死んだ。
手繰り寄せれば何もかも掴めるような気分の中、落ちていく。
安らかだ。声が聞こえるような気がするがどうでもいい。
これが終わりか。
だんだん落ちるのが速くなっている。
意識が明瞭になってくる。視界が白色になっていく。色が見えている。
死んだはずなのに。
心地良さが、熱が逃げるようにして去っていく。
風のような何かを魂に感じる。
髪のような、衣服のような何かが周囲をはためいている。
これが終わりか?
俺は死んだのか?
何もかも思い出せるようで、気怠く、何も思い出す気になれない。ただ魂が落ちていく。
全てが止まっているようにも思えた。限りなく全てが速いようにも思えた。自分のみが速いようにも思えた。自分は止まって、何かは周囲ではためいて、ぼやけている。見えないものがだんだんはっきりしていく。
何かが近い気がした。
ああ、そうだ。一つ思い出した。こうして落ち始める前。
いい匂いがしたんだ。
でもそれは直接の死因ではなかったように思う。ただ、それに触れたくて。
手繰り寄せてしまいたくて。たとえ初めて見るものでも掻き抱きたくて。
まだ目で見たこともないのに、どうしようもなく欲しくなったんだ。
だから今こうして落ちている。
俺が、選んだ。
自覚した途端、魂が加速する。魂が身体に戻り、再び時間が進み始める。
口の中に甘さがあった。自分のものではない舌。魂が跳ねた。
脳髄が、体の内が焼けるような感覚。胸の奥に走り出した快い痒みが、ゆっくりと体の端に向かって歩いていく。体の端々で昂りが残って踊っている。
ああ。生きている。魂が掬い上げられた感覚。
目を開ける。目を閉じた顔があった。黒髪の女。舌に舌を絡ませてきているご本人だ。
顎を固定していた手が離れ、頭の後ろに回された手が離れ、顔が離れる。
唾液が糸を引いて、少しピンクに色付いた光を放って消えた。可憐で深い口元が笑みの形に締められ、その向こうに舌が消えた。口の中に溜まった甘さを飲み込むと、舌がチクチクと痛んだ。
相手は膝を前に揃えて前屈みになって座り込んだまま、俺は壁に背中を預けて座り込んだまま、見つめ合う。
息を忘れて魅入ってしまう凛々しい顔だった。小さく端正な形の頭に、美術品のような鼻と耳、長い睫毛が映えていた。
「目は覚めた?」
声に耳が蕩けて視界が赤く乱れるようにも思われる。
暗い赤色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。二つの瞳は暗く、しかし明るく火のような光を湛えていた。フラットに言うなら暗くてダウナーな目だけど眼光がギラギラしている。好きだ。
女は白のブラウスの前を第3ボタンまで開けて、ブラウスの上からジャージを羽織っている。何かしらは概ねフラットだった。それはそれとして前屈みなのでブラウスがたるんで見えそうだった。つけていない。透けている。なんとか目を逸らしたものの、ホットパンツから伸びた太もも膝脛に視線を絡め捕られ、急に切迫した息苦しさを覚えた。細い指先だけを出した黒手袋がさらに息苦しさを急き立てる。
「ありがとう、助かりました」
お礼を伝えつつ、息も荒く立ち上がろうとする。そこで気づいた。
口は動く。表情は動かせる。どうでもいいが耳も動く。首は少しぎこちない。切迫した息苦しさは腰のあたりでその存在を主張している。そして。
「あの、体が動かないんですが」
「うん? まだ助けると決まったわけじゃないよ」
あっ。
「さあ、私と取引きをしようか」
あっ。吐息交じりの声素敵。あと吐息いい匂い。