ゼンノロブロイの英雄譚 〜Rob Roy of the Royal Road〜   作:C.S

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第53話 私のヒーロー

「それなら、今日のレース……私と一緒に、逃げちゃおっか?」

「…………え?」

 

まるで、頭から冷水を浴びせかけられたような衝撃的なセリフだった。

しばらくは言葉の意味を飲み込むことができなかったが、少し考えた後に、愛想笑いを浮かべてしまった。

 

「い、いやいやいや。私もミラクルさんも、逃げの脚質じゃないじゃないですか。急にそんなこと……」

「違うよ。本当にレースから逃げちゃうの。中山レース場を飛び出して、ね?」

 

ヒシミラクルさんは、笑顔でそう言った。

驚くほど自然な笑顔だった。

子供に語りかける母親のような、穏やかな笑顔で、突拍子もない言葉を紡いでいた。

その衝撃が、私には信じられなかった。

 

「……どうしてですか? ミラクルさんにとっても、大事なレースなんじゃ……」

「そうだね、トレーナーさんには怒られるだろうし、ファンの人たちの期待も裏切っちゃうかもしれないね」

 

タハハッと気恥ずかしそうに頬を掻く。

けど、とヒシミラクルさんは続けた。

 

「ロブロイちゃんの気持ち、痛いほど分かるんだ。私も似たような境遇だったから。しがない普通のウマ娘なのに、G1レースに出るたびに色んな期待を背負わされちゃって。ほら、初めて菊花賞に勝ったときなんか凄かったんだよ? トレーナーさんなんて、干からびるんじゃないかってくらい泣いて喜んでくれてさぁ〜」

 

何気なく語ってくれるけど、当時の衝撃は私も覚えてる。

当時の『菊花賞』は、1番人気だったノーリーズンさんが出走直後の転倒で競走中止となり、大波乱の幕開けとなった。

勝利したヒシミラクルさんは10番人気、まさに『奇跡の勝利』と謳われた。

その後も、同じく長距離レースの『天皇賞・春』、そして上半期の総決算となるグランプリレース『宝塚記念』での勝利は、今でも語り継がれる伝説だ。

自称『普通のウマ娘』なヒシミラクルさんだが、彼女が打ち出した成績は並大抵のものではないのだ。

 

「そこから天皇賞、宝塚記念と、レースを重ねるにつれて、私の注目も大きくなっていったんだ。『ロングスパートの奇跡』とか、『最強ステイヤー』とか、たくさんの人に注目されるようになっちゃって。そんなにすごいウマ娘じゃないのにね……」

 

ひどく寂しそうに虚空を見上げる。

大きく息を吸い込んで、何かを吐き出すように、不満を爆発させるように、大きな声で続けた。

 

「私の勝利は『奇跡』じゃなくて『必然』だなんて言われ始めて、その時の私も、いまのロブロイちゃんみたいにプレッシャーで押しつぶされそうだったんだ。現にそれ以来、全く勝てなくなっちゃったし、最近なんて、1着どころか掲示板にも載れてないのにね」

「でも、それは……ヒシミラクルさんは繋靭帯炎のせいで……」

「怪我も運も、ウマ娘の実力の要素なんだよ。謂わば、私のミラクルは終わっちゃったのかな? なんちゃって」

 

イタズラっぽく舌を出したヒシミラクルさん。

また微笑を浮かべていたけど、それが強がりな笑顔なのはすぐに分かった。

 

「でも、私は思うんだよね。1着じゃなくったって、全力で頑張ったって事実だけで十分なんじゃないかなって。頑張った結果がダメだったとしても、それでも良いんだって思ってたんだ。正直、諦めちゃってたのかな……」

 

次の瞬間、私の手は力強く握りしめられる。

ヒシミラクルさんは、薄らと涙目になりながら、しかし満面の笑みで語る。

 

「でもね、ロブロイちゃんと一緒に走って……ゴールを真っ直ぐに目指してがむしゃらに走る姿を間近で見て、またレースに勝ちたいって思えたの! ロブロイちゃんの背中を見て、私も走りたいって思えたの! ロブロイちゃんは、私にとって『ヒーロー』なんだよ!」

「私が……『ヒーロー』…………?」

 

それは、予想だにしない言葉だった。

ただ、自分が走ることに必死で、勝つことに集中していただけだったのに……。

そんな私が、いつの間にか他者に影響を与えられる存在になっていたなんて……。

正直、実感は湧かない。

だって、自分がそんなにすごい存在とは思えないから。

けど、今のヒシミラクルさんの姿には既視感があった。

それは、クリスエスさんの背中に憧れを抱いた、『かつての私自身』だ。

クリスエスさんの背中を『英雄』と称して追いつこうとした、昨年までの私自身だ。

いつの間にか私は、追いつこうとする側から、追い付かれる側になっていたようだ。

そんなの……。

 

「そんなの……いま、言わないで、ください…………嬉しくなって、なにも、見えなくなっちゃう…………」

 

ポツリ、ポツリと、視界が次第に滲んでいく。

目元を覆い、鼻を啜りながら、今まで堪えていたものが堰を切ったように溢れ出していく。

胸の内に巣食っていた重さが、涙と共に軽くなるのを感じる。

私は、私が思っていたよりもずっと、強くなれていたんだと実感できた。

それが、今は何よりも嬉しかった。

 

「でも、ロブロイちゃんが怖いって言うなら、無理に走る必要はないんだよ。私もレースの先輩として、トレーナーさんに一緒に怒られてあげるから、一緒に逃げちゃおう? 今だけ皆の期待から目を逸らして、また頑張ればいいんだよ。ね? そうしよう?」

 

ヒシミラクルさんは、また穏やかに微笑みかけてくれる。

そんな表情で、そんな言葉をかけられたら、私は……。

 

「ヒシミラクルさん……私は…………」

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