家に帰ると、果林さんは買ったものを開封してあちこちに置いていく。
お揃いのマグカップに食器に歯ブラシに枕に、下着まで。
ソファや棚といったものは来週の土曜日に届く様になっている。
買った小物類が増えるだけで部屋の雰囲気が変わった様に感じる。
色合いとか、マグカップ一つとっても可愛い猫の柄のものだとか、一つアイテムが増えただけなのに前より華やかに見えるのは、果林さんのそう言うセンスの様なものなのだろう。
その後食事を摂り、1日を終える準備を済ます中、難関がやってくる。
そう、お風呂だ。
別に、一緒に入るとかそう言う事では無いけれど、広く無いアパートで、果林さんのシャワーの音に悶々として、煩悩を振り払うためにベッドに潜り込んで耳を塞いで何とか凌いだ。
「何してるの」
と、果林さんに変な目で心配されたけれど。
そして、寝るまでの間、そわそわした気持ちで果林さんと談笑している。
新しくスイスから来た転入生と仲良くなったとか、モデルの仕事の話だとか。
そして、日を跨ぐ寸前の時間になると、
「そろそろ寝ましょう」
と、果林さんは大きな欠伸をして、ベッドに入っていく。
さて、どうしたものか。
ここを、如何にして乗り越えられるかだ。
「晴太、早く寝ようよ」
眠い目を擦りながら、布団をパタパタとさせている。
「やっぱり…」
「その話はもう終わったはずよ」
「……」
一緒に寝る寝ない問答は、数時間前に一度議論している。
ただ、果林さんが頑なに一緒に寝るという事で、僕も折れてしまったわけで。
だって、別々で寝るって提案したら、あんなにも悲しい顔をするんだもの。
「そう、晴太は私と一緒は嫌なのね」
なんて、言われれば、はいとは言えない。
「ほら、はやく」
もう覚悟を決めるしかなさそうだ。
僕は大きく深呼吸をして、ゆっくりとベッドに入る。
いつも使っているベッドなのに、慣れない不思議な感覚。
ただそこに、美女がいるだけで、ベッドや部屋までもが違った様相になる。
「し、失礼します」
「どうぞー」
僕はベッドに入る。
それをみた果林さんが怪訝な顔をする。
「そんな端っこ。落ちゃうわよ?」
「僕、寝相良いので」
「首とか、おかしくなりそうだからいい加減諦めてこっちにきなさい」
「ちょ……」
そう言って、抱き寄せられる。
顔に伝わる柔らかい感触。
鼻いっぱいに広がる果林さんの香り。
なんとか離れようと体をそらすけれど、伸ばした足に果林さんの足がそれを逃さないと絡みついてくる。
これ、ダメなやつ。
色々とまずいやつ。
男子高校生には刺激が強すぎる。
こんなに密着されちゃ、果林さんにも生理現象がバレてしまう。
こんな時はあれ、全く関係のない事を考えるんだ。
羊が一匹とか、そんなありきたりのことでも…
って、考えるより、やめさせる方が早いじゃないか。
「果林さん離れて…」
「えー、こうしてる方があったかいじゃない」
「僕は暑い…」
抱きしめる力が緩まったかと思い、抜け出そうと体を捻ると、また強くなった。
抜け出そうとすればするほど、果林さんの方に引き寄せられている蟻地獄の様なそれに、もう諦めて大人しくするしかない事を悟る。
「ほら、こっち向いて寝ると晴太の匂いがするし」
「不快じゃ無いですか?」
「どうしてそんな事言うの。なら、別に匂いはしない。無臭よ無臭」
果林さんは不機嫌そうに口を尖らせる。
果林さんの腕の中で、チラリとベッドの側に置かれたデジタル時計を見る。
もう日は新しくなっていた。
「晴太は…」
「なんですか?」
「自覚が足りないのよ。彼氏としての」
「……」
その言葉に、どんな意味が含まれているのだろう。
もっと堂々としてろとか、果林さんを引っ張っていけとか、そう言う意味なのだろうか。
体の熱が少し引いた気がする。
この体勢にも、果林さんの匂いにも、慣れてきたのかもしれない。
心地いいとまで、思えるそれに少し意識がボーっとしてくる。
「いつか、あなたの過去のことも、私が全部塗り替えてあげるから」
過去のこと。
もうそんな事、とうの昔に折り合いは付けている。
果林さんは、そうじゃ無いと、この約一年の間で分かっている。
けどまだ少し、恐怖心があるのは、きっと自分が弱いからだ。
だから、そんな心配は要らないよと、胸を張って言えるまで、僕が強くならないといけない。
果林さんは、ゆっくりと僕の頭を撫でる。
とても心地がいい。
「おやすみ、晴太」
と、言って果林さんは眠ってしまった。
そんな果林さんの寝顔を見ながら、僕も目を瞑った。
〜
「明日、台場の夕陽の塔でモデルの仕事あるんだけど見にこない?」
果林さんとの半同棲も少しだけ慣れてきた5月中旬。
金曜日の夜という、世間で言えば華金なるその日に、2人で夕飯を食べながら、果林さんは唐突に提案してきた。
「急、ですね」
「嫌?」
「嫌ではないですけど…」
「けど?」
「そう言うのって、一般人が観に行ってもいいもんなですか?」
果林さんは、生姜焼きを頬張ると、こくりと頷く。
「別にテレビとかじゃないから。割とオープンよ?」
「ファンとか、ごった返しません?」
「そんな事にはならないわ」
首を横に振りお茶を口に含む。
「普通、撮影場所って公開したりしないから」
「今、おもいっきり僕に場所開示してましたよ」
あちゃーと、わざとらしく舌を出す。
でも、気になるのは事実である。
読モをしていると言う事は勿論知ってるし、その本を買って読む事だって手で数えきれない程にある。
けど、雑誌で特集を組まれるほどの果林さんは、どんな風に仕事をしているのかは知らない。
「本当に大丈夫なんですか?」
「まぁ、通りかかったくらいのノリで、遠くから見つめてるくらいなら?」
「僕、変態じゃん…」
「いいじゃないー。晴太気になるでしょ?」
「ま、まぁ気にはなります」
果林さんは僕のその返答に、
「なら、決まりね」
と、嬉しそうに微笑んだ。
果林さんより1時間ほど遅れて家を出る。
時刻は午前8時を回ったところだ。
果林さんと土日祝だけとは言え、一緒に住むようになって気付いたことがある。
モデルの仕事の日は、きっちり時間通りに起きて家を出ていくのだ。
月曜日の朝なんかは、揺すり起こしてもピクリとも動かないあの朝軟弱果林さんが、モデルの仕事の日は、ちゃんと起きて身支度をして出掛けていく。
まぁ、それでも起きる時には普段からは考えられないような唸り声を上げ、ゾンビみたいになっているけれど。
それほど、仕事のことが好きなんだろうと思う。
台場に着くと、夕陽の塔に向かう。
今日は暑い。
昨日降った雨のせいか湿気も酷い。
長袖を着てきてしまった事を後悔しながら歩いていくと、夕陽の塔を背景に小さな人だかりが見えた。
その中に、果林さんを見つける。
朝も早いために、土曜日とはいえ人は疎らだ。
だから、すぐに分かった。
観にきたところで、何かできるわけじゃない。
兎に角、目立たなように少し離れたところのベンチに腰掛けた。
果林さんは、大人の女性に肌に何かつけたり、髪に櫛を入れてもらったり…きっとあれがメイクさんという人たちなのであろう。
そして、カメラを持った人が2人に、厳格な顔つきでそれを眺める女性が1人。
一つだけ言えるのは、そこにいる全員が、みんなオシャレで大人に見えた。
果林さんも含めて。
撮影らしきものが進んでいく。
果林さんは、遠目から見ても綺麗で、美しくて。
そんな果林さんが、遠くに見える。
距離以上に、果てしなく。
僕とは違う世界の人だと、現実を突きつけるかのように。
果林さんと2人でいる時に感じる視線が脳裏に浮かぶ。
分かっている。
何か奇跡的なことが起きて、果林さんと恋人なんて関係になれているだけで、どっからどう見ても釣り合ってないことなんて。
暫く眺めて、僕はベンチから立ち上がる。
撮影している果林さんを後ろに、来た道を引き返した。
充分に果林さんを見れた。
痛いほど充分に。
駅に着く。
駅のベンチに座ると、先程とは違って人で賑わっている。
大きく息を吐くと、自動販売機で買ったミネラルウォータを一口飲んだ。
否が応でも、忘れたいあの感情が湧いて出る。
身体が、骨の髄まで染み付いたあの負の感情。
そのどうすることもできない気持ちに、果林さんと出逢って、幾分か折り合いは付けられたはずなのに。
果林さんとの繋がりが切れた時の事を、どうしても考えてしまう。
また、酷く虚無の感覚に陥るのだろうと。
捨てられる恐怖。
無関心という名の暴力。
でもそれを、普通として生きて行かなければならない。
今が、偶々ボーナスタイムなだけであって、僕はそれが普通なのかもしれないのだから。
高望みなんて、しちゃいけないのだ。
これが、僕の普通……
「────晴太」
「え」
聞き慣れた声に思わず顔を上げる。
息を切らし、撮影の時より髪が乱れた、果林さんが目の前に居た。
「え、なんで?」
「なんでもなにもないわよ」
「いや、仕事…」
「トイレに行くって、抜け出してきたのよ」
「どうして?」
「晴太が、帰っていくのが見えたから」
果林さんは口を尖らせている。
明らかに、というより誰がどう見ても不機嫌だとわかる顔。
「居心地、悪かった?」
果林さんが、心配そうに聞いてくる。
「そんな事…」
「撮影終わったら晴太とダイバーシティでご飯食べて映画でも観て帰ろうって考えてたの」
「そ、そう…」
走ってきたのだろう。
まだ肩で息をしている。
撮影の衣装が、いい意味でも悪い意味でも、煌びやかで、行き交う人達の目を引いている。
暫く俯いていると、果林さんは何かに気づいたように大きく目を開いて、
「まさか…」
と、言った。
果林さんの声が、さっきより低い。
「私は、晴太にとって何?」
果林さんの瞳孔が大きく開いている。
誰から観てもわかる、怒の感情。
「果林さんは…」
「……」
黙っている。
僕の答えを急かさず、ただ待っている。
「大切な人」
それしか無い。
僕に、暖かい感情を向けてくれた人。
僕に、色々な感情をくれた人。
僕の、好きな人。
「なら、それで問題なんて無いわよね」
「……」
「晴太の親…というか、そんなの親だなんて私は思わないけれど…、去年の事だって、きっと辛い。私なら、身が持たない」
果林さんは、そう言いながら僕の隣に座った。
「いつか、晴太の辛かった事も、私が忘れさせてあげる。けど、すぐにって事にもならないし、それは私も分かってる」
果林さんは、僕の手から、僕が飲んでいたミネラルウォーターを取り上げる。
「でも今は、晴太の言った大切な人ってだけで…私と一緒に居てくれる理由にならない?」
「それは…」
「私は、晴太だから言うわよ?」
果林さんは、ミネラルウォーターに口を付けて、一口、二口と飲んだ。
「晴太が好きよ。性的な意味で」
そう言って、僕に蓋をしていないミネラルウォーターを渡すと、
「飲んで」
と言った。
ジッと見つめられる。
これに関しては、早く飲めと言うように、ジッと僕を見つめる。
僕は勢いよく飲む。
果林さんは、嬉しそうに微笑む。
「今は、それで良いの。私たちはそれで」
そう言って立ち上がる。
「あなたは、充分過ぎるほど魅力的よ。それを今から、教えに行かなくちゃ」
果林さんは僕の手を取ると、勢いよく駆け出した。
さっきまで、足取り重く戻ってきた道を、また戻る。
今度は、軽やかに。
きっとそれは、目の前にいる人のお陰なのだろう。
果林さんは、やっぱりすごい。
目を引く人の横を、気にしないと駆け抜ける。
走って走って、僕が座っていたベンチも抜ける。
撮影していた場所まで着くと。
息を切らしながら、
「お待たせしました」
と、言った。
撮影スタッフ達が、笑顔で振り向くと同時に、その笑顔が消えた。
僕のことを見たからであろう。
僕と果林さんが、手を繋いでいるという状況を見たから。
「か、果林さん?!」
勢いにつられてここまで連れてこられたけど、これってまずいのでは?
トイレに行くって行って帰って来たと思えば、男と手を繋いで帰ってきたのだから。
「果林、その子は?」
厳格な、鋭い目つきでいうその女性が、僕達を交互に見て聞いた。
果林さんから離れようとするけど、手を離してくれない。
ますます疑われてしまう。
隠そうと、2人で決めたのに。
どうして果林さんは僕の手を離してくれないのだろう。
「果林さん?」
「彼氏よ」
「……え」
果林さんは言い放った。
目の前の大人達に。
「えっ、そのっ…」
「君、果林の言うことは本当?」
大人達はジッと僕を見ている。
「その…」
「彼氏よ。まごう事なき、性的な意味合いの」
僕の返答なんて構いなしに、果林さんが答える。
どうすればいいんだ。
果林さんのイメージダウンになってしまう。
この人たちに、迷惑をかけてしまう。
「そう、いいから撮影始めるわよ。推してるの時間。トイレ長いから」
そう言うと、いそいそと動き始める。
呆気に取られていると、その間にすぐに撮影が始まった。
「ねぇ、あなたが晴太くん?」
「え、はい」
1人の女性が僕の隣に立つ。
「私はあの子のマネージャー。果林がよく話してくれるから」
「そうなんですか」
「よろしくね、果林のこと」
「あの、」
気になっていたことを聞く。
「いいんですか…、その…」
「果林との関係?」
「はい」
やっぱり気になってしまう。
果林さんは、この仕事を好きでしているから。
迷惑になってしまうんじゃ無いかと。
「別に、恋愛禁止じゃないから」
「そ、そうですか」
「まぁ、本人がいいと思ってるなら良いでしょ。それより、」
マネージャーさんは、僕の顔を覗き込む。
「今の学生って、何がトレンド?」
そんなことを話していると、あっという間に撮影が終わった。