柔らかな陽射しが石畳を照らし、そこを歩く人々の影が、のびやかに揺れていた。街路の並木は鮮やかな新緑をまとい、道端には野の花が咲き誇る。空を見上げれば、淡い青空を背景に、鳥たちが軽やかに舞い、巣作りに忙しく飛び回っていた。
この時季特有の、土の匂いと花の香りが入り混じった空気が、風に乗って宿の窓から吹き込んでくる。
世界は、確かに春を迎えている。
そんな季節の中、フリーレンたちは一つの宿に滞在していた。次の旅路へと向かう前の、束の間の滞在。そして今、その部屋には、妙な緊張が満ちていた。
原因は、一通の手紙だった。
古びた羊皮紙に、流麗な筆致で綴られた文字。宛名は「フリーレン殿」。封蝋には、大陸魔法協会でも見たことのない魔法式の印が刻まれていた。
フリーレンは封を開く前から、それがあの男の手によるものであると理解していた。
────これは、あの魔族からのものだ。
魔族でありながら、人を喰らわず、ただ研究を続ける者。かつてゼーリエと長きにわたり、魔法を交え、今では並び立つ存在。
そして、試験の最中に自らの手で選別を行い、生物として次元が違うと受験者に知らしめた存在。
フリーレンはため息をついて、封を切った。
『────よければ、オレの図書館へ』
文面は簡素だった。無駄な修飾も、余計な言葉もない。ただ一言、そう書かれていた。これは魔族から長々と文章を送られてもフリーレンは良い気はしないとレノストが配慮した結果である。
手紙を読んだフリーレンは、しばし黙り込んだまま、その紙片を見つめていた。羊皮紙は時間の経過を思わせる色合いだが、魔力の染み込んだそれは、どこか生き物のように微かに脈動しているようにさえ感じられた。
レノスト。
かの魔族は、魔力と知識の深淵に棲む異質な存在だ。これまでの歴史で戦場に立つこともほとんどなく、ただ極致を求めて魔法の研鑽を重ねる者。だが、その魔力の密度と技巧は、フリーレンが生涯に見たどんな魔法使いよりも異様だった。
何より、ゼーリエが────あのゼーリエが、彼を「対等な者」として遇している。
背後からフェルンの声。シュタルクと共に市場へ出ていた二人が戻ってきたばかりだった。シュタルクが荷物を置く音が遠くに聞こえる。
「……フリーレン様? どうかしました?」
フェルンの声が、思考に沈んでいたフリーレンを現実へと引き戻した。
すぐ隣に来たフェルンは黙ったままフリーレンの手元の手紙を見つめる。その顔に浮かぶのは、少しの不安と、ほんのわずかな興味。
魔法使いなら誰もが耳にしたことのある伝説の地。雲の上に存在すると言われる、失われた魔導書の楽園。
だが、それはあくまで空想の産物。かつてそう信じていたフリーレンにとって、その招待状は現実を強く突きつけてくる異物だった。
フリーレンは一つ息を吐いて、手紙を畳み、そっと机の上に置いた。
「レノストからの招待状だった……図書館に来ないかって」
「レノストですか?」
フェルンが苦い顔をする。
あの試験で彼女はレノストの圧倒的な力量を目の当たりにし、魔法を放つ機会すら得られなかった。恐怖というより、自分とのあまりの隔絶に、目の前が真っ白になったような記憶が残っている。
ただ、その後の魔力制限のその先の技術を目の当たりにしたことの方が記憶の印象としては強いが。
「うん。でも……あいつは、今は敵ってわけじゃない。たぶん」
曖昧な言葉が漏れる。
フリーレン自身、まだ完全に割り切れてはいなかった。あれほどの魔族が、なぜ人間を襲わず、図書館を構え、知を集めているのか────その図書館を作ることになった理由も何か裏があるのではないかと、心のどこかで疑ってしまう。
「フリーレン様、行きますか?」
フェルンが問う。視線はまっすぐに、フリーレンの目を見ていた。
「……まだ分からない。でも、行く価値はあると思ってる」
そう答えたフリーレンの声音には、迷いと興味が半分ずつ混じっていた。
沈黙の中、シュタルクが頭をかきながら口を開いた。
「その、レノストってやつ……やっぱ、ヤバいんだろ? フェルンからも聞いたけど、正直、想像つかないんだよな。空が裂けて、世界がねじれるような戦いだったって」
言葉の端々に、作り話にでも聞こえそうな気まずさが滲む。だが、彼はふざけているわけではない。むしろ、その目は真剣で、少しばかり怯えていた。
「……あのときの戦いは、私も説明しづらいです。でも、確かに“常識じゃない”魔法でした、フリーレン様含めて」
フェルンが小さく頷く。声は静かだが、どこか芯のある響きがあった。
シュタルクは少し視線を落とし、唇を引き結んだ。彼なりに覚悟を決めようとしているのだろう。戦士として、強者と向き合う覚悟を。
フリーレンはそんな二人の様子を見て、再び視線を手紙へと落とした。何度も読み返すほどの文面ではない。ただ一言、簡潔すぎるほどの誘い。それでも、その背後に広がる世界の重みを、彼女は肌で感じていた。
「行くなら、心構えだけはしておいたほうがいい」
フリーレンが呟くように言った。
「相手は……魔族なんだから」
言葉は重く、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
たとえ対話が成り立とうと、敵意を向けてこなかろうと、その本質は人間とは異なる存在。どれほど理知的に振る舞おうとも、レノストは”魔族”なのだ。
だが、同時にフリーレンは知っていた。彼が“普通の魔族ではない”ことも。
ゼーリエが、フランメが、かつて関わったという事実。そして、あの面接で見せた“違和感”。まだ完全には信じきれないが、それでも見極めたいという気持ちは確かにあった。
「とりあえず、どうやって行くんだ?」
シュタルクの素朴な疑問に、フリーレンは眉を顰めた。
「たぶん、あのときと同じだよ。……あいつの転移魔法」
「あのとき?」
「三次試験のとき、私とフェルンは一度だけ使われた。空間が歪んで、感覚が置き去りにされるような……まるで呪いに巻き込まれるみたいな感じだった」
「へぇ……なんか怖いな」
「………魔族の使う転移魔法は、人間の常識じゃ測れないよ」
思わず、室内の空気が張り詰めた。
魔族の魔法。聞き慣れたはずの言葉なのに、それが自分の身に起こるとなれば話は別だ。異質で、未知で、得体の知れないもの──その扉を、今、開けようとしているのだから。
ふと、窓の外に目をやると、青空の中を一羽の鳥が舞っていた。軽やかに、自由に、風を切るその姿は、この春の日差しの中で何の不安も知らぬようだった。
フリーレンはその光景を見つめながら、心の奥底で問いを繰り返す。
本当に──信じてもいいのか?
そして、その答えは、もうすぐ自分の手の中に届こうとしている。