きりがない、本当に。
机の上に山のように積まれた報告書の一番上を一枚取る。
ざっくりと内容を確認し、流れるように紙面にペンを走らせ、判を押す。
それを、これまた山のように積みあがったサイン済みの報告書に重ねる。
そしてまた未確認の報告書の山から一枚取り、同じ作業を繰り返す。
報告書を取り、内容に目を通してサインをし、束ねる。
延々と繰り返される作業をすっかり体が覚え、自分の意思に関わらず作業が進むので、
自分がまるで淡々と稼働する工場ラインの一部に成り果てたような錯覚に陥る。
人間性を取り戻すように、机に置かれたマグカップに手を伸ばす。
マグごしに、ぬるいような冷たいような微妙な温度の熱が触れる。
一口だけ飲むと、口の中に強い酸味と渋みが広がり、思わず顔をしかめた。
アコの淹れるコーヒーは酸味がひどくて、苦味を通り越して渋い。
酸味や苦味の加減も人の好みによるのだろうが、
これはそんな好き嫌いの範疇を越えてただただ不味い。
それでも物は使いようというか、毒薬変じて薬となるというか、
この不出来なコーヒーも、眠気覚ましにはちょうどいい。
何気なく窓の外に視線を移す。
人の姿はなく、暗がりに、まばらに設置された街灯が石畳を照らしている。
来る日も来る日も同じ位置、同じ角度で見る景色。すっかり見慣れてしまった。
明日も明後日も明々後日も、きっと続くだろうこの仕事を、
空しいとか無意味だとはそれほど思わないが、いかんせん、きりがないと思う。
仕事に勤しむ。勉強する。朝昼晩可能な限り三食とる。朝に起きて夜に寝る。
シャワーを浴びる。歯を磨く。服を着替える。体を動かす。息をする。
決して全てがすべて単調な作業でつまらないわけではないが、
毎日毎日同じことの繰り返しで、きりがない。
なんだか日々の生活に終わりがないように感じて、にわかに全てが面倒に思えた。
疲れているのだろう。
最近は特に、ろくに睡眠時間をとっていなかったし、食事も疎かだった。
それに先生ともしばらく会っていない。
───そういえば、最後に先生と顔を合わせたのはいつだったか。
掛け時計に視線を走らせる。針はちょうど10時を指し示していた。
目の前の書類に向き直る。
書類の山は依然として図々しく腰を下ろしている。
書類を全て捌き切る頃にはいったい何時になっているだろうか。
きっとまた先生と会う機会を失ってしまうということだけは分かる。
かといってこの仕事を明日に持ち越せば、泣きを見るのは火を見るより明らかだ。
掛け時計に視線を戻す。
時間は先刻からおよそ1分ほど経過していた。
秒針は今も留まることを知らずに刻々と無機質に時間を刻んでいる。
針が音を立てて小刻みに揺れるたびに何だか急かされているような気がした。
モモトークを開き、先生に連絡を入れる。
『先生、急にごめんなさい。』
『仕事の事で聞きたい事があって、シャーレに向かってもいい?』
すぐさま既読がつく。
『全然大丈夫だよ。むしろ今からヒナに会えるのが嬉しいくらい!』
いつのものような、調子の良い返事に小さく笑みがこぼれる。
───もう、いいか。仕事は明日に回そう。
きっと明日、いや、最悪その先にまで響くかもしれないが、
未来のことは未来の私がなんとかしてくれるはずだ。
投げやり、無責任、そんな言葉が咄嗟に浮かんだが、すぐに振り払う。
決めたことだからと、書類の山を尻目に荷物をまとめ、消灯して部屋を出る。
煮え切らないような居心地の悪さを抱えて、逃げるように学園を後にした。
DUシラトリ区行きの電車に揺られ、バスに乗ってシャーレ前の通りで降りる。
シャーレに向かう通りは行きずる人もおらず、
ときおり煌々とヘッドライトを光らせる車が流れていくばかりで夜の静けさに包まれていた。
ビルの中に入り、セキュリティゲートにスマホをかざしてシャーレのオフィスに入る。
シャーレのオフィスには生徒証明書をかざせば、つまりキヴォトスの生徒なら誰でも入室できる。
生徒に全幅の信頼を置くセキュリティは先生らしいといえるが、少し危ういとも思う。
執務室の前に着く。軽くノックをして入室する。
中に入ると、仕事机に向かう先生の後ろ姿が目に入った。
すぐさま先生はこちらに気づいた様子で振り向いた。
「いらっしゃいヒナ。ちょっとそこのソファで待っててくれる?」
小さく頷き、言われたとおりに来客用のソファに腰を下ろす。
しばらくすると仕事がひと段落したのか手を止めてこちらに呼びかけた。
「ヒナ、なんか飲む?何がいい?」
「じゃあ、コーヒーをお願い」
アコのおきみやげがまだ口の中に尾を引いていた。
「コーヒー、ブラックだよね。眠れなくなっちゃうよ?」
うん、と軽く返事をして待っているとしばらくしてマグカップを2つ持った先生がやってきた。
向かいに座り、目の前に湯気を立てるコーヒーが置かれる。
一口飲む。舌に残った渋みを流し去るように丁度よい苦味が口の中に広がる。
視線を上げると、先生が両手でマグを持ちながら、にこやかな顔でこちらを覗いていた。
「やっぱり大人っぽいなぁヒナは」
大人。何回も聞いた先生なりの誉め言葉だが、なぜか心にとげが刺さったような気持ち悪さを感じる。先生は、と喉奥につっかえた気持ち悪さを吐きだすように呟く。
「先生は、無責任な人を大人だと思う?」
先生は少し驚いたような顔を見せ、しばらく考える素振りをした。
「思わないかなあんまり」
私も、そう思う。思ったよりも弱々しい返事に我ながら驚いた。
居心地の悪い沈黙が流れる中、
先生は少しの間こちらをじっと見つめ、そして掛け時計をちらっと見て口を開いた。
「そういえば、こんな時間にヒナに会えるなんて初めてだね。」うん。
うまく先生と目が合わせられず、うつむきがちに答える。
そうだなぁ。と吐息交じりの声が聞こえると同時にごそごそと布の擦れ合う音がした。
ヒナ。優しくたしなめるような声音に前を向くと、先生が向かいのソファの端に移動していた。。
「おいで」
先生がふとももを軽くたたきながら言う。
大丈夫。誰も来ないし誰にも話さないよ。続けざまに投げかける。
少し恥ずかしく感じたがこれがいつもの悪ふざけでないことは何となく分かった。
だから先生が意味するとおりにソファに座り、先生のふとももに頭をのせて横になった。
どうよ私のひざまくらは。ちょっと硬いけど気にしない。
頭に温かな手が触れる。そのまま先生はゆっくりと撫で始めた。
心地の良い感触が頭の上を行ったり来たりして少しくすぐったかった。
「本当は、仕事の相談なんて嘘。」そうなんだ。
「なんで今ここに来たのか自分でもわからない。」そうなの?
「先生に会うなら仕事がひと段落する機会を待てばいいのに」
「何でか我慢できなくて仕事も放りだしてここに来ちゃった」なるほどねぇ。
本当に子供だよね。そうかもねぇ。
目を閉じると、頭をなでる感触がより鮮明に伝わってくる。
優しく流れるように、あ、今髪を梳くように撫でた。
しばらくして、先生がぽつりぽつりと呟き始めた。
「大人はね、結局はみんな大きくなってしまった子供だと思うんだ」
「みんな心の中に嫌になっちゃうような子供のころの自分を隠している」
「そんな自分を理解してあげられたら、きっと本当の意味で大人になれるんだろうね」
「ヒナが嫌になっちゃった時はいつでも私のところに来ていいから」
「だからさ、ヒナもそんな子供な自分の事を、いつかは愛してあげてね?」
横目に先生を見上げる。
ヒナはもう分かってるかもしれないけどね、と先生がはにかんだように笑った。
「先生、もう少しだけこのままでいさせて」もちろん!あ、髪吸っていい?ダメ。
再び目を閉じる。
何だかさっきよりも先生のぬくもりが優しく感じられた。
この甘えたがりな、憎らしい「私」もいつかは愛してあげられるのだろうか。
いつになるかはわからない。けれども先生。
私が「私」を愛してあげられるその時まで「私」のこと、よろしくお願いします。
そう、切に願うのだった。