奴隷商との一件が終わった後の数ヶ月は、何事もなく平穏な日々が続いた。
とりたててここに書くこともない。農村にトラブルはなかったし、私自身の身にも危ないことはなかった。ネタに困るとはこういうことを言うのだろう。
いくつか書けることがあるにはあるが、面白みのある話ではない。
アイソケットから連れ帰ったハイブ人だが、なかなかに使えるヤツであることが分かった。特に単純な肉体労働においては誰よりも良く動く。
長年の奴隷労働の賜物か、それともハイブとしての習性なのかは分からないが、機敏で聡い男(?)であった。少年の目利きは確かであったと言わざるを得ない。
こいつの元主人は一体何が気に入らなくて舌を引っこ抜いたのだろうか。
まあ大した理由などないのかもしれない。そのときたまたま暴力的な衝動に駆られており、たまたま暴力を振るえる相手が近くにいたというだけのことだろう。奴隷の扱いなどそんなものだ。
金を払って得た自己の所有物である以上、それなりに丁重に扱っているしそうすべき、との言もある。
だがそれはあくまで規範であり、つまりは建前だ。実際に起きていることとは違う。人はいつ如何なる時も理性的で正しい行動ができるわけではないからだ。
むしろ理性を以て振る舞えることの方が珍しいのではないだろうか。もしそれができるなら、きっと世界はこんな風になってはいまい。
ある晴れた日の午後、その口のきけないハイブが少年からの手紙(内容は元気にしているか、程度のものだった。余計なお世話だ。早く金返せ)を私の元に届けに来てくれた。
ビークシングたちの目と鼻の先を掻い潜り、無傷で岩山のキャンプまでやって来たのである。
並大抵の隠密技術ではない。ただ単に運が良かっただけかもしれないが、奴隷に身を堕とす以前は何者だったのか気になるところだ。
是非とも本人の口から聞いてみたいが、残念ながら彼の舌はない。
そうしたことがあって、私もハイブの奴隷が欲しいと思うようになった。正直に言って、昆虫人間のことを誤解していた。もっと正直に言えば、見くびっていたのだ。
貴族であった頃は奴隷のことなど道端の小石ほども気に留めていなかったが、やはり有能な召使いは欲しい。
というのも、そのときの私はアウトランド周辺を探索し、金目になりそうな廃材や遺物などを集めて回ることに執心していた。
前回のリーバー盗賊団との戦いに勝利してから、無用な自信がついてしまっていたのだ。
子ガニは忠犬のように私の後ろをついてくるが、大抵の場合役立たずだ。やたらたくさん餌を食べるくせに(見るたびに大きくなっていて少し怖かった)荷物を運ぶ能もない。
奴は私のことを自動餌やり機か何かだと思っているのだろう。
現に村に滞在していたとき、例の復讐者の女にしばらく餌やりを任せていたら、彼女の後をついて回るようになってしまった。
まったく恩知らずなヤツだ。確かに美味そうな尻をしているとは思うが、私の尻だって負けてはいない。
尻の話はともかく、とにかくそのときの私は荷物持ちが欲しかった。
街で得た金がまだ残っていたので、もう一度アイソケットに行ってみようかと思っていたくらいだ。
そして幸か不幸か(今にして思えば間違いなく不幸だ)、偶然にもその機会に恵まれたのである。
久しぶりに少年たちに顔でも見せようかどうしようかと、農村付近の荒野をうろついていたときのことだ。一人の痩せ細ったハイブ人が行き倒れていたのを見つけた。
私はその場で水と食べ物を恵んでやり、そいつの体力が戻るまで気長に待った。そして動けるようになったのを見計らい、もっと食べ物が欲しかったら私の下で働け、と勧誘したのだ。
ハイブは願ったりといった調子で了承し、私と彼の間に主従の関係が成立した。
そこまでは良かったのだが、こいつが思いのほか木偶の坊だった。どうやら腰を悪くしているらしく、重いものが運べない。
おまけに鈍臭くて気がきかない上に、よく見れば片足の一部も欠損している(ハイブは手足が簡単にもげる)。歩くのもやっとという感じだ。
愛想だけは良く、私を「旦那」と呼んで慕ってくるが、彼をこのまま雇い続ける意味はほとんどない。とんだハズレを引いたものだと、このときばかりは後悔した。
ハイブの全てが召使いとしての資質を備えているものとばかり思っていたが、やはり個人差というものはあるらしかった。
どこか離れた荒野に捨てていこうかと考えていた矢先、さらなる面倒事が起きた。例の血に飢えた若い女が「歩けるようになったから、約束通り剣を教えてくれ」と訪ねてきたのである。
私は「そんな約束をした覚えはない」と言い切ったが、女はこれを無視した。以前の時と同じように私の手を握り「礼なら何でもする」と囁いてきた。
あのときとは多少状況が異なるが、私は再び彼女を振り払った。
どんなに見た目が良くなろうが、この女の本性は知っている。馬鹿な盗賊の二の舞になるのはご免だし、また、この手がいつでもどこでも通じると彼女に学習させてしまうのも良くない気がした。
愚か者ほど成功体験に固執し、後々痛い目を見るものだ。
代わりに私は「剣ならあの少年に習ってはどうだ」と提案した。
腰に下げた父の形見は伊達ではあるまい。幼少期に砂漠に放り出されるような経験をしてまだ生きている。その事実が示すところは、つまるところ一つだろう。
彼の体つきは華奢だが、そもそも刀というのは筋力で振るものではない。
上記の私の予想を話した結果、女は納得しつつも首を縦には振らなかった。
訊けば、どうも彼には内緒で強くなりたいらしい。ここぞというときにカッコいいところを見せて驚かせたいらしかった。
あまりにもくだらなすぎて、呆れるを通り越してなんだか気分が悪い。
だが気持ちは分からないでもなかった。哀れな女であることは事実なのだ。いろんな意味で。
私は少年の借金の返済を手伝うことを条件に、この女に剣を教えてやることにした。
予想はしていたことだが、女には戦いの素質があった。一を教えれば、即座に十まで理解する。
前にも書いたことだが、つい数週間ほど前まで寝たきりだった者とはとても思えない。
精密な身体操作。それに裏打ちされた、全身の筋肉を無駄なく連動させた剣擊。軽快な足捌きに、巧みな回避と受け流し。片腕欠損というハンデをまるで感じさせない、天性の運動神経とセンスである。
彼女は一刻と経たぬうちに、私と軽く打ち合える程度には成長していた。元より女にしてはやや背が高く、体格に恵まれており手足も長い。サーベル術に向いているのだ。
まともな剣士になるまで少なくとも半年はかかると踏んでいたが、このまま行くと二ヶ月で私より強くなるだろう。
教え甲斐のある弟子を持つのは悪い気分ではない。しかし同時に、何か言い様のない恐ろしさを感じていたのも事実だ。
彼女の心根があの少年のように純粋で真っ直ぐなものなら、こんな気分にはならなかったに違いない。
狂人に刃物という諺があるが、私がやっていることはまさにそれなのではないか。そういった悪い予感が常に頭の片隅にあった。
なので、私はあえて彼女に効率の悪い訓練をさせてしまうことがしばしばあった。
責められる謂われは無いと思う。彼女のことを知る者なら、誰だってそうするに違いない。
しかしここで悪さをしたのが、私が手元に置いているハイブ人だった。ヤツは私のいない隙を見計らい、彼女に正しい訓練法を教えていたらしい。
彼女の動きはますます洗練され、その剣筋は鋭さを増していった。
自分の立場を弁えぬ命知らずな男だ。決定的な証拠を抑えて厳しく責め立てたが、「つい出来心で」としか言わず、まともな言い訳すらする気がないようだった。
このハイブ人も何やら知られざる過去を持っていそうだが、関係ない。
次に余計な口を挟んだときは、舌を引っこ抜いてやる。奴隷にお喋りな口など必要ないのだ。