北苑にある私室で先代皇帝――まもなく先々代の皇帝となる――老人とその息子が円卓を挟んで座っていた。父たるマクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・ルーエシュタント仙帝大公は自身の息子の姿を見て、やや呆れた感情を禁じ得なかった。
別に軍人らしい姿を息子に求めているわけではない。そもそも息子のアンドレアス・フォン・ファルストロングは正規の軍人ではなく、自分が宮廷の警備にも嘴を突っ込めるようにするためにフリードリヒ三世を誘導して、本来畑違いのアンドレアスに軍服と上級大将の階級章と近衛兵総監の地位を与えさせるよう仕向けたのだから当然である。
しかしそうした経緯を差し引くにしても、アンドレアスはちょっと見栄えが悪すぎた。その地位についたばかりの頃はそうでもなかったのだが、熾烈を極める宮廷闘争のストレスからか暴飲暴食に走って顔も体もぶくぶくと太り続け、今や醜く膨れ上がった腹と弛み切った頬のせいもあって軍人姿が似合っていないどころの騒ぎではない。軍服を汚し続ける豚と少なくないものから陰口を叩かれているのも無理からぬことであると親の贔屓目を持ってしても認めざるをえないほどであった。なにより呆れるのはそのことについてまったく羞恥心というものを感じていない息子の神経の図太さである。
「それで父上、エーペンシュタインめに乗せられる形で後継者の承認などしてしまってよろしかったので?」
しかしそのようなことはファルストロング侯爵家当主として貴族社会を生き抜く力量とは直接の因果関係がないことであった。事実、その瞳から放たれる陰湿で鋭い知性の輝きは未だ僅かな翳りもない。
「かまわんよ。リヒャルトなら反対したが、マクシミリアン・ヨーゼフではなぁ」
自身と同じ名前を持つ甥に君主としての適性があるとは老人には思えなかった。才能の有無が問題なのではない。むしろ能力面では低からず評価している。辺境の総督として相応の治績をあげているし、宰相派の助力で帝都に戻ってきたからの動きには目を見張るものもあった。しかしそれだけでは銀河帝国の皇帝たる条件を満たしているとは言えない。
君主に必要なのは政治的な腕力であるとルーエシュタント仙帝大公は思っている。そうでなくては良くも悪くも数多の臣下を御して従えさせ、己の思う方向に国家を動かしていくことなど叶わない。もとよりそうした認識があったが、自ら帝位にのぼって失敗した実体験もあってその認識はより強固になっていた。能力面において、弟のフリードリヒ三世と自分に大きな差があったわけではあるまいという自負があるのだ。
そうした認識による君主としての適性という観点で、マクシミリアン・ヨーゼフ大公を評価すると、あれは究極的には補佐役に留まる存在であり、お飾りに近い存在になるのならともかくとして、実態の伴う皇帝にはなれまいと見るのは自然なことであったろう。
「ある意味ではグスタフ陛下より与しやすいでしょうな。なにせ母方が下級貴族故、有力な母方の縁戚がおりませんからな。それに今回の一件で兄弟間の協力関係に罅が入っている可能性も大いにあります」
顎下の肉をタプタプと震わせながらアンドレアスは従兄弟にあたる皇帝兄弟を嘲笑した。ダゴン会戦以前に四男のリヒャルトが将来の皇帝の座を巡って三男のヘルベルトと激しく対立していたのは周知の事実であったし、長男のグスタフが皇帝に当極した際にもリヒャルトはやや面白くなさそうな顔をしていたことをアンドレアスは見逃してなった。
四男でありながらリヒャルトは兄たちを差し置いて皇帝となることを今でも強く望んでいるのだろう。そして皇帝である長兄のグスタフが危篤になったら、今度は身分卑しき母を持つ次男のマクシミリアン・ヨーゼフの次期皇帝即位が決まったのである。心中が穏やかであろうはずがないし、新帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世に対して隔意を持たずにいられるとも思えなかった。
「なればこそ、エーペンシュタインは己の手駒にしている家の女を宛がって、皇帝を取り込もうとするのではないかな。操り人形とするためにの」
父の指摘に十分ありうることだとアンドレアスは頷いた。マクシミリアン・ヨーゼフ大公は未だ独身。後ろ盾になる母方の縁戚がいないというのは、人脈を求める意味ではマイナス要素でしかないが、縁戚相手を一門に取り込んで操り人形としたいという視点で考えると口出ししてくる親族が少ないという意味では好条件であると言える。
「それで我々も同じように動くのですか?」
「そうすべきと儂は考えるが、なにか意見があるのか?」
「私としては暫し傍観した方がよろしいかと。新帝に対し、我々は忠実なパートナーとしてふるまうべきでは」
「ふむ?」
もうすぐマクシミリアン・ヨーゼフ二世となる男の現在の弱点は、とにかく味方が少ないという点である。グスタフ帝からの後継者指名があるため、グスタフ派閥から積極的に味方しようとする者たちが出てくるかもしれないが、グスタフの派閥に属していた者たちはグスタフ個人に惹かれていたというよりは、フリードリヒ三世の長子で、生母のツィタもまっとうな名門貴族家の出身でその縁でとか、伝統的で無難であるからという理由で奉じていた者たちが少なくない。となると、宮廷常識からすると出自的に異分子寄りな次男に鞍替えすることに躊躇する者も多いだろう。
味方が少なく孤立感を募らせる状況下で、自分たちが礼儀正しく優しく接してやれば、新帝からの信頼を勝ち取り、フリードリヒ三世の時代と変わらず、自分たちは今後も皇帝の傍に侍って猜疑心を煽り、粛清の実務者として今の立場と権勢を維持していくことができる。
「その方が父上の目的にもかなうと思うのですが」
顔から感情がごっそり抜け落ち、好々爺めいた雰囲気の一切が霧散した無表情で、帝国最大の秘密警察を率いて異母弟のフリードリヒ三世の治世下で絶大な権勢を誇った老人は、息子の提案を深く吟味しているかのようであった。
ルーエシュタント仙帝大公は銀河帝国の命数を既に使い果たしてしまっていると思っていた。最終的な原因は猜疑心を拗らせたフリードリヒ三世(とそれを利用した自分)にあるのだが、なにも弟ばかりに責任があるわけではない。フリードリヒ三世には帝国の専制君主としては平均的な存在であり、殊更暗君でも無能でもなかったはずだ。
弟が即位する数十年も前から帝国は斜陽であったのだ。帝国の国政を預かる者の多くが私利私欲と自己保身を最優先し、帝国という国家全体を軽んじる傾向が顕著となり、その害は甚だしかった。例えるならば、銀河帝国という家を支えていたいくつもの柱に亀裂が走り、家主はろくに補修をしようともせず、いつ自壊しても不思議ではない有様であったのだ。そんなタイミングで逃亡奴隷の末裔と称する自由惑星同盟なる時代錯誤の共和主義者どもに大敗して国のメンツが粉々になる事案が発生しただけで、仮にダゴンの大敗がなくても早晩腐敗の果てに国家として危うくなっていただろう。
今更立て直しようもないだろうし、どうすべきであろうか。ルーエシュタント仙帝大公が出した答えは「切り刻んで分割してしまえ」というものであった。かくも疲弊した国家体制で人類社会全体を背負おうなどとするから救いようがなく思えてくるのだ。巨体を抱え続けたら沈むのであれば、身の丈にあうようにスリム化すればよい。
具体的には首都星オーディンの属するヴァルハラ星系を中心とした形成した領域のみを“銀河帝国の国土”として再定義し、それ以外の統治は投げ捨てる。なんなら、それ以外の領域のみで満足するのであれば、地方叛乱を起こしている勢力のいくつかに対等な独立国と承認してやってもよい。あれらも頭の痛い存在ではあるが、自由惑星同盟やら自称する共和主義者どもよりかは遥かに常識も話も通じる相手ではあろうし、防壁としての利用価値を持たせることもできよう。
(その為には、まだまだ掃除をしなくてはならん……)
銀河帝国開闢より三世紀以上、帝国の前身たる銀河連邦時代も含めれば約六世紀半に渡って人類社会唯一の国家と呼号し続けてきた“伝統と常識の重み”というのは強いもので、今もそれを当然追求すべきものであり、帝国と並び立つような存在を認めてはならないと考える人間は、少なくとも帝国の首脳部においてはいまだ圧倒的多数派なのだ。
ルーエシュタント仙帝大公が自身の構想を現実化するには、まずその種の者たちを整理するなり排除するなりしなくてはならないのであった。ことは帝国開闢以前から続いている絶対正義の変更であり、そうであるからには彼が考える理想的な執行体制を築きあげるまでは公然と真意を曝け出すことはできない。もし自分たちの構想が外部に漏れれば、それは大逆罪に次ぐ大罪を犯していると周囲から見做されるに違いないのだから。
新無憂宮から辞去した宰相府に戻ったケファルニス・フォン・エーペンシュタインは、自身の執務室の椅子に深く腰かけながら、今後のことについて思案を巡らせていた。
皇帝グスタフが持たないのであれば、マクシミリアン・ヨーゼフ大公が次の皇帝として即位するのは、歓迎すべきことであった。少なくとも、不気味な同名の先帝であり政治的ライバルであるルーエシュタント仙帝大公の再即位や、思慮が浅いくせに無駄に行動力と積極性に富み過ぎているリヒャルト大公が即位するなんてことになるよりはマシである。
エーペンシュタインの見るところ、マクシミリアン・ヨーゼフ大公は受動的な調整家タイプの人間であり、自分で意見を持って動くことを苦手としているとこれまでの実績と職務上の付き合いで判断していた。グスタフの命が尽きそうなのであれば、代打として相応しいとさえ思う。彼ならば帝冠を被ったところで大したことはできないだろうし、エーペンシュタインが国政の実権を完全掌握するまで玉座に座らせておくお飾りとしては申し分ない。
お飾り。そう、お飾りである。エーペンシュタインは人形の皇帝を求めていた。自分の意思で動くゴールデンバウム王家の皇帝など願い下げである。ダゴン会戦大敗のショックに伴う混乱とフリードリヒ三世の猜疑心によって起きた一連の粛清の中で地位を保ち、社会秩序維持局の専横に対抗し、中央官衙の機能をなんとか維持するために“暗赤色の六年間”を死に物狂いで働き続けて祖国を守ってきたのだ。もしエーペンシュタインの働きがなければ帝国はより末期的惨状を呈していたことであろう。
そしてそれでも自身が粛清を免れるために究極的には皇帝に正面から逆らうことができず、幾人もの友人知己や同僚を守れなかったことから人形の皇帝を強く求めていた。またこの経験によって、エーペンシュタインは心に危うい
「事実上、銀河帝国の王は俺だ。事実上、全人類の支配者にして全宇宙の統治者は俺だ」
帝位簒奪。これが不遜な野心であるとはエーペンシュタインは思わなかった。彼は銀河帝国を愛してはいたが、ゴールデンバウム王家は愛していなかった。正確には少なからず尊皇精神はあった。しかし勝って当然の共和主義者どもの討伐で軍事専門家の言葉に耳を貸さずに大敗した無能なヘルベルト、猜疑心と保身の感情に凝り固まって無用な粛清に狂奔したフリードリヒ三世、それを利用して権勢を拡大させて厚顔にも皇帝を称しはじめたマクシミリアン・ヨーゼフ一世、彼らがエーペンシュタインが愛する祖国に与えた傷の深さを思うと、尊皇精神などというものを精神世界のダストボックスに投げ込むことにためらいを覚えなかったのだ。
勤皇精神を棄て、曇りなき眼で帝国の現状と歴史を眺めると、もはやゴールデンバウム王家という存在じたいが帝国にとって重荷となっているのではという認識を抱かずにはいられなかった。今の皇族とくれば凡庸がマシで無能と害悪が数多いる有様ではないか。
ルドルフ大帝から始まり、ジギスムント一世、オトフリート二世、アウグスト一世、彼らのような、多くの有能な君主を生み落とした強者の血統が、遺伝子が腐りはてて、ここ数代はその頃の皇帝と同じ血が流れているのか疑いたくなるような治績しかない輩ばかりではないか。
もはやゴールデンバウム王家は堕ちるところまで堕ちてしまっている。ならば力を持つ自分が、エーペンシュタイン家がゴールデンバウム王家に取って代るのも至極当然のことではないか? 正しい力の使い方とは、力を持つ者が持たざる者を支配することであり、かくあらんとすることは力を持つ者の責任ですらある。それこそが開祖ルドルフ大帝が示した理念であり、エーペンシュタインが愛する銀河帝国という国家であるはずであった。
その意味でも皇帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の誕生は歓迎すべきことであった。ルーエシュタント仙帝大公の派閥を排除してしまえば、名実ともに帝国最大の権勢家になることだろうし、その後に皇帝に自分に禅譲するように圧力をかけていけば、万事うまくいくことであろう。積極的にマクシミリアン・ヨーゼフ二世を支えようとする勢力がそういるとも思われないし、当人にしても大勢を読めないほどの愚物ではないだろう。
「とはいえ、これは最善の場合だ」
エーペンシュタインは現在の官界における二大派閥の一方である宰相派の領袖であり、官僚たちから大きな支持を集めているが、それはゴールデンバウム王朝を支える重臣としての人望であって、エーペンシュタインが帝位簒奪の野心を表沙汰にした時、どれだけの者が自分の志に同意してくれるかは未知数なところがある。自分がこれほど大きな派閥を形成できたのは、対立派閥の領袖であるルーエシュタント仙帝大公が嫌われすぎていたという事情がある点を忘れずにいるべきだろう。
最悪、形式の上ではゴールデンバウム王朝が続いても構わない。それなら皇帝権力を完全に形骸化させ、自分が帝国における最高権力者となればよいのだ。要は二度と腐った王家に足を引っ張られない体制を構築できればよい。名よりも実だ。
そのためにもまず手をつけるべきは――。エーペンシュタインは机に備え付けられた電話の受話器を取って番号をプッシュした。
「軍務尚書か。例のE軍管区鎮定の件のことだが。中止? いやいや逆だよ。予定通り出兵する方向で調整を続けてほしい。え? 不逞な共和主義者どもが我々の事情を斟酌してくれるのかね? ああ、そうだ。これ以上神聖な国土を奴らに穢されたくもないし、早急に鎮定すべきというのはリヒャルト殿下の御本人の意見でもあった。卿も同意してくれるだろう? ああ、たとえリヒャルト殿下を始め、鎮定軍の将官たちがグスタフ陛下の葬儀に参列できなくなるとしても、今回のようなケースでは致し方がないことだよ。もちろん、それなりのフォローはできるようこちらでも計らうさ。うん、うん。じゃあ頼んだ」
エーペンシュタインは受話器を戻した。リヒャルト大公が彼が至尊の座に執着しているのは明白なことであるし、実の兄の皇帝即位を陰に陽に妨害する恐れがある。以前から決まっていたことを予定通り行うという体で、リヒャルト大公を穏便な形で帝都から追い出しておきたい。
ついでにこれで気分屋なリヒャルト大公が機嫌を損ね、その余波を軍の高官たちに向けて関係悪化でもすれば儲けものであった。今は意外にも鎮定軍の提督たちを尊重して悪くない関係を築いているようだが、リヒャルト大公が明確な考えを持ってのことというより、破滅したかつてのライバルであるヘルベルト大公に対する逆張りという要素が強い。個人的鬱屈が原因でリヒャルト大公が態度を豹変させる可能性は十分にあるはずであった。
六年前のヘルベルト大公の時と違い、今度は共和主義者どもに占領されている帝国領での戦いだ。地理に暗いわけでもないし、敵に勝る兵力を整えて物資を軍に供給してやれば、どれほどリヒャルト大公が無能を晒したとしても、敗けはすまい。ほどほどに損害を出したうえで、自由惑星同盟と僭称する輩どもをオリオン腕から叩き出してくれれば、エーペンシュタインとしては重畳極まりない。
二度も宮廷事情で選ばれた素人の皇族司令官のせいで要らぬ損害を被ったとなれば、流石に軍部もゴールデンバウム王家への反発を強めるだろう。また自身の影響力を軍部にも拡大したいという考えもあった。今でも武官からの人望はあるが、文官たちに比べればそれほどであった。
理由は単純で、国土防衛を担う軍部に対しては猜疑心に染まったフリードリヒ三世も細心の注意を払って扱っていたので、社会秩序維持局の無慈悲な手がそこまで伸びなかったため、庇う機会があまりなかったからである。軍部も内務省の介入を嫌がって、自ら皇帝の意に添う姿勢を示すべく、独自に人員の整理を行っていたことがフリードリヒ三世をある程度満足させていたという事情もある。
エーペンシュタインが秘めたる野望を達成するためには、武官たちの支持を欠くことはできないし、文官たちからの支持もありとあらゆるレベルで自分の指示を最優先とするようになるまで誘導していかなくてはならない。そのためには想定できるあらゆる可能性を見据え、どんな小さなことでもできるならやっておくべきなのだ。
「俺は帝国の支配者になってみせる」
そしてエーペンシュタイン家が腐ったゴールデンバウム王家に代わって、今後の人類の歴史に対して最高の責任を負うようになるのだ。
新無憂宮北苑に数多ある小宮殿のひとつにリヒャルトは現在居住しており、長兄が次兄の頭上に帝冠を被せた衝撃的一幕の後、理性と精神力を総動員してしかめっ面をしながら帰り着いた後、自分の細君や側近たちに対して堰を切ったように癇癪を爆発させていた。
長兄の“愚行”、次兄の“背信”、三兄の“暴挙”、伯父の“厚顔”、宰相の“不忠”などといった趣旨で罵り続け、顔を真っ赤にしながら数時間にわたってまくし立てていたのである。
あまりにも長々と続いていたので、最初はリヒャルトの怒りに同調していた側近たちも途中からはうんざりしてきていた。リヒャルト本人も数時間にわたって怒鳴り続けたことによって、いくらか心の落ち着きを取り戻しつつあった。
軍務尚書の使者がやってきたのは、不幸にもそんなタイミングであった。E軍管区鎮定軍の出兵は急を要することであり、また殿下ご自身の希望でもある故、必ず予定通り行うという旨の報告を受けたとき、リヒャルトの眉間に太い青筋が浮かんだ。
兄帝が危篤だというに、帝都から長期にわたって離れる任務に赴けというのは、自分を葬儀委員会のメンバーから外す意図があってのことしか思えなかった。銀河帝国のような国家において、崩御した皇帝の葬儀委員会に高い席次で名を連ねることは国政における重要度を他者がはかる指標の一つなる。原則として葬儀委員長が次期皇帝たる者が務めるのもそうした理由からだ。
父帝の葬儀の際は地方に飛ばされていた為、参列すらできなかったこともあり、リヒャルトは兄帝の葬儀の際にはと常々考えていたのだ。にもかかわらず、これである。なまじ自分の希望に沿う為にとか抜かしているのが苛立たしく、また反論が難しかった。たしかに帝都に戻ってからの自分は、何をさしおいても可及的速やかに共和主義者どもをイゼルローン回廊の向こう側に追い返すべきと主張していたのである。
弱火になってきた怒りの炎に新たな燃料を追加されて、目の前の使者を銃殺してやりたい衝動にリヒャルトはかられたが、それを抑えて屈辱と怒りで体を震わせながらもなんとか声を絞り出した。
「連絡、ご苦労」
使者はあからさまにホッとしたような表情を浮かべて一礼すると去っていった。控えていた側近たちはまた自分たちが勘気を被るではないかと身構えていたのだが、
「もう疲れた。寝る」
と言い残してリヒャルトは足早に自分の寝室に消えていったので、彼らも顔を見合わせて安堵のため息をこぼした。
ただ一人、リヒャルトの妻であるテレーゼのみが、夫が消えていった寝室の扉を憂わしげな表情で視線を送っていた。すぐに追いかけたかったが、そうすると夫は傷つくだろうと思い、暫し待とうと思った。
寝室に入ったリヒャルトは、誰にも見られてないことを確認した上で、怒気を爆発させた。
「クソッ! クソがッ! ふざけるなよ! どいつもこいつも俺をコケにしやがって!!」
リヒャルトは皇帝になりたかった。いや、皇帝にならねばならなかった。それは野心とか向上心とか、そんな前向きで自発的なものではない。それはリヒャルトにとっては強迫観念に近いものであった。それは健康体で体格が良く、母方の家柄も良く、相応の教養を自然と身につけた直系の皇族の男子であれば、程度の差はあれど抱く感情なのかもしれない。
加えてリヒャルトの場合、正統な次期皇帝となるべき長兄グスタフは病弱であり、皇帝としての責務をまっとうできるのかと多くの廷臣から昔から不安視されていた。それがゆえに、その強迫観念は一層強烈なものとならざるをえなかったのだろう。幼き頃より「あなたは将来皇帝になるのだ」と親しい者たちから何の気もなく言われ続けてきたのだ。
ゆえに自身が皇帝となるために立ちはだかる障害は、リヒャルトにとっては問答無用で憎悪するに値した。すぐ上の兄ヘルベルトも似たような心で皇帝たらんことを欲していると薄々頭で理解していたが、その理解が兄に歩み寄ろうなどという発想に結びつくことなどなく、敵意と憎悪のみが膨らみ続けた。
リヒャルトはヘルベルト以外の兄たちのことは慕っていたが、それは彼らが自分にとって脅威になるとはまったく思えなかったからであった。長兄グスタフは生まれつき病弱で、皇太子としての責務すら疎かになっていたから、皇帝に即位できたところでお飾りにすぎない上に長生きできるとも思えないし、子が作れるような元気があるかも甚だ怪しいので問題はないだろうと認識していたし、実際としてそうなりつつある。
次兄マクシミリアン・ヨーゼフに至っては、母方が下級貴族だったためか、次兄を推す支持層そのものがほとんどなく、当人も皇帝になる意欲がないようであったから、警戒する必要性が感じられなかった。辺境大管区の総督として仕事をしているうちに、それなりの支持者を獲得したようであるが、それでも自分に比べれば見劣りするとしか思えなかったし、本人に皇帝になる意思がないよう見えた。だから自分は安心し、純粋に兄たちを慕うことができたのだ。その兄たちが、揃って自分を裏切ったのだ。
その怒りの激情のままにグスタフ帝から後継指名を受けた次兄を暗殺すべきだと思考を走らせ始めたところで、リヒャルトは思いとどまった。皇族育ち故の驕慢さから、強い不安や怒りの感情にかられると短慮な決断をしがちであるというひとつ上の兄のヘルベルトと同じ弱点を彼も有していたが、幸か不幸か、ヘルベルトと違い、彼には既に二度も強烈な挫折の経験があった。
一度目は「史上空前の壮挙」の総司令官に自分ではなく兄のヘルベルトが選ばれ、父帝フリードリヒ三世が自分よりも兄を皇帝にすることを望んでいると知った時。二度目はヘルベルトが大敗して戻ってきて、当然自分が最有力皇帝候補に躍り出たと確信していたら、父帝に辺境へとおいやれられた時。その経験が、リヒャルトに挫折からくる強烈な感情が理性を凌駕することを、ある程度は抑止する術を身につけさせていた。
リヒャルトは銀河帝国の皇帝になりたいのであって、崩壊していく亡国の指導者になりたいわけではなかった。とすれば、正式に皇帝と決まった次兄を短兵急に排除しては、宮廷の混乱がどうなるかわかったものではない。
共和主義の脅威が迫っているにもかかわらず帝国の現状に対する認識の甘さゆえにさらなる騒乱を招き、結果として歴史の針を三百年も逆回転させ、人類社会が共和主義の迷妄に沈む暗黒時代を招いた無能な君主であるなどと自分が後世の歴史家どもから嘲笑されるようなことになれば、自分は死んでも死にきれぬ。それは偉大なるルドルフ大帝の末裔たる皇族としての矜持と自負が許さない。
ふぅーと深呼吸をして気持ちを落ち着け、状況を整理して小さく呟いた。
「性にあわないが、気長にやるしか、ない、か……」
次兄が皇帝となっても、自分の立場がそれほど動揺するとは思われなかった。そもそも、次兄が皇帝に即位することを望む貴族がほとんどいなかったからこそ、自分は次兄を警戒しなかったのだ。グスタフの派閥の人材を取り込んだとしても、たかが知れている。ならば、ひとまずは辺境から押し寄せる共和主義者どもへの対処や国内の安定化をこそ優先すべきである。
自分を裏切った罪を次兄に贖わせ、皇帝に登極するための策謀を巡らすのは、その後で良い。今は銀河帝国そのものの屋台骨が揺らいでいるのだ。支配できる臣民がいてこその至高の権力である。臣民が臣民でなくなってしまえば、帝冠を頭上に戴いても滑稽なだけだ。
父帝の猜疑心によるものとはいえ、辺境の総督を数年経験したことによって、リヒャルトはそれまでの帝都中心だった視野を大きく広げていた。ダゴン会戦以前より貴族叛乱や民衆蜂起が増えているとは情報として知っていたが、帝都で報告を受けるのと実体験するのでは感じる深刻さが桁違いであった。特に後者の民衆蜂起に関しては認識が甘すぎたと痛感せざるを得なかった。
帝国の開祖ルドルフとその仲間たちが作り上げた臣民教育により、普通の平民というのは上位者に対して従順になるように躾けられている。そんな者たちが、貴族の指導を受けるでもなく、民衆自らの意思で蜂起して我が者顔で統治者面としているのが珍しくないなどというのは、帝国が人類に植え付けていた世界観・価値観が揺らいでいる何よりもの証拠であった。そしてダゴン会戦の大敗以来、この傾向は拡大の一途をたどっている。
帝国の歴史的に大規模な地方叛乱といえば、即ち地方貴族の叛乱であったのだが、その前提がおかしくなってきている。帝国の常識そのものが崩壊しはじめているといえるのだ。この深刻な病に対し国家的規模で早急になんらかの処方箋をほどこす必要があるのは明らかだ。
まだ自分は若いのだ。五年や一〇年、兄に従順な弟という仮面を被って忍従することは、精神的負担が甚大であるが耐えらないというほどではないはずだ。それくらいの年月雌伏することくらい、長兄が皇帝になることを認めた時に覚悟していたではないか。
苦々しい感情を飲み込もうとして飲み込み切れずにリヒャルトが懊悩していると、コンコンと扉がノックする音が響いた。入ってきた女性を確認して、リヒャルトは微笑を作った。妻のテレーゼだった。
「どうした? 私はもう寝ると言ったはずだが」
「ええ、ですが……」
それだけ言ってテレーゼは顔を伏せたので、リヒャルトは眉をひそめた。すでに結婚して三年ほど経過しているが、内気で口数が少ない妻を、リヒャルトはやや持てあまし気味であった。王侯貴族の結婚といえば、大多数が政略結婚であり、リヒャルトとテレーゼもその多数派に属する例であった。
しかもリヒャルトが総督として地方に飛ばされていた時に、その近辺で大きな力を持っていたある伯爵と懇意になり、皇帝を目指す上でも伯爵家ごと味方にしたいと考えていたところに伯爵に自分に釣り合う年頃の娘がいるというので、縁談を申し出たら伯爵が快諾し、父皇帝フリードリヒ三世の婚姻許可ももらって婚約し、結婚式の一月ほど前に初めて直に対面したところからスタートした関係であった。
なのでリヒャルトの女性の好みから言うと、テレーゼは容姿的には痩せすぎで華がないでまったく好みではなかった。顔自体は悪くないのだが、口数が少なく、話す内容も要領をえないので、会話を楽しむという方にもいかない。正直テレーゼの実家である伯爵家に魅力がなければ、結婚しようなんてまったく思えなかっただろうと思うし、実際そそられるものがないので、一度自分の子を孕ませた後は床を共にすることも少ない。義父である伯爵のこともあるし、自分の正妻としてリヒャルトなりに気遣って尊重はしているつもりだが、他の愛人の女と寝た方がよっぽど良いのである。
そのことをテレーゼがどう思っているのかリヒャルトにはまったくわからない。知らないわけがないはずなのだが、何も言ってこないし、嫉妬らしきものもまったく感じられないので、考えてもわかる気がしないと諦めている。しかし彼女が寝室に訪れた意味を察せないわけではなかった。そしておそらく自分を心配してきてくれたのであろうということも。
リヒャルトは寝台に腰かけ、隣を手で叩いて示すとテレーゼはそこに腰かけた。そしてゆっくりとテレーゼは体重を預けてもたれかかってきた。リヒャルトは当惑しながらテレーゼの腰に手を回して支えた。
「テレーゼ?」
「その、ただ、あなたの傍にいたくて……」
「お、おお?」
まったく理解できなかったが、とりあえず妻に肩を貸してやった。そしてリヒャルトの方から何度か話題を振ったが、夫婦間の会話は長続きせず、そんな状態のまま三〇分ほど過ぎると規則正しい吐息が肩をくすぐるようになった。妻がそのままの状態で寝入ってしまったらしい。
肩を揺すったり、頬を軽く叩いたりしてみたが、起きる気配がない。あまりにも意味が分からなさ過ぎて叩き起こすべきかとも思ったが、流石に大人気ないかとも感じて、仕方ないから自分の寝台で横にして寝させてやろうかと考えたところで、ふと思う。
(そういえば、この女は自分に求めてこないのだな)
どんな形であれ、リヒャルトの傍にいる近しい者たちは将来の皇帝になる存在として期待を寄せ、献身し、見返りを求めてくるものだ。自分の栄達によって、彼らはそのお零れにあずかることができるのだから当然だろう。だが、テレーゼに関しては養父たる伯爵との間でそうしたやり取りが行われ、テレーゼとの間ではそうした話をすることがない。ゴールデンバウム王朝の皇子として自分を見てこないのだ。ただ妻として自分の傍にいることが多いだけだ。
このまま肩を貸してやるのも悪くないか。気のせいだろうが、妻の肉体から感じる温かさと寝息、そしてこの静寂がひどく心地よいものであるかのように思えてきたのだ。リヒャルトは優しい仕草で寝入る妻の髪の毛を撫でた。
先刻まで暴風雨の如く荒れ狂っていたリヒャルトの心は、ずいぶんと静まっていた。
一方その頃、同じく新無憂宮北苑に位置する別の小宮殿の一室では皇帝グスタフより後継者指名を受けた男が、自身の愛人たる侍女服を着た女性と二人きりでいた。
暫く唸っていたマクシミリアン・ヨーゼフは苦渋に満ちた深刻な表情で問いかけた。
「やっぱり兄上のあの言葉、なかったことにできないかな!?」
「無理でしょ」
「じゃあ、リヒャルトに速攻で帝冠を譲ってさ!!」
「その戯言、何回目? 自殺願望でもあるの?」
ジークリンデはすげなく切って捨てた。彼女はリヒャルトのことを自分に手を出そうとしたクズであるヘルベルトと同じタイプの人間であると見ていた。流石にヘルベルトに比べれば多少は女性に対する分別がマシかもしれないが、時折自分に向けてくる好色な視線を思うと五十歩百歩にもほどがある。ヘルベルトがクズであるならば、リヒャルトはゲスと言ったところか。
リヒャルトもヘルベルト同様、大枠では自分の思い描く絵図が現実になることが正義と素面で信じてるタイプの人間だ。シレッと皇帝になっていた伯父を激しく憎んでいるのも、口に出しては伯父の悪行をあげつらうが、根底部分には“自分が占めるべき正統な地位を不当に奪った”という被害者感情があるのをジークリンデは見抜いていたし、新しくその怒りの矛先に自分の男が加わったであろうことも想像にかたくなかった。
今更、帝冠を譲ったところでリヒャルトの被害者感情は癒されはすまい。あの男はきっとすべて共謀して自分を欺き裏切ったと認識しているだろうし、報復しようと考えるに決まっている。また仮にリヒャルトが許したところで、今までマクシミリアン・ヨーゼフという皇子は帝位に就く可能性が低いと誰からも思われていたからこそ、どこの派閥からもそれほど危険視されていなかったのだ。前提が変わった以上、帝位を退いてもそれなりの実力がなければ、後顧の憂いを絶つべく排除しようと考える者はたくさんでてくるだろう。
「どうして兄さんは私に次期皇帝指名なんか……」
「あなたがそういう性格の持ち主だから、いずれ逃げると見抜いてたからじゃない?」
「うぐっ……」
図星だった。争いごとを嫌うマクシミリアン・ヨーゼフは、ずっと前から皇族故のしがらみからくる諸々を清算し、煩わしい帝都を離れて辺境で安穏と暮らしたいと常々思っていたのである。皇帝になれば手に入る莫大な富や権力にそれほど魅力を感じていなかった。欲しくないわけではないが、どう考えてもリスクと釣り合ってないとしか思えなかったのである。
兄は病弱故に皇帝になれるのか不安視されていたが、幸いというべきか弟たちが意欲にあふれていたので、彼は弟たちと良好な関係を築くことに腐心してきた。弟たちとの関係には、兄としての情はあったが、計算だって相応にあったのである。だからヘルベルトが破滅した後は、リヒャルトを支持してきた。
リヒャルトが皇帝に即位したら、帝国が安定してきたタイミングを見計らって自分は宮廷の職をすべて辞し、弟帝からそれなりの所領をもらって引っ込んで、皇族としてのブランド力をほどほどに活用しながら辺境領主としての人生をエンジョイするつもりであったのだ。
自分と出会う前から抱いていた夢が御破算したのだから、むろんジークリンデは深く同情していたし、マクシミリアン・ヨーゼフの愚痴にも付き合ってあげるつもりであった。しかしいくらなんでも数時間もクドクドとこの状態で似たような言葉が繰り返されると、段々と苛立ちが募ってきて、ついに決壊した。
「あ゙ぁ!! もうじれったいわねッ!!」
ジークリンデはそう叫ぶと、勢い良くメイド服のスカートの中に仕込んである短剣を引きぬき、次期皇帝であるマクシミリアン・ヨーゼフの首筋につきつけた。
「いい!? こうなった以上、あなたの選択肢は二つに一つよ!!
皇帝になって邪魔者を一掃して私と結婚するのか、それとも私に殺されてヴァルハラで自害してきた私と冥婚するのか!! それ以外の可能性はないから、どっちかを選びなさい!!」
このまま迷い続けるようなら到底今後の宮廷を生き残れるとは思えなかったし、誰かの手にかかって死ぬくらいならいっそ自分が殺そう。ジークリンデは独占欲から半ば本気であった。
マクシミリアン・ヨーゼフは険しい表情を浮かべた。愛するジークリンデに短剣をつきつけられたから、ではない。そのことに関心を持てないくらい困惑していた。もっと別なことが気になっていたからであり、思わずその疑問が口からこぼれた。
「……どっちを選んでもゴールが君との結婚なの?」
「……へぇ、私にあんなことやこんなことをしておいて、責任をとって結婚する以外の選択肢があなたにあると思ってたの? 見下げ果てた男ね……回答に関係なく殺してあげましょうか?」
下賤の出の侍女がその瞳にどす暗い色が揺蕩いはじめたのを視認して、帝国では最も高貴なる血族の一員であるはずの男は慌てた。
「いや、違う違う違う!! 結婚に関して文句はないさ!! そういう意味じゃなくてだな!! この究極の二択にそれ言及する必要ある?!」
「必要不可欠よ。で、あなたはどっちを選ぶの? 私はどっちでもいいわよ??」
にっこりと素敵な笑みを浮かべるジークリンデにやや恐怖を覚えながらも、マクシミリアン・ヨーゼフは決断した。生き残りたいと願うなら、選べる回答はひとつしかない。
「わかった。皇帝になって、君と結婚しよう。はあ、辺境領主としてスローライフを過ごす私の人生プランがぁ……」
「文句なら自由惑星同盟なんて僭称している叛徒どもに言ってちょうだい。あいつらが共和主義なんて時代錯誤な思想掲げて暴れなきゃ、このクソッタレな帝国も私とあなたが死ぬまでくらいなら、まだ持ってだろうし」
「はあ……ほんと余計なことをしてくれた……でもなんで私が皇帝なんかに……」
「それならとんでもない遺言残そうとしてるあなたの兄さんに言ってくれない?」
「はあ……」
未練を口に出すごとに、即座にジークリンデに切り返され、マクシミリアン・ヨーゼフの思考と覚悟も固まってきて、これからのことに思考が及んだ時、あることに気づいて、やや不安気に愛する侍女に次期皇帝は問いかけた。
「な、なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「なにかしら」
「皇帝って、至尊の血統を残す為とか、諸侯の友好を結ぶ為とか、地方の反乱を防ぐ為とかで、色々な勢力から女が献上されたりするじゃないか。だから新無憂宮に後宮だってあるわけだし。それ、君としては許容できるの?」
「…………」
顎に手をあててジークリンデは少し考え、軽く一度頷いた後、マクシミリアン・ヨーゼフの顔をまっすぐ見ながら言った。
「状況によるわね。私もそこまで狭量というわけでもないから、側室をとることが明確にあなたのためになるようなら、許してあげなくもないわ。問題が起きないよう躾ければ済む話だし。でも私に内緒で側室を迎えたり、政略が一切絡まない浮気なんかした日には、ぶっ殺してやるわよ」
「……さいですか」
側室は可能な限り取らない方向で皇帝としてやっていこうとマクシミリアン・ヨーゼフは決心した。まったくとらないわけにもいかないだろうが、ジークリンデが側室たちに対して上下関係というものを弁えさせるために苛烈極まりない躾をして、側室たちの精神が病んでいく光景が現実感を持って幻視できたからである。
だが、まさかゴールデンバウム朝歴代皇帝の中で側室や愛人の存在が確認できない稀有な皇帝の一人として歴史に刻まれることになるとは、この時はまだマクシミリアン・ヨーゼフも予想だにできないのであるが。
――カラーン、カラーン!
新無憂宮全域に、いや、帝都全域に鐘の音が響いた。皇帝が息を引き取ったことを告げる鐘の音である。後世、わずか三ヶ月あまりという短すぎる治世から“百日帝”と称されることになる皇帝グスタフの御代の終わりを告げる鐘であった。
「兄上……」
マクシミリアン・ヨーゼフの瞳から涙がこぼれた。病弱な体故、長く生きられぬだろうと昔から噂されていたとはいえ、弟のヘルベルトに毒を盛られて最期を迎えるというのは、哀れであった。
ふと兄より被せられた帝冠が視界の端にはいった。先ほどまではどうしてこんなもんを自分に押し付けたのだとしか思えなかったが、ジークリンデの脅迫と兄の死によってマクシミリアン・ヨーゼフが帝冠から受ける印象に変化があって、自分の手で帝冠を頭にのせてみた。
「私は第二三代銀河帝国皇帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世である……か」
どう考えても柄じゃないなと苦笑したくなるが、それでもやるしか道はないのだ。そんな想いで視線を前に向けてみれば、片膝をついて跪くジークリンデの姿があった。
「
なんてね、と、悪戯っぽい笑みを浮かべながら立ち上がると、ジークリンデはグイッと近寄って、マクシミリアン・ヨーゼフの頬へとしなやかに手を添え、口づけをして彼の口内を暫し一方的に蹂躙した。
数分もの間、愛する男の口内を貪って満足して唇を離し、顔を紅潮させながらジークリンデは熱っぽい瞳で妖艶に微笑む。
「ねえ、あなた。私、今とっても昂ってるの。これからが愉しみで愉しみで仕方ないわ!」
そう言ってジークリンデはピョンと飛んで部屋で開けている場所に降り立つと、鼻歌を歌いながらくるくると踊り始めた。
ジークリンデは元来向上心と闘争心が旺盛であり、性格的には苛烈であり、やはりというべきか力への意思が強い女であった。反対者をあらゆる手管を用いて勝利し、自分の意思を押し通すことを、理屈以前に癖として好むのである。喧嘩好きと言い換えてもいいかもしれない。平民の女でありながら勉学を積み、狭い門を潜り抜けて宮廷侍女になったのも、表向きには色々と言い訳を用いたが、本当のところは自分の意思を押し通すには権力に近い場にいた方が良いという考えからだった。
このように唯我独尊な女であるのだから、当然というべきか、世の理屈なるものを根本的なところではアホらしく思っており、帝国の理念とかを内心嘲弄している。銀河帝国の開祖ルドルフに対してすら本心ではどうでもよく思っている。優秀な人間というものがいるとすれば、それには間違いなく自分であるに相違なく、自分が平民扱いなのはおかしいではないか。従ってルドルフの理念が間違ってるのはあきらか、という主観が強すぎる確信故である。
マクシミリアン・ヨーゼフに近づいたのも、最初は自分が利用できるかもしれないという打算から近づいたのであった。それまでの過程で適当に男を利用してのし上がる行為をジークリンデは幾度となくしていたし、その中の一人であるという認識しか最初はなかった。
しかしどういうわけか、ジークリンデ自身も不思議に思うことがあるのだが、知らないうちに自分はマクシミリアン・ヨーゼフという絆され、いつの間にやら惚れきっていた。それも自覚した頃には、権力なんかよりもマクシミリアン・ヨーゼフという男が欲しいのだと思っていたくらいには虜になっていた。
だから辺境領主の地位に安住することを望んでいたマクシミリアン・ヨーゼフに同調することは苦ではなかった。彼が望むのでは辺境領主の夫を支え、闘争とは縁の薄い生活を送ることに否やはなかった。自分の性にはあまり合わらないことではあるが、愛する男と人生をまっとうすることと比べればジークリンデの心の天秤は簡単に傾いたのである。
だが、いかなる偶然によるものか、マクシミリアン・ヨーゼフは皇帝になる覚悟を決め、自分は近い将来に皇后たる地位につくというのだ。皇后。これはジークリンデにとってはなんとも甘美な響きを持つ称号であった。帝国の歴史上、強大な権力者としてふるまえた皇后は幾人かおり、自分もその列に加わることは疑いない。この運命の巡り合わせには、信じてもいない大神オーディンに心からの感謝を捧げてやってもよいと思えるくらいであった。
可能であれば気に入らない者やムカつく者は叩き潰してやれという思考を持っているジークリンデであるから、今後のことは本当に楽しみで仕方なく、天使のような微笑みを浮かべながらくるくると踊り続けていた。そんな彼女の様子を見て、かわいいなぁとマクシミリアン・ヨーゼフは心を奪われていたが、頭の片隅ではジークリンデのブレーキ要員を大至急探さなきゃな、と、考え始めていた。
これより数日の“百日帝”グスタフの大喪の後に執り行われる即位式をもって、後世ゴールデンバウム王朝の中興の祖と名高い“晴眼帝”マクシミリアン・ヨーゼフ二世の時代が始まるのだが、それはまた別の話である。