CクラスでもDクラスでもEクラスでも少年少女たちは頑張ります!! 作:酒匂馬酔木
10年前、5歳になった翔は、両親に連れられて秋の箱根へと旅をしていた。
龍園家の夫婦にとって、結婚から8年で三十路をとうに過ぎ漸く出来た念願の子。利発で快活、そして強健。病気などしたこともなく、幼稚園の運動会では三年連続全て一位。天使かと見紛う程に可愛い顔立ち。そんな息子を両親は溺愛していた。
翔の成長を寿ぐのは、バースデイパーティーや七五三や端午の節句だけでは足りない。
翔の楽しい想い出になればと、創業五百年を誇る旅館の部屋を予約した。
紅葉のシーズンが本格的に始まった箱根は観光客に人気で、旅館の宿泊料金は割高になる。一番安い部屋でも一泊親子三人で12万円。
一般行政職の地方公務員として都庁に勤め、月に40万円ほどの給料を得る翔の父。本音を言えば、一泊だけで12万円は少々懐を痛める額ではある。
が、翔の情操教育は大事だ。歴史ある重厚な風情の木造三階建て旅館で見て触れたものは、きっと翔の将来へ何かしらのプラスになる。ならば、12万円を払うことには何の逡巡もない、と思う。
ロマンスカーで新宿から小田原へ。
小田原漁港で秋刀魚の釜飯とつみれ汁を食べて、登山鉄道に乗る。
木々の紅葉は実に色鮮やか。親子三人、早川橋梁から見る山と渓谷の絶景に歓喜する。
駅から徒歩で旅館へ。
雲ひとつない秋晴れの箱根。実に清々しい。
着いて早速、翔が目を注ぐのは、龍園親子を出迎えてくれた女将の着物。落ち着いた老竹の色留袖には飛鶴渦潮文の絵染と刺繍。華美になり過ぎない程度に金糸と銀糸が使われた吉祥文様の帯。典雅であるが驕傲とは無縁な女将の装いと佇まいに感動する翔。翔は和装を愛する子供なのだ。
2時という早めの時間での記帳。部屋の準備が整うのは3時なので、荷物は一旦帳場へ預ける。
広間で新栗の羊羹と深蒸しした玉露を愉しむ。美味しい……! 翔は和菓子と緑茶をこよなく愛する子供なのだ。
部屋へ通される前に、黒いネクタイを締めたワイシャツの上に鉄紺の半纏を羽織った主人の案内で、国が指定した重要文化財である広大な旅館の中を巡る。
和建築の美、そして工匠たちにより連綿と受け継がれてきた木材加工技術の粋に感嘆する親子。それを見て取った主人は上機嫌で子供向けに平易な言葉を使い説明を続ける。
主人の話を聞きながら、磨き上げられた漆塗りの階段を上る──そして、ふと気付く。
長い長い廊下、その先に誰か居る──白い着物の少女が独り。
肩先で切り揃えた黒く艷やかな垂髪。肌は透き通るほどに白い。遠目にもわかる美しい、実に美しい容貌。
思わず目を見開く翔。
ひゅっと息をひとつ呑む──そのまま呼吸を忘れる。
時が止まる感覚。
生まれて初めて異性に心を奪われる。
なんてきれいなんだ……!
少女が翔に目を遣る──翔の胸が高鳴る!
ふたりの目が合う──見詰め合う。
吸い込まれそうな瞳。翔の五感は視覚だけ、それ以外はもう意味を成さない。
いや、その視覚すらも。
意識の全てが瞳の黒に呑み込まれていく。
何も見えない──。だが、心の眼で周囲が視える。暗黒ではない──ほんの僅かに揺らぎや彩りを伴い輝く漆黒。
これは、たぶん、女の子のこころのなかだ……そこに、いま、ぼくはいる。
ふたりが互いに通じ合っている──という訳ではない。ただ観られている、覗かれている、探られている。
一方的にではあるが──ふたりは、通じている、と言える──その感覚が翔には嬉しくて堪らない。
翔の知らない何かが目覚める。その何かが、言葉にならない想いを翔へ伝えてくる。
強い衝動が突き抜け、翔を駆り立てる。
今、わかった。
そうだ、ぼくは、あの子が欲しいんだ。あの子をぼくのものにしたいんだ!
急に両肩を掴まれる。翔の顔を覗き込む母。五感の全てが戻っていると知る。が、それで安堵することはない。少女の漆黒からの帰還は寂寥しかない。
「どうしたの? 翔、ぼーっとしちゃって。顔がちょっと赤いわね。熱でもあるのかしら?」おでことおでこをくっつける母。
「大丈夫だから。」そう答えて廊下の先を見るが、少女の姿はない。焦燥に胸が詰まる。
走り出す。廊下の突き当りまで走る。左右にまた長い廊下が続く。どちらにも少女は居ない。
「翔、何処へ行くの? 戻って来て。」母の声が聞こえるが、それよりも少女を追いかける方が大事だ。
少女は何処にいるのか? 取り敢えず勘で右の廊下を選んで、一歩踏み出す。廊下を十数歩進んで気付く──何か音がする。
見ると、四枚立ての襖が小さくカタカタ音を立てて少し揺れている──何だか呼ばれている様な気がする。
少女に呼ばれているのかも知れない。
引手に手をかけて襖を開けてみる。部屋に入る。
薄暗い八畳の部屋。右も左も前も後ろも四枚立ての襖があるだけ。他は何もない。誰も居ない。照明のスイッチも見当たらない。障子張りの欄間のみで採光する部屋。
前方の襖が音を立てて揺れる。誘われる様にその襖を開けて、次の奥の部屋へ。同じ調子の部屋がずっと連なっている。どうも妙な間取りだ。
次第に目が闇に慣れてくる。歩を進め、またもう一度襖を開けて、更に奥の部屋へ入る。それを繰り返すと、もう陽の光は一切届かない。が、奥に行灯が二張りある。LED電球などではない。蝋燭がちろちろ小さく灯っている。
この部屋だけ、奥が襖ではなく、黒漆を塗られた帯戸だ。縁の随所に紙の札が貼ってあるのが見える。帯戸がガタガタと大きな音で揺れ始める。カリカリ……ガリガリ……と帯戸を爪で引っ掻く様な音もする。
ぼくを呼んでるのは、たぶん女の子じゃないな。それはわかる。女の子がこんな薄気味悪い音を立てるわけがない。
でも、帯戸の向こうから、開けて、開けて、早く開けて、と誰がかは知らないけど……ぼくを促している。そんな気がして手を帯戸に伸ばす。
それに合わせて、翔の中の何かが強い調子で翔へ命じる──良いぞ、開けろ、そしてそいつを喰らえ! と。
え……? 喰らう? 何を? 思いもしなかった言葉。戸惑い、手を止める。
すると、そこへ、翔の背後から玉を転がす様な少女の声が──。
「
あの子だ! あの女の子だ! 振り返る翔。追いかけて探していた女の子が薄暗がりの中、凛として立っている。
あれ? ちょっと怒ってる? ぼくはこんなに嬉しいのに、女の子は嬉しくないみたいだ。
白い少女が一歩二歩三歩とゆっくり前へ出る。白足袋を履いているのがわかる。
行灯の揺らめく光が少女を照らしていく。
着物は白の色無地、銀糸で袂と裾だけに彼岸花の花弁を象った文様の刺繍。深い紫紺の半襟と袋帯。帯には白い萩の花の刺繍。黒と銀で四つに組まれた帯締めと銀の秋桜の帯留め。
きれいだ……!
白い面差しを間近で見る──光の中に浮かび上がる少女の美しさに再度心打たれる翔。
嗚呼……なんてきれいなんだ……!
白く滑らかな肌。高くはないが真っ直ぐ通った鼻梁。柔らかそうな薄めの唇は薄紅。そして、眼差しが特に美しい。縦幅が広めの丸に少し近い可愛らしい末広二重の目だが、その目元はきりりとした切れ長。力強い瞳には崇高な神性が見て取れる。
髪飾りは無い。が、それで良い、却ってそれが垂髪の艷やかな美しさを強く感じさせる、と翔は思う。
年齢は10歳くらいだろうか。
ぼくの倍だ。お姉さんだ。ほんとにきれいなきれいなお姉さん。ぼくはお姉さんが好きだ、大好きだ!
でも……帯戸を開けるなみたいなことをちょっと厳しい口調で言われたし、表情も笑顔とは程遠くてやっぱ厳しい感じだし、どうやら怒ってるっぽい、そんな気がする。取り敢えず謝らなきゃ。兎に角、嫌われるのだけはダメだ。
「あ、あの……ここ、お姉さんのお部屋ですか? 勝手に入っちゃってごめんなさい。」「大事ない。」
「それは良かったです。」少し安堵する。「帯戸も開けません。」と不興を買わない様に付け加えて言う。「良し。」と少女がひとこと。
良しって言われた! 緊張が解けた翔が朗らかに言葉を続ける。「で、さっき廊下で、ぼくとお姉さん、目が合いましたよね?」
「ああ、
何を言ってるのか全く解らない。日本語なのだろうが、日本語として翔の頭に入って来ない。
「ちょっと待ってください。ぼくにわかる言葉で話してもらえますか?」
「小童、其方の……。」「先ず、それです。コワラワってぼくのことですか?」「う~む、では、言葉のアップデートとやらを少少してみるかのぅ。」「あ、何かわかる感じになって来ました。」
「徒に、ここへ宿し者共の語らひを聞き持ちたれば、骨折りぢゃが今様の言葉を話せんこともない。と雖も、人との
五、六十年……。少なくともそれ以上の年を経る少女。
古風な和を感じさせる時代小説のドラマを観るのが好きで、幕末や明治期の現代調ではない台詞にはそれなりに慣れているつもりだったが、その程度では理解が全く及ばない古めかしい言葉遣い。
これ程の美少女が旅館を彷徨いて客たちの話を聞いてたりすれば、気付かれて騒ぎになり噂される筈なのに、そんな様子もない。
たぶん、ぼく以外の人たちには女の子の姿が見えてないんだろう。
うん、ちょっと前からもしかしたらそうなんじゃないかと思ってたけど、このお姉さんは人間じゃないみたいだ。
何だかはわからないけど、少なくとも普通の女の子じゃない。
「で、目が合ったって話に戻しますけど、その時すんごい不思議な感じがして、あれが何なのかお姉さんに訊きたかったんです。」
「あれはな、眼よりおぬしの心の内を覗き見ておったのぢゃ。案の如く、けものが居ったわ。」
「けもの? 動物ってことですか?」
「その意味もあるが、我の言ふ『けもの』の『け』は『
驚愕する翔。「き、狐ですか?」
「ああ、愛らしき小狐が、おぬしの内に棲んでおるよ。今は我を間近にして気圧されたのか黙しておるが、そいつが言ひ立てておったぢゃろ。我や帯戸の向こうのあれを己のものにしたいだの、喰らひたいだの、と。喰ふて強る心づもりなんぢゃろうが、胃の腑に収めたとしておぬしも狐も幼過ぎてまだまだ熟すなど無理ぢゃろ。」と言い、笑う少女。
少女の笑顔を初めて見れたのは嬉しいが、話の内容が少女の表情にそぐわない。どうも穏やかでない。不安が募る。
「ぼ、ぼくはどうなるんですか? どうすれば良いんですか? って言うか、ぼく、お姉さんを食べたいなんて思わないんですけど、また狐が……ほんとに狐かは自分じゃわかんないですけど、ぼくの中に何かが居るのは感じてます。で、そいつがまたあれを食べろこれを食べろって言って来たら……。」
「胃の腑に収めて熟すと言ふてものぅ、それは我なりの提喩表現ぢゃ。実際に肉を咀嚼、嚥下、消化するわけではないぞ。相手を殺めてその魂を己の魂に同化させ
「殺める……? ぼく、お姉さんを殺したくなんかありません!」
「うむ、それで良い。狐が喧しく何ぞ言ふて来ても取り敢へず無視ぢゃ、ガン無視ぢゃ。行く行くおぬしが
「生い優るって、成長するって意味ですよね? そうなれるの、いつ頃の話でしょうか?」「それはおぬし次第ぢゃなぁ。」「そうなったらぼく、ケモミミと尻尾が生えた妖狐に変身出来ますか?」「漫画ぢゃないから、無理ぢゃわ、マジで。」少年漫画らしい夢を見た翔だが、少女の言葉にしゅんとなる。
「然れど、おぬし、スポーツとか
そうなんだ……狐が居ても、って言うか妖狐になれなくても、スポーツが得意になれるってんならそんな悪い話じゃないかも知んない。「わかりました、剣道のスポーツ少年団にでも入ってみます。」「スポチャンも良いぞ。」
「何ですか? それ。」「スポーツチャンバラぢゃ。エア剣なるものを使うから、当てられてもあんまり痛くないらしいのぅ。お子ちゃまでも出来よう。」
エア剣……! 英霊のギルっぽくてカッコ良いワード出て来た! これはもうスポチャン、やるしかない! アニメ大好きで特にギルガメッシュ大好きな翔は尚早にそう思ってしまう。スポチャンの知識はエア剣という名称以外全く無いのだが。
「然ても、おぬし、
「え……? ぼくと同じで臭いって……、ぼく、臭いですか?」恐る恐る訊く。
「然しも無し。鼻が曲がる程ではないからのぅ、心安かれ。」
多少は臭いと思われてるんだな、これは結構悲しいぞ、と思いながら問いに答える。
「たぶん、それ、ぼくのひいおじいちゃん、お母さんのおじいちゃんです。長野の
「活華
「ぼくのおおおばちゃんですね。禰宜です。結婚してから名字が
「其宮を訪ふ……その神社へ行ったことはあるか?」
「あります。って言うか、毎年お盆やお正月に行きます。初めて行ったのは、あんましよく覚えてないですけど、三歳になるちょっと前、ですかね。」
「ふむ、すなはち、巌と詠子がおぬしに小狐を降ろしたんぢゃろうな。おぬしに神社を継いで欲しかったんかのぅ? まぁ何にせよ、低級の動物霊が憑依してるわけでもないしのぅ、上手く付き合ってゆけ。ゆくすゑはおぬしに傅くぢゃろ。」
五、六十年前、お姉さんが最後に話をした人って、ぼくのひいおじいちゃんとおおおばちゃんだったみたいだ。
ふたりがぼくの中に狐を棲まわせたのか……。
ちょっとショックだけども、まぁ良いか。前向きに行こう!
「継ぐとか考えたことなかったですけど、宮司の装束とか好きですから、それもアリですね。剣術が凄い宮司なんて漫画やアニメみたいでカッコ良いです。」
「然て有りぬべし。まことや、おぬしの名は何と申す?」「名前ですか? 翔です。龍園翔。」「翔か。うむ、心に留めたぞ。」
「ありがとうございます。ぼくもお姉さんの名前訊いて良いですか?」「実名を秘むるが、いにしへより生く我等の理ぢゃ。」
じつみゃう……ほんとの名前ってことかな? ひむる……たぶん、秘密にするってことなんだろう。いつもいちいち名前を隠さなきゃとか大変だろうけど、それもまた魔術師が召喚した英霊みたいでカッコ良い。
「じゃ、お姉さん、で。で、ですね。帯戸の向こうのあれは何なんですか?」「知らずとも良し。構ふこと勿かれ。喰わんとして却って喰われでもしたら元も子もなかろう。」
問いをふたつ連続ではぐらかされたが、まぁ良い。更に踏み込んでもっと知りたいことを訊く。
「お姉さんって何者なんですか? 人間じゃないですよね? 座敷童子か何かですか?」
「人が我を座敷童子と呼ぶならば、我はそういふ存在なんぢゃろう。我は、座敷童子を名乗ったことも、この宿に禍福をいたらせたこともないが。人の意こそが我等を我等たらしめておると言へるからのぅ。まぁそこらへんはしょうがないな。」曖昧な返答ばかりが続く。
「人は己が見たいものを見る。おぬしの目には我が座敷童子に見えておるんぢゃろうが、それはおぬしの魂がおぬしの脳髄に事寄せてそう見える様にしているだけ、かも知れんぞ。」
「え……? ぼくが今見てるのって、ほんとは違うんですか?」お姉さんの美しさが夢だとか幻だとか思いたくない。
「そうかも知れんし、そうではないかも知れん。おぬしが見ておるこの房も、現し世かも知れんし、常世かも知れん。
どうも要領を得ない。
しょうがない。一番大事なことを訊こう。
「ぼく、またお姉さんと逢えますか? これっきり逢えなかったら……きっとぼく死んでしまいます。」
「
また、何を言ってるのか全く解らない。口を開こうとするが、それより先に少女が言葉を継ぐ。
「うむ? おぬしの
手を引かれる。一歩進む。
突然、周囲が明るくなる。廊下に居るのだと気付く。少女の手が母の両手に変わっている。温かい。「翔、良かった……!」
「急に居なくなったものだから、お父さんもお母さんも坊やを心配して随分長い間あちこち探したんですよ。もう迷子にならない様にお父さんとお母さんから離れないでくださいね。」と旅館の主人が優しく言う。
「ご迷惑をおかけしました。」と父。
「いえいえ、息子さんに何もなければそれで宜しいかと。さて、そろそろお部屋へご案内致しましょうか。」
「おじさん、お父さん、お母さん、心配させてごめんなさい。」と謝る翔──だが、あたまの中は少女のことでいっぱいだ。
また逢えるだろうか? いつ逢えるだろうか?
もっともっといっぱいお話したい! 兎に角、逢いたい!
相手が人間じゃないとしても、もうどうでも良い。
嗚呼、たぶんこれ、恋ってやつかも知んない!
古めかしい言葉は、なんちゃってってカンジで超テキトーです。
明らかにおかしいとお気付きの方、居られましたら、
品詞分解するとこれこれこうだからこうしろってお教えいただけたらありがたいです。