「じゃあね」
そう言い、レモンはゲートを使ってホワイトスターに戻る。
そんなレモンを見送ると、俺は空間倉庫から取り出したハンカチで唇を拭く。
するとハンカチにはレモンの口紅が付着した。
その口紅を見ながら、レモンが情熱的に絡ませてきた甘い舌の感触を思い出す。
普通、別れのキスとかは頬にする……もしくは唇同士でも重ねるだけなのが普通だろう。
だが、今回のレモンのキスは濃厚なそれだった。
いやまぁ、それが不満かと言えば全くそんな事はないのだが。
レモンとのキスは、それこそ嬉しいとは思っても不満に思うような事はない。
……それでも無理矢理不満なところを上げるとするなら、それはレモンとのキスで俺の中の性欲のスイッチが入れられてしまった事だろう。
本来なら天城屋旅館に泊まってる間……いや、足立の件やマヨナカテレビについて解決するまで美鶴とはそういう行為をしないようにしようとしていたのだが、その約束を守れるかどうか疑問だ。
いや、疑問とかじゃないな。
自分でもまず無理だろうと半ば断言出来た。
……取りあえず少しでも落ち着かせる為に、どこか適当に寄ってから稲羽市に戻った方がいいな。
そう考え、ハンカチを空間倉庫に収納してから影のゲートでどこか適当な場所に向かう。
時間的にはまだ午後になったばかりだ。
そうなると、どこかで昼食でも食べてから戻るか?
東京なら美味い料理を食べられる店は幾らでもあるし、あるいは大食いに挑戦してもいい。
最近は大食いの店でも量を重視して味を疎かにするのではなく、味も量もどちらも重視する店があるし。
とはいえ、当然ながらそういう店では規定時間内に食べきれなかった場合に支払う金額は、味を重視しない店よりも高額になるのだが。
味も重視されている大食いメニューなのだから、その辺は当然だと思う。
「これはちょっと珍しいな」
昼食で大食いをとか考えていると、ちょっと立派な店構えのラーメン屋……いや、中華料理屋か。そこに堂々と看板があった
冷やし中華10人前、30分で食べたら無料。ただし食べきれなかったら2万円の罰金。
……2万円の罰金ってのは、素直に凄いな。
あ、でも10人前で2万円ということは、1人前が2000円という計算になるのか?
そう考えるとちょっと高めの値段設定だが、こういう高級店のような場所で出す料理としては、そこまでおかしくはないのか?
写真に乗ってる具にも、アワビであったりかなり大きいエビだったり……写真の説明によるとフカヒレとかそういうのも入ってるらしいし。
しかもこういう大食いにありがちな、大皿に一気に乗せて出すのではなく、2人前ずつ5皿で出すらしい。
美味く食べるにはいいかもしれないが、タイミングが合わないと食べ終わっても次の冷やし中華が来ないという事にもなりかねないと思うんだが。
こういう高級店なんだし、その辺もしっかりと出来るのだろう。
「よし」
写真を見ていたら食べたくなり、店に入る。
昼を少しすぎているという事もあってか、店の中の客はそれなりにいる。
多分だけど、夜は高級店らしく高額なメニューを出すけど、昼は安めのメニューも出してるんだと思う。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
ウェイトレスが俺を案内したのは、テーブル席。
一応カウンター席もあるみたいだったが、1人の俺をテーブル席に案内していいのか?
いやまぁ、大食いに挑戦するんだから、このくらいのテーブルの広さがあった方がいいと思うけど。
俺の前に水とナプキン、メニューが置かれる。
「ご注文がお決まりになったら……」
「冷やし中華の大食いチャレンジで」
「……え?」
ウェイトレスが俺の言葉に一瞬意表を突かれたような表情を浮かべ、次に本気かといった視線を向けてくる。
「その、お客様、そちらのメニューは10人前となっておりますが……」
最後に少し心配そうな様子で言われる。
ああ、なるほど。俺の外見は20代だが、決して大食いをするようには見えない。
とはいえ、たまにTVで見る大食い選手権とか、大食いタレントとかでも、実は太ってる奴はあまりいない。
寧ろ痩せてる奴が大食い選手権で世界1位になったりしてるのを見る。
俺が言うのもなんだけど、ああいう奴の身体ってどうなってるんだろうな。
もしかしたら、俺と同じく身体の中は普通の人間ではなく、自分でも気が付かないうちに魔力や気を使って内臓を強化してるとか。
……まさかな。
「ああ、問題ない。食べられる自信があるから注文してるんだし」
そう言うと、俺とウェイトレスの会話を聞いた周囲の客達がざわめく。
「おい、聞いたか? あの男、大食いメニューに挑戦するってよ」
「うわ……マジか。ここの大食いメニューって、失敗すると2万だろ? ダメージ大きすぎだって」
「私、以前大学のラグビー部だっていう人が挑戦したのを見た事があるけど、途中でギブアップしてたわよ?」
「一応、この店の大食いメニューは冷やし中華だから、普通のラーメンとかに比べれば食べやすいんだけどな」
そんな言葉を聞きながら、最後の男の言葉になるほどと頷く。
ラーメンの大食いメニューというのは、ラーメそのものもそうだが、何よりも熱さが問題だ。
今は4月だが、それでもラーメンを10人前とか食べると、その熱によって汗がびっしょりだろう。
それをどうにかする為に水を飲み、それで腹も膨れてしまう。
そういう意味では、冷やし中華の大食いメニューというのはそんなに悪くないのか?
まだ梅雨前の4月だというのに、冷やし中華をやってるのはちょっと疑問だが。
場合によっては、まだおでんとか肉まんとか、そういう冬のメニューの人気があってもおかしくはない頃ではあるし。
これが沖縄とかそういう場所でなら、4月でもそれなりに暖かいので冷やし中華をやっていてもいいと思うんだが。
「制限時間以内に食べきれなかった場合は2万円支払って貰いますが、よろしいでしょうか?」
「問題ない」
「では、すぐに準備をしてきますので、少々お待ち下さい」
そう言い、ウェイトレスが一礼して去っていく。
高級店らしく、そのウェイトレスが着ているのはチャイナドレスで、身体の線が結構露骨に出ている。
レモンとの一件があった為か、数秒だけその後ろ姿に目を奪われてしまう。
それでもすぐに目を逸らしたが。
そうして冷やし中華が来るまで、10分程待つ。
個人的には冷やし中華というのは、具はもう用意されていて麺を茹でて氷水で洗って器に盛り、具材を盛ってからタレを掛ける、もしくはタレを掛けてから具材を盛って作るので、麺の茹で時間を考えても5分かそこらで出来ると思うんだが。
あるいは具材は注文が来てから作るのか。……そうなると今度は結構時間が掛かりそうな気がする。
そんな風に考えていると、やがて冷やし中華が運ばれてきた。
ちなみにこの店の冷やし中華は醤油ベースのものだ。
個人的にはゴマダレの冷やし中華も結構好きなんだが。
「お待たせしました。次の冷やし中華はすぐに作り始めた方がいいでしょうか?」
「ああ、出来たら次々に持ってきてくれ」
「分かりました。では……準備はよろしいですか?」
そう言い、ウェイトレスがテーブルの上に少し大きめのタイマーを置く。
俺だけではなく、周囲の者にも分かりやすいように時間を見せる為なのだろう。
箸を持ち、ウェイトレスに頷くと……
「では、スタートです」
そう言い、ウェイトレスがタイマーのスイッチを押すのだった。
「美味かったな」
店から出てから、振り返って店を見てそう呟く。
高級店の冷やし中華だけあって、普通に美味かった。
10人前で食べきれなければ2万円という事で、1人前2000円だったが、もう少し値段が高くても納得出来る味だった。
あるいは店側のサービスとしてそういう値段になってるのかもしれないが。
まぁ、時間内に全てを食べきった俺にしてみれば、もっと高額でも構わなかったのだが。
とはいえ、10人前を食べるには時間が足りなかったので、かなり急いで食べたのも事実。
高級店で出す本格的な冷やし中華だけに、出来ればもっと味わって食べたかった。
フカヒレとかも、超包子で食べるのには及ばないものの、しっかりとした形があったし。
普通ランチとかで出されるフカヒレとかは、クズ……とまではいかないまでも、夜に出すフカヒレの姿煮とかそういうのには使えない、ランクの低い物が多い。
それでもこの店はそれなりにしっかりしたフカヒレだった。
アワビも生のアワビではなく、乾物のアワビを戻して煮込み、それを切った奴だったし。
ちなみに冷やし中華という名前だが、実は日本生まれだったりする。
ナポリタンとかオムライスとかと同じように。
そういう意味では、本格的な中華料理店では冷やし中華を中華料理と認めずに出さない店もあるのだが、俺が食べた店はそういう意味では店主の頭が柔らかいのだろう。
……でないと、大食いメニューとかないか。
そんな風に考えながら歩いていると、視線の先に珍しい人物を見つける。
いや、正確には特定の人物を見つけた訳ではなく、その人物が着ている制服だ。
俺もかつては着ていた制服……月光館学園の制服を。
とはいえ、時間的にまだ高校の授業は終わってない筈なので、午前中だけでサボったのか、もしくは朝からサボっていたのか。
高校生ならたまには学校をサボりたいと思ってもおかしくはない。
おかしくはないが、これが美鶴に見つかったら面倒な事になりそうだな。
いっそ注意するか?
そうも思ったが、俺の立場としては別に月光館学園の卒業生でも何でもないんだよな。
転校はしたけど、卒業前にまた転校した扱いになってるし。
あのサボってる連中にしてみれば、OBでも何でもない、少しの間だけ月光館学園に通っていた俺がサボりを注意するというのは……どうだろうな。
そんな風に思いながら月光館学園の生徒を見ていると、向こうも俺の視線に気が付いたのか、仲間と何か言葉を交わして俺の方に近付いてくる。
あれ? これ、ちょっと面倒な事になりそうじゃないか?
「おい、こら。何見てるんだ? 何か文句があるのか?」
やっぱり。
俺が知ってる限りだと、この手の連中はポートアイランド駅付近の裏道とかにいると思ったのだが。
実際、荒垣とか以前はそこにいたし。
あの辺にいる奴なら、何度か俺と揉めた連中もいるので、こうして絡んでくる事もないんだが。
もっとも、俺が月光館学園からいなくなってそれなりに時間が経っている。
こういう連中がポートアイランド駅の裏道とかに集まらず、普通に今のように街中に解き放たれていても不思議ではないのか。
過去について思い出していると、やがて男達は俺の前に到着し、凄んでくる。
「ああ? てめえ、今更ビビってんのか?」
「……そうだな。小遣い稼ぎもしたかったところだし、丁度いい。来いよ。ちょっと遊んでやる」
そう言い、俺は裏道と思しき場所に向かう。
本来なら金には困ってないものの、それでも金があって困る事はない。
なら、この連中から貰っておいてもいいだろう。
俺から喧嘩を売った訳ではなく、向こうから絡んで来たんだし。
俺が見ているのがこの連中の絡んできた原因だった気がするが、それは取りあえず置いておく。
この連中の様子を見る限り、取りあえず絡める相手がいればそれでいいと、そんな風に思っているような感じだったし。
「おいこら、逃げられると思ってるのか?」
俺が先を進むのを見て、何を勘違いしたのかそう言ってくる。
「逃げる? 何でだ? お前達程度を相手に、何でわざわざ逃げる必要がある?」
軽い挑発。
だが、その軽い挑発でこの手の連中はすぐに頭に血が上る。
中には荒垣のように冷静に考える事が出来るような者もいるのだが、生憎とこの連中は違ったらしい。
そうして裏道……路地裏? までやって来ると、俺の後ろからやって来ていた男の1人が俺の頭部目掛けて殴ろうとしている気配を察知し……
「あ?」
次の瞬間、何もない場所を男の拳が通りすぎる。
「甘いんだよ」
その一言と共に軽く……本当に軽く、男の身体が四散しないように、骨を折らないように、手加減に手加減を重ねた一撃を放つ。
「ぐぼっ!」
骨が折れたりはしていないものの、それでも真横に数m吹き飛び、建物に身体を叩き付けられる男。
気絶はしたが、死んでないので問題ないだろう。
骨折の類もしていないし。
「……え?」
俺に吹き飛ばされた男を見て、他の男達の口からそんな声が漏れる。
この男達にしてみれば、まさか自分達の仲間がこうもあっさりと倒されるとは思ってもいなかったのだろう。
男達が俺の実力を見抜ければ、もう少し違った展開になったのかもしれないが。
だが、この男達はただの不良でしかない。
格闘技をやっていて身体を鍛えている訳でも、ましてや喧嘩に明け暮れていたりするでもなく、自分より弱い相手、数の少ない相手にしか喧嘩を売るよう事はないのだろう。
そんな相手に手加減をする必要もなく……俺は、怯えた視線を向ける男達から有り金を全て奪うのだった。