「娘を放せ! 放してくれ!!」
スパイの男が悲痛な叫びを上げる。私が肩を掴んでいなければ、おそらくそのまま飛び出していたことだろう。
カルト宣教者はゆっくりと首を傾げ、男を見つめた。
私は背筋にぞくりと震えを感じた。その細身の体躯はバラモンほどの威圧感はないし、皮剥ぎ盗賊たちのような得体の知れぬ恐怖も感じない。
しかし謎めいた黒い目は、私たちの何もかもを見透かしているかに思えたのだ。
「ああ……もちろんだ。
カルト宣教者は呟き、装飾の施されたナイフ(おそらく儀礼用)ををどこからともなく取り出す。
「よせ!!」
私は叫び、クロスボウを構えた。
射程ギリギリの距離である。命中させる自信はなかった。
撃って外れるだけならまだいいが、弾道が娘の方に逸れたときには目も当てられない。
脅しになればしめたもの。そう考えてのことだが、宣教者は止まらなかった。
鈍く輝く刃を掲げ、磔台の縄を切り、娘を地面に降ろす。
「……あれ?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。この話の流れで、本当に無傷で解放するとは思わなかったからだ。
「さあ、行きなさい」
彼に促されるまま、少女はよろめきながらもこちらに向かって歩いてきた。自力で歩ける辺り、それほど長く縛られていたわけでもないらしい。
「何を企んでいる?」
少女とスパイの男が無言で固い抱擁をかわす。それを尻目に、私はカルト宣教者に問いを投げた。
手にしたクロスボウはまだ彼の方に向けたままだ。どうせ届くことのない、錆びついた矢の先を。
「その娘の血肉が母なる大地へと還るのはまだ早い」
さすがは洗脳の達人と言うべきか。聞く者を魅了する低くも美しく透る声で、宣教者は穏やかに言葉を紡ぐ。
「それに、彼女は見事に役目を果たした。
「……なるほど」
私は乾いた唇を舐めてから訊ねる。「その役目というのは、私たちを誘き寄せて罠に嵌めるためのエサの役目か?」
私の上擦った声(平静を装おうとしたが上手く行かなかった)に、宣教者は目を見開いたように見えた。
あくまでそう見えたというだけである。前にも書いた気がするが、私たちヒトには昆虫の表情など分かるはずもない。
「それは早合点というものだ、『獣の使者』よ。私はそなたを罠に嵌めることはない」
「フン、よく聞く言葉だ。悪党は決まって最初にそう言う」
私の皮肉に、彼は静かに首を振る。
「
「待ち伏せでないなら何だと言うんだ」
「天命だ」
「……は?」
私は訊き返したが、彼は満足な答えを述べなかった。常人には理解できぬ、文脈も何もない自己完結。
要するにこの男も頭がおかしいということである。
「人には必ず何がしかの役目がある。それこそが天命。私がここにいることは天命。そなたがこの場に現れたこともまた天命。生も死も、全ては神が
「そうか。なるほど。よく分かった」
私はもう面倒くさくなってきたので適当に話を合わせることにした。
「ならば教えてくれ。これから私の身に、一体何が起こると言うんだ?」
「ほう、預言が所望か。『獣の使者』よ」
カルト宣教者は待ってましたとばかりに背筋を正した。
「ならば聞かせてやろう。……しばし待て」
言いながら、宣教者は空を仰いだ。
おそらく偶然だろうがそのとき、彼の頭上に輝く三日月の縁から何かが零れたように、キラキラと小さな光が落ちてくる。
「視えたぞ、そなたの天命が」
どうやら光は星の瞬きだったようで、一瞬で消えてしまった。しかし宣教者は満足げに頷き、私の方に向き直る。
夜空の暗い深みを想起させる虚ろな目が、私の瞳を真っ直ぐ捉えた。
「そなたは踊り狂って死ぬ」
「……は??」
このときの私の声には若干の怒気がこもっていた。当然である。ただでさえ苛立っているのに、縁起でもない話など耳に入れたくない。
「そなたはこの地に破滅と再生をもたらすために遣わされた存在。天命を終えた然る後、そなたは歓喜と狂乱の中、踊り狂って死ぬだろう」
「……」
私は彼の預言に応える言葉を持たなかった。無論このような戯言、真に受けてやるはずもない。
だがこの男の真意が読めぬ以上、警戒を解くこともできなかった。
「……お、おお……おおおお!」
突然、カルト宣教者の様子がおかしくなった。
いや、今までも十分におかしかったが、このときは明らかに様子が変わっていた。暗かった瞳は生気に満ち、痩躯は喜びに打ち震えている。
「視えた……視えたぞ! 私の天命が! 私の死が!!」
宣教者は恍惚としながらも、月を抱こうとするかの如く、天に向かって腕を伸ばす。
「おお、大地よ、女神よ。今、ようやく貴女の元に……」
彼の透き通る声は、唐突にそこで途絶えた。
闇を裂き、音もなく飛来した長距離狙撃用のボルトが、その細長い頭を吹き飛ばしたのである。
音速を超える矢の威力の前には、鎖帷子の頭巾も大した防御を成さなかったようだ。
「っ!?」
私は息を呑み、とっさにスパイとその娘の頭を下げさせた。数秒後に耳に届いた衝撃音から察するに、かなりの距離からの狙撃だ。
果たして何者の仕業か。敵なのか、はたまた味方なのか。そこまで思考してから、私は己の地頭の悪さを恥じた。
このような芸当を成し得る者など、私の知る限り一人しかいない。そして幸いなことにその女は、今のところ私たちの味方である。
「頼んでもいないのに、まったく余計なことを……」
私は控えめな悪態をつきながら二人の背中を叩く。
「急いで離れるぞ。奴が死んだ今、もはや何が起きるか分からん」
スパイの男は震える頭で頷き、娘を抱き上げ、そそくさと立ち去る私の後に続いた。
案の定と言うべきか。村への帰路の途中、近くの小高い岩場からヘッドショットが姿を現した。傍には彼女に以前師事していたらしい村の青年もいる。
「逢瀬の邪魔をして悪かったね」
彼女は肩をすくめつつもニヤリと笑った。「だが、絶好のチャンスだった。あれを逃すほど間抜けにはなれないよ」
「あんた、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「……平気だ」
心配そうな様子の青年に、私はもごもごと口の中で呟くように返した。
果たしてあのタイミングで宣教者を殺すべきだったのか。今となってもなお、その答えは出ていない。
私は科学で測れぬ超常の存在を部分的には信じている。あの男にはまだ利用価値があった。これを書いている現在も、私の記憶はその考えに縛られている。
あれも奴のマインドコントロールの演出の一環。そう切って捨てるには、私に遺された預言はあまりにも的を射ていたのだ。
まあ、その話は一旦置いておく。
とにかく、私たちはスパイの男を寝返らせ、その身内を拉致し、挙句カルトの教祖を暗殺するという暴挙を一晩のうちにやってのけた。
報復がきてもおかしくない。いや、むしろ報復がない方がおかしい。そのはずだ。
……そのはずなのだが、どういうわけかそのおかしな事態が二、三日と続いた。すなわちその期間は何事もなく、平和そのものであったということだ。
無論、何が起きても即座に対応できるよう気構えは作っていたが、本当に何も起こらないので拍子抜けしていた。呆れるを通り越して怒りが湧いてきたほどだ。
カルトの連中は薄情なのか?
聞くところによれば(スパイの男からの情報だ)、宣教者の周囲には彼の護衛でありまた幹部でもある一流の剣士たちが控えていたという。
どういうわけかあの夜は不在だったようだが、彼らに武力がないというわけではないのだ。
ならばなぜ報復に来ない? それでも剣士か? 忠誠という言葉の意味を知っているのか? そんな説教じみた挑発をずっと頭の内に反芻していた。
そうしてカルト宣教者が女神の元に召されてから四日目の昼頃、見張りを担当していた青年から奇妙な報せを受けた。
村の入り口に、見知らぬハイブ人が一人でぽつりと立っているというのだ。
おおかた逃亡奴隷か、盗賊や野生動物の襲撃から逃げのびだキャラバンの一味だろう。そのハイブを見たときの私の第一印象はそれだった。
これといった装備も持たず、衣服はボロボロで、顔には青っぽい泥がついたままだ。頭の形を見るに支配種のようだが、カルト宣教者と比べると小柄で、目は心なしかクリっとしている気がする。
私の奴隷ハイブと比べても明らかに子どもっぽい。純粋無垢というか、単純そうというか(言葉を選ばずに言うならアホ面だ)、とにかくそういった印象だ。
憲兵たちは彼を中に入れて良いものか判断しかねていたらしく、村民たちに意見を仰いでいた。私はさりげなく彼らを躱しながら、そのハイブに近づいた。
そのとき初めて気がついたのが、彼の両足が自前のものではなく、くすんだ金色の機械義足に置き換えられていたことだ。ブラックデザートシティでも目にした、スカウトレッグというシリーズである。
名の通り斥候兵のために造られたもので、隠密と俊敏性に特化すべく大幅な軽量化がなされている。
奴隷は普通、義足など用意してもらえぬし、かといって商人が装備するには些か用途不明な代物だ。そうなるとこのハイブの正体の謎がますます深まる。
不用意に接近するべきではなかったのかもしれない。しかし今さら後の祭りだ。
「何者だ? どこから来た?」
私は少し警戒しながらそいつに話しかけた。返ってきた言葉は、およそ想像だにしないものだった。
「ビープ」
「?」
私は聞き間違いかと思い、問い直した。「何と言った?」
「ビープ」
「……??」
私は少し考えたあと、また訊ねる。「ビープという名前なのか?」
「!!!」
ハイブの丸い目が、さらに丸く大きくなったように見えた。
「な、なぜ……なぜビープの名前がビープだと分かった?」
「……???」
私は首を傾げながらも答える。「いや……意味もなくビープビープと呟く者はそういないだろう」
「なるほど……天才ということか。初めて会っていきなりビープの名を言い当てるニンゲンは、お前で三人目だ。これはスゴいことだぞ」
「そ、そうなのか」
私はこのとき、また面倒くさそうな奴に話しかけてしまったと後悔していた。その感情はおそらく顔に出ていたはずだが、ビープは構わず私に近づいてくる。
「ビープは頭の良い奴は好きだぞ。お前とは仲良くやれそうだ。よろしくな!」
「……そうか」
私は応じながら、今からこいつに嫌われるにはどうすればいいだろうか、と考えを巡らせていた。
登場人物紹介
『ビープ』
ビープ。