御伽の魔女の召使い 作:──
「……では、留守の間、久遠寺邸をよろしくお願いします」
黒戸は先に玄関を出た二人の背を追いかけようとして、ふと振り返るとそう言って青子と有珠の二人の後に続いた。
黒戸はいつもとは違う、黒いワンピースの上からロングコートに身を包み、やはり有珠の三歩後ろを歩く。
手元以外の肌を露出させないスタイルはどの服でも変わらないようだ。
そして、有坂へと到着してしばらく
「……さて」
どうしたものか、と青子は考え込む。
青子が同居を初めてから、知り得る限りずっと強い絆で結ばれていた主従の間に、初めて小さなヒビが入っている。
外敵との戦いが間近に控えるこの状況で、最高戦力である有珠に不調があってはいけない。
この不確定要素を取り除くことができる機会はこの一度だけだろう。
しかし、大した言葉も見つからないまま軽い雑談をしながら、気がつけばお目当ての水族館があるビルへ辿り着き、たった今最上階への到着を告げるチャイムが鳴った。
「お、気に入ったみたいね。良かった良かった。草十郎お薦めの物件は、気むずかしい有珠さんのお眼鏡にかないましたか」
「……別に。屋上にある水族館が珍しいだけ」
本人ですら気がついていないようだが、黒戸もつられて少しだけ口角を上げている。
ついでにゾウガメの不在に驚く有珠に
「……我が家で飼いますか?」
と見当違いの返しを飛ばしたのは愛嬌であると考えるべきだろう。
そんな会話もほどほどに、三人は水族館の中へと足を踏み入れた。
「そういえば、有珠の家ってあれだけ大きいのにプールとかないわよね。なんで?」
「……呆れた。水槽を見て何を想像したのかは聞かないけど。必要のないものを欲しがるのは貴女の悪い癖ね、青子」
「必要ないってコトはないんじゃない?水遊びはこっちより英国の方が馴染み深いでしょうに。……あ、もしかして有珠って泳げない?」
「泳ぎの経験くらいあるわ。むしろ黒戸の方が水嫌いよ」
「えぇ、水辺に近づくと、足を攣って溺れかけた有珠さまを思い出してしまいますので、嫌いです。あの時は本気で焦りました」
おそらく有珠も覚えているのだろう、少し頬を赤くして黒戸にじろりと目を向ける。
しかし、先ほど愉快そうに話した様子からは思いがけないほど、いつも通りの無表情の黒戸がそこに立っていた。
「有珠、来年の夏は海にでも行ってみよっか?」
「……では、私は救命措置の用意をしておきます」
「黒戸、私がそうなんども溺れると思わないで頂戴」
「有珠さまと水は、蛙と蛇の如し……、と記憶しておりますが」
「…………私にも非はあると思うけれど、蛙はやめて」
「はい」
黒戸は今日一日、少しだけ主人に厳しかった。
それが彼女なりの心境の変化なのか、それともこれが彼女なりの不満の表し方なのか、それはわからない。
そうして、かつかつと足跡を響かせながら、三人は人工の海の中を歩いていく。
二層構造となっていた水族館の上の層、本当の最上階に到着し、水槽を見て回ってしばらく、気がつけば先ほどまで青子の近くにいたはずの同居人とその従者両名の姿がない。
だが水族館は屋内だ有珠は探せばすぐに見つかった。
彼女は端の水槽をじっと見つめていた。
見つめて見つめて、しばらく経ったころ
「……有──」
「黒戸」
「…はい、なんでしょう?」
「話したいことがあるの」
青子の声を遮って、正確には話しかけられそうになったことすら気が付かずに有珠は黒戸に話しかける。
なんでしょう?と返答した黒戸は、相変わらずの無表情のまま少しだけ首を傾げて有珠の次の言葉を待っている。
「……私、あなたとは何があっても一緒なんだと思っているの。」
「……」
「一心同体、それか混然一体。そんなものだって、だからあなたへの思いなんて、伝えなくても全部あなたはわかっている、そう思っていた。だから、ごめんなさい」
有珠の言葉に、黒戸の瞳が見開かれる。
有珠は振り向かず言葉を続ける。
水槽のガラスに反射して、その戸惑うような、考え込むような表情が見えていることには気がついていないらしい。
「流石に甘えがすぎたと反省しているわ。だから言わせて──」
深呼吸を一つ。
自らの言うべき一言を確かめて口を開いた。
「私の一番はいつでもあなたよ。黒戸」
「っありがとうございます。そしてすいません…一時の無礼をお許しください!」
そう言うと、黒戸は強く有珠を抱きしめた。
もちろん有珠に痛みがないように力加減もしているし、転ばないように自ら有珠に近づいた上で行っている。
まるで大型犬のようだな、と青子は思った。
有珠は満更でもない様子で感極まった黒戸に身を任せている。
服に皺がつきそうなのも、有珠より少し背の高い黒戸からポタポタと落ちてくる大粒の涙も有珠としては許容範囲内らしい。
「……懐かしいわね。昔、私が同じようなことをした覚えがあるわ」
「──ええ、幼い有珠さまが、悪い夢を見たと。私を抱きしめて離しませんでした…っ」
さめざめと泣く黒戸に有珠も戸惑い始める。
「……そこまで、嬉しいもの?」
「えぇ、えぇ!私、あと一年もしないうちに捨てられるものだと腹を括っておりましたので!」
どうやら、青子も有珠も知らぬ内に黒戸はとても重い覚悟を決めていたらしい。
一分と少しでなんとか泣き止んだ黒戸を連れて、三人は水族館を出た。
黒戸の顔は、水族館に入った時よりも少しだけ晴れやかで、そして穏やかだった。
屋敷へと戻った三人の、特に黒戸の穏やかそうな顔を見て、草十郎は自らの気遣いはある程度成功したのだろうと思った。
その後、蒼崎の姉について一悶着あるが、それについては
「……説明をしなかった私たちと、容易に家を空けた私の責としてください」
という黒戸の仲裁によっていくらか早めに決着した。
ついでに彼女の料理の腕によって草十郎の財布の諭吉が守られたが、それはまた別のお話。