【タクティカル肝試し】旧八咫ノ川禁域実況配信!   作:はまっち

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【タクティカル肝試し】旧八咫ノ川禁域実況配信! #1

「日本全国の視ちょ……参列者のみんな! こんべつ! 

 境界対策課の非合法かつ非公式バーチャルアイドル、鵠別供花だよ! 今日はモシュさんからの弔電(マシュ◯ロ)にお答えして……なんと! 日本最悪の禁域として名高い旧八咫ノ川禁域にやってきたよ!」

 

 沈みつくしたような夜の帳を切り裂くように、少女の甲高い声がする。長い風雨の中で朽ち果て続けたビル街を背景に、パシャリと一つ電子的なフラッシュが焚かれていく。

 小さなスマホの中で少女の姿を模した白い朱鷺のような羽のアバターが動き、境界対策課の制服――通称“狩衣”に酷似した装束が揺れる。

 アバターがくるりとその場で回ってシャッターを押すのと同時。スマホを持つ少女もまた、同じように長く伸びた袴のような緋色のスカートを恰も神楽舞のように揺らしながら、ひび割れたコンクリートの残骸をこつりと蹴り飛ばした。

 

鵠別(くぐいべつ)供花(きょうか)』と名づけられたアバターの、或いは動画配信者の名は、奇しくも少女自身の胸に記された職員証と一致している。

 

「いやー、ほんとは来ちゃいけないんだけどねー。なんせここ、皆も知っての通り“禁域”だし! あっモシュさんたちも当然来ちゃダメだよ。リア突ダメゼッタイ、イイネ?」

 

 少女が、供花が小さく笑う。スマホの中で小さくコメントが羅列されていく。「アッハイ」「おまいう」「オマエモナ-」等という老人どものコメントに苦笑しつつ、供花はちらりと目線を外す。二台目のスマホに4文字フリップしてから予測変換を一度タップした。

 

 ――禁域。Wikipediaの定義に従うと、「現在でも未だに境界災害が頻発する可能性があるとして環境庁により指定された、一般人の許可なき立ち入りが規制された地域」

 Wikipedia文学扱いされることもあるページを軽くスワイプしつつ目線を戻し、カメラを見つめて「ごめんごめん」と返す。

 

「私? 私は……ま、色んな手を使って――ってか異世界へ行く方法っていうの? ああいう都市伝説を片っ端からやってたら、なんか入れちゃった感じ? 流石にモシュさんたちが真似しちゃいけないからって編集してる時に怒られちゃってねー」

 

 てへっと舌を出す供花の目の前で、アバターの供花もまた気恥ずかし気に頭を掻く。「あのさぁ」だの「おまわりさんこいつです」だのというインターネット老人たちのコメントに一々甲高く黄色い声で返しながら、少女は空気を変えるように「はいはい終わり!」と声高に叫んだ。

 

「さ、始まってもいないけど閑話休題! そろそろ旧八咫ノ川禁域実況配信、始めていこっか!」

 

 それだけ言って、供花はぐるりと周囲をカメラに写していく。

 まずはボロボロのコンクリート、ひび割れたガラス窓、草木の生い茂る高度経済成長期特有の団地。ひしゃげた信号機に何かの焦げ跡。

 振り返る。倒壊した鉄条網とビルの狭間に、朽ち果てたカラーコーンと看板が転がる。動画が始まる前に、彼女自身が入り込んできた道だ。

 供花はコメントに向けて小さく頷き返しながら、スマホを四面四角の看板へと向ける。

 ざり、と小石を蹴る音。映り込む地下足袋。暗がりの中の人工的な灯り。手ぶれに揺れる液晶の中で、小さな少女のアバターが「注目!」とばかりにピントを合わせた。

 

 昭和の年代から置かれているのだろうか。苔むした薄い金属に掠れた文字で年号だけが読める工事現場のような看板には結界――“霊素等連結用祭具型境界保全工事”を行う旨だけが記されている。

 くるりとカメラを返し、真ん中から圧し折れた電柱にカメラを向ける。「荒益1丁目」とだけ書かれた住所がモザイクもなしに映し出されたかと思うと、慌てたように液晶の中の暗がりが揺れた。

 おっとっとと少し慌て混じりの声をマイクが拾ったのをコメントで確認した供花は、話を変えるように無理矢理腹の奥から笑い声を出す。

「いやー、雰囲気があるね。流石は禁域! ここは団地だったっぽいけど……中の人たち、どこ行ったのかなー?」

 おどけるようにきょろきょろとあたりを見渡し、合わせてカメラを三階建ての団地の一角へと向けた。

 距離にして数十メートル。軽く見上げた団地の三階には、割れた――というより吹き曝しに近くなった大窓に錆びついた鉄の格子がぶら下がり、ぼろ雑巾よりも擦り切れ尽くしたカーテンと思しき布切れが奇妙な形に引き結ばれている。

 まさしく廃墟、それもホラー映画に出てきてしかるべきどんよりとした陰気に包まれた団地の様を見上げつつ、一歩一歩と地下足袋で落ちていた祓串の残骸を踏みしめる。

 液晶から伸びる供花の影だけが一寸先の闇へと落ちて、それがまた黒不浄とも祓串ともつかない微妙な長さの鉄塊と共に夜の只中へと消えていく。

「こうして街中を見て回るだけでも良いけど……」

 ざりと瓦礫を踏みしめ、高く掲げたスマホを一瞥。

 恐れを知らない視聴者からのコメントに期待して小さな画面を見上げると、「なんか動いた?」と予想だにしていない文字列が濁流のように流れていった。

 

 

「え……っ!?」

 

 刹那。ちかりとアパートの割れた窓を反射して、赤黄色の焔と痩せた人のような姿が一瞬だけ視界をよぎる。

 刹那。重心を無理矢理落として地面に打ち付けた腰元を、一瞬前まであった頭蓋の位置を、煌々とあたりを照らしていたスマートフォンの液晶を、雨あられのように流線型の弾丸が通り過ぎていく。

 

 銃弾の運動エネルギーに耐えきれず、一瞬遅れてスマホが跳ぶ。液晶の破片と擦過の傷が頬を掠る。咄嗟に構えた左手の骨を銃弾が穿ち、迸る血と細く白い腕の肉がほんの一瞬だけ飛び散っては黒い呪詛として“形代”の呪いを発露させる。

 痛みに奥歯を軋ませる間もなく、供花は肩が外れんばかりに弾かれた右手を支えにして片手だけで地面を掴み。尻もちをついた勢いを一切殺すことなく、曲芸のように大きく飛びのいて更に数発飛び込んでくる銃弾の線を躱しながら、腰に差した祓串を逆さまの視界の中で団地の一室へ向けて投擲した。

 

 血の味がする口で息を吐く。形代のおかげで破滅を回避した左腕を再び腰に構えると同時。遠くで祓串がコンクリを穿つ鈍い音がする。

 

「よくも……! まだ契約残ってるのにっ!」

 

 がつん、とスマホが苔むしたコンクリを叩く音。どこか遠くでコッキングを行う金具の音。五根に入る情報を極度の集中によって意図的にシャットアウトしつつ、思い切り腰を落として左足を引く。

 気迫混じりに怒号を叫ぶや否や、少女の身体が跳ねる。胸元に当てられた赤外線の熱が離れた瞬間、押し殺された空気の圧搾が丑三つの空に響き渡る。

 半ばあてずっぽうな扇状の線状が飛び交う様をほんのわずかな発砲炎から予測しながら、肩口の狩衣を切り裂かんばかりに飛ぶ弾丸をすんでのところで逸らす。

 おっとと小さく漏らした刹那に急制動。一瞬遅れて本来ならば居るべき位置を弾が掠め、草生すコンクリを弾けさせた。

「ほんとはこんなとこ、モシュさんたちには見せられないんだけどねっ……!」

 

 弾が尽きたのか装填の合間か。銃弾が途切れたのを一瞥すらすることなく察知した供花は、一つ息を零すと無理矢理制動をかけた脚に力を込めて前転しながら宙返り。

 朧月一つない曇り夜空に向けて、目の前にそびえる高さ5メートル弱の団地の壁に向けて。新体操の演舞でも行っているかの如くに、模範的な後方伸身宙返りを披露する。

「ここで――ほっ、と!」

 

 勢いづいた足先が2階のベランダの縁に届くのを確認するやいなや。地下足袋の指先だけで全体重を支えつつもう一度勢いをつけて跳び上がり、もう一つ上の――目的とする部屋の窓の格子に指をかけてから飛び乗った。

 

「こんばんは! 銃は人に向けて撃っちゃいけな――」

 部屋を一望できるベランダの格子に乗った供花が見たのは、まさしく前哨基地とも言える一つの部屋。ズタズタになった伽藍洞のリビングに、そこら中に落ちた細いマガジン。黒い銃弾は夜闇に依るものか、それとも否か。

 そうして目の前に立つのは痩せた男。狩衣のようにも見える古びた和服を纏い、ゴテゴテとカスタムされた短い銃身のサブマシンガンを構えて窓から身を乗り出そうとしていた、哀れな男。

 彼は半ば半狂乱になりながら咄嗟に一歩足を引き、引き金に指をかけてほんの一瞬の隙に三階まで跳び登ってきた少女へむけて銃を擬す。

「ば、化け物!」

「ちょっ、酷くない!?」

 ちゃきとカスタムされたアクセサリーが鳴いた音と半ば同時に、供花は男の構える肩をめがけて祓串を投げる。

 鈍い音とともに寸分違わず祓串が肩を穿ち、暴れ回る銃弾が室内の至る所へ向けて放たれた。

 

 マガジンがすべて撃ち尽くされるまでの数秒の間、空気を潰したような発砲音が続けざまに鳴り響く。サプレッサーをつけているとはいえ耳が壊れてしまいそうな轟音の中、眩いばかりの焔がロシア製の消音器を熱して紅色に彩る。

 やったか。確認するように小さく呟いた男は、筋まで貫かれたペグを引き抜いて放り捨てつつ弾痕の嵐の中を見やる。

 

 しかし供花の側へ、ベランダの側へと飛び込んでいった銃弾の先に、既に少女の姿はない。外れかけの格子が弾丸を浴びて撃ち倒され、階下に落ちた音が遅れて聞こえてくる。

 

 ちっと舌打ちした男がサブアームの拳銃を左手だけで引き抜いて構えたその時。

 粉々に割れた窓枠を蹴破って先ほど撃ち抜いたはずのベランダから、一人の小娘が勢いづいた飛び蹴りをかましてきた。

 

「即応班の人たちがやってた垂直登攀って、確かこんな感じだよね!」

 少なくとも一足で一つ上の屋上の壁まで跳び上がり、足場の安定しない中でペグを打って、なおかつペグ一本のみと片腕だけで全体重を支えながら再び返ってくることは、きっと即応班も想定していないことだろう。

 しかし惜しむらくは、それを疑念に思う人間すらいないこと。

 ツッコミ不在のまま飛んできたのは、成人男性に比べれば軽いとは言え、人体ひとつ分の重量に加速のついた蹴り。地下足袋のかかとが男のみぞおちを正確に打ち抜くのに前後して、供花はどたんと大きな音を立てながら倒れ伏した男にそのままマウンティングを取る。

 

「こんな乙女をつかまえて化け物だなんて、リテラシーってやつが足りないんじゃないの!?」

 デリカシーだと男が呻きまじりのツッコミを入れるより先に、供花は彼の左肩と首元とを取り自らの細い肩と膝とで固めている。

「こ、こんなところに居るようなやつが化け物以外にいるかよ!?」

「うーんそれは正論! でも私、正論って嫌いなんだよね!?」

 ぐいと男の腕に加える力を増して膝を更に入れ、梃子の原理を用いて男の頸動脈と左腕とを締め上げる。苦痛に呻く男の指先からは未だに力が抜けず、固く握り込まれた拳銃は今も剥がしきれていないままだ。

「こっちはただ危ないよって教えてあげに来ただけじゃん! それを銃で撃つわスマホは壊すわ、挙げ句に化け物ってのはなんなのさー!」

「化け物以外ならどうせ祓魔師だろうが! 俺は捕まりやしねえぞ!」

 供花に一切怯むことなく、痛みで歪んだ顔の男は口角から泡を飛ばしながら反論する。

 まだ元気と戦意があることを口ぶりから確認した供花は、男の腕からみしりと軋む音を無視して思い切り外側へと引き上げた。

 ごきりと嫌な音が響くとともに、男の口から絶叫が迸り拳銃がぼろぼろのフローリングに転がった。

「こ、こっちだって捕まえに来たわけじゃないんだけどさぁ……! あと一応非番って扱いらしいから、祓魔師じゃなくてただのバーチャルアイドルなんだけど!?」

「ただの配信者がこんな事出来るはずがねえだろ! 常識で考えろやカス!」

「言ったなこのっ! 絶対屈伸して煽り散らかしてやるんだから!!」

 

 供花が喚く。ぐい、と膝を入れながら男の骨ばった首元――喉仏より少し内側に入り込んだ肉へと肘を押し込み、ほんの小さな肘先の凹凸だけで頸動脈と神経とを圧迫する。

 小さく蛙の鳴くような声を上げて、男の目から焦点を合わせるだけの気力が掻き消えていく。物理的に血の気の退いた唇が数度だけ震えて、見開いたまま散乱した瞳孔が夜の黒だけを写すようになる。

 ――頚動脈洞性失神と呼ばれることもある締め技の基礎をたやすく行った少女はふんと鼻を鳴らして立ち上がり、軽く手を払って憮然とした顔のまま男のほうを見下ろした。

 

「…………さて、どうしよ?」

 一仕事やり切った後のような悪い意味での冷静さ。血の昇った頭を冷たい夜が冷やす。

 恐らくは呪詛犯罪者なのだろうこの男を、どこかに突き出すというわけにはいかない。いつ目をさますかもわからないし、今の供花は境対課員ではないただの迷惑なバーチャルアイドルだし、なによりここは未だに禁域の中。大荷物を抱えて出るのも苦だし、なにより撮れ高がまだだ。

 そこから連鎖的にスマホのことを考え、途中で途切れた配信のことを思ったところで、思考を無理矢理シャットアウト。若干ナイーブになった頭を振っていつもどおりの笑顔を作る。

 

 

 ふう、と一つ溜息を吐いた途端、供花の背筋を悪寒が駆け抜けた。

 

 

 小さく息を吸って床を蹴り、空薬莢を踏みつけた痛みを気にすることもなくフローリングを転がる。肩甲骨から転がる典型的な五点着地を高さのない位置から行いながら、転がった勢いをそのままに膝をつきつつ立ち上がる。

 ――瞬き。

 自分から回った視界に映ったのは、つい今しがたまで倒れていた呪詛犯罪者の男が、突如として開いた大きな口に呑み込まれる様だった。

 

「うわーっ!?」

 

 絶叫に合わせるようにして、穢れが溢れる。黒く瘴気のようにも見える――可視化されるほどの穢れの奔流と共に、右目と嗅覚と耳元が丸ごとどろりと溶けるような錯覚が供花を襲う。

 一瞬にして黒ずみきった形代を抜き取り、6割以上残っていた形代が全て一瞬のうちに使い果たされたのを一瞥した。

 

 のそりと闇から現れる大口の主。唾液滴る牙に、大きく膨れ上がった筋肉質な獣の前足。

 近づいただけで致命に至る穢れの度合い、這いずる怖気、圧迫感。

 ――このような特徴を持つ輩は、一つの災害にも比定される四号級の界異は、禁域という場所には腐る程多くいる。

 

「“一口狼”……っ! こ、これってどう考えてもマズいよねっ!?」

 ”ただ力強く、凶悪である”という一点のみで「四号級」の名を(ほしいまま)にする災厄の獣を見据え、供花は甲高く喚き散らしながら脚を引いた。

 

 交錯。一口狼と供花の間で視線が取り交わされた瞬間、意思すら持つような殺意が少女の駆体に浴びせられる。

 

 轟炸。築50年を有に超えるだろう団地のフローリングを丸ごと踏み割るほどの踏み込みで狼が一歩踏み出すと同時。供花は近くに転がっていた呪詛犯罪者の短機関銃を手に取りながら、踵を入れて重心を下げ、部屋の奥へ――玄関の先へと跳躍する。

 

 膝と脚とで簡易的なバク転をかました刹那、つい一呼吸前まで頭のあった位置を巨大な鉤爪が通り過ぎる。淀んだ大気を抉り取り、風圧の暴威を以て少女の髪が舞い乱る。

 逆さに着地した瞬間、喉元を襲う牙。手首のスナップでもう半歩分後ろへ跳んで薄皮一枚引き換えに。

 壁に着いた右足を思い切り蹴り降ろしてもう左側の壁へと飛び上がりつつ、擦り切れたスリングを引き寄せて、狙いもそこそこに弾倉を空にする勢いで引き金を引く。

 先ほど食われた名も知らぬ呪詛犯罪者の銃から合計30発の黒不浄弾が放たれ、うち数発が一口狼の肌を焼いた。

 分厚い毛皮で弾丸を弾きとった大狼は、喉の奥から不満げに唸る。太く丸太のような前足に力を籠める。

 どうやっても外しようのない距離からその銃弾の大半を向かい側の壁や床へと放り込んでしまったことに舌打ちしつつ、破れかぶれに嗤った。

 

「はいクソエイムっ! 我ながら惚れ惚れするNoob加減じゃない!? ――い、いやいやそんな笑ってられる状況でもないんだけどもさぁ……!」

 

 空元気で嗤った口元をぬぐいつつの捻り込み。軸に捻転を加えた勢いのまま、飛びついた壁をもう一度蹴って、狭い部屋のリビングをコーナーに見立てたかのような三角蹴り。

 カウンターとばかりに大口を開いた牙へ向けてスリングと小銃を振り回しつつ、立ちどころに食い破られた黒鉄の筒を尻目に空中でふっと息を吐き尽いて。

 

 ――弾指。がつん、と重く金属にでもぶつかったかのような音が響く。

 地下足袋の裏に仕込まれた鋼を濃密な穢れが包み取り、毛皮もなく急所に等しいはずの鼻っ柱を護る。

 引き攣る口角。手ごたえの無さ。舌打ち。

「っぱダメか!」

 脚の下でにたりと嘲る様に嗤う牙を認めた瞬間、供花は次の行動を一旦大きく変えて無理矢理脚の指を大きく曲げながら横向きにかがむ。

 続けざま、跳び蹴りの勢いに任せた即興の震脚。勁を利かせたまま足元の眉間へ思い切り一回掌底をぶち込み、鼻っ柱の肉を千切らんばかりに籠めた足の指先の力だけで全長にして5mはあろうかという巨大な狼の頭頂へ向けて飛び上がった。

 眉間を貫く掌底を全く無視して恰もコバエでも追い掛けるかの如くに後ろを向き、首をもたげた一口狼へ、高さすれすれの天井を軽く蹴った供花は小さくほくそ笑む。

「そうするよね! だって君、見えてるんだから!」

 

 押しやった手のひらを支えに空中で身体を捻り、太ももを以て大狼の短い首へと蹴りつける。毛皮の薄い喉元へ宛がった腿がぐじゅりと濃密な穢れで蕩け落ちる感覚と同時、“形代”がその破滅を肩代わりして黒く炭のように染まる。

 不快な感覚を浮き出る獣のような笑みで打ち消しつつ、狼の首元を軸にして蛇のように絡みながら身体を密着させた。

 そのまま太い前足を腹の側から締めつけにかかり、毛並みを這う供花の腕をうっとおしそうに振りほどこうとしたところで、もう一方の脚を脇の側から通し4の字に拉ぎ込むようにして背中のバネで一口狼の頸と足とを極める。

 

「即興、だけど……! 『三角締め』!!」

 

 自慢気に叫ぶ供花。自動車をも破壊する剛力を持った四号級の界異を相手に極技を披露するには、ただ腕の力だけでは足りない。全身のバネを用いて、裂帛の気迫とともに為さねばならない。

 それを知ってか知らずか。甲高く空に響くような咆哮とともに、一口狼は後ろ足だけで古びた団地のリビングを駆け出した。

 

「うぉぁっ!?」

 どごん、とリビングの壁が立ちどころに吹き飛ばされる。隣り合う和室がその伽藍洞な姿を供花たちの眼前に晒し、腐り切った畳が底から爆ぜる。

 必死にしがみつく少女を尻目に苦し気な呻きを繰り返す一口狼は、着地した前足で方向を器用に転換しつつ自身の身体を壁から天井から床から、自動車にも比する速度で以てありとあらゆる所へと当て擦る。

 衝撃の都度、瓦礫が舞う。加速の都度、古寂びた団地がなすすべもなく崩れていく。

 一歩踏み込むと同時に階下のフロアが崩落し、一歩飛び込むとともに隣の部屋へ大穴が開く。

 穢装によって狼の毛並みは防護されるとしても、その表面に絡みつく供花にとっては瓦礫一つガラス一つで致命傷となるのだ。

 野生では味わうことのないだろう「関節技」という名の未知の技術に対する、端的にして、最適な振りほどき方。

 どこでこんな知恵をとFワードを吐きながら舌打ちしそうになる口元を固く噛み締め、もう一つ腕に力を込めて。頸椎と前足の関節とを無理矢理外さんと固めた。刹那。

 

「――――――――ッ!」

 

 可聴域の外側にまで及ぶように、狼は甲高くも重苦しく吠え猛る。

 単純な音の波によってか供花の耳からどろりと赤黒い液体が垂れ、恐らく脳に及んだのだろう穢れが形代を一つ使い尽くして散っていく。

「早く落ちてくれなきゃ……こっちも危ないんだってば!」

 

 残機、残り4枚。

 

 頭の中で残りの命の数を数えた瞬間、長く尾を引くような雄たけびを上げた一口狼は丁度真上へ跳び上がった。

 轟音と共に古びた天井が壊れ、大穴の空いた一階から一気に屋上へ。崩れかけの瓦礫が完膚なきまでに崩れ落ち、衝撃と共に壊れかけの家具が倒壊する。

 内臓をひっくり返すような加速度。充血し黒ずむ視界。鉄骨の突き出た瓦礫が肩口を切り裂き、歯を食いしばりくぐもった痛みを零す少女の事など知りもせず。

 

 ぱっ、と一瞬視界が瞬き混じりに白ばんだ。

 

 肌に当たる暴風。肌寒いほどの宵闇。宙に浮かぶかのような浮遊感に、一瞬の無重力。

 狼の毛並みから覗くのは、上空遥か高くに耀く病的なまでの朧月。

 くるり、と逆さまになった視界の中で、端正に規格化された団地の群れが――大きく壊れた一棟が、猛烈な勢いで自らに近づいてくる。

 

「うっそでしょ……ぉっ!?」

 地上階から跳び上がって、高く、高く。地上数十メートルの中空までを一足で跳躍した一口狼の筋骨にぞわりと背筋を震わせた刹那、全長5メートルを数える界異の巨体が、必死に頸椎へとしがみつく少女の矮躯を巻き込みながら背中から屋上へと突き刺さる。

 

 ずどん、と砲弾でも着弾したかのような轟音。屋上の苔むしたコンクリートを叩き割って、更に下へ。表現重量にして数トンの巨体が秒速9.8mの重力のみに従って接地し、叩き割った大量の瓦礫の雨霰の中で再び後ろ足に力を籠める。

 げほり。少女が血混じりにしわぶき。その途端、ほんの少し緩んだ前足の拘束を力任せに引きちぎって狼の前脚が突き出された。

 規制される前に埋め込まれていたのだろうアスベストを濛々と舞わせながら、再度跳躍。

「まずっ……!」

 

 ぶちりと筋の切れる音。砕けた腕の骨と関節無理矢理はめ込み直そうと手を這わせた瞬間、完璧に破綻した武芸を単純極まりない野生の暴威が襲う。

 狼は飛び込みざまに首を高く掲げ、根元に絡みついた供花を強烈な加速度のまま振り回す。少女の身体にかかる血流が一瞬で頭蓋を内側から締め付けるのを感じ取りつつ、膨らみ切って黒ずんだ視界のまま供花は獣のように吠え猛る。

「やらっ、せるかぁ!!」

 上体を振るう。恰もスリングかボーラかの如く、大人が赤子を振り揺すってあやすかの如く。

 振るわれる。穢れた毛並みが離れ、円軌道に応じて爛々と耀く野狼の眼が近づく。鼻先で風を受ける背中を、割れに割れた大窓のガラスとコンクリの壁が舌なめずりするように待ちわびる。

 勝負は一瞬一瞬の繰り返し。考えるより先に、脊髄よりも早く手を打ち返す。

 上司の、第八班長の語ることを――同僚が苦手とすることを。ひび割れて錆鉄の滲む奥歯で噛み締めつつ、供花は無理矢理身をよじった。

 刹那、迫る致命の牙。大きく口を開けた漆黒よりも黒い闇を咄嗟に拳で撃ち返し、ワンツーのリズムで端から折れることのない牙ではなく顎を穿つ。

 クリーンヒット。一瞬くらりと暗転した一口狼の瞳を認めた直後、少女の身体が巨体と壁の間に挟まれ、潰れる。

 

 どかん、と砲撃でも行われたかのような衝撃。“形代”が押し潰された内臓の肩代わりをして黒く染まる。硬いコンクリの壁が発泡スチロールのそれであるかの如く粉々に吹き飛ばされ、錆びついたベランダの柵を巻き込んで真下の街路へと落ちていく。

 もとより緩んだ拘束に自動車の衝突事故をも思わせる加速と衝突。なすすべもなく振り払われた少女の身体が、階下へ向けて落下する。

 

 黒ずんだ胸元の形代が4枚ほど重力加速度に逆らうように舞う中、供花は右腰からワイヤー付のペグを引き抜いて放り、月光が差し込むほどにまで全壊した団地の天井へ向けて突き刺した。

 そうしてそのまま掌握。脇と腿とで絡み取り、自由落下を防ぐ。躯体に擦り付けられる注連鋼縄の痛みを無理矢理押さえつけながら、大きくひび割れた外壁を蹴り上げて上へ。更に上へ。

 本来であれば屋上だったのだろう――無惨にもひしゃげた給水タンクが辛うじて狼にぶち抜かれた大穴へ落下していないだけの空間へと着地し、走り。口元でピンを引き抜いた呪榴壇と共にまた再び、狼のいる大部屋へと降下した。

「黒不浄でもあれば良かったんだけど……これで十分!!」

 

 落ちる。一口狼は既に、その鋭敏な嗅覚にて少女の姿を捉えている。

 呪榴壇を放る。落下するだろう場所に口を開いた狼の口元で、呪いの爆弾が一度バウンドする。

 炸裂。蔓延する呪いが供花の身体を犯し、同時に巨獣の穢装を削る。がちりと音を鳴らして空ぶった牙が閉じる。

 

 一瞬の交錯。既に、供花は一口狼の頭上にいた。

 

「食らえ、必殺!」

 

 爪は来ない。狼の骨格では、高く頭上に腕を上げることは出来ない。

 牙は来ない。今しがた閉じられた牙を再び開ける程の時間を、供花は与えない。

 高く跳ぶことも、避けることも。重心の位置を考えれば。

 

「ケン直伝――でもないけどっ! 『紫電カカト落とし』!」

 

 供花が叫ぶ。狼が唸る。裂帛の気合を以て、開きかけの牙へ――狼の頭蓋へ向けて、落下の加速を合わせた踵落としを入れる。

 鎧に刀を振るったところで貫通はしないが、衝撃は徹すように。一度揺らした脳をもう一度揺らすように。

 “穢装”という超常の防御性を無視し、ダメージを与える。人類が古来から紡いで来た叡智の結晶にして、経験と才能の極地。

 その一端を一口狼という四号級界異相手に見せつけた供花は、にやりと自慢げにほくそ笑みながら次の動作へ。

 そのまま地面に着地し、膝を溜める。脳を揺らした狼が、その顎が、今だ困惑のうちにあるうちに。

 ふっと軽く、中国拳法にある呼吸と合わせ。身体全体のバネを駆動させ――

 

「『昇竜――――っ!?」

 

 跳躍と同時。その思惑が、真っ向から失敗したことを悟った。

 

 待ち構えていたかのように、大木のような前脚が迫る。踏ん張りの利かない空中で、少女の技が破綻する。

 爪による攻撃でもない、移動でもない。ただ、お手をするようなもの。

 ただのそれだけで威力が暴れ、供花は木の葉のように突き飛ばされる。必殺の間合いから外され、狼の間合いへと無理矢理に押し出される。

 

 今度は向こうが、狼が、まるで感情を得ているかのようにほくそ笑んだ。

 

 ちっと舌打ち。着地と同時に降り注ぐ鉤爪を転がることで回避し、迫る牙と顎とをバク転の要領で間一髪逸らす。

 特異な穢れによって噛み砕かれた黒い髪が散り散りに舞い踊り、辛うじて残った足場が徐々に崩落していく。

 さらにもう一つ掻き毟られた爪へ向けて咄嗟に左の拳を突き出し、手首を返すようにして勢いを逸らして。それでも耐えきれなかった体幹のままに、床を蹴って自分からコマのように回りながら突き飛ばされた。

 

 腐り切ったドアを突き破って溜まりに溜まった埃を濛々と舞わせつつ、壁に肉を打ち付けるような水気混じりの音。衝撃の合間にけほりと噎せこむ喉を拭う。

 洗面所の錆びついたパイプに腕を叩きつけられ、圧し折れた管から水があふれる。朽ちた歯ブラシが転がり、かびた洗面台が罅割れ落ちる。

 

「いっ……つぅ、私じゃなかったらこれどっか折れてるよ……」

 

 ぬるりとした水の冷たさ。赤錆びた鉄の匂い。供花の身体を支えた衝撃でどこかが外れたのか、絶えず噴き出し続けるいつのものかもわからない淀んだ水道を無視し。少女は罅の入った腕で銃と拳とを構えて、廊下一面を埋め尽くすほどに肥大化した“一口狼”の巨体を臨んだ。

「さっすが禁域……四辻さんの動画みてなきゃ即死だったな」

 ぶるりと震える体を抑え、脚を一歩引く。

 

 仲間は居ない。班長にも、サイボーグの同僚にも、ここに来ていることは伝えていない。

 祭具はない。御神籤もない、黒不浄――林野庁鎮守部で用いるところの赤不浄もない。

 防具も、祓魔術も、経験も、なんなら武術の才能だって。あの狼を討ち果たすのには役立ちやしない。

 逃げることも、退く事も出来やしない。単独で四号級を相手にして、なんとか逃げおおせた数の何と少ない事か。

 

「……でも。ここで死んでしまっちゃ、センシティブで垢バンされちゃうから」

 

 ただ、拳だけがある。拳を振るう相手だけがある。

 腰を落とす。右拳を前へ、左掌を腰元へ。

 

 形代を使い果たすまで。どちらかが死ぬまで。そう、死合いの決意を決め――――

 

 

 

『――――大隊。砲撃始め』

 

 ざり、と無線が鳴った。

 

 狼にあるはずのない、スマホでもない、誰のものでもないノイズ混じりの音。

「……へ」

 吐息の代わりに素っ頓狂な言葉を零した供花の目の前へ、ポンと軽い発砲音とともに曲射弾道で幾つもの手榴弾が転がる。

 着発と同時に炸裂する骨董品のような手榴弾と迫撃砲弾が狙いすましたかのような弾道を以て次々と炸裂するや否や、先ほど壊されたばかりのベランダを木っ端みじんに吹き飛ばしながら大小さまざまな砲弾が続けざまに投射される。

「う、うおわーっ!?!?」

 気の抜けた悲鳴を上げながらも適切な耐爆姿勢を取って崩れかけのフローリングに寝転がった供花の身体を、致死的なまでの破片を撒き散らす爆風だけが吹き曝していった。

 

 あたりに広がる瘴気を、月光と炎によって銀色に輝く毛並みを、圧倒的な炸薬量の爆炎だけが舐め取って吹き飛ばす。機動班の戦闘車両か伝え聞く自衛隊の祓魔部隊でしか味わうことのできない――或いは祓魔師として出来るだけ味わいたくはない――衝撃の轟音だけが、恰もドラムロールかのように打ち込まれ続ける。

 続いてだかだかと革のブーツがコンクリを踏みしめる音が後ろ側から、一度も開けた事のないはずの玄関扉と廊下の側から響き渡ったかと思えば、何人もの男たちが戦地もかくやというフロアへと踏み込んで来た。

 

「だ、誰……!?」

『――歩兵三分隊、撃ち方始め』

 

 ノイズ混じりの音がする。男の肩にかけられた――博物館でしか見た事のないような古びた大型の無線機から、初老の男のしわがれた低い声だけが響く。

 了解、と返した年若い声に続き、同じく古びた木製の小銃……ゲームの中でしか見た事のないような、ボルトアクション式の歩兵銃が薄暗い廊下から月明かりの下にその銃口だけを突き出す。

 撃て。

 並んだ幾つもの銃口から漆黒の銃弾が飛び出したかと思えば、一口狼の堅牢な毛皮へ次々と突き刺さる。痒そうに呻いた狼の鼻先へ向けて、一人の影が駆け抜ける。

 

 月明かりに照らされる男の姿は、まさしく異様そのもの。

 古びたナイフ形の銃剣が取り付けられた長大な歩兵銃。生地が擦り切れた茶褐色の軍服。血走った目に生傷と煤だらけの頬。やせ細って骨ばった腕には、金色に輝く亀のような形の地雷。

 時代が時代、場所が場所ならば、「兵隊さんの幽霊」と呼ばれてもおかしくないような――――或いは、FPSゲームの中でしか見ないような、コスプレなどとは次元の異なる“本物の”日本兵。

 呆然とする供花の目の前で、日本兵は口に咥えた安全ピンを吐き捨て、居間一つを覆い尽くすほどに巨大な狼の喉元を狙い銃剣を突き立てる。

「だ、駄目だよ! そんなんじゃ――」

 はっとして咄嗟に叫んだ声を掻き消すように、狼は血潮の一つすらも零さぬまま、日本兵の瘦せ細った腹へ向けて鋭い爪を振り下ろした。

 

 ――鮮血。爆ぜるように吹き飛んだ肉片が、彼の下半身の成れの果てだと示す。力なく震えて落ちた小銃と胸から先しか残っていない肉塊を踏みしめ、勝ち誇ったように軍狼は嗤う。

 

 ああ、と目を背けた供花の目の前で、ぴくりと。

 ぴくりと、確かな意志を持って。木の枝のようにへし折れた腕が、ひとりでに破甲地雷を狼の前腕に叩きつけた。

 

 瞬間。色が飛ぶ。音が遅れて、遠くくぐもって炸裂する。

 呪榴壇にも似た――しかし「軍用」の、戦車をも破壊するほどの爆裂。濛々と舞うのはアスベストの煙か、それとも瘴気か。供花が傷一つ追わせることすら出来なかった一口狼の毛皮から、どす黒い血のような穢れが溢れ出す。

「続けて撃て」

 号令と共にそこら中に散らばる瓦礫の陰から軍服の男たちが現れ、穴だらけのヘルメットを月の明かりに煌めかせながらボルトアクション式の小銃を構える。

 それと全く同時。ぱぱぱと軽く連続した銃声を響かせた軍人たちのもとに、一口狼が前脚だけで蹴り上げた瓦礫が飛来した。

 本来はどこかの建材であったのだろうコンクリートの塊は装填作業中の無防備な軍人の頭蓋を押し潰し、小石ほどのサイズの破片が銃の照尺を叩き折りながら若い軍人の眼窩を穿つ。

 悲鳴すら上げることもなくその半数を失った軍人たちであったが、彼らはなおも小銃をコッキングして意味の無い射撃を行っている。

 

「……っ、どこの誰かは知らないけど! そんなんじゃどうにもならないよ!」

「ああ。知っている」

 

 慟哭するように訴えかけた供花の声に、年若い軍人を押し潰した瓦礫の下から、極めて冷静な返事がした。

 

「ぅゎ――――っ!?!?」

「静かに。命令が通らん」

 

 絶叫と共に、信じがたい様が引き起こされる。

 頭の潰れた身体が起き上がるや否や、日本軍の軍服を着た男の身体だけが、瓦礫の下から奇妙な形の軽機関銃を引っ張り出して供花を見つめる。

 軽機関銃の二脚を広げて瓦礫の上に置いた彼は、まるで子供をあやすかのように何も無いはずの口元のあたりへ人差し指を持ってきた。

「弾幕を張る。現在装填中の者以外は敵中斬り込み用意」

 供花の目の前で、軍服の男は拳銃を片手に指示を出す。ぐじゅぐじゅと血と脳症の滴るまま徐々に下あごの骨から肉が湧き出て再生していくグロテスク極まりない様を、少女の瞳だけが見つめる。

 ふと他の兵員に眼をやれば、彼らもまた、瓦礫が身体にくっついたような奇怪な姿になって再び銃を取っている。倒れ伏したまま左腰から銃剣を引き抜き、銃口に嵌め込んで突撃の指示を待つ。

「起きろ、深山二等兵。戦闘はまだ終わっていないぞ」

 ぽつり。上顎までを再生させきった軍人が呟いた瞬間、先ほど一口狼に叩き潰されたはずの兵士の腕が動き、器用に片手だけでピンを抜いた古めかしい手榴弾を一口狼の腹へと投げ込んだ。

 くぐもった悲鳴が狼の口から放たれる。その下手人である下半身の無いまま倒れ伏した兵士の頭蓋を怨念混じりに食い破った瞬間、次から次へと黒い日本刀や銃剣――それに禁止されているはずの黒不浄弾の弾幕が、一口狼へ向けて突き立てられていく。

 あっけにとられる供花の眼前で、兵士たちが打ち倒されては立ち上がり、恰もゾンビゲームか映画の中の出来事であるかように野狼のもとへと駆けていく。

 

「…………おかしい」

 

 形代のはずがない。形代に、このような機能はない。

 たとえ形代があったとしても――死を代替する境界対策課特有の祭具があったとしても、ここまで死を恐れることなく突き進むことが出来る祓魔師は稀だ。もし出来るとしても、それは一部の第四班長や第六班長、即応班長くらいのもの。勝機が欠片でも無ければ、ここまで命を放り捨てるような真似は出来ない。

 

「――――おかしいよ」

 

 自然に零れた言葉に被せられるようにして、遠くから砲撃の音が響く。旧軍の亡霊たちの怒号と銃声、猿声と手投げ弾の喧騒の最中、再び次から次へと迫撃砲弾が降り注ぐ。

 肉の焼ける匂いと血しぶき。砕け散った団地の壁から漂う、廃墟と死の退廃的な香り。

 

 その様は、まるで。テレビとゲームの中でしか見た事のない戦場で。

 ――――否、ここは既に、戦場となってしまっている。

 

「……こんなの、おかしい」

 

 ぞわり。怖気が背筋を走り抜けた刹那、ノイズ混じりの無線が哭く。

 

『――――撃て。どでっぱらへ、砲弾をぶち込め』

 

 砲撃特有の腹の底から押し上げるかのような重苦しい発砲音と殆ど同時に、一口狼の脇腹が爆ぜ散った。

 四号級に相当する肉体を、毛皮を、穢装を、何もかもを貫き穿ち、穢れの混じった血肉が瓦礫ばかりで風通しのよくなった部屋に撒き散らされる。

 

 悲鳴。泣き叫び母を求めるかのような絶叫が狼の喉から発された瞬間、もう1発。

 今度は炸薬量が多いのか黒い鉄の破片と共に舞い散る業火が一瞬にして血しぶきを蒸発させ、狼の毛並みをどす黒い血で穢していく。

 続いて砲撃に巻き込まれたとみられる歩兵たちが肉片になりながらも、身体が少しでも再生した者から銃を手に取り刀を握り、一口狼の傷口を狙って銃刀を振るい続けていた。

 

「……正気じゃない」

 

 銃弾すらも通さない一口狼の毛皮を貫くよう、更に火力の高い砲弾をぶち込む。それだけなら、十分理解できること。しかし腐っても四号級の界異では、即座に砲兵を鏖殺するべく市街地を駆け抜けに行くだろう。

 そのための。発射レートの低い砲兵たちのもとに狼を行かせないための、ほんの十数名しかいない歩兵たち。少なくとも死ぬ事がないらしい彼らで可能な限り時間を稼ぎ、砲弾を次から次へと収束させつつ殺し切る。

 どう考えても祓魔師とは思えないその手腕――その冷酷さ。

 

 なにより、彼らの時代錯誤な風体。

 

 ゲームや古いアニメの中でしか見たことがないような、旧日本軍の歩兵たち。

 どれもこれもが死にたてほやほやのような姿で、ボロボロの軍服を纏い、太平洋の小島で敵軍を畏怖させた狂気の突撃を行う者たち。

 

「――――まさか」

 

 聞いたことがある。世界には、自らの呪詛を以て何らかのテロリズムを働く者たちがいると。

 聞いたことがある。日本では、かつての大日本帝国の軍人たちが身を寄せ合い日本政府を転覆させようとたくらんでいると。

 聞いたことがある。あの日知り合った草薙という同僚が、そのような超危険な呪詛テロ組織の隊長クラスと、“禁域”の中で遭遇したことがあるのだと。

 

 

 

 呪詛テロ組織、『ミワシ部隊』

 

 

 

 口をついて言葉が漏れた時、一口狼は大きく甲高く雄たけびを上げ、また何人もの日本兵たちを踏み潰しながら跳び上がる。

 砲撃によってボロボロになった壁と床を蹴り上げながら他の建物の屋上へと一跳びに逃れ、憎々し気な顔で供花と半死半生の日本兵たちを見下ろしながらどこか遠くへと逃げていく。

 狼が這う這うの体で逃げていくと共に煌々と照らしていた朧月が雲に覆われていき、あたりを静けさだけが包み込んだ。

 

「…………マジかぁ」

 

 一難は去った。だが、もう一難は目前にある。

 観念するように声を捻りだした供花の目の前で、半分以上死体のような日本兵たちがその血走った眼と共に銃口を向けている。

 ――一口狼との戦いもさることながら、先ほどの砲撃で死ななかったのが奇跡みたいなものなのに、ここから単独で逃げ出すことは奇跡に奇跡を重ねるようなもの。

 溜息混じりに「ぼくわるいふつましじゃないよ」と口ずさんでみるも、正気を失ったような視線を向け続ける兵士たちにはなんの洒落にも冗句にもなっていない。

 

「嘉数曹長へ報告。敵は“一口狼”1体。撃退するも完全祓滅は行えず。また境対課所属の祓魔師1名がここに」

『……捕虜にしろ。兵員は足りているが、使いどころはあるかもしれん』

 

 ぽつぽつと聞こえる無線。数言だけで終わった通信に応じるように、つい先ほど瓦礫で頭を潰されていた若い歩兵が少女の眉間をピタリと狙って拳銃を向ける。

 

「こ、降参降参……あと三枚しかないんだし、GGだよGG」

 

 拳を解いて手のひらを見せた供花を、亡霊のような風体の日本兵たちが取り囲んだ。

 

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