サイモン・グラスは何度も何度も、懐に胃薬と拳銃があるかどうかを確かめた。まるで命綱を頼るかのような仕草だが、実際のところただの拳銃程度では隣にいる『脅威』相手には何の役にも立たない。だから、これは少しでも精神を安定させようという彼なりの足掻きでしかなかった。
「グラス博士、そろそろ挙動不審な振る舞いを止めてくれ。対象に接触する時に怪しまれたらどうする?」
「……わかっています。私も元エージェントなのですから、その辺の切り替えはできます」
今回、グラスは非常に珍しいことに──叶うならばこれが最初で最後であるように願っている──クレフと日本へ出張に来ていた。普通ならこうした現地任務はエージェントの仕事なのだが、どうやら今回の確保任務を上は思いの外重視しているらしい。直前にSCP-990がブライトに接触を図った末に得た情報だということもあり、後手に回って大事になるような可能性は万に一つも残したくないのだろう。
しかし、それにしたって最悪の人選だ。いや、上からしてみれば合理的な人選なのかもしれない。クレフもグラスも、研究員でありながらエージェントとしての経験もある。現地で動けるだけの能力を持ち、それでいて異常性に関する不測の事態にも概ね対処可能という見込みなのだろう。加えて、グラスは心理学者なのだから人型オブジェクトとの接し方にも慣れている。他人に対し極めて辛辣且つ無礼なクレフに人型オブジェクトの相手が上手くいくかは分からないため、グラスはそのための保険も兼ねているのだろう。クレフはこう見えて子供には存外配慮する人物でもあるため、対象が16歳ならばギリギリ大丈夫なのではないかという気もするが。
だが、グラスからしてみれば最悪だ。この隣にいる人物──かつて財団内の規定に則り定期心理鑑定を行った際、グラスを殺してやるといやに具体的な脅しをかけてきたことがある。クレフはチェシャ猫のように笑いながら「気のせいだ」とか「冗談だ」とか言っていたが、どう考えてもあれは出まかせには聞こえなかった。いざとなればやるとかそういう話ではない。この男は不意に気が向いただけで、あの時の台詞を実行しかねない恐ろしさがあるのだ。
誰がそんな輩と一緒に出張へ行きたいだろうか。勿論、O5直々の指示とあっては断れるわけもなく、こうして泣く泣く同行したわけだが──任務が終わるのが早いか、グラスの胃が爛れるのが早いかという勝負だ。どうにかマシな点を見出すとすれば、出張先の日本は銃の所持に関し非常に厳しい国なので、さすがのクレフもトレードマークであるショットガンを持ち歩いてはいないことだろうか。尤も、以前心理鑑定を行った際も持ち込みを許可していないショットガンをいつの間にか携えていたため、果たして今の彼が本当に未携行なのか確かめることは難しいが──
「お、見えたぞ。あの……黒のリュックを背負った少年がターゲットだな? ふむ……16歳だと聞いていたが随分と小さいな。写真で見た時も思ったが、まるで10歳にもなっていない幼子みたいじゃないか」
「アジア系は幼く見えますからね。とりあえず、彼が人気のないところに入るのを待って──ちょっ、クレフ博士!?」
未知の部分だらけのアノマリー確保に絶対的なマニュアルというものは存在しないが、原則として人型オブジェクトの場合は意識を奪ってから秘密裏に移送することが多い。攻撃性のあるアノマリーであれば無論鎮圧しなければならないし、そうでなかろうと今まで正常な世界で生きてきた人間に財団のことをすぐ納得してもらうのは困難だからだ。
冷たく聞こえるかもしれないが、一人ずつが納得できるまで説得の時間を作れるほど財団も暇ではない。それに結局のところ相手が納得しようとしなかろうと、相手に異常性がある限り収容することは決定事項である。だから、納得してもらう必要もないというわけだ。
とはいえ、さすがに連れ去る場所は選ぶ必要がある。今回のように人が多い都会であれば尚更だ。下手に動けば目撃者の記憶処理という手間が増える──というのにいきなり歩み寄っていったクレフの姿を見咎め、グラスは嫌な予感に震え上がった。胃が爆発しそうだ。
「やあ、少年。少しいいかい?」
「……?」
グラスが制止する暇もなく、クレフは少年の視界に入ってしまった。対象は案の定、酷く怪訝な様子で飛び出してきた外人を見つめている。日本は単一民族の島国であるが故に、基本的に外人というだけで若干怪しんでくるのだ。そこに加えて、明らかカタギとは思えない人相の男である。初手で逃げられなかっただけマシだと思うべきか。
「実は取り急ぎ電話をかけたいんだが、少年の電話を貸してもらえないだろうか?」
「え? い、嫌ですけど……?」
「そうか。なら、ここから一番近くにある公衆電話の位置を教えてもらえないか?」
「それなら……駅のところにあります」
「ありがとう」
「……???」
焦ってクレフに走り寄ったグラスを他所に、当の本人は少しばかり言葉を交わすとすぐに別の方向へと歩き出してしまった。少年も狐につままれたような顔だが、グラスもグラスで訳が分からない。どんどん少年から遠ざかるクレフにどうしていいのか分からず、今度は別の意味で焦りながらクレフを追いかけた。
「クレフ博士……この場を離れていいんですか?」
「問題ない。対象の監視についていた日本支部のエージェントから引き継がれた際、彼らを帰さず監視を継続するよう言ったのを忘れたのか? 我々が離れたとしても、少年の傍が無人になることはないさ」
そういえばそんなことあったな、と思い出す。現地エージェントから事の経緯と少年の身辺調査について聞いた後、クレフは意外にも彼らに継続的な監視を指示したのだ。
「……もしかして元からこういうことをするつもりで帰らないように言ったんですか?」
「当たり前だろう。おいおい、まさか君は私がエージェント達を残業で苦しませるためだけに、悪戯半分で居残るよう命じたとでも思っていたのか?」
この人ならやりかねないんだよな。勿論、思っても口には出せないが。
「ですが、何故怪しまれるリスクを冒してまであんなことを?」
「現地エージェントの報告を信じてないわけじゃないが……念のためさ」
「……?」
今ひとつ状況が掴めていないグラスそっちのけで、クレフは先程の少年について考えていた。
事情を知らないグラスに説明する気はないが、先程わざと会話を試みたのは少年に現実改変が通じるのかどうか確かめようとしたのだ。異常性を抑制するアノマリーとは聞いていたため、まさかとは思っていたが──少年には現実改変を行うことができなかった。
クレフから言わせれば、現実改変者はSRAを使っても完全に抑制することはできない。ある程度能力について精通していれば、SRAの効力を掻い潜る手段はいくつか存在するからだ。ヒューム値を固定するという技術のお陰で財団の仕事が格段に楽になったのは確かだが、ヒューム値の操作というのはやはり元来そういう能力を備えている現実改変者の方が勝る。
だが、少年の異常性はそういう次元にはないらしい。会話の最中、財団の監視網にすら引っ掛からないほど巧妙に能力を使おうとした矢先、クレフは自身が能力を使えないことに気付いた──それはSRAでヒューム値を固定されるのとも全く異なる感覚だった。
現実改変は周囲と自身の間にヒューム値の高低差を作り、それにより自身の思考を現実に押し付けて具現化する能力だ。つまるところ、低ヒューム空間であれば普通の人間でも思考を現実に反映できる。が、実際のところ普通の人間はそもそも低ヒューム空間だと自己を保つことすら難しいだろう。現実性とは気圧のようなもので、低ヒューム空間では肉体を構築する現実性すら周囲へと拡散してしまうからだ。
ならば何故、正常空間において高ヒューム値を持つ現実改変者は拡散が起きないのか。これはひとえに、現実改変者は自身のヒューム値を維持する能力を持っているからだ。思考を現実に反映するだけの能力だと思われがちだが、このヒューム値を維持する性質を持っているかどうかが現実改変者か否かの最も重要な要素である。
そして先程、クレフは自身が集めたヒューム値を維持できないことに気付いた。少年へと歩み寄った時はまだ何ともなかったが、対象に改変を行おうとした瞬間にヒューム値を維持できなくなったのだ。当然、自身の高い現実性を維持できなければ能力は使えない。
つまり、あの少年は単に自身の周囲に存在する異常性を無差別に抑制しているのではなく、何らかの基準に従って選択的に抑制している可能性が高い──受動的な異常性を持つ場合、その発現が状況によって異なることは儘ある。
例えばSCP-053は周囲の人間に極めて強烈な被害妄想と破壊衝動を植え付け、自身を攻撃しようとした相手を心臓発作で死に至らしめる。これは発現が二段階あるということであり、周囲で暴れていても即死することはないが、本体に攻撃すれば即死させられるという選択的な形で異常性が発現している。
だから、あの少年の異常性も段階的な発現が見られたこと自体は然程驚くことでもない。ただ、問題はそのパターンだ。自身に直接的な害があるものを抑制しているのか、あるいはもっと別の要因か。本国に着けば実験で色々と確かめられるだろうが──
「グラス博士、対象の確保は私だけで十分だ。君は一旦支部に寄って、鎮静剤と睡眠薬の予備、それと目や耳も含めた拘束具一式を借りてきてくれ」
「えっ、なんでまた……」
「早く」
「……はあ、分かりました。くれぐれも日本の法律に触れるような真似は慎んでくださいね。記憶処理のコストも馬鹿にならないんですから」
「わかっているさ」
不安は残るが、現地任務においてはグラスよりもクレフの方が経験豊富だ。戦闘力も申し分ない──その申し分ない戦闘力で普段は余すことなく問題を起こしているのだが、今回はここに至るまで確かに大人しくしていた。だからグラスはまだ『胃が痛い』レベルで済んでいるのだ。本来ならとっくにストレスが胃壁を貫通していただろう。
ともあれ、何か考えがあるらしいクレフに従うことを選び、グラスは一足先にその場を離れた。それを見送り、クレフは改めて自身の現実性を体感する。どうやら少年の異常性には時間か距離の制限はあるようで、すでに再び改変が行えるようになっていた。
タイトル: SCP-990 - ドリームマン
原語版タイトル: SCP-990 - Dream Man
訳者: 訳者不明
原語版作者: Dave Rapp
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/scp-990
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/scp-990
ライセンス: CC BY-SA 3.0
タイトル: SCP-053 - 幼女
原語版タイトル: SCP-053 - Young Girl
訳者: 訳者不明
原語版作者: Dr Gears
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/scp-053
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/scp-053
ライセンス: CC BY-SA 3.0
タイトル: グラス博士の定期心理鑑定
原語版タイトル: Routine Psychological Evaluations By Dr Glass
訳者: Red_Selppa
原語版作者: Pair Of Ducks
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/routine-psychological-evaluations-by-dr-glass
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/routine-psychological-evaluations-by-dr-glass
ライセンス: CC BY-SA 3.0
タイトル: ブライト博士の人事ファイル
原語版タイトル: Personnel Director Bright's Personnel File
訳者: Dr Devan
原語版作者: AdminBright
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/dr-bright-s-personnel-file
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/dr-bright-s-personnel-file
ライセンス: CC BY-SA 3.0
タイトル: クレフ博士の人事ファイル
原語版タイトル: Dr Clef's Personnel File
訳者: Dr Devan
原語版作者: DrClef
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/drclef-member-page
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/drclef-member-page
ライセンス: CC BY-SA 3.0
タイトル: グラス博士の人事ファイル
原語版タイトル: Dr Glass' Personnel File
訳者: Ikr_4185
原語版作者: Pair Of Ducks
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/dr-glass-personnel-file
原語版ソース: http://scp-wiki.wikidot.com/dr-glass-personnel-file
ライセンス: CC BY-SA 3.0