グリザイアの教室 作:光と闇の竜
「マジでウザい、ムカつく、死ねばいいのに……」
俺と綾小路は櫛田の口から紡がれる呪詛によって身動きが取れなかった。それほどまでに衝撃的な出来事だったのだ。屋上に櫛田以外の生徒がいないことは確認済み。
「ウザいウザいウザいウザいウザい。堀北マジでウッザい」
つまり、この暴言マシーンの正体は紛れもなく櫛田桔梗本人以外にありえない。あまりにも衝撃的な情報の暴力が俺と綾小路の脳味噌を襲う。今俺達の背景にはきっと宇宙が浮かんでいることだろう。俺たちが知っている誰にでも明るく優しい櫛田桔梗という生徒と今後ろで流れるように悪口を繰り出している櫛田桔梗が結びつかないのだ。
(気付かれる前に退散するぞ)
(ああ)
なんとか意識を取り戻した俺達はハンドサインでそれだけ交わすと物音を立てずに階段を降りる。一歩、また一歩と細心の注意を払いながら櫛田から離れていく。どう考えても見てはいけないものを見てしまった。
「池も山内もジロジロ胸ばっか見てきやがってキモいんだよっ。気付かないとでも思ってんのか!」
だが、ここで一つの誤算が生じた。それは、俺と綾小路がここに来た本来の目的が青春ごっこということだ。夕日を背景に缶コーヒーを飲みながら語り合う、そのためにピッキングも覚悟で屋上に来たのだ。そしてそれが仇となってしまった。俺も綾小路も自分の肉体に関しては完璧にコントロールできる。気配を殺すのも音を立てずに動くのも容易く実行可能だ。ただ、この時は櫛田の裏の顔を見てしまったという衝撃で忘れてしまったのだ。俺達の手には缶コーヒーが握られていたということを。足音を立てないことに意識を割くあまり、俺は缶コーヒーを手すりに軽くぶつけてしまった。ほんの軽くだ。とはいえ櫛田の悪口以外に音のないこの空間では金属同士のぶつかる音は目立つ。
「……っ誰!?」
櫛田も周囲には気を配っていたのだろう、すぐに音がしたことに気付きこちらへ振り向いた。
(健闘を祈る!)
おい嘘だろ、綾小路の野郎逃げやがった!
俺の前にいた綾小路は櫛田がこちらに振り向くよりも素早く階段を飛び降り、こともあろうに俺を置いて自分だけ立ち去ったのだ。まず階段の踊り場まで一足で飛び降りる。そして空中で手すりを掴み素早く方向転換、そのまま飛び降りた勢いを利用して手すりの上を滑り落ちていく。この間わずか0.8秒だ。あまりにも芸術的な逃走劇に思わず見惚れてしまった。
ふざけんなよ、普段目立ちたくないとか言っておきながら何こんなところで保身のために全力出してんだ。もう綾小路の気配は1階の辺りだ。あいつは見事俺を置いて櫛田から逃げきったのだ。お前のどこが平凡な男子生徒なんだよ、今すぐCIRSにスカウトしたいぐらいの身体性能だ。
許さねえ、明日絶対に食堂でスペシャル定食奢らせてやる。俺は自分のミスを棚にあげて友情を裏切った綾小路へと義憤を燃やした。
「こっち、来てくれるかな。春寺くん」
「はい……」
現実逃避していた俺は冷たい櫛田の声によって引き戻された。寒いなー、冬かな?
「聞いたよね?」
「まあ、その、はい……」
屋上に出て鍵を閉め、完全に二人きりとなった空間で俺は櫛田に詰め寄られていた。
「なんで屋上に来てたの?」
「夕日が綺麗だったから屋上で缶コーヒー片手にかっこつけてみようと思って」
「そういうのいいから」
本当なんだけどなぁ。悲しいことにこの青春ごっこは櫛田には理解できないらしい。そりゃそうだ。
「まあ、話すつもりが無いんなら別にいいよ。それより、今聞いたこと誰かに話したらどうなるかわかってるよね?」
「どうなるんだ?」
「ここであんたにレイプされそうになったって言いふらす」
「何の証拠もない以上はただの冤罪だな、それをして困るのは櫛田じゃないか?それにそんな風に脅さなくても別に言いふらしたりはしないぞ」
「証拠ならあるよ、ほら」
そう言うと、櫛田は俺の右手を掴んで掌を開かせて自らの胸元へと押し付けた。制服越しなのに確かな柔らかさが俺の掌全体に伝わってくる。
ふむ、水泳の授業でわかっていたことだが大きいな。D、いやEはあるか?流石にJBには劣るがかなりの大きさだ。これが皆が求めてやまない櫛田っぱいか……。
「全然動じないんだ。意外と女慣れしてるのかな?」
「人並みにはな」
「絶対噓でしょ。女の敵だ──ぅひゃっ!な、なんで揉んだの!?」
俺が手を動かして櫛田の胸を一揉みすると、櫛田はぱっと俺から離れて距離を取った。胸をかばっているがそのせいで大きな胸が強調されて逆に扇情的だ。ふむ、制服越しとはいえかなりの上物だな……。
「ん?いやだってそっちから押し付けてきたんだから触っていいのかと思って」
嫌がられるなら絶対にしないが、女の方から迫ってくるのであれば俺は積極的に行く所存だ。特に櫛田ほどの美少女であればなおさらだ。というか、なんで自分から触らせておいて軽く揉んだだけでそんなびっくりしてるんだ。さては意外に初心なのか?
「さいってい」
「そっちから触らせてきたんだろ」
俺に胸を揉まれたせいだろう、目じりには微かに涙が滲んでいる。一揉みしかできなかったのは残念だがかなりのラッキーには違いない。綾小路、俺を置いて逃げたことはこれでチャラにしておいてやろう。櫛田に感謝するんだな。
「まあいい、これであんたの指紋べったり着いたし、この制服はこのまま洗わずに部屋に置いとくから。もし話したら警察に突き出す。わかった?」
「はいはい、わかったよ」
それはちょっと考えが甘いな。ちゃんと他の物や空気に触れさせないように保管状態に気を付けないと指紋なんてものはいずれ薄れて証拠能力を失う。今櫛田が来ている制服が俺への脅しに使えるのはせいぜい数か月といったところだろう。そもそもこの状況をこっそり録音してるから何の問題もない。
「しかし、やっぱり猫被ってたんだな」
「なに、知ってたとでも言うつもり?」
「薄々はな。確信まではしてなかったからこれでも驚いてるんだぞ。池や山内の視線は露骨すぎる。他人の俺が気付いてるのに見られてる本人が気付かないというのはおかしいと思ってたんだ。それなのに池や山内への態度が変わらないんだからな」
「ふーん、幻滅した?クラスのアイドルの本性がこんなんで」
「いや、個人的にはむしろ好ましいと思ってる。優しいだけの人間よりもよっぽど信用が置けるからな」
いや、一之瀬がいたな。あれは例外だ、世にも珍しい天然記念物だ。ぜひ国で保護して欲しい。そのレベルで一之瀬は根っからの善人だ。ああいう人間がいるってだけで救われたような気分になるな。
「……本気で言ってるみたいだね。意味わかんない」
「そんなことわかるのか?」
「これでも人と接してきた経験はそれなりにあるからね。山内みたいな心底くだらない人間からBクラスの一之瀬さんみたいな信じられないくらいに心優しい人間まで。人を見る目に関してはそれなりに自信があるの。あんたは本当に親しい友達や身内に対しては犠牲も厭わないけど、ちょっとした知人がどうなろうとどうなってもいいと思ってるタイプ。私の本性や須藤くん達が退学の危機にあることも心の底ではどうでもいいと思ってる。違う?」
櫛田の目から見ても一之瀬は裏表のない善人のようだ。一之瀬、どうかお前はそのままであってくれ。それにしても人を見る目があるというのは自信過剰というわけでもないらしい。俺のパーソナリティをほぼ言い当てている。意外と情報分析官とか向いてるかもしれない。
「まあ概ね合っているな」
ただ俺は、任務であればどれほど俺にとってどうでもいいことであっても命を懸けられるし、そのことに何の疑問も抱かない。そういう風に作られた。とはいえ櫛田にそのことを見抜くというのも難しい。普通に生きてきたであろう櫛田に”実の両親に借金のカタとしてショタコンテロリストに売られて与えられた命令を忠実にこなす暗殺装置として育てられた”なんてことは考えもつかないだろう。今でこそそれなりに人に戻れたがバルデラ家に引き取られた頃の俺はそれはもうひどかった。
「でしょ?だから今日会ったことを言いふらさないということも、私みたいな人間のことを好ましく思ってるってこともとりあえず信じてあげる」
「そりゃどうも。……というか、人を見る目に自信があるならなんでわざわざ胸触らせたんだ?」
「それはっ……まさか見られるとは思ってなくて、慌てちゃったというか」
「まあ俺としてはいい思いができたから感謝しかないけどな。素晴らしい感触だった」
「忘れろっ!」
「危なっ!」
股間目掛けて鋭い蹴りが飛んできた。
「使い物にならなくなったらどうしてくれるんだ」
「バカ言うからだよ!早く忘れないと本当に潰すから!」
「わかった、忘れるから!1、2の……ポカン!はい忘れた!忘れたから股間は止めろ!」
「あははっ、いい気味♪ちょっと鬱憤も晴れたし、帰ろっか」
「ん、そろそろ暗くなるしな」
帰り道、櫛田の態度はすっかりいつも通りに戻っていた。この切り替わり具合には舌を巻く。周りに他の生徒はいないが気を配っているのだろう。
「そういえば、なんで猫被ってるのかとかは聞いてもいいのか?」
「別に、ちやほやされるのが好きなだけ。悪い?」
朗らかな笑みを浮かべながらも、俺にだけ聞こえる声でそう言う櫛田。ギャップがひどい。
「悪いなんて言ってないだろ。言ったろ?お前のあり方は俺からしたら好ましく映るって」
「それも意味わかんないよね。裏のある人間が好きとか、あ、もしかしてワンチャン狙ってる?絶対ありえないから夢見ないでよね」
「告白する前に振られるのは初めてだな。話を戻すが、俺は基本的に裏のある人間に囲まれて育ったからな。ここに来る前も一部の親しい人間を除くと腹に一物を抱えた人間ばかりのところにいた。もう裏がある前提のコミュニケーションの方が逆に落ち着くんだよな」
「ふーん、あんたも相当の訳アリってことか。それが成績優秀、運動能力も抜群のくせにDクラスに配属された理由?」
「さてな、それはお互い様だろ?」
俺がDクラスに配属されたのは、たぶん俺の経歴が問題だからだ。一応小学校中学校に通っていたということにになってはいるが卒業アルバムなんかに俺の姿は移っていないから、ちょっと調べれば俺がその学校に通っていないことはわかる。ただ俺の所属するCIRSは内閣直属の組織だから、現内閣総理大臣によって作られたこの学校に俺の身元を保証する通達が出されたとかそんなとこだろう。JBは過保護だからな、要人の弱みを握りまくってるあの女は俺のためならそれぐらいする。通達が来るということは俺を入学させろと言っているのに等しい。とはいえ内閣と何らかの繫がりがあると思われる経歴不明の人間であることには変わりないので問題児集団のDクラスに放り込んだ。今ある情報で推測するならこんなところか。
「話は変わるが、須藤たちに勉強を教えるのには付き合ってくれるんだよな?」
「もちろんっ。こんなところで須藤くん達とお別れなんて悲しいもんね!」
「鳥肌立った」
「また股間蹴られたいの?外でボロ出されても困るんだから慣れなさいよ」
「それは大丈夫だ。表情を取り繕うのには慣れてる」
「どーだか」
打てば響くような櫛田との会話は、不思議と俺の心を満たしてくれるような感覚がある。相性がいいと思うのは俺の勝手だろうか。
「なあ、櫛田。改めて、俺と友達になってくれないか?」
「は?何急に」
「まあ確かに急だが本心だ。櫛田と話しているのは楽しい。櫛田がいれば俺の学校生活はもっと楽しくなるんじゃないかと思ってな」
「あんた、何か勘違いしてない?私とあんたは互いの秘密を握りあってる、それだけの関係なんだけど」
「たとえそうでも友達になれないってことはないだろ。屋上でああしてたってことはそれなりにストレス溜まるんじゃないか?現状櫛田の裏を知ってるのは俺だけなんだし、少なくとも俺の前では素顔でいられるっていうのは櫛田にとっても悪くない話だと思うんだが。友達だからな、ストレス発散したいなら付き合うし愚痴だって聞くぞ」
面倒くさい女の扱いはJBで慣れてる。JBに比べれば櫛田の本性なんて可愛いもんだ。
「お断り。だってあんた堀北の犬じゃない。屋上で聞いてたんならわかるでしょ、私あの女のこと大っ嫌いなの。退学して欲しいぐらいにね」
「堀北にはAクラスに上がるために協力して欲しいって頼まれたから協力してるだけだ。クラスが上がれば自然と貰えるポイントも増えるからな。なんなら個人的には苦手な部類だな、綾小路は気に入ってるみたいだが。もしかしたらあいつはMなのかもしれん」
直接聞いたわけではないが、どうも綾小路は堀北との会話を楽しんでいるフシがある。俺が櫛田に感じているようなものを、綾小路は堀北に感じているのかもしれない。新学期が始まってすぐはそうでもなかったが、最近は俺がトイレやちょっした用事で教室に戻った時よく堀北と話している姿を見かける。
「綾小路くんの性癖はどうでもいいんだけど。まあともかく、そこまで言うんだったらいいよ。私のストレス発散の相手としてだったら認めてあげる」
「なんだ、随分と急だな」
「堀北が苦手って部分が気に入った。そりゃそうよね、可愛げもない上にプライドの塊みたいなあの女を好ましく思ってる人間なんているはずがないもの。それこそMの綾小路くんぐらい?」
「俺が言うのもなんだが、まだ本人が認めたわけじゃないんだから決めつけるのは止めて差し上げろ……」
すまん、綾小路。俺のせいで櫛田の中でお前はMということになってしまった。明日スペシャル定食奢るから許してくれ。
歩きながら話しているうちに寮までたどり着いた。エレベーターに乗り、男女のフロアの都合上俺が先に降りることになる。
「送ってくれてありがとう、春寺くん。今日は色々と大変だったけど、明日からまた頑張ろうねっ」
エレベーターが閉じる前、櫛田は見惚れるような笑顔でそう言い残した。
……勉強会は散々だったが、今日は櫛田という友達が一人増えた。そう思っているのは俺だけかもしれないが、とにかく綾小路、六助、一之瀬と椎名に加えて5人目の友達だ。オスロに壊され、JBと麻子に救われた俺の学校生活は結構順調なんじゃなかろうか。櫛田と帰ってきたところをバッチリ見ていたクラスメイトに抜け駆けしたのかと詰問されながら、俺はそんなことを考えていた。
この日の夜、原作とは経緯と結果が少し異なりますが綾小路と堀北兄との「っぶね!」イベントは起きています。