「え……え? 嘘……何で? 本当に?」
久慈川は目の前にいる女を見て、そんな風に言う。
完全に戸惑っている様子を見れば、何故ここに世界規模で有名なシェリル・ノームがいるのか、全く分からないといった感じだ。
……いやまぁ、普通ならいきなり目の前にシェリルが現れたりしたら、そんな風に動揺してもおかしくはないが。
「言っておくが、本当だぞ」
そう言うも、久慈川の目は大きく見開き、得意げに笑っているシェリルに完全に視線を奪われており、俺の言葉が聞こえている様子はない。
「久慈川りせ。りせちーだったかしら? 以前ちょっとTVで見たことがあったけど……今は随分と印象が違うのね」
今まで黙って久慈川の様子を見ていたシェリルが、ここでようやく口を開く。
そんなシェリルの言葉に、久慈川は何と言えばいいのか迷った様子を見せていた。
無理もないか。
久慈川は芸能界を引退……より正確には休養だが、とにかく仕事から離れる事にした。
そんな中で、いきなり世界的に歌姫として有名なシェリルが現れたのだ。
その上で、シェリルが多少ではあっても自分の事を知っていたとなると、色々と複雑な感情を抱いてもおかしくはなかった。
「その……シェリル・ノームさん……ですよね?」
「ええ、そうよ。私はシェリル。シェリル・ノームよ。アクセルから貴方の話を聞いて、ちょっと会ってみたいと思ったんだけど……」
「え? だって、その……私がここでアクセルと会ったのは今日ですよ? なのに、なんでシェリルさんがもうここに来られるんですか?」
「あら、そんなにおかしな事かしら? 私は元々アクセルに会う為にここに向かっていたんだもの。それを考えれば、今ここにいるのはそうおかしな話ではないでしょう?」
「……アクセルに会うって……その、こういう事を聞いてもいいかどうか分かりませんが、一体どういう関係なんでしょう?」
「こういう関係よ」
久慈川の問いに、シェリルは特に隠すような事もなく俺の腕を抱く。
「え……」
俺とシェリルの距離感は、明らかに親しいものだ。
より正確に表現をするのなら、恋人同士の男女間の距離。
久慈川にしてみれば、世界的な有名人が俺とそういう関係だという事に驚くなという方が無理だろう。
「まぁ、そういう事だ」
「嘘……信じられない……シェリルの恋人なんて……」
その言葉にあるのは驚き。
世界的に有名なシェリルだが、今までメディアに登場する事は殆どなかった。
当然ながらその私生活も知られていない。
そういうメディア露出を可能な限り減らすというのは、PR活動としてはありなのだろう。
それこそ分からないからこそ、想像の中で相手がどのような存在なのかを考え、それによって期待が高まっていく。
ただ、それだけに自分の想像……あるいは予想と現実が違った場合、それを理解出来ない、あるいはしたくないと思う者が出てくる。
今の久慈川の状況は、恐らくそんな感じなのだろう。
「あら、貴方はアクセルの良さを知らないだけでしょう?」
「それは……でも、シェリル程の人が付き合うなら、普通はもっとこう……」
「随分と元気になったわね。そんなに私とアクセルが付き合ってるのに驚いた? それとも……悔しかった?」
「そ……そんな訳ないでしょ! 一体何を言ってるのよ!」
シェリルの言葉に反論する久慈川だったが、その口調が微妙に変わっているな。
シェリルはそんな久慈川に笑みを浮かべ、店の奥に連れていく。
「おい、ちょっとシェリル?」
「ここからは女同士の話よ。アクセルはちょっと店番でもしていてちょうだい」
そう言うシェリルに、俺は何も言えない。
というか、こうしてシェリルが話す事によって久慈川の気分転換になるのなら、別に俺がここで無理に何かを言う必要もないかと、そう思う。
幸か不幸か、現在この丸久豆腐店の前には桐条グループの警備部の人間が複数いて、久慈川のファンとかそういう連中は追い払ってくれる。
また、時間もまた日中で豆腐を買いに来る者も……いない訳ではないが、少ないだろう。
そのような状況だけに、ここで俺が多少店番をしていたところで問題はないだろう。
もし本当に豆腐を買いに来た客がいたら、それこそ久慈川を呼べばいいだけなのだから。
「分かった。俺が店番をしてるから、ゆっくりとしてくれ」
「ちょっ、私の意見は!?」
久慈川の声が聞こえるものの、シェリルはそんな久慈川を引っ張っていく。
久慈川の婆さんも店にいる筈だが、顔を出す様子はない。
今の時間は客が少ないので、久慈川に任せているのか……あるいは豆腐屋というのは朝が早いらしいので、昼寝でもしているのか。
その辺は分からなかったが、久慈川の声が響いてもやって来る様子はない。
なので特に何の問題もなく、俺は店番をする。
本来なら俺が店番をするのはどうかと思うんだが。
ただ、久慈川の一件は出来る限り早く解決した方がいいのも事実。
出来れば足立によってTVの中の世界に入れられるのを防げれば、それが最善なんだが。
そして、その時に足立を捕らえるなり……最悪の場合は殺すなりするとか。
捕らえるのは堂島がはりきってやってるから、そっちで頑張って貰えばいいだろう。
丸久豆腐店の中にいると、豆腐料理が食いたくなるな。
豆腐ハンバーグとか、結構好きなんだよな。
千鶴にちょっと聞いたが、豆腐は一度冷凍して解凍してから水抜きをするとしっかりと水抜きがされ、食感も普通に豆腐ハンバーグを作るよりも肉に近くなるとか。
実際に以前千鶴からそうして豆腐ハンバーグを作って貰ったが、美味かった記憶がある。
「きゃあっ!」
何だ?
いきなりシェリル達のいる方から、そんな悲鳴が聞こえてくる。
ただしその悲鳴は恐怖というよりは喜びや興奮といったような感じの悲鳴のように聞こえた。
「どうした? 何かあったのか?」
それでもこうして尋ねたのは、TVのある場所なら足立がどこからでも出てくる可能性があるからだ。
勿論、TVと一口に言っても足立が出て来られるような大きさのTVでなければ意味はないのだが。
丸久豆腐店にそういう人が出て来られるような大きさのTVがあるかと言われれば……どうだろうな。
ジュネスにある、鳴上達が最初にTVの中の世界に入る時に使った大型TV程ではなくても、足立のように細身の男が出てこられる程度の大きさのTVであれば、あってもおかしくはないと思う。
「何でもない! 何でもないから気にしないで! お店にいてちょうだい!」
だが、聞こえてきた久慈川の言葉は足立がTVの中から現れたといったような様子ではなく、普通にこっちに来るなといったような事を口にしていた。
……まぁ、もし足立がTVから出て来ても、シェリルがいるのなら心配はないだろうけど。
TVの中の世界なら、シャドウであったり……そして恐らくずっと向こうにいる事から、ペルソナについても覚醒しているだろう。
だが、それはあくまでもTVの中の世界だけだ。
美鶴を始めとして、ニュクスの一件に関わった者達なら、現実世界でも普通にペルソナを召喚出来るのだが、TVの中の世界でペルソナ使いとして覚醒した者は、現実世界でペルソナの召喚が出来ない。
いやまぁ、TVの中の世界に自由に出入り出来るというだけで、大きな意味を持つんだが……シェリルを前にした場合、それこそ足立はズタボロにされるだけだろう。
「にしても、暇だな」
久慈川から来ないように言われていたので、つまらないと思いつつ周囲の様子を確認する。
特に何か意味があってそのような事をした訳ではない。
暇潰し以外の何も意味はなかったのだが……がらら、という音がする。
音のした方に視線を向けると、そこには見覚えのない50代程の女が1人。
「あら」
見覚えがないと言われれば、向こうも同じだったのだろう。
久慈川か、あるいは久慈川の祖母がいるのだろうと思っていたところ、俺がいたのだ。
女は訝しげな視線をこちらに向けてくる。
もっとも訝しげなというのであれば、それこそ店の前にいた警備兵とかも同じだろう。
寧ろ店の前に警備員がいたので、中にいるのが久慈川やその祖母ではなく俺であっても、そこまで動揺しなかったのか。
「いらっしゃい」
「……貴方はマルキュウさんの人、でいいのかしら?」
マルキュウ? と一瞬疑問に思ったが、マルキュウというのは丸久豆腐店の略称――というかそのままだが――であるというのを思い出すと頷く。
「そうだ」
「って、ちょっと、違うでしょ!」
店の奥から久慈川が飛び出てくる。
どうやら客が来たのを知って、シェリルを置いてきたらしい。
「りせちゃん、こんにちは。色々と大変そうだけど……大丈夫?」
女が久慈川にそう聞く。
その様子からすると、どうやら久慈川の事を知ってるらしい。
芸能界を休んで親戚の家に来るという事で、この丸久豆腐店に来たのだ。
小さい頃から、盆や正月、もしくは夏休みや冬休みには稲羽市に来ていたのかもしれないな。
「あ、はい。ちょっと忙しくしてますけど……その、大丈夫です。それに、私の事なんか吹き飛ばすような驚きを与えてくれる人もいますし」
そう言い、一瞬こちらに視線を向ける久慈川。
その視線は俺がその驚きを与えた人物と示しているようだった。
……いやまぁ、大まかにはそれで間違っていないのかもしれないが、それでも正確に見た場合は俺ではなくシェリルが驚きを与えた人物なんだろうが。
「あら、そうなの。……じゃあ、木綿を3丁と油揚げを2つ、がんもどきを5つお願い出来る?」
「はい、分かりました」
女の注文を聞き、久慈川がすぐに頼まれた食材を包んでいく。
そんな様子を見つつ、女は久慈川との会話を続ける。
「それにしても、りせちゃんも今は忙しいんでしょう? 学校の方はどうするの?」
「今、手続き中です。もう少ししたら、高校生に戻ります」
「そう。色々と大変だったでしょうけど、学校生活を楽しめるといいわね」
会話をしながらも注文された商品を集め、料金を貰ってお釣りを支払う。
この辺の流れはそれなりに慣れた手際だった。
「じゃあ、ありがとうね。恋人さん、りせちゃんをお願いね」
「ちょっ! 恋人じゃないですって、こんな人!」
「ふふふ。私も若い頃は旦那とね……あら、ごめんなさい。ちょっと惚気ちゃったわ。惚気られる前に帰らせて貰うわね」
「おばさん、だからそれは……」
更に何かを言おうとした久慈川だったが、女はそれを意図的にスルーして店を出ていた。
久慈川はそんな女の誤解を解くべく追おうとしていたが、店を空けられないと思ったのか、もしくは表に出るとファンがいると思ったのか、諦める。
ぶっちゃけ、今の久慈川を見てりせちーだと思う者がいるとは思えないけど。
俺が以前TVで見た、芸能人のオーラ? とでも呼ぶべきものもないし。
もっとも、ここまでやって来るファン達だ。
芸能人のオーラの類がなくても、久慈川を見ればりせちーだと認識してもおかしくはなかった。
「……もう。何でアクセルは恋人だって言われて否定しなかったのよ。シェリルさんがそれを聞いたら、気を悪くするでしょ」
シェリルさん、か。
向こうで話している間に、それなりに距離を縮めたらしい。
普通ならシェリルを見つけてもそう簡単には距離を縮めたりは出来ないのだが。
俺がマクロス世界に行った時、シェリルはランカと色々と接触する事が多かった。
そのランカはシェリルのファンだった事もあって、シェリルと普通に接する事が出来るようになるまでは、それなりに時間が掛かったのを覚えている。
そう考えると、久慈川は相手との距離を詰める才能を持っているのかもしれないな。
あるいはシェリルが以前と比べて成長しているのか。
ともあれ、シェリルと久慈川が仲良くなったのなら、それは嬉しい事だ。
「シェリルならそんな事は気にしないだろうな。寧ろ楽しんでると思うぞ? ……ほら」
「あら」
そっとこちらの様子を窺っていたシェリルが、俺の言葉に笑みを浮かべる。
「シェリルさん……本当にアクセルなんかと付き合ってもいいんですか? こういう事を言う人ですよ?」
「ふふっ、アクセルと付き合ってると面白い事が色々とあるわよ? 私も初めて経験するような事を色々と経験したし……」
「初めての経験……」
何を想像したのか、久慈川の頬が赤く染まる。
いやまぁ、実際その考えは間違ってる訳じゃないけどな。
それを言ったりしたら、それはそれで問題になるかもしれないから言うつもりはないが。
「何を想像してるのか分からないけど、りせが俗に言うムッツリだというのは分かったわね」
「それ、何を想像してるのか分かってるじゃないですか!」
シェリルの言葉に、久慈川は羞恥か怒りか、顔を赤くして叫ぶ。
そんなやり取りを眺めつつ、久慈川が以前と比べると少し明るくなったようだと安心するのだった。