ロモス王国王都郊外、ヒュンケルとエイミの家の一室に明かりが消えない部屋があった。もうそろそろ日付が変わる時間であるが、ヒュンケルは自宅にある書斎で、一つの研究報告書を熱心に書いていた。
「…であるから、この麦は極寒のオーザムにおいても…」
書斎の扉にノックが響く。
「どうぞ」
妻のエイミが夜食を持ってきた。
「はい、あなた」
「ああ、助かるよ」
軽食のサンドウィッチをヒュンケルは美味しそうに食べた。
「まだかかりそう?」
「ああ、もう少しかかる。先に寝ていなさい」
エイミは少し不満そうな顔をする。もう何日も夫婦の営みが無いからだ。
「この研究の報告書が完成して発表が終われば休みも取れる。そしたら旅行にでも行こう。それでいいか?」
「うん、それでいい」
エイミはニコリと笑った。
「でも、すごい品種改良ね。あのオーザムの極寒にも負けない麦なんて」
「ああ、満足している結果だ。でも…」
「でも?」
「できるものだな…」
「麦のこと?」
「いや…俺の手のことだよ」
「手?」
自分の両手をひろげ、それをしみじみとヒュンケルは見つめた。
「ずっと人殺しの技を使っていたこの手が…今は人の命を育む手となっている。それが最近すごく嬉しいんだよ」
「あなた…」
ヒュンケルは嬉しそうに自分の両手を握った。
「まだまだ飢える人々を救ってみせるぞ。今度は砂漠に作物をもたらしてみせる!」
ヒュンケルは変わった。バーンとの戦いの中は、エイミに対して笑顔一つ見せたことはなかった。しかし今は妻を思いやる優しい夫となった。
何より貧しく飢える人たちを救いたいと云う気持ち、そんな夫を誇りに思うエイミ。エイミは椅子に座るヒュンケルと軽く『おやすみなさい』のキスをして、ヒュンケルの書斎を出て行った。
翌日、ヒュンケルは大学に出勤した。昨夜の報告書執筆のせいか少し眠気が残る。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます、先生!」
校内の生徒たちがヒュンケルに朝の挨拶をする。彼は生徒にも人気があった。特に女生徒からは絶大な人気であった。
着ている服も高価なものではないが、妻のエイミが選んで買ってきたものを着ており、服装に無頓着な彼でも見栄えはおつりが来るほどに良かった。
加えて整った顔立ち、それもただ美男と言うわけではなく実戦経験豊富な元戦士の彼の面構えには精悍さが宿り、かつ全身から漂う貫禄、若くして助教授、そして先の大戦の英雄、女生徒からのラブレターなどは毎日のように届いていた。
そのヒュンケルの後ろ姿を面白くなさそうに見つめる小男がいた。彼はヒュンケルとは逆に生徒に人気がない。女生徒からは煙たがられている存在だった。年は五十歳。ヒュンケルが入学した当時は彼から農学の教えを受けたが現場を知らず机上の空論ばかり講じる傾向があり、ヒュンケル自身も教えを受けるに足りぬ人物と見ていた。
彼はヒュンケルにわずか数年で抜かれてしまった。自分はまだ一講師、ヒュンケルは助教授。地位も名誉も比較にならない。聖人でも無い限り、妬みの気持ちが生じるのは自然と言えよう。ヒュンケルの歩く廊下の先からは、女生徒の黄色い声が聞こえてくる。その男、ダビドフは忌々しそうに言葉を吐いた。
「ふん、若造が思い上がりおって!」
そのダビドフに同僚講師の一人が声をかけた。
「ダビドフ先生、知っていますか?今度の彼の研究成果?」
「ヤグナー先生、いや私は知りませんが…」
「極寒のオーザムの冷害に負けない麦の品種改良成功の報告書だそうですよ」
「オーザムの冷害に負けない麦ですと!?」
「それが、今度の大学会議で認められれば、彼の肩書きから『助』の文字が消えるのは明らかですね。大した出世だ」
「じょ、冗談じゃない!あんな若造が儂をさしおいて教授になるなんて!だいたい彼奴が助教授になったのだって、カール国王が大学側にゴリ押ししたに決まっているんだ!儂は認めんぞ!」
ヤグナーはニヤリと笑った。
「ならば、ヒュンケル助教授にその大学会議に欠席してもらえば良いではないですか」
「どうやって?」
ヤグナーは懐から小さな紙包みを出した。
「ヒュンケル助教授には病気になってもらいましょう。大学会議は明日の九時から。朝に助教室に来た彼にこの袋に入った薬を飲ませなさい。コーヒーにでも入れればいい。無色無臭ゆえ戦士出身の彼とて気づきません」
「毒薬ですか?」
「いえ、ただの眠り薬です。少し麻痺もしますので朝に飲ませれば彼は会議に出られないでしょう。会議の無断欠席は重大なルール違反。彼の降格は避けられますまい。上手くやれば彼の研究成果も横取りできる…」
「フ…フフフ!」
ダビドフはヤグナーから薬の入った袋を取った。袋を見て小人らしい笑みを浮かべていた。
「フフフ、上手くやってください。私とて、あんな若造に敬語をつかい、頭を下げるのは御免ですからねえ…フフフ」
そして大学会議の当日、ヒュンケルは助教室にいた。何人もの同僚講師がいて、それぞれが授業、もしくは会議前のコーヒーを楽しんでいた。授業は八時半から開始される。授業を持つ講師はそれぞれ受け持ちの教室へと歩いていった。
小人のダビドフにはおあつらえ向きに、ヒュンケルは助教室に一人となっていた。大学会議はロモス国王を始め各国の知識豊かな大臣が出席して、それぞれの助教授たちの研究成果を聞き、実用にするかを決める会議である。農学部からはヒュンケルのみが出席で、彼は最後に報告書のチェックをしていた。
「ヒュンケル助教授、お茶が入りましたよ」
「ああ、ダビドフ先生。ありがとうございます」
珍しい人物が茶を差し出してくれると思いつつも、報告書のチェックに夢中になっていたヒュンケルはコーヒーを飲んでしまった。
(フ…フフフ…)
ダビドフはヒュンケルが眠りに落ちるのを今か今かと待ち望んでいた。そして彼の望む光景が目に入ってきた。
「ん…なんだ…急に眠気…」
強烈な睡魔が襲い掛かってきた。ヒュンケルは異常に気付いた。
(しまった!これは眠り薬?ダビドフめ、俺に盛ったか…!)
ヒュンケルは自分の腿にペンを刺した。しかし、それでも睡魔は去らない。
(くっ、ただの眠り薬じゃない…!なんて油断を…)
ヒュンケルは机にそのままもたれ、眠ってしまった。
「おやおや、ヒュンケル助教授はお疲れのようだ。仕方ないですねえ」
待っていたかのように、ダビドフはヒュンケルがチェックしていたレジュメを奪い取った。『オーザムの気候風土でも育つ麦の品種改良結果』と表紙に記されている。
「フフフ、急ぎこのレジュメを読んで理解せんとな!若造、貴様の手柄もらっとくぞ!フッハハハ!」
ダビドフは助教室から出て
「さて、別の静かなところで読むとしよう。会議までそんなに時間もないが、どこまで理解できるかで儂の出世は決まるからな!フフフ…」
「ならば静かな場所にお連れしよう」
ヤグナーがダビドフの真後ろに立っていた。
「おお、ヤグナー先生、見て下さい。上手く行きましたよ」
「私はヤグナーではない。やつならもうあの世にいるだろう」
「…は?」
さっきまでダビドフの同僚講師ヤグナーだった男が一瞬で姿を変えた。
「……!」
「私の名前は悪魔神官サイヴァ」
「魔、魔族!」
サイヴァはダビドフの首を掴んだ。
「グアッ!」
「クッククク…。人間のことわざにあったな『小人、閉居して不善を為す』と。貴様がヒュンケルを陥れるに乗り気でなければ、呪文で操るつもりだったが、ここまで必死になってヒュンケルを陥れるとはな。だから人間は度し難いのだ。死ぬがいい…」
ダビドフは叫び声もあげられなかった。瞬時に蒸発したのである。
サイヴァは悪魔神官が常に装着している仮面を取った。緑色の長い髪がなびく。美しさを自負する女さえ嫉妬を覚えるであろうほどの美しい顔立ち、それがサイヴァの素顔だった。
ヒュンケルの眠る顔を見つめ、そして再び仮面をつけ、つぶやいた。
「今は何も知らずに眠るがいい。目覚めたと同時に貴様には地獄が待っているのだからな…フフフ…」
そしてヒュンケルの体をかつぎ、大学から消えていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
時を同じ頃であった。ここはパプニカ王国。
「そう、ソアラ・カンパニーの乗組員たちは助かったの。良かった」
ソアラ・カンパニーの船が魔族に襲撃されていると言う情報をキャッチしたレオナは側近のアポロとマリンに加勢に行くよう命じた。そして今、アポロから無事に救出活動を終えたと報告を受けた。その報に喜ぶレオナだがオーシャン号を襲った黒騎士から『ヴェルザー』の言葉を聞いたとマリンが述べた時は、さすがに眉をひそめた。
「ところで、ポップくんですが、彼には部下を思いやる心、それが充分過ぎるほどありました。察するに以前のそれは、たまたま酒を飲みすぎたゆえの暴言だったとも考えられます。女王も寛大なお気持ちをもって…」
「分かっています。酒の上での暴言をいつまでも根に持つほど私は器が小さな女では無いつもりです。ところで彼はこの一連のヴェルザーの動きに対して何と?」
「はい、今回のモンスター襲撃の後始末を終えてから、パプニカに向かうとのことです。その後はアバン様の元へと。マァム殿も現在カールにいるとのことですし、ヴェルザーに対しての備えも万事それからと相成りましょう」
「そうね。その時は私も彼とカールに行くつもりです。アバン先生、いえ陛下や王妃殿下と話す必要があるでしょう。あとはヒュンケルなのですが…」
その時だった。パプニカ兵士が血相を変えて女王の間に駆けてきた。
「女王―ッ!女王―ッ!た、大変です!」
「なんです、騒々しい」
「敵襲です!モンスター軍団の襲来です!」
「なっ、なんですって!」
驚愕してレオナは玉座から立ち上がった。
「敵の軍勢はゾンビ系、ガイコツ系のモンスター軍団!不死騎団です!」
アポロ、マリンは絶句した。不死騎団…かつてパプニカを焦土とし、レオナの父を殺した軍勢である。
「そして、そして…それを率いるのはヒュンケル殿!」
「ヒュッ、ヒュンケルですって!!」