「は? ヴォルグ・ザンギエフ? 誰だ、それ」
「……知らないのか。アクセルがボクシング業界に詳しくないのは分かっていたが、それでもこの名前くらいは聞いたことがあると思っていたのに」
沖田が呆れたようにそう言う。
鷹村とのスパーをやってから数日。
今日も俺は仲代ジムで練習をしていたのだが、沖田がいきなり声を掛けてきたのだ。
「悪いな、俺は元々ボクシングが趣味じゃなかったんだ。ここにいるのも殆ど成り行きだし、ボクシングのルールについても大体は知ってるけど、細かいところまでは覚えてないし」
「……ったく、全日本新人王がそれでいいのか? まぁ、いい。ヴォルグ・ザンギエフというのは、旧ソ連のボクサーだ。元アマチュア世界王者で、200戦以上の戦歴を持つ」
「それはまた……」
沖田の言葉に素直に驚く。
俺にとってアマチュアでの強者となると、真っ先に思い浮かぶのは速水だ。
だが、その速水ですら50勝ちょっとだ。
そんな速水の4倍近い戦歴……それも、速水がインターハイとかの王者だったのに対し、世界チャンピオンか。
もうこうなると、完全に速水の上位互換だな。
「凄い奴なのは分かった。それで、その話を俺にするという事は、そのヴォルグというのはフェザー級なのか?」
「そうだ。現在音羽ジムに所属してるらしい」
「それはまた……」
つまり、速水と同じジムだ。
速水の上位互換だと思ったところでこれだ。
いやまぁ、速水にしてみれば自分の上位互換と練習が出来る訳で、そういう意味ではラッキーなのか?
「おい、そんなに楽観的でいいのか? 話によると、ヴォルグもA級トーナメントに出るらしいぞ」
「それはまた……」
沖田の言葉に数秒前と同じ言葉を返す。
とはいえ、そうなると恐らく速水はA級トーナメントには出て来ないのだろう。
俺としては、速水との再戦を楽しみにしていたのだが。
俺が最後に速水と試合をしてから、結構な時間が経つ。
であれば、速水も間違いなく強くなっている筈だ。
……いっそ、音羽ジムにスパーを申し込みに行ってみてもいいかもしれないな。
そうすれば速水だけじゃなくて、ヴォルグともスパーが出来るかも……さすがに無理か。
ヴォルグというのも、アマの世界王者だったのは間違いないのだろうが、それでもプロになれば……あ、でもA級ボクサーとかになるのはそれなりに条件とかがあった筈だけど、どうなんだろうな。
ちなみに俺は新人王が終わった後も何度か試合はしているので、その辺の条件は既にクリアしている。
ああ、でもアマの世界王者となると、当然ながら色々と優遇されてもおかしくはないから、そう考えればA級トーナメントに出るのはそんなにおかしな話じゃないのか?
「ヴォルグが出るという事で、A級トーナメントの辞退者が続出してるらしい」
「それはまた……」
四度同じ言葉を繰り返す。
とはいえ、その気持ちも分からないではない。
今度行われるA級トーナメントの中でも、フェザー級は伊達がベルトを返上したので、優勝者がそのままチャンピオンになるという形だ。
そうである以上、当然ながらフェザー級でA級トーナメントに出ようと思っている者は大勢いただろう。
何しろフェザー級は日本人にとってはかなりの平均的な階級で人数も多いのだから。
しかし、そんな中でフェザー級にヴォルグが出て来たとなると、A級トーナメントに挑戦しても負けるだけだと思って出場を辞退したのだろう。
……東日本新人王の時も、俺と1回戦で戦う予定だった選手が拳を壊したという理由で辞退したし。
そういうのはどうかと思うのだが、ボクシングで試合をやれる回数というのは人によって決まっている。
そうである以上、絶対に負ける俺との試合を棄権するというのは悪くない事だったのだろう。
そしてそれはヴォルグとの件も同様で、そう考えればおかしな話ではないのかもしれない。
「おい、アクセル。さっきから同じ言葉しか口にしてないけど、本当に分かってるのか?」
「ああ、分かっている。ただ……俺がそのヴォルグと戦う事になったとして、それで俺が負けると思うか?」
「……それは……」
沖田が言葉に詰まる。
沖田は伊達程ではないが、俺とのスパーを何度もしている。
俺と伊達のスパーも何度もその目で見ているし、そういう意味では沖田は俺の強さを十分に理解している。
だからこそ、俺の言葉に即座に何も言えなかったのだろう。
ヴォルグの戦歴を思えば、伊達とやり合ってもいい勝負になるのは間違いない。
だが、それでも俺との戦いではどうなるか……正直なところ、俺も負けるとは思ってはいない。
そういう意味では、A級トーナメントに出場するフェザー級の選手が減るというのは、俺にとって悪くない話ではあるんだよな。
もっとも俺の場合、基本的に試合で敵からダメージを受ける事はない。
それに試合も1RでKO勝利するので、そういう意味でも俺は普通のボクサーとかなら行うダメージを抜くという行為が必要ないのは大きかった。
「まぁ、実際にA級トーナメントが発表したら、フェザー級がどういう感じになるのかを確認出来るし、それまではゆっくり待っていればいいだろ」
「……余裕だな」
「優勝するつもりだしな。というか、今更の話だが沖田はいいのか?」
「何がだ?」
「A級トーナメントだよ。てっきり沖田が出たいと主張するかと思っていたんだが」
伊達の信者と呼ぶに相応しい沖田だ。
伊達がベルトの返上をしたら、その後継者となるのは自分だと主張してもおかしくはなかった。
だが、沖田の様子を見る限りでは、そういうのを主張していない。
一体何故か。
そう疑問に思って尋ねたのだが……
「もしアクセルがいなければ、俺が出ると言ったかもしれないな」
そう告げるだけだった。
「結局4人か。……ヴォルグの効果は凄いな」
A級トーナメント、フェザー級に出るのは4人だけだった。
人数が減れば……とか言っていたが、俺が予想していたよりも大分減ったらしい。
参加者の名前には、当然ながら一歩の姿もある。
その一歩は冴木卓麻という選手との試合で、それに勝てば既に決勝だ。
つまり、1回戦が既に準決勝な訳だ。
そして一歩の相手が冴木という選手なら、当然俺の相手は……
「運が良いのか悪いのか、微妙なところだな」
合宿を終えて戻ってきた伊達が、笑みを浮かべてそう言ってくる。
伊達も既にベルトを返上したとはいえ、自分の階級についての情報は集めており、ヴォルグについても知っていた。
あるいはおやっさんが情報を流したのかもしれないが。
ともあれそんな訳で、面白そうな表情を浮かべて俺に声を掛けてくる。
「運が良いんだと思うけどな」
これは俺にとっても正直な気持ちだ。
俺の目的は、ボクシングをメジャーなスポーツにする事。
そういう意味ではクミコとの一件を絡めた新人王はかなり盛り上がったものの、それからは特に何か大きな動きがあった訳ではない。
つまり、一時的にボクシングに興味を持った者達も、話題がなければあっさりと離れていくのだ。
そういう意味では、ヴォルグの存在は美味しい。
少し前に鴨川ジムのインタビューがあり、それと続けて音羽ジムのインタビューもあったんだが、その時にヴォルグがどういう顔なのかは確認している。
美形と称して間違いない。
そして自分で言うのも何だが俺の顔もアクセル・アルマーである以上は美形な訳で……美形同士の戦いという事で、メディアでも大きく扱われる可能性は高い。
とはいえ、それでもやっぱりクミコの時のような盛り上がりは難しそうだとは思うが。
「そう言えば、千堂と間柴の2人はいないんだな。宮田は鷹村の話だと海外に行ったらしいから、いなくても仕方がないけど」
千堂辺りなら、新人王のリベンジだと言ってA級トーナメントに出場してもおかしくはないと思うんだが。
間柴は間柴で、何をしても不思議ではないし。
「ああ、その件か。千堂はアクセルと試合のダメージが抜けるのがかなり掛かったらしい」
おやっさんの言葉に、なるほどと頷く。
コークスクリューの右ストレートで行われた、クロスカウンター。
千堂は縦に2回転し、リングに張られたロープにぶつかり、その反動で観客席に落ちた。
また、その前から俺のパンチを結構食らっていたので、それによってダメージも蓄積していた筈だ。
そう考えれば、ダメージを抜くのに時間が掛かってもおかしくはない。
「結局ダメージが抜けて復帰したのは最近。そうなるとさすがにA級トーナメントまでに仕上げる事は出来ないという事で、別ルートで上を目指すらしい」
「なら、間柴はどうなんだ、おやっさん」
「ああ、間柴か。間柴は減量苦で上の階級に上げたからフェザー級には出ていない」
「あー……なるほど」
間柴の身体を思い出せば、おやっさんの言葉には納得出来るところがある。
間柴は背か高く、手足も長い。
その為、減量は一般的なフェザー級の選手よりも大変なのは間違いないだろう。
それを嫌って階級を上げるというのは、分からないでもなかった。
「それと、幕之内の相手の冴木だが……これを見てみろ」
おやっさんがそう言い、雑誌を渡してくる。
その記事には美形の男の写真が見開きで載っていた。
どうやらこの男が冴木らしい。
ちなみに記事の内容を読む限りだと、どうやら次の五輪……つまりオリンピックにおいてボクシングの日本代表として半ば決定していたらしいのが、この冴木らしい。
だが、何を思ったのかそれを放り投げてプロに転向。
その速度はアマの世界でも一級品で、関係者の間ではその速度からスピード・スターと呼ばれている……か。
こうなると、今回のA級トーナメントのフェザー級……まともなプロの選手って一歩だけなんだな。
冴木とヴォルグはアマ出身。
俺は……まぁ、経歴だけを見れば、一歩と同じくアマとは関係ないプロ一筋だが、実際にはそもそもこの世界の人間じゃないし。
というか、スピード・スター……俺はあまり興味なかったんだが、ボクシングの世界にも異名があるんだな。
いやまぁ、ボクシングを盛り上げる為と考えればそんなに悪くないとは思うが。
「……スピード・スターか。ちなみに、俺にも何か異名があったりするのか?」
「あー……その、だな」
おやっさんが俺の言葉に困った様子を見せる。
何だ?
そう思ったが、伊達が面白そうな様子で口を開く。
「何だ、アクセルは知らなかったのか? 絶望の大魔王とか言われているらしいぞ」
「……それは、また……何だかスピード・スターとは随分と方向性が違うな」
というか、ここでも大魔王なんだな。
普通なら大袈裟なと思うが、UC世界の一件で既に慣れてしまっている。
Fate世界でもアークエネミー……大敵とか大魔王とか、そんなクラスだったしな。
それに、絶望の大魔王という異名も分からないではない。
何しろ俺はデビューしてから今までの試合において、全て1RでKO勝利をしている。
これが例えば格下の相手……いわゆる噛ませ犬と称されるような相手との試合であれば、そのようなことになってもおかしくはないが、速水、一歩、宮田、千堂……どれもが一線級の実力を持っているボクサーだ。
それは試合を見れば分かる。
そんな相手に全て1RでKO勝利をしてるのだから、そんな風に称されてもおかしくはない。
あ、もしかして最近試合が行われないのも、実はその辺りが関係していたりするのか?
以前は俺が1Rで勝利するので、ダメージを受けない。つまり、本来なら数週間……場合によっては数ヶ月のダメージを抜くという作業が必要ないので、それなりに頻繁に……普通では信じられない程のペースで試合をやっていた。
おやっさんの考え方としては、出来るだけ早く俺をA級ボクサーにしたかったというのもあるし、色々な相手と戦わせて経験を積ませたいという思いもあったのだろう。
普通のボクサーならダメージを抜く作業もあるし、減量もあるので、ボクサーとして出来る試合の数はどうしても限られてくる。
だが、俺の場合はその辺の心配がないので、手当たり次第……というのはちょっと違うか、とにかく多くの相手と試合が行われていた。
しかし、A級ボクサーになり、俺の強さが知れ渡ると、当然ながらそんな相手と試合をするのは嫌だと断る者も出て来る訳で。
普通ならそういう時は外国人選手を呼んだりするのだが、仲代ジムが大手のジムであっても、資金的にそこまで余裕がある訳でもない。
伊達の件もあるしな。
そんな訳で、俺は日本人のボクシング選手と試合をしていたのだが……絶望の大魔王なんて異名があれば、それを理由として断られてもおかしくはない。
とはいえ、ボクシングを盛り上げるのを考えると、絶望の大魔王の異名はそんなに悪くないか?
「まぁ、そういう異名があると知っていれば、相応の態度で試合をやるだけだ」
そう言い、俺は笑みを浮かべるのだった。
……それから数日後、何故か冴木が仲代ジムに姿を現したのには驚いたが。