「……今日、また仲代ジムの方に顔を出すから」
そう言うと、飯村……いや、真理は顔を赤くしてホテルの前から立ち去る。
歩き方が少しぎこちないのは……その辺については触れない方がいいだろう。
とにかくホテルの前で真理と別れると、俺はいつものように仲代ジムに向かう。
「おう、アクセル。早速スパーを……うん? ははぁん」
俺を待ち構えていた伊達が、意味ありげに笑う。
一体今の俺を見て何を思ったのか。
……ホテルを出る前にシャワーは浴びたので、昨夜の行為を察することが出来るようなものはない筈だが。
とはいえ、伊達が何か妙な事を言うよりも前に話をしておくか。
「もうすぐ世界戦だっていうのに、随分と気楽だな。世界チャンピオンのリカルドというのは、強いんだろう?」
「……ああ、強いね。それは間違いない」
先程の面白そうな様子から一転、真剣な表情でそう言う。
それだけ伊達にとってリカルドという存在は大きいのだろう。
「だが……リカルドが強いのは間違いないが、俺はアクセルと毎日のようにスパーをやってるんだぞ? それで未だに1発もパンチを入れられていない。そしてリカルドに勝つのは難しいかもしれないが、パンチを当てる事は出来る」
「つまり、俺の方がリカルドよりも強いと?」
「さあな。以前のリカルドと比べればそうだと思うが、今のリカルドは間違いなく以前よりも強くなっている」
「伊達も成長してるんだし、リカルドが成長していないという事はないか」
「ああ。もっとも、俺の成長にはアクセルがいる。それに対して、リカルドにアクセルはいない。……まぁ、フェザー級の絶対的なチャンピオンだ。そう考えれば、アクセルはいないが他に協力者は多くいるだろうな」
そんな風に会話をし……伊達が何かに気が付いたのかを誤魔化し、スパーを行う。
……ただ、この時の俺は伊達を誤魔化す事が出来て安堵していたのだが……
「ふーん……なるほどね」
午後になり、ホテル前での約束通り、真理が仲代ジムに顔を出した。
そんな真理を見た伊達は、午前中に俺が見たのと同じような意味ありげな笑みを浮かべる。
あー……これは完全に知られたな。
真理も別にそこまで露骨に表情に出している訳ではなかったのだが。
顔が赤くなったりもしていないし。
まぁ、伊達はそういうのに詳しいし、仕方がない事なのだろう。
……その日、結局真理は伊達にチクチクと言われ、それが原因で仲代ジムにいた全員に俺と真理の関係が知られる事になったのだった。
「伊達さん、負けてないな」
沖田の呟く声が聞こえてくる。
現在俺と沖田の視線の先では、伊達がリカルドと一緒に記者会見を行っていた。
リカルドは俺が思った以上に有名だったらしく、日本に来た時、空港にはかなりの数の記者やカメラマンがいたらしい。
それこそ、日本だけじゃなく海外の記者やカメラマンまでも。
何しろリカルドが来たという事で、TVでは生中継もされていたし。
ボクシング人気がそこまで高くない日本で、これは異例な事だった。
俺の活躍によってボクシングがそれなりに普及されたのも関係あったりする……のか?
うーん、どうだろうな。
ともあれ、そんなリカルドだけに、伊達との試合前の記者会見も当然のように生放送で行われる。
そして現在伊達とリカルドが並んでそれぞれ質問に答えている。
「そう言えば、幕之内だったか? 何度かアクセルと戦った選手が、リカルドのスパー相手をしたらしいぞ」
「そうなのか? ……一歩の事だから、リカルドにダメージを……いや、それはないか」
一歩がフェザー級の中で強者なのは間違いない。
間違いないが、それでもリカルドとのスパーでは一方的にやられてもおかしくはない。
相性も悪いしな。
伊達から聞いた話だと、リカルドはインファイターという訳ではない。
俺と同じ万能型だという話だ。
そして文字通りの意味で世界トップクラスの技術を持つ男。
そんな相手と一歩がスパーをしても……どうなったのかは、容易に想像出来る。
もっとも、デンプシーロールだったか? それが命中すればリカルドにも大きなダメージを与えられるだろうが……問題なのは、そもそも攻撃を命中させられるかだ。
……無理だろう。
そんな風に思っていると、インタビューが終わったのだろう。
伊達がリカルドと握手をする。
握手をする前に少し時間があったのが気になるが……まぁ、伊達にしてみればリカルドとの試合は心の底から待ち望んでいたものだ。
そうである以上、こみ上げる思いがあってもおかしくはない。
リカルドの方は、そんな伊達を見ても特に何かを感じた様子はなかったが。
リカルドはフェザー級の世界チャンピオンとして、今まで多くの相手と戦い、それに全勝してきた。
それだけに、伊達のような反応には慣れていてもおかしくはない。
そうして握手が終わると、それで記者会見も終わる。
「ふぅ、無事に終わったな……」
沖田がしみじみといった様子で呟く。
もしかしたら、何か予定外の事が起きるかもしれないと、そう思っていたのかもしれないな。
まさかとは思うが、伊達がいきなりリカルドに殴り掛かるとか。
……まさかな。
そんな風に思っていると、記者会見を終えたリカルドとそのマネージャーがこっちに来る。
別に俺達に用事がある訳ではなく、控え室に向かっているのだろう。
そのリカルドが近付くと、沖田がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえてくる。
沖田にとっても、リカルドというのは大きな存在なのだろう。
無理もないか。
沖田は生粋の伊達の信者とでも呼ぶべき者だ。
それだけに、その伊達に勝って一度引退させたリカルドという男には思うところがあるのだろう。
俺にしてみれば、そこまで伊達信者という訳でもないし、リカルドとも何かの因縁がある訳でもない。
ただ、俺のいる階級の世界チャンピオンだという事で見ていたのだが……
「ん?」
俺達の近くを通りかかったリカルドが、不意に足を止める。
そして俺をじっと見つめていた。
「リカルド?」
リカルドのマネージャーらしい男が、不意に足を止めたリカルドにそう声を掛ける。
だが、リカルドはじっと俺を見たままだ。
「……何か?」
さすがにここまで間近で見られると、一体どうしたのかと気になる。
気になったのだが……
「はぁっ、はぁっ、はぁ……」
「うん?」
荒い息を吐き、顔中にびっしりと汗を掻き、顔色も青を通り越して白くなっているように思える。
おい、ちょっとこれ……本当に大丈夫か?
もしかして、何か病気とかそういう事じゃないよな?
「リカルド? ……身体の調子が悪いのか?」
マネージャーもリカルドの様子を見て、戸惑ったように、それでいて心配そうに聞いている。
その様子からすると、リカルドのこの様子は初めてみるのだろう。
「いや、大丈夫だ。ただ……ちょっと、通訳を頼む」
マネージャーに向かい、そう言うリカルド。
マネージャーはそんなリカルドに対し、心配そうにしながらも次に俺を見る。
一体俺が誰なのか、俺に何の用事があるのか、そんな疑問を抱いているのだろう。
「通訳はいらない。言葉は通じる」
リカルドに向かってスペイン語でそう声を掛ける。
メキシコ人というのは、スペイン語が基本的な言語だ。
そして俺はスペイン語も話せる。
もっとも、スペイン語は日本語と似ているらしいので、日本人にとっても覚えやすい言語ではあるのだが。
「……そうか。君は一体何者だ?」
言葉が通じると理解し、リカルドがそう俺に聞いてくる。
さて、何と答えるべきか。
いや、ここで何と答えるのかはもう決まっているな。
「日本のフェザー級チャンピオンだ。あんたが明日戦う伊達の後釜だよ。ついでに同じジムでもある」
「……Mr.伊達よりも強い君が、か?」
なるほど、どうやらリカルドは俺の強さを肌で感じ取ったらしい。
「同じジムだし、他にも色々と理由があるんだよ」
「……なるほど。では、明日の試合は慎重に行うとしよう」
そう言い、リカルドは多少不自然な様子を見せつつも、この場から立ち去る。
リカルドのマネージャーが俺に対して理解不能といった視線を向けていたが、それも無理はないか。
何しろマネージャーにしてみれば、リカルドは金の卵とでも呼ぶべき存在だ。
そんな金の卵が、俺を前にして動きを止めていたのだ。
一体何があったのかと、疑問に思っても仕方がないだろう。
……というか、よくリカルドは俺の強さを察知出来たな。
まさか、この世界の人間にそういう芸当が出来るとは思ってもいなかった。
いやまぁ、リカルドが特別なだけなのかもしれないが。
そんな風に思っているとリカルドのマネージャーがリカルドを追い……
「アクセル、一体どうしたんだ?」
スペイン語での会話だった以上、沖田には俺とリカルドの会話は分からなかったのだろう。不思議そうにそう聞いてくる。
「いや、大したことじゃない。ただ、リカルドにお前は誰かと聞かれただけだ」
「……その割には、何か妙な様子じゃなかったか? もしかして、体調を崩したとか? だとすれば、伊達さんも侮られたものだな」
いや、別に違うんだが。
そう言おうと思ったが、そうなると本当はどんな話をしたのかを言わないといけない。
……いやまぁ、沖田も俺が伊達よりも強いというのは、毎日のように行われているスパーで分かっているだろうから、本来ならそれについても言ってもいいんだが。
ただ、当然ながらスパーと本番の試合というのは大きく違う。
そして伊達の信者と呼ぶのが相応しい沖田だけにそれを言うと面倒な事になりそうな気がするんだよな。
「体調については、気候とかそういうのでも大きく違ってくるし、リカルドがその調整に失敗しても……まぁ、明日の試合が流れるような事にはまずならないと思うから、心配はいらないと思うけどな」
何しろこの世界戦にはとにかく金が掛かっている。
今回の記者会見も、生中継で行われたのだから。
ここまで大々的にやるとなると、仲代ジムが大手とはいえ、完全に仲代ジムだけで出来る訳ではない。
TV局を始めとしたスポンサーがいての話だ。
……俺にしてみれば、ボクシングを大々的に放映してくれるのは非常に助かるんだが。
何しろ俺の目的は、ボクシングをメジャーにすることなのだから。
そういう意味では、今回の一件は決して悪くはない。
「おう、待たせたな。……うん? 何かあったか?」
リカルドがいなくなってから、数分。
伊達がおやっさんと一緒にやって来て、そう聞いてくる。
「いや、何でもない。ちょっとリカルドと話をしただけだよ」
「リカルドと……? 一体何があったんだ?」
伊達にしてみれば、まさかここで俺達がリカルドと話をしているというのは予想外だったらしい。
「その、何だかリカルドがアクセルを見て、会話をしてました」
おい、あっさり俺を売るな。
沖田の様子にそう思ったものの、沖田の性格……伊達の信者というのを考えれば、こういう流れになるというのは容易に予想は出来ていた。
「へぇ……もしかして知り合いだったりするのか?」
「メキシコに行った事は今まで1度もないよ」
この世界では、だが。
他の世界でなら、何らかの理由でメキシコに行った事があってもおかしくはない。
俺はシャドウミラーの代表として、色々な場所に行ってるし。
「なら、何でリカルドが?」
「リカルドにも色々とあるんだろうな」
取りあえずそう誤魔化す。
伊達は俺のその言葉を聞いても完全に納得したといった様子ではなかったが、それでもこれ以上聞いても意味はないと判断したのか、追及はしない。
「取りあえず記者会見は終わった。後は……試合をするだけだ」
そう言う伊達は、静かに闘志を燃やすのだった。
伊達とリカルドの試合……これは結局、伊達が負けた。
とはいえ、前回伊達がリカルドと試合をした時とは比べものにならない程の接戦となり、最後の最後まで決着がつかず……最終的に判定でリカルドが勝利したのだが。
もっとも、試合を行ったのは日本……伊達にとってはホームで、リカルドにとってはアウェイだ。
その状態でも判定で負けたのを考えると、実際にはリカルドの方が圧倒的に有利だったのかもしれないな。
もっとも、日本人はそういう面ではかなり平等だ。
露骨に伊達を贔屓するような事はしない。
……勿論、それはあくまでも基本的にはだ。
レフェリーとかそういうのの中には金を貰ってどちらかに贔屓したりする者も当然いる。
それ以外にも、本人が平等なつもりでも自分でも気が付かないうちに、少し……ほんの少しだけ伊達に甘く、リカルドに厳しくなったりという事はあるかもしれないが。
ともあれ、その状態でも伊達が負けてしまったという事は、やはり伊達が幾分か有利な状態であってもリカルドが勝利をしたという事で……実力的にはリカルドの方が上だったのだろう。
ハートブレイクショットを命中させた時に一気に勝負を決められればよかったのだが、それが出来なかったのは、伊達にとって大きな……致命的なミスだったのは間違いない。