少年たちが子ガニを連れてアウトランドに旅立ってから数日間、私は農村に留め置かれることになってしまった。
村を任せる、ときたか。
実に奇怪な言い回しだ。本来なら私はおろか彼でさえ、この村とそこに住む人々の行く末に責任を持つ立場にはないはずだ。親切もここまで来ればいっそ傲慢である。
とはいえ私にとって最も怖れるべきは野盗の襲撃ではなく、憲兵たちの目だった。元々変装に自信があったわけではない上、比較的近しい者たちにこうも容易く見破られたとあっては懸念は拭えまい。
「ヤツらの仕事ぶりを知ってるだろ? バレてるわけねーって」と剣士の若者は言ってくれたが、相手は腐っても都市連合の憲兵だ。
油断はできない。否、むしろ今までが油断しすぎていたのだ。彼らの視線はときに鋭く私を射抜く。捕縛に動かぬ以上確証はないのだろうが、用心はするべきだ。
公用の門は極力使わず、崩れかけの外壁を飛び越えて出入りすることにした。北西の村はずれにある、知る人ぞ知る秘密の抜け道である。
「こんなところ足場なしに飛び越えられるのは旦那くらいっすよ。まったく歳のくせにとんでもない……」と奴隷ハイブは愚痴っていたが、知ったことではない。
こいつの片足の欠損が大したハンデになっていないことは、以前のリーバーの一件で確認済みだ(主人を差し置いてぶくぶく太りやがって)。
拘束していたスパイの男の処遇についても語らねばなるまい。村の若者(主に剣士の青年)やヘッドショットは物騒な解決手段を望んでいたようだが、私は彼を側に置いて使うことにした。
防衛の準備ともなれば、猫の手も借りたい状況になるのは読者諸君にも想像がつくだろう。使える人手は多いほど良いし、彼しか知らない情報もたくさんある。
もし逃げられたら……そのときはそのときだ。そもそも逃がすまいと手間をかける時間の方がもったいない。
納得しない者は多いだろうが、だとしても面と向かって私にそれを言える者は一握りだ。なにせ私はバラモンを討ち取った(かもしれない)恐るべき賞金首、ノーフェイスなのである。
自分で言っておいて笑えてくるが、噂には尾ひれはひれがつくものだ。私の名に箔が付くのは本意ではないが、どうせ何もかも嘘なのだ。なくして困るものでもあるまい。バレるまでは存分に利用させてもらおう。
それに、私はスパイの男について一つの勝算というか、確信があった。というのも彼の話を聞いたときから、ある一つの言葉がずっと引っかかっていたのである。
誰が投げた問いであったか(ヘッドショットのものだった)。同盟を組んだ盗賊どもの名を訊かれた際、男は最初にはっきりと言った。『カルトの村』と。
カルト宗教に属す者たちは、普通は自らをカルトと名乗らない。カルトを自覚して活動しているならそれはカルトではなく、悪ふざけが過ぎる馬鹿の集まりだろう。
つまり、彼は自分の村の在り方に疑問を持っている。だが何かしらの事情で、それを表に出せずにいるのだ。
その事情を聞き出すには少なくない時間を要するだろう。一週間、あるいは一月か。
信頼を得るのに時間と忍耐はどうしたって必要だ。急いては事を仕損じる。襲撃には間に合わぬかもしれないが、それはそれで仕方がない。
そんな心持ちで呑気に構えていた私であったが、予想に反して男はわずか半日で私に土下座して頼み込んできた。「娘を助けてほしい」と。
彼の話は要するにこうだ。子どもを人質にとられているのでカルトを裏切ることができない。子を彼らから引き離してくれれば、全面的にこちらに協力できる、と。
何とも拍子抜けする、よくある話だ。まあ年齢や雰囲気からしてそんなところだろうとは思っていたが。
そしてその日の晩、さっそく私は男を連れ、カルトの村への侵入を試みた。
急いては事を云々などと言っていたくせに、ずいぶんとフットワークが軽いと思う読者もいるだろうが、これにはいろいろとワケがある。
主な理由は、子どもの身が心配だったからだ。
あくまで可能性の話だが、盗賊同盟が放ったスパイが一人だけとは限らない。男が裏切ったと知れば、奴らは怒り狂うだろう。ただでさえ狂っているカルトどもがさらに狂うのだ。何をしでかすか分かったものじゃない。
ヘッドショットは「他にめぼしい奴はいない」と断言していたが、私にはそうは思えなかった。男と話している間、ずっと何者かの視線を感じていたからだ(こちらは確信というより勘に近い)。
無論、人目には気をつけていた。だが予期せぬ事態というのは常に起こりうるものである。
一つの月が頼りない明かりを地上に投げかける、薄雲靡く夜。乳白色の砂地が広がる海岸線に沿って東へ進むこと数時間。
カルト村の全域を視界に入れられる距離まで来たとき、スパイの男はあっと小さく声を洩らした。
村の入り口に乱立する十字架を模したいくつかの磔台。そのうちの一つ、空に浮かぶ三日月のちょうど真下に位置するものに、幼い少女が拘束されていた。
「私の娘です!」
男は叫び、岩陰から飛び出していこうとしたが、私が引き止めた。
当然である。これほど分かりやすい罠に引っかかってやるほどお人好しにはなれない。
磔にされているのはスパイの娘。誘い出されたのは私とスパイ。それはつまり……昼の会話が何者かに聞かれていたことを意味する。案の定と言うべきか、私の悪い予感は的中していたのだ。
まあ、意外でも何でもない。なにせ私のそうした勘は外れたことがないのだ。被害妄想に近いものばかり実現するのだから、忌々しいことこの上ないが。
男はひどく取り乱しているが、私の方は冷静だった。事態は最悪に近いものの、想定の範囲内であったからだ。
それに少女はただの囮であり、傷つけられたわけではないことにも気づいていた。泣き疲れてぐったりとしているが、身体に痣はないし、血の匂いもしなかった。
「私たちを月下に誘い出すための罠だ。心配せずとも、彼女にケガはない」
言い聞かせると、男の身体の震えが少し収まった。しかし呼吸は変わらず荒かったため、私は彼の肩を強く掴んだままでいた。
岩陰から一歩外に出れば、月明かりに照らされた荒野にその身を晒すことになる。そうなれば敵からは丸見えだ。武装したカルトどもがこぞって押し寄せてくるだろう。否、それより矢かボルトの方が早いかもしれない。
罠を張っているなら、当然伏兵が何処かにいるはずだ。
人数は? 武装は? 距離は? 方角は?
視覚のみならず、嗅覚、聴覚、ひいては触覚までも利用して敵の気配を掴もうとするが、どういうわけか上手く行かなかった。
月明かりは程良く、風向きや地形はこちらの味方であるはずなのに、一体どうしたことだろう。
「……まさか誰もいないのか?」
私の独り言は、当然ながら荒野に響くほどのものではない。隣のスパイの男にすら聞こえるか怪しいレベルの声量であった。
しかしながら、一度起きたことというのは二度、三度と起こりうる。
「私がいるぞ、『獣の使者』よ」
「っ!」
私たちは息を呑み、声の聞こえた方向に目を凝らした。
少女が磔となっている十字架より手前にある、月明かりが特に強く差している場所だ。
しかしながら、そこには何も見当たらない。枯れかけの作物が野晒しとなった畑と、その傍らに立つ案山子があるだけだ。
……否、さらに目を凝らすと、どうやらそれは案山子ではなく、痩身のハイブ人であることが分かった。
聞いたところによると、ハイブは生まれ持った階級種によって知能や習性が大きく異なるらしい。そしてそれらは、頭部の形状によって見分けることが可能だという。
少年の友人である舌なしハイブは自由意志に欠ける
細長い頭の形を見るに、どうやら奴はハイブ・プリンスのようだ。
事前に男から話を聞いていたので、この案山子と見間違う昆虫人間が何者かはすぐに悟ることができた。
奴こそカルトの教祖。平和そのものであった隣村を持ち前の洗脳術によりたった数日で掌握した傑物。
大地に豊穣をもたらすは人の血肉のみであると説き、村の内外問わず多くの犠牲者を出し続けている異常者である。
カルト宣教者はゆらりと身体を傾け、私たちの方に顔を向けた。鎖帷子のフードの奥から覗く黒い目が、三日月を受けて謎めいた知性を湛えていた。