夕食を終えた金曜日の夜。
まだ新しいブルーのソファに腰掛けて、迫る中間テストの勉強をしていると、
「えい」
そんな掛け声と共に僕の膝の間に堂々と腰掛けて、ドライヤーをふかし始めた。
「果林さん」
「なにー?」
「見えない…」
そう言うと、僕の身体に背中を預けた。
視界は広がったけど、勉強がしにくい。
「そー言えば私。スクールアイドルすることになったの」
「スクールアイドル?」
「やっぱり晴太知らないかぁ。また今度ライブやるから晴太には見に来て欲しいな」
そんな話をしながら、今までしていた数学の勉強から果林さん越しに英単語を覚えることに切り替える。
中間テストが近づくにつれて校内はテストムードになりつつあった。
公立とはいえ、進学校でもある東雲高校はここからの1.2週間はピリピリとした空気になっていく。
それが受験生である3年生だけという訳もいかないのは、東雲の厄介な補修制度の影響もある。
1年も2年も、中間テスト若しくは期末テストでどちらか一方でも赤点をとって仕舞えば、問答無用で夏休みに補修になる。
赤点教科を1週間と言う期間を費やして補修を行い、再テストを実施。それが受かるまでテストが終わらないという。
僕自身、補修を受けた訳では無いのだけれど、クラスメイトがそう嘆いていた。
夏休みは学生にとっては、いわば貴重なパラダイスタイム。
部活に明け暮れるもの、バイトに勤しむもの、遊び呆けるもの。
そのうちの1週間が補修で潰れてしまうのだから、そりゃあ皆んな必死になって勉強するものだ。
夏休み。
中学校の時の僕にとって夏休みは、家にいる時間が増えるだけの、拷問のような時間だった。
特段、中学校に友達がいた訳でもなかったけれど、それでもあの家にいるよりはマシだった。
でも、去年は違った。
初めて、果林さんと………
「晴太」
「へ?」
「電話鳴ってるわよ?」
果林さんは後頭部を僕の胸に預けながら、僕のポケットの布越しに光る携帯電話を指差している。
「バイト先とか?出なくて大丈夫?」
電話なんて、掛かってくるとしても果林さんだけなのだけれど、今は僕の目の前…というか鼻の前にいるからそれは違う。
じゃあ、一体誰なんだと、表示を見ると…。
「すみません、ちょっと電話出てきます」
「バイト先?」
「まぁ、多分そんな所です」
そう言うと、果林さんは僕の膝の間から退いて立ち上がってディスプレイを覗こうとする。
何故かそれに恥ずかしくなって、隠すように携帯を伏せると、僕は玄関の外まで飛び出すと、ディスプレイに表示された、彼方先輩からの電話を取った。
「もしもし」
「あー、晴くん。ごめんねぇ。今大丈夫だった?」
「どうしました?」
「来週の土曜日って、時間空けられそう?」
僕は脳内カレンダーをめくってみたけれど、特に予定らしい予定は無い。強いて言うなら昼から夕方までバイトがあると言うことくらいか。
「バイト終わった後の、少しだけでいいから。ちょっと会ってほしい人がいるんだよ」
「えっと……、僕、極度の陰の人間だって、先輩知ってますよね」
「うぅ…、晴くんが人見知りなのは分かってるけど、どうしても会ってほしいの。晴くんの為にもなると思って」
「……」
「お願いっ!」
彼方先輩がここまで引き下がらないのは珍しい。
僕に会わせたいというのがよく分からない。
彼方先輩との繋がりで僕と何かありそうなのは、いつも話題に出てくる妹さんしか思い当たらないけれど。
確か名前は、遥…さんだっけ。僕と同じ高校に通っているとも言っていたけれど。
「…、わかりました」
「ほんと?!」
「彼方先輩がそこまで言うなら
「ありがとう!じゃあ来週土曜日、バイト後ね!」
そう言って電話が切れる。
そこまでして僕に会わせたい人とは一体誰なのか。
妹さんだとしても、僕に会わせたいと言うのが分からない。
僕のためにもなると言っていた。友達がいない僕に、妹さんを紹介する事で、学校での居場所を作ろうとしてくれているのか?
確か、妹さんは僕の一つ年下だったはず。
だとしたら、僕すごく惨めな子になってきたな。
家の中に戻ろうと思った矢先、すぐ後ろに圧迫感を感じて振り返ると、果林さんが玄関のドアを背に腕を組んで、正に仁王立ちだった。
「……」
「うわぁっ!」
思わず声を上げる。
それに続いて、薄ら目を細め、探るように果林さんが僕に聞く。
「晴太、誰からの電話だったの?」
「えっと、知り合いから…」
「……」
「そう」
そう言うと果林さんは玄関のドアを開ける。
なんか、別に悪いことしている訳じゃ無いのになんだこの罪悪感は。
土曜日に会う人が、妹さんと限った話でもない。
その人が男という可能性だってある。
寧ろバイトの後だ。今度入ってくる新人の教育係に…とか、そんなお願いだってある。そうだ、多分そうなんだろう。
「晴太」
「はいっ!」
「入らないの?勉強途中だったでしょ?」
仏頂面で仁王立していた果林さんは、いつもの果林さんに戻っていた。
あまりにも電話がながったものだから、不思議に見に来ただけなのかもしれない。
いやでも、そんな電話長かった?数分のことだったと思うけど。
「晴太」
「はいっ!入ります!今すぐに」
そう言って促されるように僕は、自室に戻って行った。
〜
例の日の土曜日がやってきた。
今日は昼から夕方までのシフトで、終わり時間に彼方先輩が休憩室で待っていると言う段取りらしいのだけれど。
昼過ぎまで寝ていた果林さんを横目に家を出る。
去年から嫌というほど味わった湿気に、
「もうすぐ夏かぁ」
と1人呟きながら歩いて15分程度のバイト先に向かう。
潮の香りのする湿気を肌に感じながら、目的地のスーパーに着くと、事務所に入った。
じっとりとかいた汗が冷房に冷やされる。
休憩室を通りロッカーのある更衣室に入ると、いつも通りの作業エプロン姿に着替える。
店内に出ると、人でごった返していた。
今日は土曜日だ。いつもの平日とは訳が違う。
いらっしゃいませ、と声をかけながら、持ち場の品出しを始める。
僕の担当はお菓子売り場だ。
暫くして腕時計を見ると、16時45分を指していた。
もうこんな時間に、と思ったけれど、きょうは忙しくて休む間もなく働いていたので、時の流れが早く感じたのだろう。
キリのいいところで後片付けをして、売り場担当の人に引き継ぎをすると、ちょうど17時になった。
疲れた身体で休憩室に入ると、彼方先輩が既に腰掛けていた。
「あ、晴くん」
「すみませんすぐ着替えてきます」
「ゆっくりでいいよー?」
急いで更衣室に入ると、来た服に着替える。
エプロンをカバンに詰め、更衣室を出ると、
「ゆっくりでいいっていったのにぃ」
ケラケラと笑いながら立ち上がった。
「えっと、会わせたいって人は…」
「うん。とりあえず出ようか。時間大丈夫?」
「はい、そんなに長引かないって聞いてますし」
今日は19時くらいまでには帰ると果林さんには伝えてある。何故か執拗に何時に帰るのかを聞いて来るし今日の果林さんはちょっと変だったけど。
そう言いながら携帯を操作して、電話をかけ始める。
その横を歩きながら、事務所でお疲れ様ですと挨拶をしていくと、彼方さんが事務所から外に出る扉を開けた。
ムワッと入り込んでくる纏わり付くような湿気に、半袖着て来れば良かったと後悔した。
「えっと」
「はい?」
「ここで待ってれば来るから…」
その言葉と同時に、ファミレスのある方向から1人誰かこちらに向かって来ていた。
徐々に見えてくるその輪郭。トートバッグを肩から掛けていて、髪はダークブラウンでかなり長い1人の少女だと言うことが分かった。
徐々にその少女は、歩くスピードを上げていく。
一目散、というのが表現として正しいだろう。
僕の姿を見て、一度大きく目を見開き歩みを止めたかと思えば、走ってこちらに向かって来た。
え、どういう状況これ。
そう思った時には、強めの衝撃と共に、ぼくは尻餅を付いた。
「ちょっ、晴くんしずくちゃん大丈夫?」
「え、今名前…」
聞き慣れた、というより、忘れもしない。いや、忘れることなんて出来ない、懐かしい名前が僕の耳に入ってくる。
漆を塗ったようなダークブラウンの艶のあるロングヘア。
忘れるはずなんてなかった。
忘れられるわけなんて無かった。
養護施設の近くに住んでいた、一つ年齢が下の友達。
「しずくちゃん?」
「は…るくん……本当にはるくん……。うんうんっ……うわぁぁぁんっ」
そう言って強く抱きしめながら、大声で泣く少女は、僕に明日を生きる意味を教えてくれた人。
桜坂しずくちゃんだった。
〜
日も落ちかかった夕方の18時前。
蒸し暑い湿気が幾分かマシになって来た日暮れ時に、僕たちは東雲水辺公園まで来ていた。
彼方先輩に奢ってもらった清涼飲料水を片手に、僕らは公園の水辺に腰掛けて座っている。
「ほんとに、本当にハルくんだ」
「うん、君こそ、本当にしずくちゃんだよね」
「そのやりとり何回やるのぉ?」
彼方先輩がカラりと笑う。
ライトブルーの瞳。
この瞳が、彼女が紛うことなきしずくちゃんだと証明していた。
今年の春からこの近くの、果林さんや彼方先輩も通う虹ヶ咲学園に通い始めた事。
彼方先輩と同じ同好会活動をしている事。
この前の休憩室での僕との会話から、もしかしたらとしずくちゃんにヒアリングしたところ見事に一致。
彼方先輩が僕たちのためにとこの場を設けてくれたと言う事らしい。
「いきなりびっくりしたよぉ。しずくちゃん会うなりいきなり飛びついちゃうんだもん」
笑いながら彼方先輩は清涼飲料水の蓋を開けた。
「約束、したもん」
「約束……」
「もう、忘れたの?ほら、お別れする時、次会った時は目一杯ギューってしようねって」
約束。
そういえば、確かにそんな事を言った。
ギューってしようねと。
目一杯遊ぼうねと。
「思い出した?ふふ」
そう言って、しずくちゃんは僕の手を嬉しそうに取った。
「えっとねぇ、その…しずくちゃんやぁ」
彼方先輩が僕たちを見つめるなりオロオロとした表情をする。
僕は、さりげなくしずくちゃんから手を離す。
自分の手汗が半端ないから。
何故かしずくちゃんは何故かムスッと表情を変えたけれど。
「言いにくいんだけどねえ?その、ていうか晴くんから言わないとって、そう言えば隠してるんだっけか」
「彼方さん、隠してるって何の話ですか?」
しずくちゃんが不思議そうに、様子のおかしい彼方先輩を見上げる。
「えっと、何で言えばいいんだろ……って電話」
同時に彼方先輩の電話が鳴り響く。
先輩はスカートのポケットから携帯を取り出すと、
「げっ…!」
普段おっとりしている先輩からは聞きたこともないような声がする。
汗が顔中から出ているのが目に見えて分かった。
親御さんとかだろうか。門限があると前に言っていた気もするし、もしかしたら、僕たちのために悪いことをしてしまった。
「なんでこのタイミングで?」
そんな事をブツブツと呟きながら彼方先輩は電話に出ている。
「もしもし。え?今は……。
えっ!そんな事ないよぉ…?って、何でそこまで?!
うぅ…はいそうです。
うん、うん、。ち、違うんだって!これは晴くんとしずくちゃんの為で。
だからそれは誤解ですぅ。。
ちょっ、そんな事しなくて良いから、やめてお願いしますぅ、猶予をくださいぃ。
え?そんなぁ、彼方ちゃん困っちゃうぅぅ。
はい、かしこまりました。言う通りにします。はい、はい、東雲水辺公園です。ほんとすみません」
しょぼくれた彼方先輩が電話を切った。
「あの、彼方先輩?」
「ごめんね2人とも。積もる話もあるだろうけど…今からもう1人ここに来ますぅ」
「もう1人?」
しずくちゃんが首を傾げる。
「5分で来るって。あぁ、やっぱり前もって言っとくべきだったぁ。ていうか、何でバレたんただろう」
とりあえず休憩させて、と持っていたサイダーをガバガバ飲み始める彼方先輩。何故だかぐったりしている。
一体誰が来るのだろう。
数分後、
「ひっ…」
と言う悲鳴にも似た彼方先輩の声にその人が来たのだと悟った。
その視線の先に目を映すと……
あ、これダメなやつかもしれない。
久しぶりの再会と、初夏の気温に熱った身体が瞬時にその熱が引っ込む。
「こんばんわ。皆々様」
普段から似合わないその口調。
いつもより鋭い眼光。
目の前の果林さんは、あからさまに不機嫌のオーラを纏わせてやって来た。
「彼方先輩の電話の相手って果林さんだったんだ」
しずくちゃんがそう言う。
「こんばんわしずく。いいお天気ね」
「え、果林さんなんか怖いよ?」
そう。怖い。
果林さんすごく怖い。めちゃめちゃに機嫌がよろしくない。
「晴太」
「はいっ」
背筋が自然に伸びる。
「私に何か言う事、あるでしょう?」
僕の方へ踏み出すと、鼻と鼻が触れる距離まで顔を詰めて来る。
いい匂いがする…じゃなくて今はそんな場合じゃない。
彼方先輩なんか、生まれたての子鹿みたいに…
「晴太」
「はいっ!えっと……、か、果林さんとしずくちゃんお知り合いだったんですねぇ…なーんてあはは」
「晴太」
「はい、その黙ってて申し訳ありませんでした。隠してたわけではないんですけどそれでもただあの時は誰かもわからなかったですし彼方先輩も一緒だって事だったので事後報告でいいかなと思った次第でございます」
「はいよろしい」
肩の力が抜ける。
言葉尻でも、少し怒りが収まったのがわかる。
「彼方」
「はいぃっ」
「私に言う事あるんじゃない?」
「はい!誠に申し訳ありませんでした」
90度のお辞儀。
接客業のお手本とも言える角度だ。
「おかしいと思ったのよ。晴太、あの日電話かかって来た時に何か隠してる感じがあったし。同好会の時に、彼方としずくで2人こそこそしてるし。挙句聞き耳立てたら晴太の名前まで出るし。こりゃ確定だなって」
そこまで言うと果林さんは今度はしずくちゃんの方を見る。
状況が理解できいないであろうしずくちゃんは目をキョロキョロとさせていた。
「しずく」
「はい」
「私は、3人が話してたところにいなかったからわからなかったけど、昔に晴太と会ったことがあるってところかしら?」
その問いにしずくちゃんが頷いた。
「予想するに、晴太が施設にいた時の、お友達の子ね?」
「え、どーしてそれを」
しずくちゃんは驚いている。
というより、僕も彼方先輩も。
「この一件で、何となくね。晴太の施設は鎌倉にあったって聞いてたし。しずくの家は鎌倉にあるって事も前に聞いてたから、それで何となく」
そこまで言うと、果林さんは僕の方まで来ると、わしゃわしゃと頭を撫でてくれた。
優しさ半分、僕が黙ってた怒り半分ってところの力加減だ。
「あの」
その姿を見て、しずくちゃんが目を丸くさせている。
そりゃあ、気になるだろう。
「はるくんと果林さんはどういう関係なんですか?」
その問いに、果林さんは優しく僕を抱き寄せると、
「恋人」
疑う余地もないとでも言うように、堂々とその2文字をしずくちゃんに伝えた。
「なぁっ!?」
しずくちゃんが虚をつかれた顔をする。
「ハルくん?!」
眉を吊り上げ、僕と果林さんの方へ詰め寄ると、
「ほんとなの?」
上目でそう聞いて来る。
果林さんの方を見ると、目を瞑っていた。
僕に任せる、と言う風に見えた。
「…うん」
僕の肩に手を置いた果林さんの手がぎゅっと強くなった気がした。
いや、気のせいかもしれないけど。
しずくちゃんは彼方先輩の方を振り返る。
ひっと彼方先輩は、また怯えたような表情をしてこくこくと何度も頷いた。
「ぐぎぎ…」
何か聞いた事ないような声がしずくちゃんから聞こえるけれど。
少しの間、眉を吊り上げ、僕と果林さんを交互にジッと見つめると、何かを理解したように、ふぅと強張った顔を緩めた。
「ハルくん」
「なに?」
「連絡先、教えてくれる?」
そう言って、携帯電話をトートバッグから取り出す。
「昔の話とか、今の話とか。はるくんとはしたいから。私のお母さんやとお父さん。シロさんのことも」
その名前に鼓動が上がった。
シロさん。僕に帰る場所をくれた人。
「それくらいの権利なら、私にはあるはずだよ」
「え、そりゃ……
「いいわよ」
あ、果林さんに言ってたのね…。
「じゃあ、そのよろしくお願いします」
そう言って、メッセアプリのQRコードをお互に読み取った。
それと同時に、試し送信とでも言うように、可愛い犬のスタンプがすぐに送られて来た。
しずくちゃんをみると、もう携帯は鞄にしまったところだった。
「彼方先輩」
「ひゃい」
「今日はありがとうございました。はるくんと再会できる機会を作ってくれて」
「いやあ、それは別に」
心からのお礼に、居心地悪そうにしていた彼方先輩の顔が少し緩んだ。
「それから、」
そこまで言って、僕の横、果林さんの方を見る。
「果林さん」
「なあに」
「果林さんとは、最近知り合ったばかりなので、もっと仲良くなりたいです。」
「奇遇ね。それは私もよ」
「ただ、」
「……」
ふぅっとしずくちゃんが息を吐くと、少し間を開けて続けた。
「理解はしました。けど、納得はしてません」
「………そう」
「この話はまたと言うことで」
そう言うと今度は僕の方を見る。
そして、僕の手を両手で取ると、
「ハルくん」
「はい」
「また連絡するから」
うん、と言うとしずくちゃんは手をするりと離して、一礼した。
ぺこりと、綺麗な一礼。
その佇まいだけで、育ちの良さや上品さが垣間見えた。
「それじゃあ」
そう一言。
僕らの前を後して行った。
果林さんは全てお見通し