控え室は、当然ながら綺麗な部屋だった。
……昨夜、ホテルでは微妙に俺に対する妨害行為とかあったんだが、さすがに控え室ではなかったらしい。
10分おきくらいに電話が鳴ったり、部屋が妙に寒くなったかと思えば、暑くなったり。
廊下でいきなり叫び声がしたりといった具合に。
もっとも、電話については電話線を引っこ抜き、気温については混沌精霊としての力を使い、廊下の叫び声は気にしないで普通に眠ったが。
俺のスパー相手としてやって来た伊達は少し疲れた様子だったが。
おやっさんやトレーナー達は、それよりも更に一段疲れた様子だ。
俺がメキシコに来て数日はそういう事がなかったのに、昨日になって急にそういう妨害行為が行われたのは……言うまでもなく、記者会見が理由だろうな。
当初、メキシコのボクシング関係者にとって、俺という存在はリカルドの白星を1つ増やす為の存在としか認識はしていなかったのだろう。
だが、昨日の記者会見でリカルドは俺を強敵であると認めた。
だからこそ、ボクシング関係者……特にリカルドのファンにしてみれば、少しでも俺の体調を崩して不利な状況にし、リカルドの勝率を上げたいと思ったのだろう。
その気持ちは分からないでもなかったが、多分リカルドがそれを聞くと怒ると思う。
リカルドの様子からして、正々堂々……というか、より強者と戦うのを楽しみにしてるような感じがしたのだから。
「アクセル、言うまでもないが今日の試合はスポンサー候補が見ている。お前が本当に以前口にしたフェザー級以上の全階級を制覇するというのなら、今日の試合は大きな意味を持つ。それは分かるな?」
おやっさんが真剣な表情でそう言ってくる。
無理もないか。
俺の言葉から始まった一件だったが、おやっさんはそんな俺のアイディアに文字通りの意味で全財産を賭けている。
それだけ俺の実力を信頼しているというのもあるのだろうが。
そんな訳で、おやっさんにしては今日の試合は俺の夢の最初の1歩として、非常に大きな意味を持つ。
……もっとも、その最初の1歩目がリカルドという、全階級のチャンピオンの中でも屈指の強さを持つ男であるというのは、ちょっとどうかと思わないでもないが。
「分かっている。スポンサーを集めるためにも、今日はしっかりといいところを見せるから安心してくれ」
その言葉におやっさんは頷き、他の面々も安堵した様子を見せる。
どうやら昨夜の妨害の件もあって、俺の調子が普段通りかどうか聞いてきたのだろう。
……とはいえ、これは俺だからよかったものの、もし俺でなければ世界戦前にプレッシャーを与えていたという事にならないか?
そんな風に考えていると、部屋の扉がノックされ俺は立ち上がるのだった。
試合会場に入ると、既にリカルドはリングの上で俺を待っている。
リングに向かう中で流れているのは、既にお馴染みのシェリルの曲。
違うのは、観客達の多くが俺にブーイングをしている事だろう。
どうやら昨日の記者会見が余程お気に召さなかったらしい。
全日本新人王の時の大阪でも同じような感じではあったが……あっちがブーイングのアマチュアだとすると、こっちはブーイングのプロといった感じだな。
もっとも、あくまでも観客達がしてるのはブーイングだけで、何かを投げてきたりとかしないが。
トレーナーの中には怖がっている者もいるが、俺はそれを気にせずリングに進む。
ちなみに、観客席の中には真理とクミコの姿もあった。
真理がいるのは昨日の記者会見で分かっていたが、クミコも来てたんだな。
というか、トップアイドルのクミコはスケジュールもかなりきついものがある筈だが、よくメキシコまで来るような余裕があったものだ。
そんな風に思いつつ、歩きながら2人に向かってグローブを突き出す。
クミコと真理の2人は、そんな俺に向かって笑みを浮かべていた。
その笑みを受けながら、俺はリングに上がる。
リカルドは俺を見ても真剣な表情を浮かべたままだ。
ストイックってのは、こういうのを言うんだろうな。
アナウンサーが色々と言ってるが、それを無視してリングの中央に向かう。
リカルドもまたリングの中央にやって来る。
『……』
俺もリカルドも、お互いに無言。
これから行われる戦いを考えれば、それが相応しいのだろう。
そんな俺とリカルドの雰囲気に当てられたのか、レフェリーがおずおずと近付いてくる。
世界戦のレフェリーを任されるくらいなのだから、このレフェリーも審判としての経験は十分に積んでいるのだろう。
しかし、そんなレフェリーであっても、俺とリカルドの間に流れる空気に何か感じるものがあったらしい。
それでも色々な注意を口にするのは、レフェリーとしての役割を自認している為だろう。
そして……レフェリーからの諸注意が終わると、いよいよ試合が始まる。
カァン、と。
そんなゴングの音と共に、俺はグローブを前に出す。
リカルドも同様にグローブを前に出し、そして双方のグローブが触れたところで、本当の意味で試合が始まった。
リカルドの構えは、オーソドックスな構えだ。
それこそボクシングの基本と呼ぶべき構え。
奇をてらったりといったことはない、そんな構え。
そんな構えのまま、ジャブが放たれる。
パァン、と。
俺の右グローブがリカルドの左ジャブを弾く。
そのジャブを弾きながら、俺は少しだけ驚いた。
ボクシングに限らず、格闘技において次にどのような攻撃をするのかというのは、その身体の動きを見れば分かる。
肩、腕、拳、足、身体、顔……全ての身体の部位を見れば、微かにではあるが動きを見て、その行動を予想する。
しかし、リカルドはそんな予備動作がかなり小さいままでジャブを放ってきたのだ。
伊達も相応にレベルの高いボクサーだったが、リカルドはそんな伊達よりも上をいく。
現在の世界チャンピオンの中でも、リカルドと同じ事が出来る者が一体どれだけいるのやら。
……ただし、リカルドにとって運が悪かったのは、俺が混沌精霊であるという事だろう。
身体の予備動作を見て予想して身体を動かすのでなく、見てから回避しても十分に間に合うのだ。
「っ!?」
一瞬だったが、リカルドの表情が驚きに染まる。
リカルドにとっても、まさかいきなり自分の攻撃を……それも格闘技の中で最速と言われるジャブを回避されるとは思わなかったのだろう。
実際、伊達もリカルドのジャブはかなり命中していたし。
だが……一瞬にしろ驚いたのは、俺を前にして大きな隙となる。
驚き、瞬きをした瞬間に動く。
いつものように、相手の瞬きに合わせての動きだ。
瞬時にリカルドの真横に移動すると、ショットガンシェルを……打とうとして、その動きを止める。
リカルドがその場から即座に後ろに跳び退ったからだ。
俺が消えた瞬間、反射的に行った行動だろう。
そのことに驚きつつも、ここで追撃をしないという選択肢はない。
リングを蹴って距離を詰め、左ジャブを放つ。
連続して3発、続けて右ジャブを1発。
しかし、リカルドはその全てをガードする。
さすが世界チャンピオンといったところか。
そう思っていると、俺のジャブの合間を縫うようしながらリカルドもジャブを放つ。
これはちょっと……いや、かなり意外だった。
自分で言うのもなんだが、俺のジャブの速射性能は非常に高い。
ショットガンシェルには及ばないものの、それでもジャブとジャブの隙間を突くというのはそう簡単に出来る事ではないのだが……けど、甘い。
リカルドのジャブの一撃を回避し、それにカウンターを合わせる。
勿論、ジャブに対するカウンターなので、ストレートに対するカウンターのように一撃で相手を倒す威力はない。
威力はないが……それでも俺が放つジャブである以上、相応の威力を発揮する……
「っ!?」
筈だったのだが、リカルドは咄嗟に顔を背け、クリーンヒットを回避した。
あくまでも回避したのはクリーンヒットだけで、リカルドの顔に命中したのは間違いなく、この試合で初めての命中は俺のものとなった。
そして……1発が当たれば、こちらも追撃の手を緩めるようなことはない。
そのまま右手でコークスクリューのショットガンシェルを放つ。
最初の数発は何とか回避したものの、それでも1発、2発、3発、4発とリカルドにショットガンシェルが命中し、リカルドは再び後ろに跳んで回避しようとする。
だが、1度見せた行動をそのまま2度続けるのは甘い。
……いや、足の動きからリングに着地した後で即座に別方向に動こうとしているな。
しかし、その行動をするよりも前に俺は前に出る。
リカルドが後ろに跳んだのとほぼ同時の行動。
ましてや、リカルドは後ろに跳んだのに対し、俺は前に出た。
そのどちらが速いのかは、考えるまでもないだろう。
追撃として、今度は左手のショットガンシェル。
ただし、こちらはコークスクリューではなく普通のパンチでのショットガンシェルだ。
リカルドは俺の構えから何が来るのかを理解したらしく、回避ではなくガードを選び……俺の左グローブがリカルドのグローブに命中する音が周囲に響く。
そして……ボグッ、という音が周囲に響いた。
それは、左のショットガンシェルではなく、右手のソーラー・プレキサス・ブロー。
ショットガンシェルは素早いパンチを連続で出すという技だが、だからこそ防ぐとなると普通のジャブ1発よりも長い時間を防御に防がなければならない。
回避をするのなら話は別だが、リカルドは先程の……右手のショットガンシェルを全て回避する事が出来なかった。
だからこそ、回避に失敗してまともに1発を食らうより防御してダメージを最小限に抑えるという選択をしたのだろう。
……しかし、それこそが俺の狙い。
俺も、ショットガンシェルでリカルドを倒そうとは思っていない。
そちらに注意を引き付け、俺の得意パンチの1つであるソーラー・プレキサス・ブローを叩き込む為。
まぁ、ショットガンシェルで倒せるのなら、それはそれでよかったのだが。
その結果は……
「ぐ……」
ソーラー・プレキサス・ブローの一撃が余程効いたのだろう。
リカルドはリングに片膝を突く。
レフェリーはそんなリカルドの様子に信じられないものを見るような目を向けたものの、すぐ我に返ってカウントを始める。
「1、2、3、4、5……」
5で立ち上がるリカルド。
ただ、その表情は痛みに耐えているのが分かるものだ。
ソーラー・プレキサス・ブローの特性上、まともに食らえば相手に激痛を与えられる。
リカルドはそんなソーラー・プレキサス・ブローをまともにくらったのだから、それこそこうして立っただけである意味驚きだった。
ただ……俺のソーラー・プレキサス・ブローを1発食らった時点で、既にこの試合の勝敗は半ば決したのは間違いない。
「ファイッ!」
レフェリーのその言葉によって試合が再開されるものの、リカルドの動きは明らかに鈍っていた。
その動きは、試合開始直後の60%程といったところか。
ソーラー・プレキサス・ブローを食らって60%も動けると驚くべきか、それとも試合開始直後から動きが半減したと言うべきか、少し迷うところだな。
そんな風に思いつつも、俺は一気に前に出る。
相手が弱っている今こそ、俺にとっては絶好のチャンスなのだから。
そのまま前に出て、狙うのはリカルドの顔。
そこにコークスクリューの右ストレートを放とうとし……だが、リカルドの目にある光を見て、その動きを止める。
同時に、リカルドの右手がフックの軌道を描こうとし、止まる。
あのまま右ストレートを放っていれば、あのフックでカウンターを貰っていたのだろう。
リカルドにしてみれば、ソーラー・プレキサス・ブローによって身体が上手く動かない今、それが最後の希望だったのだろう。
あるいはもっと奥の手がある可能性もあるが、それを出す前に倒してしまおう。
そう思い、リカルドの動きを牽制するようにフットワークを使って移動する。
リカルドにしてみれば、これは間違いなく非常に厄介な行為だろう。
……とはいえ、フットワークを使いすぎてリカルドに時間を与え、それでソーラー・プレキサス・ブローの効果から復帰されるのも困る。
リングの上を素早く動き、そして距離を縮めると同時にジャブ、ジャブ、ジャブ……ソーラー・プレキサス・ブロー。
だが、リカルドも先程の1撃で俺の打つソーラー・プレキサス・ブローの威力については十分に理解してるのか、ジャブを食らってもソーラー・プレキサス・ブローだけは食らわないように、ボディを防御する。
これでリカルドが万全の状態であれば、防御ではなく回避という手段を選んだのかもしれないが……それは試合の流れで仕方がない事だった。
とはいえ、俺の一撃は重い。
腕で防御しても、そのままリカルドの身体を吹き飛ばし、そのまま前に出る。
リカルドは苦しそうな表情ではあるが、冷静にこちらを見つめ……ここだ。
俺はリカルドの目を見たまま、そっと視線を逸らす。
それを見た瞬間、リカルドは反射的に俺の視線を追い……
どん、と。
その顔面に、コークスクリューの右ストレートが命中し、リカルドはリングに崩れ落ちるのだった。