茂田がリングに倒れ込むと、すぐにレフェリーがカウントを始める。
千堂や一歩との試合の時とは違い、即座にTKOじゃなかったのはちょっと意外だったが……まぁ、この倒れ方なら無理もないか。
とはいえ、あそこまで的確に顎の先端を掠めた……つまり脳震盪を起こした以上、茂田が10カウント以内に起き上がる事はないだろうが。
「8……9……10!」
カンカンカン、と。
レフェリーが10カウントを数え終わると同時に、俺の勝利が確定する。
茂田は未だに目が覚めることはなく、担架で運ばれていくのだった。
「アクセル選手、最後の攻撃はフェイントだったのでしょうか?」
控え室で記者達のインタビューを受ける。
この状況にも大分慣れてきたな。
もっとも、防衛戦はこれが初めてなので、そういう意味ではまたちょっと違うのかもしれないが。
「フェイントというか、咄嗟の行動だな。茂田が俺のコークスクリューを待ち受けてるように見えたから、咄嗟に右手を止めて左手のフックを使った感じだ」
「つまり……アクセル選手には茂田選手の行動が全て見えていたと?」
「そうなるな。けど、それはそこまで珍しくはないだろ」
素人であれば難しい事かもしれないが、試合をしているボクサーであればその辺はしっかりと見て取る事が出来る。
それに、茂田は別に速度に特化した選手という訳でもなかったしな。
これが例えば、冴木であれば実際に試合をしている選手であっても相手の姿を確実に把握するといったことは難しいかもしれないが。
「それにしても、初めての防衛戦というのは緊張をするのが一般的でしたけどアクセル選手の動きはいつも通りでしたね、……それにいつも通り1RでKO勝利ですし」
「絶望の大魔王の本領発揮といったとこか?」
「あ、あはは……」
俺の口から出た絶望の大魔王の異名に、記者は困ったように笑う。
ボクシングの選手としての異名とは思えない異名だ。
まぁ、俺は今まで散々そんな風に言われているので、もう慣れているのだが。
「それで、アクセル選手。これからはどうする予定ですか?」
別の記者の質問に、俺はおやっさんを見る。
「あー……今のところはまだベルトを返上する予定はない。伊達の件もあるしな」
「そうですか。アクセル選手なら、世界チャンピオンになるのも難しくはないと思うのですが」
その言葉に、おやっさんは難しい顔をして黙り込む。
無理もないか。
俺が来るよりも前から、おやっさんと伊達は世界に挑戦する為に準備をしていた。
まだ国内でフェザー級のチャンピオンのままだったが、その時からしっかりと練習を重ねていたのだ。
それは他の記者にも分かっている事だったのか、迂闊な質問をした記者に鋭い視線を向ける。
周囲の記者の視線に気が付いたのだろう。
迂闊な質問をした記者は、軽く謝って黙り込む。
「アクセル選手、次に戦いたい相手はいますか?」
そう質問してきたのは、飯村。
あれ? お前……さっきまでクミコと一緒に応援席にいなかったっけ?
そう思ったが、飯村はそんな俺の様子を見ても特に表情を変えずに答えを促してくる。
「次に戦いたい相手か。……一歩とはA級トーナメントで戦ったし、ヴォルグとも同じ。となると、冴木か? 後は全日本新人王で戦ったのが最後の千堂とか」
飯村の言葉にそう答え、その後もインタビューを続けるのだった。
「アクセル、なにわ拳闘会から試合の申し込みが来てるぞ」
「マジか」
茂田との防衛戦が終わった翌日、例によって例の如く、1Rで勝利、しかも1発もパンチを貰っていなかったので、試合の翌日だというのに仲代ジムに顔を出した俺に向かい、おやっさんが即座にそう言ってくる。
「昨日の今日だぞ? というか、飯村の質問だったし、もしあの件が載るのなら、それは月刊ボクシングファンの記事でじゃないか?」
普通ならその記者の質問に答えたのだから、その記者の所属する会社が最初に記事にするのかと思っていたんだが。
けど、こうして千堂のいるジムから試合の申し込みが来たとなると、何らかの理由でそれを知ったという事なのだろう。
「こいつだろうな」
おやっさんが持っていた新聞を俺に見せてくる。
するとそこには、俺が千堂の挑戦を待っているといった記事が載っていた。
……スポーツ新聞だからとはいえ、飯村の質問の答えをこうして記事にするとはな。
「あー……うん。これを見れば、千堂も間違いなく俺が挑戦してきたと思って試合を申し込んできてもおかしくはない」
「で、どうする?」
「絶望の大魔王としては、まさか試合の申し込みがありながら逃げるなんて事は出来ないだろう?」
大魔王からは逃げられないという話はよく聞くが、大魔王が逃げ出そうとするのは、色々な意味で問題だろう。
だからこそ、千堂からの試合を受けるのは俺は構わない。
それに全日本新人王の再現となると、注目度は上がる……上がる……うーん、どうだろうな。
いや、ボクシングファンの間では間違いなく注目度は上がると思う。
だが、その相手が千堂となると、ボクシングファン以外の者達が、その試合を見たいかと言われるとちょっと微妙なのは間違いなく。
そうなると、あくまでも盛り上がるのはボクシングファンだけで、一般のあまりボクシングに興味がない者達にはそこまで興味を惹かない、か。
俺の目的はあくまでもボクシングをメジャーにする事だ。
野球には及ばずとも、サッカーには負けないくらいにボクシングを盛り上げる必要がある。
そういう意味では、千堂からの試合はいまいちではあるのだが……
まぁ、ボクシングのファンを増やすとはいえ、現時点のボクシングファンを蔑ろにするのもどうかと思うので、そうであればやはり千堂との試合を受けた方がいいのだろう。
「分かった。じゃあ、なにわ拳闘会に試合を受けると連絡をするぞ」
「そうしてくれ。とはいえ、試合はいつくらいになるんだ?」
昨日の茂田との試合では1RでKO勝利だし、1発もパンチを貰っていない。
それこそ、明日試合をやると言われれば、すぐにでも出来る。
……とはいえ、試合会場となる後楽園ホールを予約するとか、それ以外にもスタッフの用意とか、そういうのが必要である以上、ある程度の準備時間は必要になるだろうが。
「来月くらいだろうな」
「まぁ、そんなものか」
おやっさんの言葉に頷いていると……
「こんにちは」
そんな声が聞こえてくる。
声のした方に視線を向けると、そこには飯村の姿があった。
いつものようにクールな様子で俺の方に近付いてくる。
「どうした、飯村」
「いえ、昨日の試合の後でどうしているのかと思って。……あら」
飯村が俺の持っているスポーツ新聞を見て、そんな声を上げる。
「あー……これか。これはその……」
「いいわよ、別に気を遣わなくて」
どうやらスポーツ新聞の件は既に知っているらしい。
まぁ、飯村は本職だ。
その辺の情報収集も普通に行っているのだろう。
「そうか。……まぁ、このスポーツ新聞の件もあるし、少し情報を流してやるよ。いいか?」
おやっさんに尋ねると、おやっさんは仕方がないといった様子で頷く。
「あら、いいのかしら?」
「どのみちもう少ししたら情報は流れるだろうしな。なら、少しくらい早く飯村に情報を流しても問題はないだろ。特に飯村は俺に注目をしてくれてるし」
飯村が仲代ジムに顔を出すようになって、同じ雑誌記者の藤井はあまり仲代ジムに顔を出さないようになった。
……まぁ、元々藤井は記者としては平等であっても、ボクシングファンとしては一歩のファンという一面がある。
そういう意味でも、飯村を仲代ジムの担当にするというのは決して悪い話ではない。
ジムで練習をしている者達にとっても、美人な飯村は遠くから見ているだけなら嬉しいらしいし。
口説こうと声を掛けると、こっぴどくフラれるらしいが。
ただ、中には飯村からの冷たい視線を向けられるのに喜びを覚える者もいるらしいんだよな。
何気に危ない道に引き入れる事になっているのかもしれないな。
ともあれ、仲代ジムの女っ気は皆無に等しい。
そうである以上、声を掛ける事は出来ずとも、遠くから見ているだけで目の保養となる飯村は歓迎されているのは間違いない。
本人がそれをどう思っているのかは分からないが。
「どうしたの?」
「ん? ああ、いや。何でもない。それで情報についてだが……千堂を相手に防衛戦をする事になった」
その言葉を聞くと、飯村の美貌が微かに鼻白んだものになる。
「えっと、それはその……これ?」
スポーツ新聞を指して言う飯村の言葉に頷く。
「多分そうだろうな。このスポーツ新聞は全国紙だし、それを見た千堂が俺に試合を申し込んできたんだろう。……勿論、この新聞の記事だけで試合を申し込んでくる訳じゃなくて、きちんと練習を重ねていたから、それでなにわ拳闘会としても試合をしても何とかなると判断したんだろうと思うが」
幾ら千堂がスポーツ新聞を見て、俺と試合をしたいと言っても、なにわ拳闘会の会長が千堂がやりたいと言ってるからという理由でそれを受け入れるとは思えない。
そうなると、やはりなにわ拳闘会の会長も俺と試合をして勝ち目があると判断したからこそ、試合を申し込んできたのだろう。
「ビデオで見たけど、全日本新人王の試合……最後は凄かったようね」
「否定はしない」
何しろ千堂は縦に2回転し、その上でリングに張られているロープの一番上の部分にぶつかり、最終的には観客席に吹き飛んだのだから。
レフェリーが即座にTKOを宣言したのも納得の結果だった。
俺も今まで結構な数の試合をこなしてきたけど、あそこまで派手に吹き飛んだのは、千堂以外にいないと思う。
それだけ、あの試合は激戦だったという事だ。
「でも、あんな負け方をした上で試合を挑んできたとなると、やっぱり何か奥の手があるんじゃないかしら」
「茂田のカウンターみたいにか?」
茂田の秘策は、結局最後に打とうとしたカウンターだったのだろう。
実際、茂田は口だけという訳ではなく、俺のコークスクリューに合わせてしっかりとカウンターを打とうとしていた。
もしあれが俺でなければ、恐らくコークスクリューにカウンターを合わされていただろう。
それだけ、茂田のカウンターは一級品だった。
「え?」
「……え? どうしたんだ?」
何故か俺の言葉に飯村の口からそんな声が出る。
どうしたと聞いても、飯村は俺から視線を逸らし、おやっさんに向かって口を開く。
「会長、アクセルに教えてないんですか?」
「あー……俺も気が付いたのは試合中だったしな。それに結局1Rで勝ってしまった以上、言っても意味はなかっただろう?」
「そう言われればそうでしょうけど」
「何の話だ?」
2人の会話の意味が分からずに聞くと、飯村は呆れたように口を開く。
……胸の前で腕を組んでいるので、クミコ並の巨乳がより強調され、思わずそちらに目が行くか。
「アクセル」
どうやら……というか、近くにいたので当然ながら飯村は俺の視線がどこに向けられているのかに気が付いたのか、改めて名前を呼ぶ。
その言葉に、俺は慌てて飯村を見る。
すると飯村は、女教師の如く説明を始めた。
「いい、アクセル。茂田の構えはサウスポーだったけど、利き腕は右よ」
「……は?」
飯村の言葉に、頭の中で整理する。
サウスポーというのは、基本的に左利きの選手がする構えだ。
右利きの選手がしても……というか、ちょっと待て。それだと……
「あの右はジャブじゃなくてストレートだったのか?」
俺に向かって必死に繰り出していた一撃。
てっきりジャブかと思っていたが、ストレートだったとは。
いやまぁ、別に右利きだからって右のジャブを使わない訳ではないので、あれは普通に右のジャブだった可能性も否定は出来ないのだが。
「というか、何でまた右利きでサウスポーなんて……いや、考えようとしては悪くないのかもしれないけど」
「そうね。基本的にサウスポーの選手は少ないから、そういう意味では戦いでかなり有利になるのは間違いないわ。そして自分は右利きの相手とはやり慣れている。……頭を使ったわね」
飯村の言うように、これは茂田の頭脳プレーだろう。
別に右利きだからサウスポーの構えをしてはいけないとか、そういうルールはないのだから。
そうなると、これはよく考えたと言ってもいい。
「もっとも、アクセルを相手にそういう小細工をしても意味がなかった訳だが」
おやっさんが呆れたように言う。
とはいえ、実際にそうだったしな。
俺は結局茂田が右利きのサウスポーだというのを知らないまま戦い、そして知らないまま勝った訳だ。
個人的にこの件について思うところがないと言えば嘘になるが。
「ああ、そう言えば向こうから連絡が入っていたな」
そんな会話の中で、ふとおやっさんが思い出したように言う。
一体なんだ?
そう思って視線を向けると、おやっさんは笑みと共に口を開く。
「茂田だが、病院で検査して貰ったところ、特に異常なしだ。今はダメージを回復する為に休んでいるが、いずれボクサーとして復帰するらしい」
その言葉に、俺はそうかと頷くのだった。