【完結】羅刹と夜叉は蓮上に踊る   作:澱粉麺

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金輪奈落

 

 

 

「……『天宗真火』『発降成行』『摂応道周』

『大勅真尊』『書禁庇化』『袁替』…」

 

 

片手印と共に唱える声。

ぽう、と手に持つ羊皮紙に光が灯され。

次第に紙が燃え広がるように跡を遺していく。

みみずの這うような火は場所を表してから消える。

 

 

「……ふむ。こんなところか」

 

そうして地図を丁重に丸めて、伸びをする。

しゃらりと帷子の音がする、その男。

細い眼と、平常の状態で既に微笑んでるようなその顔は、今は何の感情も浮かべてはいなかった。

 

沙門。男の名はそれだった。

 

 

(今頃、着くあたりでしょうかねえ。

……しかし……くく)

 

 

沙門は一つ、思い出し笑いをした。

敢えて語らず目的を担保に取り、脅すように遣いにして。更に詐欺紛いに次は此方と言って、むしろ疑われるように立ち回ったつもりだった。

 

しかし、それをした対象からの一言は、驚くもの。

『彼を信じます』などという、青臭いもの。

 

 

くつ、くつ、くつ。肩を揺らして一人笑う。

 

どうにも、彼はそういう面構えをしているらしく、幼少期からよく疑われた。母国より出奔した時に、裏切り者と謗られることも多々あった。迷信や疑いに私刑にかけられたことも一度や二度では無い。まあそれも目的を達するためならそれで良かった。の、だが。

 

まあ我ながら、と自らを嘲りつつ。

その馬鹿みたいな言葉を嬉しく思っていた。

思い出して、一人微笑むほど。

 

 

(っと、いけないいけない。一人でこう笑う所を見られれば、また周囲から怪しまれてしまうだろう…と…?)

 

(……これは)

 

周りを、見た。

そこで異常の片鱗に気がつく。

 

 

(………)

 

即座に荷物を纏め、動けるようにした。

 

この場は、まずい。彼らと、紅蓮たちと再会できるかはともかく、まずはこの場を離れるべきだろう。もっとも優先されるべきは身の無事なのだから。

 

 

「!おい、あんた!薬売りか!?」

 

「…!え、ええ。

まあ…そのような真似事も少しは」

 

「ならおいらの倅を見てくれ!わかんねえんだ、わかんねえんだが、倒れちまったんだよう!」

 

 

気配を感じる。ばた、ばたと倒れ始める人々の気配。至る所から、様々に。その気配は、水場に近い者から確率が高く。全体からパニックに陥る狂乱の悲鳴が聞こえてくる。

まだ初期の微動。故に、撤退は間に合う。

 

 

「…もしやその息子さまは、洗濯や、そうした川の水を使って居る最中でしたか」

 

「!お、おお!川で遊んでるとこだった!何かわかっか?薬代は今はないけどよ、いつか…!」

 

(…やはり、毒か。それもかなり濃度の高い…水に混ぜられている。生物毒に近いな。毒蛇や河豚に近しいような……)

 

 

今、優先すべくはここからすぐに撤退すること。

今すぐにこの場所から離れ、自らの痕跡を断つこと。どうせここにいる住人たちはそのまま死ぬのだろうから、助けても何も意味がない。そうだ。誰かが気づいて狂乱を起こす前に、逃げる。

 

 

「…皆様、水から離れてください!井戸か川か、水に毒が混じっています!決して触らず、そして出来る限りこの村から離れてくださいませッ!汚染されてない水を飲み、できる限り中和をするしかありません!そうしても生き残る確率は、低いですが…!」

 

 

何をしている、私は。

そう、思った。

だけれどしかし、やってしまった。

 

一度、このパニックとなる初期症状の段階で声を上げ、纏めようとしてしまえば、その後の人々の対応はどちらか二つだ。

一つは、疑心暗鬼からその人物に従わない。

そしてもう一つは。

 

 

「…ええ、こちらに!苦痛に耐えかねる者はこちらをお飲みください!そうしてすぐにあちらに、遠く走るのです!まだ『あれ』が来ないうちに、まだ居ないうちに!」

 

「信じられないならそれでも良いッ!ただ騙されたとお思いになってください!それでも良い、早く!」

 

 

もう一つは、どうすればいい、どうしたらいいかという忙殺。前の、見通しの出来ない状態における盲目的な指導の要求だった。

 

このような事をしたのは、この青年らしからぬことだった。本当に、直前まではその場から逃げ出すつもりだったのだ。それでも何故かこうしてしまったのは。直前まで思い返していた底抜けの人好しに触発でも、されたのだろうか。

 

そんな、つまらない者だったか。自分は?

冷静に働く脳の片隅がそう嘲笑った。

 

 

 

「あはははあ、すごいね。ほとんどだあれもいないじゃない。遠くから色々聞こえてたけど、あなたとっても優しくって、勇気があって。

それで、馬鹿なんだねえ」

 

 

だから、彼自身は間に合わなかった。

『それ』の来訪から身を隠すことに。

最初からしておけば良かったことの、それに。

 

 

つう。

冷や汗が、垂れた。

ただその一滴のみで、後はにこやかに笑う。張り上げ疲れ、少し枯れた声で、しかしいつも通りに目を細める。

 

 

「…ええ、こんにちは。

貴女も薬をご所望でしょうか?

それとも、他の何かですか?

色々ありますよぉ。対価は頂きます、がねぇ」

 

 

「あっはは。

で、なんであんたから紅蓮の匂いが濃くするの?

ねえ。うちにお話を聞かせてよ」

 

 

すう。息を吸う音。

それは観念でもなければ話をする為でもない。

片手がずるりと奇妙な形の印を結ぶ。

 

 

「…『オンキリキリ」

 

「?」

 

「ノウマクサマンダ・バサラダンセン・オンキリキリダサラシャダヤ・ソワカウンタラタ…カンマーン!』」

 

 

ヴ、ん。

七尺、否、肥大化を重ね、九尺はある怪物。人の形をしているそいつの額に光る印字が浮かんだ。そうして頭をぐらつかせて、目から光が失われていく。

 

 

「さあ、止まってくださいよ、化け物。出来ればこのまま動かなくなると有難いのですが」

 

 

本来ならば二度と解かない限りは目覚めない筈のもの。神格であろうとも唱えられれば意識を失うものなのだが。

だが、それは。紫の女怪、冶魔は。

倒れる直前に目を開ける。

触れられない筈の光を、その手で引きちぎって。

 

ああ、そうだ。

初めからこの妖怪の目に光など無かった。

 

 

「うう、うん。…不愉快。

あんた…てめえ、今うちに何した?

答えによっては、惨たらしく殺すからね」

 

「…ククク。

最初からそうするおつもりでしょう?」

 

「あ、ばれた?あはあ、面白いんだ」

 

「まったく、怨みますよ。

『ナム・ウタアシャタ・ナコサタ…!」

 

 

ぞん。

 

手を振るう。

ただ単純にそうしただけで、『削げた』。それは青年の骨肉でもあり、空間であり、地面であり命でもあり。

 

(……まあ)

 

(…そう、なりますか)

 

 

どちゃり、と倒れ伏せる音。

水音はつまり相当量の出血を表す。

 

 

「で、どう?

お前は紅蓮の場所を知ってるの?

知ってるならちゃんと話してね。その為に喋れるように口は残しておいてやったんだから」

 

 

「……残念ながら」

 

「知らないの?」

 

「いいえ。教えてさしあげません」

 

「そ。死ね」

 

 

 

「手前ェがなッ!!」

 

 

どご、おおん。

巨大な山と山がぶつかり合うような果てしない音。その場に飛んできたその見姿は、少女そのものだった。であるのに鳴った音はその正体を表すように重厚なものだった。

 

片手で沙門を吊り上げ、もう片方の腕で首を捥ぎ殺そうとしていた冶魔を、飛び蹴りをして遥か彼方へ吹き飛ばしたのは、銀色の糸のような、身を包む長い髪をしゃらりと流す少女。金色の眼は老境の霊性を湛えている。服は着ていないが、全身を纏う髪がそのそれであるようだった。

 

 

羅仙。羅倶叉である。

 

 

「…ほう。まさか間に合うたあな。ならもう少し遅く来た方が良かったな。かか」

 

「…これは、これは。いつかの紅蓮殿の妹君。お久しぶりです。随分とお転婆なのですねえ」

 

 

「けっ。そういう遠回りな話はしてる場合じゃないだろう、小僧。…お前、猫姿ん時の妾の声がずっと聞こえていたろう?ならば妾についても知っているはずだな」

 

「……ええ」

 

「迂闊だぞ。元々怪しくはあったが、紅蓮の会話で緩み、すぐ尻尾を出していた辺り、貴様は諜報やらには向いてなさそうだ。…ふむ、まじないの種類と印からして陰陽庚申を治めとるな?島の方より来たか」

 

「…古来から生きる妖怪が、我が国から逃げ出しましてね。それを追い仕留める大役ですよ。なので向いてないなど言わないでくださいませ。自覚はしております故」

 

 

どお、と横に倒れ込む沙門との話。

だが話はそこで途切れた。

 

 

「…まだまだ、元気いっぱいってか」

 

代わりに目を向けたのは先ほど遠く、遠くにまで吹き飛ばした毒怪の方角。あの勢いの飛び蹴りを、首に喰らい。普通ならば二度とは立ち上がらないだろう。

 

 

「……何度も何度も。何度も何度も何度も何度も、邪魔しやがる、この糞婆ァ!いったいなあ、むかつくなあ!うちに不意打ちなんてしやがって!」

 

 

がりがり、脳を掻きむしりながら、ぼたぼたと黒い血を垂らしながら息を荒げてこちらに駆けとぶ。毒矢のような言葉は、びりびりと目の前に飛来してくる。黒血の垂れた地面がじゅうと音を立てて溶けていく。

 

 

「はン、前の仕返しじゃ。自分がやられて嫌ならまず他の者にもやるんじゃあないわ、このたわけ」

 

「……ッ!!……ふぅー…

あぁ、逆に冷静になってきた。

ほんっとに怒るとさあ、こうなるよね」

 

「知るかよ小娘。気色の悪い自分の価値観を押し付けるな。そんなのだから我が弟子にも嫌われるんだ」

 

 

 

びりびりびり。

軽口を叩きながら、らくしゃは全身に威を感じていた。全体が、大きくなっている。見掛け倒しではない。それに見合うような力の増幅。命を喰らい続けただけでは納得の行かない短期間の成長。

 

羅倶叉は、初めて、『構え』た。

どんな時も、ぶらりと手を垂らすのみで、構えることなどしなかった。必要なかった彼女がそうした。

必要があったからだ。

 

 

(…どれだけ、もつか)

 

 

傷はまるで治っていない。

この人姿も、無理を通している。

 

弱体に弱体を重ねたらくしゃ。

そして、人の命を食い、貪欲に力を求めた怪異。

両者の力の関係は、とうに逆転していた。

 

それを分かってか、冶魔もずるりと腕を構えた。そこに、渾身の力を込めて。

いざ、二つの魔が再びかち合う。

 

の、刹那。

 

 

冶魔は急に顔を逸らした。

急激に、糸に引かれるように。

彼女がそこまで関心を持つものは、一つだけ。それは、つまり。

 

 

かか。

仙女が、また笑った。

 

 

「ああ、ああ。そうさな。

お前も十分に分かってそうだから、隠す必要も無さそうだ。そう、妾一人じゃあもう敵わんな」

 

「だが、我が愛弟子となら、どうよ」

 

 

「冶魔ァァッ!!!」

 

 

息を切らして、足の裏に血を滲ませて、そこから蒸気を発生させながら。

轟音とともに赤い蓮がそこに、降り立った。

 

 

銀色の仙女はすぐさま横に行き。そして、彼女の可愛い可愛い一番弟子の頬に口付けをした。

 

『これ』は、妾のものだぞ。

そう云うかのように。

 

その光景を、歯軋りをして見ていた。

口から溢れた血が、また地を溶かした。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

「冶魔ァァッ!!」

 

 

そう、己は叫んだ。

残っていた激情を消化するように。

消し去るように。

 

そうだ。何故だろうか。

今の己は酷く冷静だった。

直前に虐殺の証を見たというのに。目の前に恐怖と怒りの代名詞である、冶魔があるというのに。

心が乱れていない。

それは、何故だ。

 

 

「ふふ、早かったな紅蓮!」

 

そう、人姿にまた戻ったらくしゃ様が私の横にするりと来て、軽く口付けをした。この方のこういう距離の近さにはいつも慣れず、戸惑ってしまう。

 

さて。周りを見渡す。この仙の力で見渡せば何が起きたかは赤子でも分かるだろう。

 

 

「……なるほど。

状況は、わかりました。

……沙門。やはり、あなたは己が信じてよかったと、そう思うひとだった。あなたは素晴らしい人だ」

 

 

とうに気を失っている男にただ、一言を言う。

 

そうしてから、改めてまた目を向ける。

黒紫の雲じみた巨躯と不吉。

ぼた、ぼたぼた。じゅうと地面が溶けていく音を立てる、毒の怪物に。

 

彼女が垂らしているのは、血でもよだれでもない。それはつまり、黒い涙だった。

 

 

「…う、うう、ううううう」

 

「ごめん、ごめんね、ごめんなさい紅蓮。怪我はもう痛くない?うちのやったの、痛かったよね。もう二度と手放さない。あなたを、もううちの手元から離さないから。うちとずーっと一緒にいよう、よう。そうしたらもう痛い目にあわさないようにする。うちも、たまにいじめるくらいしかしないから」

 

「だから、一緒に来て。また、うちと一緒に暮らそうよう?あの時みたいに、ずっと二人でいられればそれだけで良いってさあ、言ってよお。

そんな阿婆擦れじゃ、なくってぇ」

 

 

「……冶魔。

己は、お前を……」

 

 

すう、と息を吸う。

きっと、今落ち着いている理由はこれだ。

横に居る、小さな師の存在。

この丹田からくる、借り物の力。

その胎動が、自分を自分のままでいさせる。

 

 

「お前にこれ以上罪を犯させはしない。

身内の罪は、己が雪ぐ。

お前を拾い上げた罪、お前をこうさせてしまった罪を、己はお前を止める事で初めて償えるのだから」

 

 

「?罪なんかじゃないよ。

だって、おかげでうちはとっても幸せだもの」

 

 

独白を聞かなかったふりをして、そのまま横にいる師匠に顔を向けた。それを感じたのか、どうにも得意げな顔で彼女は己を見上げて、そうして首を傾けた。

 

 

「……師匠、服を…」

 

「ああ゛!?そんな暇なんてなかったろうがよう!悠長に服を探してーなんてすりゃあの小僧死んでたぞ?」

 

「それは、ありがたく存じますが…!ならばせめてこちらをお羽織りくださいませ」

 

「ん?おう、どうもな」

 

 

また、私が上着を脱ぎそれを渡す。

一糸纏わぬ師はそれを嬉しそうに羽織った。

可憐な笑顔に、自然に己も微笑んで。

 

とん。

 

そして静かに二人で構えた。

一度もやった事もない。

話した事もない。

それでも、しっくりと、馴染んだ。

 

 

「紅蓮」

 

「は」

 

「合わせろ」

 

「はっ」

 

 

すう。深く、同時に息を吸う。

右、左にそれぞれ立ち構える。

 

 

「……うちの事、無視するんだね。

しょうがない。それなら紅蓮を力づくで持って行かないとね。周りの腐った蜜柑を潰してから、さ」

 

 

黒紫の滲む瘴気。

赤龍の透る気。

 

互いに入り混じりは、しない。

ただ、ぶつかり合うのみ。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

二人で一つ。二つが一つになったその演舞は双竜の舞のごとくに絡み合い、毒蛇を圧倒する。

片方の隙を補い、両翼が蛇を打ち、またあるときは解けてその一撃を溶けるように避けた。

 

「ぐううッ…!」

 

焦り。

冶魔にそれが滲む。

間違いなく、二人ともより圧倒的にこちらが勝る。一撃でも当たればこちらが勝つ。あちらの攻撃は何一つ痛くはない。なのに攻撃が当たらない。どんどんと、こちらの手傷だけが蓄積されていく。

 

そんな、理由ではなく。

もっと、別の理由がある。

 

 

「ぜあああっ!」

 

どず。

羅倶叉の首を、ぶちぶちと貫く感触。

冶魔の一撃が遂に当たった。

 

「ハハッ、殺ったァ!」

 

 

しかし、そのらくしゃの死体はぼやけて消える。まるで蜃気楼が如くに、何もなかったかのように。

 

 

「ッ、幻影!?」

 

「かか、やるのう紅蓮!」

 

 

それは『水の力』を得た紅蓮の能力。

幻影を作り出し、羅倶叉の幻を作った。

そしてその腕には根じみた糸が巻き付いている。紅蓮が唯一、絞り取って手に入れた『木』の力だった。

隙が生まれる。

 

 

「「煌ッ!」」

 

その大隙に向けて、紅蓮、羅倶叉の二人の同時の掌打突が炸裂した。内側に、威を残すような爆裂。

 

ずず、と後ろによろめく怪物。

それと対照するような師弟の立ち振舞いは、金剛不壊たる布陣と成りて、そこに鎮座した。

 

 

「……むかつくなあ、むかつく」

 

「紅蓮を一番理解してるのはうち!!!なのに、そんな見せつけるようなことぉしやがって、しやがって、しやがって!!腹立つなあ、ぶっ殺してやりたいなあッ!」

 

 

「か、かっかっか。

残念だのう、悔しいだろうのう?

しかし、よおく見せただろう。

もうこいつは妾のものじゃ。

間違っても、お前じゃあなくなあ」

 

 

 

いける。

このまま、勝てる。

そう、紅蓮が確信した瞬間だった。

 

 

 

「…く、く。

よそ見は行けませんよ冶魔さま」

 

 

は。

その場の全てが男の方を見た。いつの間にやら意識を取り戻していた、沙門。否、狸寝入りだったか。

そしてそれでいて、誰も止めに間に合わない。

 

 

「『ナム・ウタラアシャダ・ナコサタナム・フルベアシャダナコサタラ…バンダバンダ・ソワカ!』」

 

 

ぐにい、と時空が歪むような音。

そして紅蓮と冶魔は互いに、同じ事を叫んだ。

 

 

「「待てッ…!」」

 

 

 

しかし、どちらも遅く。気づけば紅蓮は、微塵も見た事のない場所に転移していた。彼には呪のなんたるかはわからない。だがこれからするに、先のものは時空をどうにかするものだったのだろう。

 

 

だん。仕留め損ねた、ことに。悔しさに地面を殴ってから、八つ当たりじみて沙門にくってかかる。

 

 

「…なぜだ!なぜこのようなことを!」

 

 

「……よく、見てくださいませ。

らくしゃさまが、もう限界です」

 

 

え。間抜けな声を出して、横に居る師に目を向けた。

 

否、向けようとした。その横にはいない。代わりに少し遠くに、また上着に覆い被さられている猫の姿が、あり。そしてその様子は尋常でなかった。

 

びく、びくりと痙攣を起こして。

血と吐瀉物を口から散らす、銀猫。

 

 

 

「が、はっ!げふっ、げほっ、……ったく、小僧め、よくも茶々を入れてくれたの」

 

「私も命が惜しい故。

あのままだと貴女は限界を迎えて死に、その後にこの場にいる全員が殺されていたでしょうから」

 

「…か、気に食わん。

やはり、妾はお前が気に入らんぞ沙門とやら」

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

 

「…し、しょう…わた、私は…」

 

「ん…ああ、気にするこた、ない。妾が勝手にやったことだ。ぬしは気にしなくていい」

 

 

そう、口の端を歪めて笑う。

その優しさは紅蓮を寧ろ苦しめると知らず。

 

「ただ、ちょっと無理しすぎたでな。

……しばらく、休むとする、ぞ…」

 

 

そう、倒れ込む猫を抱き止める。

とても、とても軽かった。

 

そして紅蓮は絶望をした。

傷状に、絶望としたのではない。

自らの復讐、圧倒する高揚に身を任せ、自らの大切な者からも眼を向けていなかった自分自身に絶望したのだ。

 

 

「………ふぅ。さて、私は久しぶりに大立ち回りをして、疲れました。…少しだけ、休ませて貰いましょう。良いですね?」

 

「……!だめだ、だめだ!

己はあなたにまだ、礼も、謝罪も…!」

 

 

そう、発する紅蓮にゆるりと手を振って、しかし沙門は休みについた。出血は、もう止まっていた。

 

 

「……」

 

 

 

そうしてその身体は。

金輪奈落、動くことは無かった。

 

その場には、死んだように眠る猫。

そして、自らを悔やむ紅蓮だけが残った。

 

 

 

 

……

 

 

 

「……私が」

 

「やるべき、ことは……」

 

 

そして紅の蓮は眼を覚ます。

自らのやるべき事を、一つ決心して。

 

 

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