レノストがその場を去った数十時間後、辺りには静寂が戻ってきた。しかし、その静けさは決して安らぎをもたらすものではなかった。
草木もざわつきを止め、空は灰色の雲に覆われる。彼が消えた痕跡は魔力の残り香となり、空気を重たく押しつぶしているようだった。
フリーレンはじっと地面を見つめていた。レノストに連れ去られるアウラを止めることができなかった。いつもの冷静さを装ってはいるが、その指先が微かに震えているのを彼女自身は抑えられないでいた。
「……まずいね」
その呟きは、小さな声であったにもかかわらず、フェルンとシュタルクには重く響いた。
「フリーレン様……アウラが連れ去られたというのは、どういうことなんですか? レノストって、一体何者なんですか?」
フェルンが震えながら口を開く。その声には焦りと困惑が滲んでいた。彼女にとって、魔族であるアウラがただ消えたのではなく、未知の存在によって持ち去られた事実が重くのしかかっていた。
フリーレンは一拍の間を置いて、答えた。
「あいつは……確証はないけど多分、魔族だよ。ただ、普通の魔族ではない。おそらく、私が知る限り最も厄介な存在だ」
「厄介、ですか?」
フェルンが眉をひそめる。
フリーレンは曖昧な言葉を選ぶしかなかった。過去にレノストと遭遇した記憶が鮮明に蘇る。彼の圧倒的な存在感と底知れない知性、そして何よりも目的の見えない魔族らしからぬ行動原理────それが彼女を警戒させていた。
「あいつが何を考えているのかわからない。だが一つ言えるのは、あいつにアウラを奪われた以上、アウラが自由になることはもう二度とないだろうということだね」
「そう……ですか」
フェルンの声が詰まる。信じている師匠が何もできなかったという事実に言葉にならない感情が溢れ出しそうになるのを、彼女は必死に抑え込んでいた。
「フェルン」
フリーレンは彼女を真っ直ぐに見つめた。厳しいけれど、どこか優しさを感じさせるその声。
「で、どうすんだよ、フリーレン」
重い空気を破るように、シュタルクが大きく息を吸い込んだ。
「……あの、レノストってやつがどれだけ恐ろしいかは分かった。でも、これからどうするんだ? そいつを追いかけてアウラを倒すのか?」
その言葉に、フェルンもハッと顔を上げた。
「追いかけることはしない」
フリーレンは即答した。魔族絶対殺すウーマンの彼女らしからぬ返答にフェルンとシュタルクは驚きを隠せない。
「どうしてですか?」
フェルンが問い返す。
「あいつがどんな理由であれ、アウラを連れ去ったのならば、私たちが追いつく可能性は低い。それに、レノストの目的がアウラだけにあるとも限らない」
フリーレンの表情には迷いがなかった。彼女の言葉には冷静さが宿っているものの、その奥底には微かな怒りが垣間見えた。
「だが、あいつがこれ以上、私たちに何かを仕掛けてくる可能性もある。私たちが警戒を怠るわけにはいかない」
シュタルクは腕を組み、低く唸った。
「……じゃあ、すぐにでもこの都市を出たほうがいいんじゃないか? これ以上、魔族と鉢合わせるのはゴメンだぜ」
「それは賢明かもしれないね」
フェルンは同意するように頷いた。
もう夜が近いということで、フリーレンたちは近くの宿を取った。この都市は平穏そのもので、まるで魔族の襲撃やレノストの乱入など存在しないかのような静けさだった。
しかし、その静けさが逆に三人の心をざわつかせた。
フリーレンは、窓辺に腰掛けながら外を見つめていた。月明かりが彼女の顔を照らす。その表情にはいつもの無表情以上に影が差しているように見えた。
「……フリーレン様?」
フェルンがそっと声をかける。
フリーレンは振り返らないまま、小さな声で答えた。
「どうしたの?」
「その……レノストに、また会う可能性はありますか?」
フリーレンはしばらく黙り込んだ後、淡々と答えた。
「会うだろうね。あいつ自身がそう言っていたから」
「その時、どうするんですか?」
フリーレンは、少しだけ微笑んだ。だがその笑みはどこか不安げでもあった。
「考えるよ。その時に」
翌朝、三人は再び旅路についた。空は青く晴れ渡り、昨日の暗雲が嘘のように消え去っていた。しかし、それぞれの胸には昨日の出来事がまだ重くのしかかっている。
「……あいつのことを考えすぎても仕方がないね」
フリーレンが呟く。
「でも、そのレノストって奴はまたどこかで現れるんだろう?」
シュタルクが尋ねる。
フリーレンは、少しだけ歩みを止めて振り返る。そして、真っ直ぐな瞳でフェルンとシュタルクを見つめた。
「そうだね。その時は────ちゃんと対策を立てないとね。あいつを倒すために」
その言葉には決意が込められていた。三人は互いを見つめ、頷き合う。彼女らの旅はまだ続く。そして、彼女らはその旅の中で、再びレノストと対峙する日を迎えることになるのだろう。