千堂との試合の前日、俺はいつものように計量を受けており……
「アクセル選手、OKです!」
そんな声が周囲に響く。
既に季節は秋も深まっている頃。
計量については混沌精霊の力で何の問題もない俺と違い、千堂は人間である以上、しっかりと体重を既定の数値内にする必要がある。
だが、夏であれば暑さから体重を減らすのは幾分か楽なものの、これが秋から冬となると寒さでそう簡単に体重を落とす事は出来ない。
……もっとも、千堂の身体を見る限りしっかりと体調を整えてきたのは間違いなかったらしいが。
そして……
「千堂選手、OKです」
当然のように、千堂も計量でOKを貰う。
部屋の中に集まっていた多くの記者は、そんな声を聞いて俺と千堂にそれぞれ視線を向ける。
ちなみに記者の中には飯村の姿もあるが、今は仕事としてやっているので私的な感情を出す様子はない。
……遊園地でハンバーガーとかを大量に食べても無事にOKだった事で、自慢したかったのだが。
そんな風に考えていると、千堂が俺の前にやって来る。
「どうや、アクセル」
「いや、どうやって言われてもな。……まだ計量が終わっただけだろう? それで自慢をされても困るぞ」
「おんどれ、ほんまにノリの悪いやっちゃな。まぁ、いい。絶望の大魔王とか大層な名前で呼ばれてるらしいが、ワイが……浪速のロッキーが大魔王退治をさせて貰うで」
「せいぜい頑張ってくれ」
別に絶望の大魔王という異名も、俺が自分で好んでつけた訳ではない。
いつの間にか……本当にいつの間にか、そういう風に呼ばれるようになっていたのだ。
とはいえ、それを千堂に言っても特に気にしたりはしないだろう。
ただ……こうして見れば、分かる。
その引き締められた身体もそうだが、その目からは明日の試合で俺に勝つといった強い闘志が感じられる。
これは多分、何らかの対策を練ってきたのだろう。
いやまぁ、そうでもないと普通は挑戦したりしてこないだろうし。
……もっとも、この試合が実現したのは俺と茂田との試合の後でのインタビューが理由だ。
俺からの挑戦と千堂が受け取り、翌日……スポーツ新聞が出たその日のうちに試合の申し込みがあったしな。
俺への対策とか、そういうのを考えずに試合を申し込んできた可能性も……ない訳ではない。
いやまぁ、千堂のジムの会長やトレーナーが、勝ち目がないままで試合の申し込みをするか? と言われれば微妙なところだが。
ともあれ、千堂が一体どんな対策を練ってきたのか……明日を楽しみにさせて貰おう。
「ふんっ、言われんでも頑張るわい。全日本新人王の時の仕返しはしっかりとさせて貰うで」
「……あの時の試合でも怪我はそこまで大きくなかったらしいし、明日の試合が終わった後でも、怪我はするがそれが致命傷になったりはしない筈だ」
そう言うと、千堂は笑みを浮かべる。
ただし、それは闘志満々の獰猛な笑みだ。
「心配してくれて嬉しいが、明日の試合が終わって担架に乗って運ばれるのはアクセルや。全日本新人王の時とは逆の結果にしてやるさかい、覚悟しておけや」
そうして睨み合う俺と千堂をカメラマン達が次々にシャッターを切るのだった。
「それにしても、千堂は自信満々だったな。アクセルを相手に、ああいう自信を持てるってのは、素直に凄いと思う」
計量とその後の記者達のインタビューを終えると解散となり、俺は沖田とファミレスにやって来ていた。
おやっさんは何か用事があるとかで、このファミレスで十分満足出来るだけの金を渡して、別行動だ。
……いやまぁ、本当の意味で俺が満足するまで食べるとなると、渡された金では足りないんだが。
チキングリルを食べつつ、沖田に返す。
「千堂の実力は間違いなく一級品だしな。そんな千堂がああいう事を言うからには、何らかの奥の手は用意していると見ていいだろう」
「スマッシュのようにか?」
沖田も全日本新人王では俺と一緒に大阪に行っただけに、千堂のスマッシュについては知っている。
いや、それ以前に千堂が仲代ジムに来た時に伊達とのスパーでスマッシュを見せていたか。
「恐らくはな。具体的にどういうパンチなのか……あるいは、もしかしたらパンチとかそういうのじゃなくて、もっと別の何かという可能性も否定は出来ないが」
例えば一歩のピーカブースタイルのように、防御方法を変えるとか。
……もっとも、これについては自分で言っておいてなんだが、恐らくは違う気がする。
そもそも千堂の性格を考えれば、防御よりも攻撃に力を使うだろうし。
「別の何かか。……例えば、アクセルのあのとんでも技を破る方法を見つけたとか」
「とんでも技?」
「あれだよ、相手の瞬きに合わせて瞬時に移動するって奴」
「別にあれはとんでも技って程でもないだろう。かなりの才能と訓練は必要だろうが、やろうと思えば出来ると思うぞ?」
すぐに思いつくのは、宮田、冴木、ヴォルグ……この3人なら出来そうな気がする。
ただ、実際に習得するのには相応の……いや、かなりの訓練が必要なので、あれを出来るようになるよりも、普通にボクシングの練習を積んだ方が強くなりそうな気もするが。
短時間で出来るようになるのなら話は別だが。
ただ、瞬きというのは本当に一瞬だ。
それを察知し、その一瞬で相手の視界から完全に消える必要がある。
それがなかなかに難しい。
魔力や気によって身体強化をしていれば余裕ではあるのだが。
……ただし、魔力や気を使えるのなら、それこそ相手も魔力や気で敵の位置を察知してもおかしくはない。
とはいえ、魔力や気を使えるようになるのはそう簡単ではないのだが。
「どう考えてもやれそうにないんだけどな」
呆れたように言う沖田。
そんな風に、ファミレスで俺は試合前の英気を養うのだった。
「アクセル、わざわざ言うまでもないと思うが……お前なら相手が千堂でも負ける事はない筈だ。頑張ってこい」
控え室にスタッフが呼びに来て、俺が立ち上がったところで伊達がそう声を掛けてくる。
そこには俺が負けるといった思いは一切なく、絶対に俺が勝つと思っている。
まぁ、伊達は未だに俺とのスパーで勝利出来ていない……それどころか、1発もパンチを当てられていないしな。
そんな伊達にしてみれば、俺が千堂に負けるというのは全く想像出来ないのだろう。
「ああ、任せておけ」
本来なら、伊達は世界戦の準備で忙しい。
それこそ俺のセコンドに来るような余裕はない。
ないのだが、それでもこうして来ているのは……同じジムの仲間だからというのが大きいのだろう。
それ以外にも、俺とのスパーで勝利は出来ずとも、何とか1発はパンチを当てたいので、千堂がそのヒントになるかもしれないとか?
そんな風に思いつつ、俺は試合会場に向かう。
耳慣れた音楽が聞こえてくる。
シェリルの曲だ。
今のところ、俺はこの曲を他の誰にも使わせていない。
つまり、今のところこの曲を使えるのは俺だけなのだ。
……まぁ、実際にはこういう曲があると知って、それを再現して自分で聴いたりとか、そういうのがいる可能性は否定出来ないが。
「またか」
リングに向かう途中、客席にクミコと飯村が並んで座っているのに気が付き、そう口にする。
あの2人、性格的には合わないと思うんだが……こうして見た感じだと、それなりに友好的にやってるらしい。
そんな2人が俺と視線が合うと、それぞれ手を振ってくる。
それにグローブを突き出すと、そのままリングに向かう。
何だか黄色い悲鳴が聞こえてくるんだが、一体何がどうなっているのやら。
当然ながら、黄色い悲鳴を上げているのはクミコや飯村ではなく、そんな俺達のやり取りを見た周囲の観客達だ。
……全日本新人王の時は大阪での試合だったので、千堂のファンが多かった。
そして千堂のファンは男が多く、そういう意味ではこの後楽園ホールでの観客達のノリの中で試合をするのは千堂にとって初めての経験だろう。
実際、俺に続いて試合会場に入ってきた千堂は周囲の様子に少しだけ戸惑ったような表情を浮かべ……
『せ・ん・ど! せ・ん・ど!』
しかし、そんな中で千堂を応援する者達の声が響く。
リングの上で声のした方に視線を向けると、そこにはいかにもといったような千堂のファンと思しき男達の姿がある。
もしかして、大阪からわざわざ応援をする為にやって来たのか?
そう考えるも、そんなにおかしくはないか。
千堂は大阪ではボクシングファンから絶大な人気を持つ。
それだけに、熱狂的なファンも多く、大阪から東京まで応援に来るくらいはどうという事もないのだろう。
千堂はそんな自分のファンに向けてグローブを向ける。
千堂のパフォーマンスに、ファン達も嬉しそうに声を上げていた。
「どうやら熱心なファンがいるようだな」
リングの中央で俺と向かい合う千堂に向かってそう言う。
千堂はそんな俺の言葉に笑みを浮かべる。
「そうやな。せやから、ワイの応援をしに来てくれた連中にはいい思い出を見せてやるつもりや」
「残念だな。それが悪い思い出になるのは、お前のファンにとっては悲しい事になりそうだ」
「へっ、言うやないか」
「事実だからな」
そうして言葉を交わしていると、やがてレフェリーが近付いてくる。
そこで話を止め、レフェリーからの諸注意を受ける。
特に俺の方に向かって注意を口にしてるのは……一体どういう事だ?
俺は別にレフェリーを無視したりはしていないが。
……いや、俺のパンチの威力が影響してるのか。
何しろ前回の千堂との試合では、縦に2回転し、リングのロープにぶつかり、そのまま客席に飛び込んで試合が終わったしな。
そう考えれば、これは仕方がない事なのかもしれない。
そしてレフェリーからの注意が終わると……試合が始まる、カンというゴングの音が周囲に響く。
いつものようにグローブを出すと、千堂もそのグローブに自分のグローブをぶつけ……次の瞬間、千堂は一気に前に出る。
ジャブ、ジャブ、ジャブ、ボディ。
素早く離れてジャブを回避し、ボディに対する一撃は後ろに跳ぶ事で回避する。
だが、それも千堂にとっては計算通りだったらしく、そのまま踏み込み……って、速い!?
勿論、千堂が全日本新人王の時と同じだとは思っていない。
思ってはいないが、今の踏み込みは予想以上の速度だった。
それこそ速度……より正確には加速力という意味では、冴木すら上回っているのではないかと思える程の、そんな速度。
一瞬にして俺が後ろに下がった分と同じだけの距離を詰めると、スマッシュの体勢に入る。
そうして放たれる一撃。
スマッシュの速度も切れも、間違いなく以前よりも増している。
だが……その一撃を放つ瞬間の瞬きを見逃さず、俺は即座に千堂の真横に回り込む。
既にスマッシュを打つ……というより打っていたので、千堂は真横から打たれるパンチに反応出来ない。
そう思った次の瞬間、俺は驚く。
千堂が、スマッシュを放った勢いのままで前に進んだ……というか、跳んだのだ。
結果として、俺が千堂の顔面に向かって放ったパンチは空を切る。
「どうやぁっ!」
スマッシュの推進力で前に出た千堂は、叫びながらこちらに振り向く。
本来なら試合中にそういう事を言うのは駄目なのだが……まぁ、その気持ちは分からないでもない。
瞬きの瞬間横に移動しての一撃。
これは耐えた者がいるし、それどころか耐えながら反撃してきた者もいる。
だが、完全に回避されたのはこれが初めてだ。
……伊達や鷹村ですら、ここまで完璧に回避はしていないと言えば、千堂が今やった事がどれだけ凄いのかが分かりやすいだろう。
勿論。伊達や鷹村とやってるのはスパーであって、本当の試合ではない。
そしてスパーと試合では本気度や気合いの乗り方が大きく違う。
そういう意味では、もしかしたら本気で試合になった場合、伊達や鷹村も今の攻撃を回避出来たりするかもしれないが……とにかく公式の試合で俺のこの攻撃を回避したのが千堂だというのは間違いのない事実だった。
レフェリーが千堂に視線を向けるも、レフェリーが何かを言うよりも前に俺は動く。
……まぁ、ここでレフェリーが動かなくても、例えば判定になった場合、さっきの千堂の言葉で相応のマイナスにはなるだろうが。
ただ……俺はこの試合を判定で終わらせるつもりはない。
きちんと千堂をKOして勝利する。
そんな風に考えつつ、俺は前に出る。
千堂のような相手の場合、こっちから前に出ないと、向こうがどんどん前に出て来る。
そうなるとテンポよくこっちを攻撃してくるので、重要なのはそのテンポを崩す事だろう。
とはいえ、千堂にしてみれば俺とのインファイトは望むところなのは間違いない。
獰猛な笑みを浮かべ、千堂もまた前に出て来る。
そして俺と千堂は至近距離……密着状態というのは少し大袈裟だが、そんな距離で打ち合う事になるのだった。