『さあ、私と取引きをしようか』
俺は揺らめく炎のような目をした女に気圧されていた。
どきどきしている。これは恋だろうか。そうだといいな。
脳を作り替えられているような感覚。自分の口からは淡く光が出ているように思える。俺に一体何が起きてるんだ。
それはそれとして首から下がぴくりとも動かない。いや、関係があるのか? キス以外にもこの女に何かされたのか?
「取引き?」
「きみはこのままだと動けずに死ぬ。私が去ったらさっきのモンスターが来るからね」
そうだ。なぜ動けないかは分からないが、動けないままだと死ぬ。さっき俺を殺しかけたデカい蜘蛛が戻ってくる。その通りだろう。
だが、この女の目的は何だ? 何を俺に要求するつもりだ? キスの理由は? この女はなんだ? いや正体なんかを気にしているんではない。正体は大体察しがつく。ダンジョンを一人でふらついて、倒れている男にキスをする女。変な女だ。この女の正体は変な女だ。どのような性格をしているか、どんな人間なのか知らなければ。情報は何かなかったか。キスは何だったんだ。
「さっきのキスは趣味だよ」
「趣味、ですか」
「うん。趣味。良い趣味だろ?」
確かに良い趣味かもしれない。趣味:キス。良い趣味だ。
「さて、要求を伝えよう。対価は先ほど支払ったからね」
女はそう言ってぐい、と首を傾げた。頭の後ろの、少し大きなお団子がふるんと震えた。
笑顔と合わさって様になっている。決めポーズなのだろうか。
「私の眷属になってくれよ」
その言葉で相手がどんな存在なのか、その正体に確信を持った。しかしそれはどうでも良かった。匂いを嗅いだ瞬間に幾らか察しはついていた。
未だ痺れる舌で自分の唇を舐め、息を整え、口を開く。
「俺はあなたの眷属になる」
言った。自分の中の何かが決定的に変化した感触がある。口から出ていた
光が消え、舌に強く何かが刻まれたような気がした。
「ああ、良い子だ」
吐息交じりの声が顔にかかる。手が伸びてきて、手袋から出た指先、爪がさくりと俺の首に食い込み、刺さる。
「『仮に風の魔女の名の元に。スーッと体が軽くなる。スーッと体が軽くなる』」
美声。スーッと体が軽くなる。全身が一瞬熱を帯びて、冷えた。風邪を引いた時のような感覚。爪が抜かれる。
「詠唱、ですか? 今のは」
「そうだね。私くらいの魔女になると雑な日常語の詠唱でもちゃんと効果が出せるんだ。えっへん」
頭のお団子くらいの胸がやや大げさに張られる。大変可愛い。
可愛いが、いや控えめなのは大変タイプだが、そう言えば、魔女と聞いて思い浮かべるアレがこの人には無い。
「魔女って帽子かぶってるもんじゃないんですか?」
「君だって何も着ていないだろ?」
俺は全裸だった。蜘蛛にめちゃくちゃにされて糸だらけにされた姿そのままだった。
「例外は何にもあるものさ。確かに魔女は帽子かフードをかぶっているのが普通だし、人は外出時は服を着ているのが普通」
うんうん。そうだ。人は外出時は服を着ているのが普通だ。つまりこの女は魔女なのに帽子をかぶっていないから外を出歩きながら服を着ていないようなものというわけだ。大変えっちだ。
「さて、君は晴れて私の眷属になったわけだが」
「はい」
「君、この街は今日が初めてだろ? 宿はあるかい? お金は?」
なぜ俺が今日この街に来たことを知っているのか分からなかったが、その通りだった。
俺は今日この街に来て、勇んでダンジョン探索に熱中し弱いモンスターを倒して調子に乗りつつ初心者が来るべきではない深度まで潜ってしまい、蜘蛛にあんなところやこんなところをめちゃくちゃにされた末に殺されかけた。それはいい。良くないが、この人に助けてもらったから、考えるべきことは他にあって。つまり。
俺は宿無しだった。
さらに言うと俺は手持ちがなかった。持っていたが蜘蛛とくんずほぐれつしていたらいつの間にか財布が消えていた。
そして俺は全裸だった。
目の前が真っ暗になった。終わりだ。
あまりの心細さと恐怖に、俺は泣き出してしまった。ちょっと漏らしたかもしれない。
「顔を上げて」
とてもいい匂いがした。言われるままに、顔を上げる。
突然、柔らかい布を全身に被せられた。が、涙で視界が滲んでよく見えない。それが黒い布なのは分かった。
「魔女のローブ、もとい私の寝間着だよ」
袖で目元を拭われた。綺麗な顔が見えた。瞳の中、炎がやさしく光っている。
ゆっくりと呼吸すると、胸の中は安堵で満たされた。
「......暖かい」
いつしか涙は止まっていて、笑ってしまうような月並みな言葉が自分の口から出た。
ああ、このために来たのだと思った。