくてはいけないことに気が付くと、自然と台車を押す手に力が入る。初っ端から押すとか、マジで幸先悪い。
どうにかこうにか控室に到着する頃には、額から汗が少しだけ流れるほど体は熱くなっていた。
「すいません。A組のリハ室へ移動お願いします。あと、飲み物です」
「ありがとうございます。あと、飲み物をもう1セットお願いできますか?」
「……了解です」
……なにこのスパルタ。運動部のランニングトレーニングか何かかな?
控室前には別のスタッフがいたので声を掛けると、台車に積んだ飲み物の段ボールを抱えながら、追加の「もう1セット」をこなすためすぐに来た道を引き返す。
「はぁはぁ……」
体感で30分なのだが、実際はその半分の15分程度しか経過していない。だが、既に体力は限界に近付いていた。
マジで部活動になってるじゃねーか。仮入部なら絶対にその後、入部しないパターンだろ……。
気付けば、C組のスタンバイまでをどうにかこうにか捌き切っていた。既にフェスは始まり、B組もそろそろ最終出演者の番を迎えるためか、無線は相変わらず落ち着かない。あっちもこっちもどこも大変なのね。
短距離ダッシュもひと段落したところで、リハ室脇の通路で壁に背中を預け、ペットボトルの水を一口飲み、大きく息を吐いた。シャツが肌に貼り付く不快感が和らぐと、少しだけ運動部の連中が汗だくになるまで練習する理由が分かる。ただの水なのに、ここまで美味いと思ったのは初めてだ。
「……比企谷くん?」
声に気付いて顔を上げると、そこにいたのは本番用の衣装に身を包んだ優木だった。そして、俺の顔――正確には、額から首元までを一瞥したあと、目を少し見開いた。
「……すごい汗ですね。何があったんですか?」
あぁ、そう見えるよな。鏡がなくても分かる。たぶん今の俺、見た目だけなら部活帰りの運動部員だ。
「何って……見ての通り、雑用フルコースだ」
そう返しながら、手短に説明する。欠員が出たこと。控室とリハ室の誘導と備品補充をしていること。
「要するに、現場スタッフってやつだ」
「……そんなに……」
優木は一瞬、言葉を探すように視線を落としたあと、すぐにこちらを見る。
「だったら、私のことは後回しにしても大丈夫ですよ? 比企谷くん、仕事が――」
「それは無理だな」
被せるように言った自分の声が、思ったより即答で、少しだけ驚く。
「途中で投げたら、それこそ一番面倒になる」
言い方は可愛げがないが、本心だ。途中で楽をすると、必ず後でツケが回る。アルバイト契約書にサインをしてしまったわけで、監督者がこの場にいる。手を抜いてサボったところが見つかってみろ?絶対に何かバツが課せられるに決まっている。現にこの場にいるのがまさにそれだ。
「……責任感、ありますよね」
優木が、ぽつりとそう言った。
「勘違いだ。責任感があるんじゃない」
少しだけ、口角を歪める。
「逃げる方が、もっとしんどいって知ってるだけだ」
優木は一瞬きょとんとしたあと、ふっと小さく笑った。納得したのか、していないのかは分からないが、少なくとも引き下がる様子はない。
『こちらステージ。オンタイムで進行中。C組を順次スタンバイで』
無線が短く鳴るとB組の番が終り、C組へと移行する。休憩時間短すぎだろ……。
無線が切れると同時に、身体が勝手に動いた。休憩と言えるほどの時間じゃなかったが、止まっている暇はない。壁から背中を離し、首に掛けたままのタオルで軽く汗を拭う。優木は少し申し訳なさそうにこちらを見ていたが、今はそれに構っている余裕はなかった。
「悪い。C組の誘導、行ってくる」
「はい……お気をつけて」
その言葉に軽く手を上げ、俺はスタンバイエリアへ向かう。C組は人数も多く、初動がもたつきやすい。名前を確認し、順番を伝え、リハ室側と控室側の動線が交錯しないように注意しながら、淡々と誘導する。一人一人に丁寧な対応なんてできない。
けれど、雑に扱えば確実にトラブルになる。だから最低限、声色と目線だけは意識する。
……こういうの、昔から得意でも好きでもない。
C組のスタンバイが完了したところで、ようやく一息つく間もなく、次の指示が無線に入る。
『D組、リハ室誘導の準備お願いします』
来たか。D組。次のリハに入る組で、出演者の中には――当然、優木も含まれている。集合場所へ向かうと、既に何人かが集まっていた。衣装の色合いも背格好もばらばらで、統一感はない。だが、その中でも優木はやはり目立つ。派手という意味じゃない。立ち姿が、やけに安定している。
「D組の皆さん、これからリハ室へ移動します」
そう告げると、全体がゆっくりと動き出す。通路を塞がないように、自然と縦に列を作らせる。意識してやっているわけじゃないが、こういうのは身体が覚えている。移動中、優木が隣に並ぶ。
「さっきは、ありがとうございました」
「何の話だ」
「いえ……いろいろです」
曖昧な言い方だが、深掘りする気はないらしい。少し間を置いてから、彼女が続ける。
「それと、小町さん。本当にしっかりしてますよね」
「……あいつか」
一瞬、足が止まりそうになるのを、どうにか堪える。
「場の空気を読むのも上手だし、周りもよく見てるし。比企谷くんが羨ましいです」
……やめろ。そういうことを言われると、余計なスイッチが入る。
「まあ……要領はいいな。昔から」
気付けば、少しだけ口数が増えていた。
「俺が何もしなくても勝手に動くし、無駄に察しがいいし、面倒なことも先回りして潰すし……」
一拍置いてから、付け足す。
「そのくせ、調子に乗るのも早い」
優木がくすっと笑った。
「大事にされてるんですね」
「……別に」
否定したいはずなのに、言葉が弱い。この話題、これ以上続けると自滅する。幸い、リハ室が見えてきた。
「ここから先は、俺は外で待機する。終わったら声かけてくれ」
そう告げ、出演者たちを送り出す。リハ室の扉が閉まると、急に音が遮断された。中で何が行われているかは分からないが、俺にできることはない。せいぜい、時間を確認して、次の動きに備えるだけだ。
数分後、リハ終了の合図。D組を再び控室へ誘導する。人の流れが落ち着いたところで、優木がこちらを振り返った。
「比企谷くん、少し待っててもらえますか」
「……ん?」
彼女は控室の端に置かれた備品袋から、未使用のタオルを一枚取り出し、戻ってくる。
「汗、すごいです」
言われなくても分かっている。
「使ってください。このあとも動くんでしょう?」
差し出されたタオルを、少しだけ迷ってから受け取った。
「……助かる」
「いえ。現場スタッフさんですから」
その言い方が、妙に胸に残った。タオルを首に掛けながら思う。このフェスが終われば、俺はもうここに来る理由はない。同好会室に顔を出す義理も、正直ない。
……ない、はずなのに。
『洗って返す』
そんな理由を、無意識に用意している自分に気付いて、俺は小さく息を吐いた。
仕事に戻ろう。余計なことを考えるのは、それからでいい。
その後も仕事に追われて、結局、優木のライブを見ることはなかった。完全に別行動だ。
彼女は出番を終えると、そのまま観客席で他のスクールアイドルのステージを小町と一緒に楽しんだらしい。なんなら昼ごはんも一緒だったとか。その後はどこかへ買い物に行ったとも聞いた。
……羨ましい。
こちとら昼をとっくに過ぎて、おやつの時間にようやく昼食だ。しかも立ったまま、急いで流し込むように。食事を終えたあとも仕事は続き、最終組のスタンバイまで対応して、すべてが終わったのは十七時過ぎ。
イベントは華やかだが、その裏側はとにかく地味で、騒がしくて、休む暇がない。終わってみれば、達成感よりも先に来たのは、足の重さと喉の渇きだった。
「ふぅ……」
片付けが一段落したあと、朝にミーティングを行った部屋へ呼ばれる。中にいたのは、平塚先生と戸塚さんだった。
「お疲れさま。今日はどうだったかね?」
平塚先生が、いつもの調子でそう聞いてくる。
どうだった、か。
一瞬、言葉に詰まる。正直に言えば、キツかった。体力的にも、精神的にも。
だが、それだけで終わらせるのも違う気がした。
「……楽ではなかったです」
そう前置きしてから、続ける。
「でも、無駄ではなかったと思います。段取り一つで、人の動きも時間も変わるってのが、嫌でも分かりましたから」
自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。戸塚さんは少し目を丸くしてから、柔らかく笑う。
「急だったのに、ありがとうね。本当に助かりました」
「いえ……言われたことをやっただけです」
それ以上は、何だか気恥ずかしくて言えなかった。その流れで、簡単な確認を終えたあと、戸塚さんが封筒を一つ差し出してきた。
「はい。今日の分です」
「……え?」
中身を見なくても分かる。現金だ。急遽参加のスタッフだったため、その場で精算、ということらしい。
受け取った封筒は、思ったよりもずっしりしていた。金額そのものより、重みが違う。
朝から今までの疲労や汗や、走り回った記憶が、全部そこに詰まっている気がした。
「ちゃんと働いた分だ。遠慮はいらない」
「……はい」
「本当はもう少し渡したかったんだけど、これが限界で……お詫びじゃないけど、余ったお菓子、持って帰って」
戸塚さんからお菓子が詰まったビニール袋を受け取ると、封筒と共に鞄にしまいながら、ふと思う。
『働かざる者食うべからず』なんて言葉があるが、逆に言えば、働いたからこそ、食えるし、受け取れる。
当たり前の話なのに、机に座っているだけじゃ、なかなか実感できないことだ。
今日一日で、俺はそれを身体で理解したらしい。
「じゃあ、解散だ。今日はゆっくり休め」
「……お疲れさまでした」
「比企谷くん。本当にありがとうございました」
2人はまだ話があるということで、俺一人先に部屋を出ると、会場はもう静かになっていた。昼間の熱気が嘘みたいだ。
足は重いし、正直、もう何も考えたくない。それでも、不思議と後悔はなかった。
きっと明日になったら、筋肉痛と一緒に、今日のこともじわじわ効いてくるんだろう。
――まあ、それはそれだ。
今日はもう、十分やった。