「わざわざここまでありがとう。―それじゃ」
師走も押し迫る群馬駅。夜闇と共にやってくる寒さから逃れるように、皆足を早めて帰り道を急いでいる。そんな人々と同じように進んでいたふたりの足はどちらともなくおもむろに緩やかなものになり、遂には完全に社会の動きから外れた。
男は傘越しに視線だけで空を見上げ、軽く溜息をついた。重い感情が、白い水蒸気となって消えてゆく。
―全く、何の因果か。今日も例によって空は星ひとつ見えず、バケツをひっくり返したかのように落ちてくる水は世の喧騒をすべて掻き消してしまう勢いだ。
云うなれば馬鹿みたいな雨、なのだが。
男の眼の前の女―ウマ娘は、傘もささずに呆然と、視線だけは強く男を捉えたままに佇んでいた。
「気にするな。好きでやってることだ。―最後くらいな」
男の言葉の後半は雨に埋もれたようだったが、ウマ娘の聴覚では容易に聞き取ることができる。ウマ娘は眉ひとつ動かさずに、口だけ笑ってみせた。
「それはよかった。―まあ、アタシもまだ”あっち”に残してるモノもあるし。まだ何回かは戻って来るんじゃないかな」
まったくもっていつもの調子を崩さない彼女に男は悲しくなった。あちら―、中央の学園に残っている彼女の私物は確かにまだある。―あるのだが、たぶん彼女はこれを最後に戻ってくることはない。確かな根拠など無くても”わかる”。伊達に何年も彼女と苦楽を共にしているわけではないのだ。
ああ、気を付けてな。
そう言えればどれほど楽だったろうか。人前では平等に優しく生きてきたつもりの男の世渡りは、彼女の前であっても決して例外はなかった。
そのしわ寄せが。何にでも、誰にでも平たく等しく優しさと慈悲を与えていた男が無意識に求めていたモノが。”彼女が欲しい”という気持ち、ほんの小さな、種ほどもないそれが男の胸を突いた。
彼女との交流という肥料を得た種はやがて芽吹く。芽生えれば伸び、蕾を付けて花をつけるものだ。日に日に煮えるそれは激しさを増し、とうとう隠しきれなくなってから久しい。まさに別離の時、遂に溢れ出す衝動に任せて彼女を包もうと浮いた男の両腕。
「ねえ」
ウマ娘は踵を返し”たまたまそうであったかのように”男の腕を躱した。星のない空を見上げ、顔を叩く雨粒にも構わずにくるくるとその場で回る。観客など誰もいないのに、まるでウイニングライブでもするかのような所作だ。
取り落とした傘には目もくれず、男はウマ娘に魅入ってしまっていた。
「楽しかったよね、アタシたち」
わざわざ自ら雨を浴びるように両手を拡げ、相変わらず顔を雨ざらしにしたままウマ娘は呟いた。誰にでもないボヤキのようなものだったのかもしれないが、その声は不思議と男の耳にすんなりと届いた。
「総てを懸けた。そう言ってもいいくらいにはいい時間を過ごせたんじゃないかな。アタシも、君も」
雨に額を曝したまま、瞳だけこちらをむけてウマ娘はニイと笑った。悪い笑みだ。悪い笑みなのに―何故かどうにも美しくて、その視線にブチ抜かれたまま、男の体はまるで凍ってしまったかのように動かなくなってしまった。
「楽しかったァ?馬鹿言え。いったい何度お前の”楽しみ”の後処理に奔走したと思ってる。カチキレる寸前のシンボリルドルフが居ると判っていながら生徒会室の扉を叩く気持ちがお前にはわかるか?菊花賞ン時ゃ濡れた汚れたでそのままライブに出やがって。各方面から怒られた俺の身にもなってみろ」
髪を流れてきた雨水が額を伝い鼻をなぞる。精一杯の強がりで憎まれ口を叩いてみるが、本音、男にとってはこれも良い思い出だった。簡単なことである。眼の前のウマ娘と過ごした時間そのものが、彼にとってかけがえのない財産であり、思い出でもあるのだから。
「その割には、しっかり5年間面倒見てくれたよね」
にべもない。
ほんの数歩ぶんに及ばない距離も、今冬いちばんと云われている大雨の前では千里に等しい。このいくら物理的に近かろうと届かない、距離ではない距離が、彼と彼女の心の関係そのもののように見えてならない。男が口を開こうとしたのを見て、ウマ娘は素早く先を制した。
「ごめんね」
それは学園を去ることへの謝罪か、男の腕に入らなかったことへの謝罪か。申し訳無さそうに、しかし幾分晴れたような表情からはその意図は読み取れなかった。
「本当に―、それでいいのか、お前は」
そうだね、とウマ娘ははっきり答えた。視線は強く、口調もきっぱりと言い切るような風だ。
「キミも見たでしょ?春の天皇賞。アタシはここまでなんだ。それ以降もどうにかこうにか調整に付き合ってくれたキミには悪いんだけどさ、あの日以降アタシの中で何か変わっちゃったんだ。まあ、そこに悲しいとか悔しいとかいう感情は無いんだけどね」
それに大きくかぶりを振って男は反論を口にした。
「そんなことはない!お前の脚は―、まだ夢は終っちゃいない!俺と一緒に、また―」
いいや、終わったんだ。
まるで眼前で落雷でもあったかのように男は慄いた。いつしか彼女の両腕は垂れ、降りしきる雨に打たれるがままになっている。
「アタシに夢見てくれるるのはいいんだけどさ、結局のところは君たちの都合じゃん。―終わったんだよ。アタシは。みんな、アタシには見えない景色を見ている。その先をアタシがそれを望んだかはさておいて、みんなそれを見ているんだ。そしてね、アタシじゃいくら足掻いても絶対にそこへは行けないっていうのがわかっちゃうんだ。―もちろんさっきも言ったけど、だからといって悲しいとか悔しいとか言い出すつもりは無いよ。ただ、アタシが夢を見せてあげられる時代は終わった。それは明らかでしょ?」
独白に口を挟むことはできなかった。だからさ、と句を次ぐウマ娘をただ見ていることしかできない。
「アタシの役割を担える娘がいる。喜ばしいことじゃないかな」
おそらくシンボリルドルフのことを言っているのであろう。2年続けて現れたクラシック3冠ウマ娘。ふたりは三たびにわたりGIの舞台で激突したが、彼女がシンボリルドルフより先着したことはいちども無く、やがてシンボリルドルフは皇帝として燦然と輝き始めた。
「そんな、ことで―」
語弊がある。ことの程度はある個人の主観にのみに一方的に決められてはならない。しかし、男にとってはそのような”些事”で、クラシック3冠ウマ娘の余りにもあっけない幕切れを認めるわけには―、正確にはURAにより承認を得ているから覆ることはないが、受け入れることができなかった。
「言うねえ。アタシたちにとっては大事なことさ。走ることを本能に植え付けられているウマ娘はね、それに文字通り総てを懸けるものなのさ」
いま一度、彼女は夜空へと顔を向ける。雨足はあいも変わらず止まず、容赦なく彼女の額へまっしぐらだ。
「別に、ルドルフに勝てないからってヤケんなったワケじゃないし、ある程度結果は残ってる以上レースを理由にするつもりも無い。ただまあ―、クラシック3冠がもたらした未来っていうのは、アタシにとっては窮屈なものだったよ。そんな折に、後から入ってきたルドルフがアタシに並んで、―いや、そんな間もなくアタシの先を往った。燦然と輝く才能と力を思う存分に振り翳して覇道を征くルドルフに、ファンも、URAも、そしてアタシたちウマ娘も絶対の夢を見ている。新たに冠を手にする絶対に夢を乗せて、この重荷を降ろせるなら―、こんなに素晴らしいことはないんじゃない?」
あまりにも清々しげに、新聞や週刊誌にすっぱ抜かれようものなら総叩きまったなしの爆弾を放ってきた。
「お前の周りにいるウマ娘のほとんどが目指しているもんだ。滅多な事を言うもんじゃない」
窮屈。
数多のウマ娘が志し、文字通り地の滲むような努力の果てにある栄光と怨嗟の渦巻く冠を眼前のウマ娘は窮屈だと宣った。耳触りのよい言葉を選んだようだが、要は押し付けたのだ。シンボリルドルフに。
「あの娘は自分から望んでああなってるんだ。利害は一致しているよ、一方的だけどね。アタシたちがやあやあ言うもんじゃないでしょ?」
シンボリルドルフは大層な目的と明確な意志を胸に、クラシックを獲った翌年には生徒会長に就任していた。高等部の最高学年が就くのが慣例であった学園にとっては異例も異例である。
無論、上からも下からも様々な声があがったが、彼女は学園内の紛糾はターフで、外部の絡む要因は実務で、要は実力で黙らせた。
次期生徒会長の座を虎視眈々と狙っていたウマ娘も、秋川を小娘と侮り、それに次ぐ者として雑魚と見てきたURAの重役も、いつの間にかシンボリルドルフにその脚を、心を折られていた。
ほどなく、彼女の器は高等部の1年生でありながら生徒会には収まらず、学園内においての序列は実質的に理事長に次ぎ、ひいてはURAにおいてもそれなりに利く影響力を手に入れるに至ったのだ。
「近くで見てきたアタシだからわかるんだけどね、きっとルドルフはここをゴールとは見ていない。さっき君が言ったように、多くのウマ娘が喉から手が出る程欲しがっている冠を総なめすることも、通過点でしかないはずさ。冠そのものに依存しないところは、ルドルフとアタシは似てるかもね」
「―」
男は何も言えなかった。トレーナーとなってそれなりに経験はあるつもりだが、その全てにおいて、なによりウマ娘の都合を優先してきた。ウマ娘の言い分は極力汲み、叶えることを是とし、それは眼の前のミスターシービーも例外ではない。
例外ではないだけに。
彼女がその“重荷”を降ろしたいというのであれば。
男はその言い分を理屈で受け今こうなっているのだが、理屈や前例ではない、個人的な感情で彼女を引き留めたいと―そばにいて欲しいと思っている。その感情を無理やり理屈で抑えるのも、そろそろきつくなってきた。
「―学園を辞めて、どうする気だ。真っ当に卒業することだってできるはずだったのに」
もう何度交わしたかわからないやりとり。いい加減彼女も険しい顔を隠さなくなった。
「何回訊いてくんの、それ。ずっと言ってるじゃん、他に楽しそうなことを見つけたって」
「具体的になんなんだ、それは」
「だから、教えらんないって。―はあ。教えたらキミ、追っかけてくるでしょ?アタシにはわかるよ。もしアタシの行き先を知ってしまったら、キミはトレーナーを辞めてでもアタシを追っかけてくることになる。それは避けたいんだ」
「なっ―」
男の顔が数秒でみるみる赤くなっていく。
「―確かに、アタシはキミの事については全幅の信頼を置いてるし、少なからず―、少なくとも今まで出会ってきた“男”の中ではキミ以上のヒトは居ないし、流れに任せて“そう”なってもいいかな、って考えたことも―、両手じゃ足りないかな。両足でもきついかも」
ただ―、とひと息つき、顔を赤くしたまま硬直している男にミスターシービーは言い放った。
「ただ―、どこまでいったところで、アタシとキミの関係は、キミをアタシのトレーナーとする契約にある通りの事でしかない。どんなにキミがアタシを、アタシがキミを好いたところで、それが揺らぐことはないんだ」
どうとっても告白である―告白であるが、同時に振られているような、とても難解で複雑な独白であった。
「だったら―!」
オレと結ばれるために学園を出てゆくのか。自惚れてもいいのか。進退窮まる極限の葛藤がそこにはあった。
彼の人生でおそらく最も大きく苦しい葛藤は、ミスターシービーが更に口を開いたことでものの数秒にて打ち砕かれることとなる。
「そしてそれはアタシがミスターシービーで、キミがウマ娘のトレーナーである以上、理屈上の条件が整っても、きっと感情が許さない。そう思わない?」
「アタシ雨は好きな方だけど、土砂降りでずぶ濡れになるのをわかってて走り出すほど酔狂じゃないんだよね」
全く意味がわからなかった。女心とかいうやつか?男は今この瞬間にでも、ここ群馬駅前という偶然の場所で彼女を腕に収める覚悟がある。あとの事など知ったことか。そのときになって考えればいい。それが口だけに無く現実に可能だということを、ミスターシービーの実績が証明している。
が、それを以ってしても、一番欲しいものがこれだ。なんとか引き留めようと、隣に留めておこうとしても、その鎖を彼女はするすると抜けていってしまう。ミスターシービーはその最後の鎖を、今抜けようとしていた。
「アタシはミスターシービー。自由に生き、自由を謳う。誰のモノにもならない。―そうでしょ?」
バツが悪いとき、いつもそうやって強引に話を打ち切ってきた。今日も同じであるが、それは決別の意思のこもった実体を伴うモノだった。
「キミは才のあるトレーナーだよ。アタシをここまで連れてきてくれたんだ。キミのチカラを欲しているウマ娘やヒトなんていくらでもいる。それがキミの使命じゃないのかい?」
しっかりやりなね、と最後に言い残し、雨の煙る、もはや空いてしまった改札へ走り去っていった。
土砂降りでも構わないと。
ずぶ濡れでも構わないと。
飛沫をあげ消えていくミスターシービーを捕まえて。
行かないでと。
そう言いたかった。
とにかく、一緒にいたかったのだ。
ずいぶんとお互いのことを知っていたはずなので、このような言い争いをすること自体が初めてだった。
全く意味のわからない話で縁を切られ、一方的に消え去られ、それでも男は、筆舌に尽くしがたい未練を引きずりながら駅を後にした。あれだけ人が溢れていた広場は、息を潜め闇に紛れ静まりかえっていた。
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「寝覚めの悪ぃ夢だな」
純白のベッドが窓からの光を受け輝く。その僅かな眩しさが、もはや何度見たか数えるのも億劫になるほどの過去の記憶から男を逃がしてくれた。
1999年、フランス、パリ。
日本中の期待を背負い、凱旋門賞にもっとも近いと言われているウマ娘を、男は連れていた。
フランスに来てからトライアルレースを2勝。心身共に絶好調な彼女と対象的に、男の体調はあまりよくなかった。
コンディションがよくないときは決まってあの日の夢を見て追い討ちを受ける。非常によろしくない悪循環だった。
窓を見ると明るい曇り空。今はまだ明るいが奥には積雲がたちこめており、いつ降ってきてもおかしくない。
(彼女もこの空を見ているのだろうか)
もはや何処で何をしているかも判らない未練がいつまでも男を縛る。雨が降りそうな日はどうしてか、ミスターシービーの悪い笑みを思い出すのだ。
洗面台で顔を洗い、髭剃りに手をかけたところで部屋の扉が叩かれた。
「トレーナー、チョットいいデスカ?」
その“凱旋門賞にもっとも近いとされるウマ娘”がおいでなすったわけだ。
「ああ、カギは開いているよ、“エル”」
わかりまシタ!という元気な返事と同時に扉がやや乱暴に開かれ、エルコンドルパサーが飛び込んできた。
「トレーナー!見てわかる通り今日は雨が降りそうデス!本来なら昼からロンシャンで調整でしたケド、それを雨が降る前、午前中にしておきたいのデスガ…」
不良バ場を雨の中で走らされればコンディションは落ちる。それは避けたいところだ。なによりエルコンドルパサー本人が嫌がっているのを無理やり走らせる道理は無い。
が、ここからロンシャンまでは数時間かかる。午前中―はいささか難しい話だった。
「なあエル。このホテルとロンシャンの位置関係的に午前中に調整はハッキリ言って無理だ。レースまではまだ数日ある。無理して今日ロンシャンに行く必要もない。」
デスガ…、とエルコンドルパサーは控えめに食い下がる。どうも走らないと不安になるタチらしい。
「フォア賞でも勝ってるんだ。ロンシャンの芝に合う走りは着実にお前の身になってる。慢心なんてしないが、近くのトラックとかでカラダが鈍らない程度に走らすくらいでいいんだぞ?それか、ホテルのトレーニングルームで“適切に”カラダ使うことだな。雨が嫌なら今日のロンシャンは諦めな?予約のキャンセルはこっちでしとくから」
数日後に大一番を控え掛かり気味のエルコンドルパサーを、トレーニングルームのキーをチャラつかせて諫める。しばし考え納得した彼女は、しぶしぶキーを受け取って引き下がっていった。
「んー、ミスったかなあ…」
明らかにしょげて部屋を出ていったエルコンドルパサーを見送り、男は反省した。
ウマ娘の言い分は極力叶えてきた彼だが、物理的な問題はいかんともしがたい。ましてや次に挑むレースは国内GIとは比較にならない重要なもの。日本中の期待と注目を背負った少女を、少しでもいい状態でロンシャンへ送り出してやるのが仕事だ。
「どちらにせよ、か―。くそっ!」
エルコンドルパサーは雨を嫌い走らなかったが、雨を気にしないウマ娘はその限りではない。予約キャンセルの謝罪も兼ねて、男ひとりでロンシャンへ偵察に向かうこととした。
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最寄り駅につく頃には土砂降りだった。傘をさそうがどうにかして体を濡らしてくる。エルコンドルパサーを連れて来なくて良かったと安堵し、単身ロンシャンへ向かった。
エルコンドルパサーの件で謝罪を終えるやいなや客席に着き、芝を駆けるウマ娘たちを凝視する。流石世界最高峰のレースに出走するだけあって、どの娘もこの天気やバ場をものともせずに加速する。その様に感嘆とすると同時に、エルコンドルパサーもその域にあるのだと思うと感慨もひとしおだった。
その中でもひときわ―いや、明らかに他とは違う走りを見せるウマ娘。ブロンドの髪をたなびかせ、抜き去っていくウマ娘たちよりひと回りマッシブなシルエットをしている。
モンジュー。
世界最強がそこにいる。エルコンドルパサーが上回らなければならない、とてつもなく高い壁。
時計は、去年のジャパンカップで他を圧倒し日本最強となったエルコンドルパサーを秒単位で上回っていた。
日本はエルコンドルパサーの勝利を全く疑っていない。現実は、この男の知るのみということになってしまった。
それでも勝たせなければならないのがトレーナーの仕事。なんとかしてモンジューの突破口を見出そうとビデオカメラを取り出そうとしたとき、隣に誰かが座った。
「隣、いいかな?」
女性の声らしいが、異国の地で、日本語で話しかけられているという違和感は、男には覚えがなかった。
「隣?今日はレースじゃないんだ、他にも空いてる席なんていくらでもあるだろう、御免被るね」
これから集中したいというときに。迷惑な話である。声の主には目もくれず、三脚を立てカメラを設置。モンジューを追う準備だ。
「それは困るね。“ここ”はアタシの指定席だったはずなんだけどな」
「はァ?なに言ってんだ?何処の誰だか知らんが偵察の邪魔だ、とっとと離れ、て―?」
ついに会話にならなくなり、いったいどんな太ェ奴がいるもんだと思って顔を上げた男は、眼の前の光景に思考が追いつかなくなった。
「や」
実に14年振りの再開は、いやにあっけないものだった。
「お、お前―」
パンツスーツにパンプス。ショートヘア。なにひとつ男の記憶には無いものだったが、髪飾りとして頭部についているふた文字が、眼の前の人物をミスターシービーとして認識できる唯一のパーツだった。
「なにしてんだ、こんなところで」
思いがけない再開があったにせよ仕事は仕事としてこなさねばなはない。レンズの向こうにモンジューを捉えたまま、久方ぶりに姿を見せた戦友に言葉を投げる。
「キミと別れてから、世界を回ってジャーナリスト?の真似事?みたいな?ことをやってるんだ」
「ずいぶんとふわふわした物言いだな」
思わず突っ込んでしまった。
「凱旋門賞を見に来たのか」
「そうだね。世界を股にかけて書くモン書いてるとはいえ、ウマ娘としてはこのレースを逃すわけにはいかないね。それに―」
そこまで言って彼女の口はもごもごしだした。
「あ?聞こえねえよちゃんと喋れ!」
喧騒とウマ娘の足音で相当な音の中に居る。ちょっとでも言い淀むと男には届かない。
「日本からのウマ娘が優勝候補だって聞いてね!なおさら来ない訳にはいかないのさ!」
イヤミなほど大声で言ってやった。
それきり言葉はやみ、男はモンジューの観察、ミスターシービーは凱旋門賞の記事へとその興味を移し、しばし喧騒に包まれた。
あくまで仕事をしているからだろうか。あれだけ望んだ“ミスターシービーの隣”にあるというのに、男の心は平坦そのものだった。
数十分もした頃、男は溜め息とともにカメラを切り三脚をたたみ始めた。モンジューはまだ走るつもりであるらしく、ミスターシービーは不思議になり男に問うた。
「もういいのかい?」
「ああ。もう見る必要も無え。勿論エルと再確認はするが―、あれはバケモンだ。弱点なんか見つかるとは思えん。お前やシンボリルドルフとおんなじような奴だ。」
聞いたミスターシービーはニンマリと笑った。
「アタシやルドルフは、まだつけこむ隙があるだけマシだったね」
“うるせえ”と男は返しつつカバンを完全に締め切り席を立つ。
「その、ジャーナリスト?つうのはどうなんだ?儲かるのか?」
「んー、なんやかんやアタシも長いしネ。食ってけてるってことはそういうことよ。それに、“凱旋門賞3着のシンボリルドルフと同等のウマ娘”の書くレース記事なんて、興味そそられると思わない?」
あれだけ嫌がっていた3冠の勲章を、使えると知るが早いか自らのメシと変えるか。改めて太え奴だと男は思った。
「楽しいよ。好きなときに好きなトコ行って、好きなモン書いてさ。アタシの求めてた自由って、こういうことなんだって」
「そうか」
どこか安心した風な表情で男は段を上がる。ふと思い振り返ると、ミスターシービーは男をじっと見つめていた。
「また当日な。どうせ来るんだろう」
あの日連絡先を消してから久しい。もう電話番号すら覚えていないが、きっと引き合うだろう。そう確信しての言葉だった。
「そうだね」
14年振りの彼女の笑顔は、男の心に嫌に焼き付いた。
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凱旋門賞当日。晴れはしたものの前日までの影響を受けバ場は散々たる模様。さらにメインレースまでに踏み荒らされまさに阿鼻叫喚といったところである。
エルコンドルパサーは最終直線にあっても先頭を維持し残り200メートルに差しかかるも寸前でモンジューに差し切られて2着。時計的には前回の凱旋門賞より10数秒遅い展開ではあったが、悲惨なバ場が疲労をもたらしたのだろう。
展開だけ見れば僅差だっただけに、世界に手が届く直前に差し切られたエルコンドルパサーを見て、業界は激しく動揺し落胆した。
エルコンドルパサーでも駄目なら誰ならいいのか。
そういう疑念のみが残された凱旋門賞となった。
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ロンシャンの最寄り駅。数日ぶりの乾き切ったシャツで改札に入ろうとした頃、ミスターシービーがいた。
「もう帰るのかい?」
「ああ。エルコンドルパサーはこれで引退。その処理やら会見やら忙しくてね」
肩をすくめて答える。世論はエルコンドルパサーに同情的だが、トレーナーたる男へのバッシングはどうしても目についてしまう。そういったものとのやりとりもあり、帰国は早いほうが良いという運びだ。
「キミは―、トレーナーは、まだ続けるのかい?」
どうかね。男は首を傾げた。
「勝てなかったが、行くとこまで行ったからな。もう潮時かもしれん」
これは本音だったが、男の中で別の感情も渦巻いていた。
恐らく今日この場でミスターシービーと別れれば、今度こそ二度と会うことは無いだろう。男が居る可能性があると知った今、彼女が来年以降ロンシャンへ足を運ぶこともないだろう。
彼女との明日を望むなら、きっと今日だけが続いているのだ。
「そうだな」
しばし考えて男は笑った。改札の向こう側でエルコンドルパサーが不思議そうにこちらを見ている。
「そのときは、世界を股にかけてジャーナリストの真似事をするってのも、悪く無えかもな」