大洋を駆ける   作:ジャーマンポテトin納豆

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史実日本軍の兵站とそれを軽視した結果を書き連ねております。


史実における日中、太平洋戦争における日本軍の兵站状況、及び餓死者

 

 

 

日本軍に於いて餓死・病死と言うのは脱走と降伏の次に不名誉であるとされている。

特に陸軍はその傾向が強く、海軍はそもそも艦艇勤務など逃げ場が無いので幾らかはマシだ。

こうした理由により事故死を始めとして戦地における病死や餓死だけでなく、新兵イビリによって殺してしまった場合やPTSD発症による自殺ですらも、隠蔽の為に『戦死』と報告される。

これには部隊長や士官の出世が絡んでいるのと同時に、国民感情も意識されたものだ。

そりゃぁ、お国の為だお国の為だと言って徴兵されて戦地に送られた息子や夫、孫が『国の為に立派に戦って死んだ』と書かれて戦死報告書が送られてくるか、それとも『餓死』、『病死』、『発狂した上に自殺』と死亡報告書が送られてくるかだと、どちらが受け入れやすいのかは馬鹿でも分かる。

だからと言ってそれを良しとするわけでは無いのだが、それがまかり通っているのだ。

 

これを考えるに、史実日本兵の死に方がどれだけの割合で戦死であるのか、どれぐらい餓死病死であったのかは不明瞭な点が多いのが事実だ。なにせ本当のことが書かれていないのだから分からなくなって当然だ。

となると史実日本における防衛省や、戦後に復員省が編纂した記録よりも過大である可能性が高いとみるべきであろう。

 

日中戦争における大陸戦線では1937年10月には投入兵力が100万を軽く超え、日露戦争における動員兵力数の三倍以上にもなり、開戦した年でこれであるのだ。

この兵力数は日本軍の兵站維持能力を遥かに超えており、それは日本陸海軍における兵站維持能力が全くもって貧弱であったことに他ならない。

第一復員省における1945年11月編纂記録によると大陸戦線全体の戦死者は1941年時点で1万2498名となる。

 

戦病死者は1万2713名となっているので戦死と同じ数が戦死以外の理由で死亡したこととなる。

この数字は太平洋戦争に突入する前、『比較的マシと言われている時期』でさえこのザマなのである。

*1

*2

 

実際問題この時代は戦死よりも病死による損害が多いと言うのはザラである。

第一次世界大戦の写真、特に塹壕などのものを見てもらえれば分かり易いが、この時代の戦場と言うのは兎に角不衛生な環境であることが常であり、そこに加えて悪化する栄養状態、戦場と言うストレス漬けの日々、そしてそれらを治療する医者の不足が重なれば、細菌やウイルスからしてみれば感染して増殖してくださいと言われているようなものだ。

 

戦場では数週間単位で屋外で、しかも土の中などで生活をせざるを得ず、しかも戦闘が一度起これば次から次へと傷病者が運び込まれるから医薬品も足りないし、それを見る医者も当然足りなくなる。

医者はその重要性が高いのにも関わらず、なるには難しく絶対数が常に足りないと言うのが平時であろうと戦時であろうとそれが実情だ。

ましてや戦場と言う過酷な環境下に送り込んで耐えられるだけの医者ともなればもっと少なくなる。

 

 

しかしながら脚気による病死者が問題とされていた日露戦争ですら全戦没者における病死者の割合は四分の一に抑えられている。

では何故明治時代よりも遥かに近代化されていたであろう昭和時代の軍が戦死者の内の半数を病気で死なせたのか?という疑問を抱く筈だ。

これは単純な話で、用意することの出来た兵站能力に対して投入兵力や侵攻作戦が余りにも過大過ぎたと言うだけなのである。

 

兵站能力を超えていなければ当然そうはならない。

何故なら十分な物資がちゃんと戦地に送り込まれるからだ。

 

 

 

軍全体の話となると記録などが余りにも不明瞭であるが、代わりに志那駐屯歩兵第一連隊*3による部隊史が戦死病死を分けて記録してあるので高い史料価値がある。

それによるとこの連隊の死者は2625名とある。

その内末期戦である1944年以降の死者は二千八名であり、内訳としては戦死以外で1475名。

連隊は末期に於いて70%以上を餓死病死で失っていると言う事になる。

太平洋戦線に比べ、比較的余裕のあった大陸戦線ですら7割以上が戦闘以外の理由で死んだ例もあったのだ。

この連隊は最古参に加えて精鋭部隊に分類される部隊であったのにも関わらず、この有様であるから特別酷い部隊のデータ、というわけでは無いだろうし、それどころか戦力として精鋭部隊に数えられるので寧ろ他部隊に比べれば補給が優先されていた可能性までもある。

そんな部隊ですらこれである。

 

 

1944年に実施された大陸打通作戦に関しては、前線部隊に対して『(前略)糧秣、衣料品、軍馬等は徴発によってその不足分を補い~~(後略)』と命令されている。

これはまさかの中国奥地へ進軍する部隊に追走していって補給することが出来ないと言う証左であり、現地からの徴発をアテにしていたということだ。

軍医として従軍していた江頭義信氏による手記によると、

 

『この街道は六月に三個師団が通過しており今また師団の先遣隊が通過したばかりなので沿線の部落は荒らされて食いつくされて食料が無かった。来る日も来る日も僅かばかりの食糧を漁り歩く姿は落ちぶれた野盗か野良犬と大差無い。これが無敵を誇った皇軍の姿かと、涙が零れた』

 

と記している。

この証言の部隊となったのは長沙は国民党軍にとっての要衝であるので、焦土作戦を行った形跡はない。

となれば事実であろうと考えるのが妥当だ。

 

比較的余裕があった、とされている大陸戦線ですら1941年時点で餓死病死が50%に達し、1944年にもなるとかなりマシな部隊ですら74%と言う餓死病死者を出しているのだ。

 

 

 

 

 

太平洋戦争に至ってはこんなものでは無い。

太平洋戦争における餓死病死者の合計は140万人(全体の61%)*4が死亡したとしており、別のデータでは全体の37%と言う数字を出している。*5

これは最大値と最小値であるが、正確な記録を得ることが難しい、という点には留意しておいてほしい。

どちらのデータにしても過剰、或いは過小と言うのはあるだろうが仮に最低値の値だったとしても正直に言って異常な割合であることは間違いない。

 

目的地に向けて出港した船舶が辿り着いた割合を示すものに『安着率』と言うものがある。

日本船舶の安着率は1942年時点では96%となっているが、1943年には八三%となり、1944年になると67%になり、1945年に至っては51%となっている。*6

1943年時点で既に崩壊し始めていたのだ。

 

この数字を見て、そこまででは無いと思うかもしれないがこの安着率は船舶一隻単位の計算であり、小型漁船だろうが辿り着けばカウントされるのだ。

1945年時点では船腹量の大きい大型船舶は軒並み全滅しているので、それを考えると『前線への補給物資の安着率』は50%なんていう数字は余裕で割っていると思われる。

下手をすれば30%を大きく下回るなんてこともあり得るかもしれない。*7

 

ある一節では、『栄養失調によって銃を持つことさえ出来ず(意訳)』*8、と記されていることからも前線部隊がどれだけの思いで補給を渇望していたかは分かるだろう。

 

陸軍医学学校では栄養失調を2パターンに分けている。

戦争性過労*9とによる『潜在的栄養失調』が栄養状態の悪化による伝染病や感染症の罹患をきっかけにして発言する、ダブルパンチによる栄養失調と、通常の食べることが出来ないと言う栄養欠乏による栄養失調と区別している。*10

 

この惨状は昭和天皇の耳にも入っていたし侍従武官に対して、

 

『将兵を飢餓に陥らしむるが如き行為は到底耐え難きものなり。補給について遺憾なからしむる如く軍令部総長に申し聞かせよ』

 

と漏らしている。

 

しかしながら昭和天皇の言葉で前線が何とかなる訳も無い。

 

1944年のフィリピンの戦いにおいては戦没者全体の六五%が餓死病死であったと1946年に第一復員省編纂によるデータがある。

この戦いにおける戦死者は合計して51万8000名であるが、その内の65%となると34万名以上が餓死と病死で死んだことになる。

 

 

 

病気に於いてはマラリアが最大の敵であった。

1943年七月六日に参謀総長杉山大将は、

 

『(前略)我が軍の戦力はマラリアによって四分の一に減っている。これでは増援を幾ら送ってもマラリア患者を作るようなものだ。(後略)総力を挙げてマラリア対策を徹底的にやれ』

 

と発言している。

マラリアは罹患すると一週間は高熱、それも四〇度にもなるものに苦しめられて体力を消耗してしまう。

普通ならば解熱剤などの医療品で熱を下げ、失った体力も食事を十分に取れば回復可能だ。

しかしながら日本軍にはそれら全てが不足しておりマラリアに感染して体力を失うとそのまま餓死してしまうのが典型的な死に方だったらしい。*11

 

マラリア対策で最も成功していたのは、皮肉にも敵である米軍だった。

マラリアで苦しんだのは米軍も同様だったのである。

というのも開戦劈頭にキニーネというマラリア特効薬の産地である東南アジアが日本軍に制圧されてから、1943年に代替品が完成するまで最大で400%の感染率が確認されている。*12

 

米軍は対策として殺虫剤であるDDT*13を大量に散布してマラリアを媒介する蚊を戦地から絶滅させて、それでも羅漢した患者には海兵隊1個大隊につき1万2000本ものクロロキン系抗マラリア薬が補給されていたというのだ。*14

 

米軍の供給したマラリア治療薬は日本軍のものと比べて効果が高く、副作用も少ない。

更には北ビルマで流行した変異型マラリアに対しても日本軍が用いたキニーネ剤は効果が無かったが英軍が供給していたメフロキンは症状を抑えている。

これは科学技術、ひいては医学競争における敗北を意味している。

 

 

 

PTSDに関しても一次大戦頃には研究が始められている。

しかしながら日本軍におけるPTSDに関する診断はかなり厳しく、かなりの譫妄、自殺癖、短期的な記憶喪失、と言ったまともに行動が出来なくなるレベルでないと診断が降りないのである。

PTSDにの症状の一つである極度の疲労、極度の不眠、痙攣と言った症状は健常であるとして戦線投入されてしまっているのが現状だ。

 

これは単純に無理解などからも来るものだが、それよりも兵力不足というのが大きな要因だ。

なんせどこもかしも人手不足で、失った兵力の補充すらまともに出来ない状況なのにそんな中でPTSDで更に人手が減ると言うのはどうしても避けたかったからだ。

 

マレー作戦やフィリピン攻略作戦での損失すら補充出来ていない状態だった、と言えば人手不足がどれだけ深刻だったか分かるだろう。

だからPTSDとなるべく診断したくなかったであろうし、されたとしても……、いうわけである。

 

これを示すのに、ラバウルを根拠地として活動していた海軍第四航空隊を例に見ると分かりやすい。

この部隊は1942年ガダルカナル島での攻防戦に参加していた。

この部隊には一式陸攻が配備され運用していたが、連日の出撃で戦果無し、出撃機の半数が未帰還と言う状況が続いていたという。

搭乗員であった尾西少尉の回想によるとPTSDの症状、胸の痛みや不眠を訴えない者は誰一人として居らず、全員がデング熱、マラリアに罹患していたそうだ。

海軍省医務局はPTSDと診断していたが上層部が何か明確な対処を行った形跡はなく、『一時的な疲労』として片付けられている。

 

海軍医学学校の内村医師長は幾度となくPTSDに対する意識改革を具申したもののついに受け入れられることは無かった、と戦後に証言している。

 

こう言った戦争による過労などに対しての措置が、有名な話がいわゆる薬物投与である。

この話はかなり有名であるがヒロポン(メタンフェタミン)、早い話が覚醒剤投与による解決である。

しかしながらこう言った覚醒剤を用いた解決方法は一時的なもの、対症療法でしかなく、根本的な解決手段ではないことを記しておく。

 

 

 

 

 

餓死、病死以外にも日本軍の戦闘外損失の大きな要素の一つとして海没死が挙げられる。

これは海上護衛の重要性を示すものの一つである。

 

海没死とは撃沈された輸送船に乗っており、輸送船ごと海に沈んで死んだ兵員の数の事だ。

日本は島国であるが故に、物資だけでなく兵士を前線に送り込むには必然的に例えどれだけ近くても海を渡らなければならないと言うのはよっぽどのことが無い限りは誰でも分かる話だ。

その船による輸送の最中に敵の潜水艦や航空機によって攻撃されて沈められ、そのまま一緒に沈んだ兵員や物資、兵器は多い。

 

有名な例を挙げるならば、ニューギニアに送り込まれる予定であった第五一師団は最新装備で固めていた精鋭師団であったが輸送中に輸送船ごと沈められてただの一発も撃つことなく全滅している。

この第五一師団が全滅した出来事は、ダンピールの悲劇と呼ばれており航空攻撃によって兵員3分の2、40門近い火砲、40両のトラック、燃料食糧、無線装備各種を一度も使用することなく喪失しているのだ。

 

 

輸送船ごと撃沈された戦死者の数は海軍18万2000名、陸軍17万6000名。合計して35万名以上が海没死したことになる。*15

陸軍の戦死者に至ってはそもそも戦闘に直接参加すること無く、貴重な装備と物資を丸ごと無駄にしているのだ。

 

兵員だけでこれであるから、失われた物資量はそれはもうとんでもない数字になる。

 

これだけ被害が拡大したのには海軍の護衛不手際、軽視など理由は様々であるが、それに加えて排水量に釣り合わない人員や装備を無理に詰め込まれた船舶が多かったことも要因の一つであろう。

船舶輸送軍医部は『一坪当たり2.5人のスペースが必要である』としていたのに対して実際に輸送を行っていた現場では『一坪辺り5人を超える事がザラ』であった。

これだけぎゅう詰めにされているのでは、当然障害を来たす。

 

船舶内は密閉されており、特に南方方面の高温多湿という環境が加わると、慢性的な酸欠に熱中症、急性循環不全、中枢神経障害を引き起こして、これだけ密なのだから当然伝染病の蔓延もあっという間である。

だから戦地に着く前に兵士は体力を消耗してしまうのだ。

殆ど歴史の教科書で見たことがある奴隷船と変わりない扱いだったのだ。

 

そんな中で船が攻撃を受けて転覆しようものなら狭いわけだから逃げられる訳も無く、乗っていた兵士の多くは脱出が出来ずに溺死した。

また脱出が出来たとしても今度は生き残るために、浮遊物の争奪が始まり、独占しようとし、他の者に縋り、自分のみが生存しようとしてどちらも溺れ死ぬという、人間の生存本能剥き出しの戦いが待っていたのだ。

 

こんな話がある。

救命ボートに縋り付いてきた部下の手を軍刀で切り落とした、という士官の話があるぐらいだ。

真実かどうかは定かではないが、現実味を帯びているのは間違いない。

1945年には函館に向かう途中で撃沈された大城丸の犠牲者の中に手を鋭利な刃物で切り付けられていた遺体が幾つかあったと言う。

 

本州から北海道と言う短いルートで、尚且つ本来ならば十分に航空支援などが受けられる航路すら米軍に掌握されていたのだ。

 

 

仮に生き残ったとしても中には水中爆傷という戦傷も報告されている。

水は大気よりも衝撃を通すのだが、機雷や魚雷の炸裂によって発生する爆圧が水を通して内蔵をズタズタに、それこそグズグズに液状化させてしまうのだ。*16

 

こうなると口と肛門から絶えず血を流し、のたうち回って地獄の痛みを味わった挙句に死ぬのだ。

記録によれば検死の際に切開した腹部には破断した腸が血やらと混ざり合った塊があったらしい。*17

 

これを聞けば凡そ人間の死に方では無いと言える。

 

 

 

 

 

また、撃沈されたり、戦地で負傷して運良く野戦病院に辿り着く、或いは収容されても助かるとは限らなかった。

なにせ物資が欠乏している中で重傷者に治療を施せるほどの医薬品などは無いからだ。

 

そうなると安楽死、という手段がとられる。

驚きなのはこの安楽死は通常の場合は『苦しませずに殺す』という意味を以て使われるのだが、日本軍に於ける安楽死は意味が違った。

 

日本軍はノモンハン事変において返還された捕虜に対して、将校に対しては自決の強要、兵士は健康な状態で捕虜になった場合抵抗か自決の意志無しとして敵前逃亡罪を適用して処刑している。

抵抗も自決も儘ならないほどの重傷者のみが捕虜になってもお咎めなしという状態だったのだ。

戦闘後のソ連の記録によれば日本軍捕虜は566人とされているが、捕まった後に死亡した者を除いても100名以上が消息不明となっている。

これに対して、捕虜と言う恥の事実が自身、或いは家族に悪影響があると戦死したことにして満州辺りに入国したのではないか、と言われている。

 

これに対して1939年9月30日付けの陸満密845号で発せられた陸相命では、

 

『捕虜全てを犯罪者として見なし、捜査し有罪と認めた者はこれを起訴すべし』

 

として捕虜狩りを始めている。

多くの日本兵が死ぬまで戦った、最後まで戦ったのは『忠誠心故では無く捕虜になってから戻った後に友軍に殺されるから』である。

 

 

1940年に改訂された作戦用務令第三部には退却に際して負傷兵に対する対応を以下のように義務付けた。

 

『死傷者は万難を排して敵の手に渡ることなく務めることを要する』

 

これは例え撃ち殺してでも死傷者を敵の捕虜にさせるな、捕虜になって助かる見込みがある負傷者は安楽死させろ、ということである。

 

 

これは自殺の強要を明記した公文書として幾つか残っている。

陸軍航空総監部による『空中勤務者の嗜み』では、

『敵地上空に於いて一度飛行不能に陥り帰還の見込みなき時は潔く飛行機と運命を共にすべし』*18

 

また軍人勅諭には

『皇国軍人の面目を忘れて虜囚の辱めを受けるが如きこと断じてあるべからず』

 

田辺盛武中将による電報*19では

『単独歩行不可能射は最後まで陣地に残留し射撃をもって敵を阻止、(中略)敵至近距離に進撃せば自決する如く各人劇毒二錠を分配す(後略)

 

とある。

 

1941年1月8日には東条英機陸軍大臣(当時)が訓示した戦訓令には有名な『生きて虜囚の辱めを受けず』と言う文言が登場するがこれは公式に捕虜になった者は処刑すると公式に認めているようなものだ。

 

 

はっきり言って狂っているとしか言えない。

他にもガダルカナル島撤退、各地の島嶼戦、サイパン、フィリピン、そして沖縄と、多くの資料や記録された文章によって安楽死が描写されている。

戦後は上記の戦訓令の制定に関わった多くの高級将校はGHQに擦り寄って生き永らえていると言う、かなり気分の悪い事実もある。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

日本兵のイジメについても幾らか触れる。

軍隊内でのイジメは各国珍しい事では無いが、日本軍のものは明らかに他と比べても異常であったのは明らかである。

初年兵、入隊して一年目の兵は古参兵、二年目以降の兵士の食事や娯楽を用意する世話係になることが義務化されており(この時点で既におかしいのであるが)、これは上下関係を叩き込むために行われている。

 

しかしながらこれらの制度は私的制裁、所謂理由も無く自分の鬱憤晴らしであるとか、娯楽の為に殴るとかの口実に利用されている。

例えば、

 

『息をしただけで殴られた』

 

との回想や、

 

『演習中や勤務中が最も安らぐ瞬間であった』

 

という回想があったぐらいなので、その酷さを物語っているだろう。

 

こうした行き過ぎたイジメによる死者は公文書の偽造によってもみ消され、1945年大竹海軍学校の軍医であった石川圭吾氏は悪名高い精神注入棒で撲殺された幼年兵の死体検案書を書き換える様に分隊長に命令されたと戦後に回想している。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

では補給も碌に無く、捕虜にもなれず、戦死したくも無いと言う兵士はどうしたかと言うと脱走したのである。

そして時に独自のゲリラを組織していたりもした。

 

1944年7月、インパール作戦が失敗に終わった中での撤退中に、靖国街道とよばれた撤退路に鬼が出ると言う噂が流れていたという。*20

これの噂の正体は脱走した凡そ30人からなる日本兵であり、味方の細い補給路を襲撃して食料、塩を略奪していったと言う。

 

フィリピンの戦いでも、ルソン島で同様の状況が発生していたと記録されている。

これはジャパンゲリラと呼ばれ、単独、集団、時にはフィリピンゲリラと組んで民家や日本軍の補給線を襲撃したと言う。

 

これらのゲリラは日本の降伏後も、日本の降伏というその事実を知らぬままに民間人への襲撃を続けた部隊も存在し、結果として武装解除された日本兵と米兵からなる討伐隊が編成されて出動した記録があるほどだ。

この脱走日本兵集団は陸軍大尉に率いられ、負傷者を殺害して人肉食すら行っていたそうで、この大尉は米軍によって略式裁判を受けた後にその場で射殺されている。

 

 

 

 

これらを総括し、感想を述べるとするならば、とても近代化された軍隊の姿であるとは到底思えないの一言に尽きるのみである。

 

 

 

 

 

 

*1
因みにであるが1941年以降の記録は証拠や資料が不十分で編纂されていない。これは裏返せば日本軍全体の情報収集能力と情報分析能力が貧弱であったことを示している。

*2
米軍は一か月ごとの全戦死者数に加えてそれらの要因を自軍だけでなく敵軍、日本軍やドイツ軍、イタリア軍の分も纏めて記録している。

*3
初代連隊長は牟田口廉也大佐である。

*4
歴史研究家の藤原彰氏による。

*5
同じく歴史研究家の秦郁彦氏による。

*6
この数値は海上護衛司令部長であった大井篤大佐と日本純色船員顕彰会のデータによるもの

*7
この辺りの事は海上護衛戦と言う書籍等を参照のこと

*8
陸軍省医務局に勤めていた神林氏によるもの。

*9
現代で言うPTSD。

*10
梛木巌軍医中将執筆論文、戦争栄養失調論よる。現在も閲覧可能。

*11
ソロモン諸島、第六海軍陸戦隊部隊史より

*12
一人がマラリアに四回も感染したと言う事

*13
ジクロロジフェニルトリクロロエタン

*14
1943年には18億本、1944年には25億本を供給している

*15
太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑より

*16
1944年七月、佐藤衛海軍軍医大尉による記録より

*17
ラバウル、岡崎軍医少佐による回想より

*18
1941年12月

*19
1943年2月

*20
元歩兵第132連隊軍医、長尾信雄による

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