朝靄が、天脈竜の背をゆっくりと流れていく。
地上よりも澄み切った空気は肌を優しく撫で、雲海を渡る風は図書館の白亜の塔を静かに揺らしていた。空を見上げれば、果てしなく広がる蒼穹。
その下には雲の海がどこまでも続き、まるで世界そのものを見下ろしているかのような光景が広がっている。
ここには街の喧騒もない。
魔物の咆哮も。
人々の営みすら聞こえない。
聞こえてくるのは、風が塔を撫でる音と、どこか遠くで響く剣戟の音だけ。
まるで時間そのものが、この場所だけ緩やかに流れているようだった。
天空魔道図書館へ招かれてから、半月が過ぎた。
初めは異質でしかなかったこの場所も、今ではそれぞれが思い思いの時間を過ごす、穏やかな日常へと変わりつつあった。
もちろん、それはレノストという魔族を信用したという意味ではない。
少なくともフリーレンにとっては違う。
魔族は魔族だ。
その認識だけは、この半月で一度たりとも揺らいではいない。
だが同時にレノストという存在が、自分の知る魔族とはあまりにもかけ離れていることも、否応なく理解させられていた。
(……本当に、不思議な魔族だ)
心の中でそう呟きながら、フリーレンは今日もまた図書館の大扉を潜る。
幾重にも積み上げられた書架。
宙に浮かぶ魔法陣。魔力によって自動で整理される膨大な蔵書。
どこを見渡しても、本、本、本。
まさに魔法使いが一生を費やしても読み切れない知識の海だった。
(……何度見ても、すごいね)
最初の数日は案内役としてレノストやジブリールが館内を案内していたものの、それ以降は好きに歩き回っている。
現代では名前しか残っていないような魔導書が、ごく当たり前のように書架へ並べられている。
初めて訪れた日は圧倒され、半月が経った今でも、その感動は少しも色褪せない。
最初は半信半疑だった。
魔導書とは、魔法使いにとって財産そのものだ。
門外不出。
閲覧禁止。
秘匿。
それが当たり前であり、ましてや魔族が積み上げた知識など、人類に見せる理由などない。
そう思っていた。
────だがレノストは違った。
「好きに読んでいいよ。持ち出さなければ構わない」
その一言だけだった。
制限らしい制限もなければ、監視もない。
質問をすれば答えてくれる。答えられないものは「オレもまだ研究中」と笑って終わる。
その気安さに、未だ慣れない。
それでも──
「……すごい」
思わず、何度もそんな言葉が漏れてしまう。
統一王朝期に失われた魔法理論。
神話の時代にのみ存在した術式。
現代では禁忌とされる魔法研究。
存在だけが語り継がれていた失われた魔導書。
その全てが、書架へ並べられている。
棚の一つ一つが魔法使いの歴史そのものだった。
ページを捲るたび、新しい発見がある。
一冊読み終えれば、また次の一冊が気になる。
気づけば朝だったはずの窓の外は夕焼けに染まり、いつの間にか夜になっていることも珍しくはなかった。
魔法使いにとって、ここはまさに理想郷だった。
「……やっぱり、二百年くらい住もうかしら」
誰に聞かせるでもない独り言。
そんな本気とも冗談ともつかない考えが、今日も自然と口から漏れる。
もっとも、その考えは毎日のようにフェルンに却下されるのだが。
フリーレンは一冊の魔導書を書架へ戻すと、自然と次の棚へ足を向ける。
ふと、視線の先で見覚えのある後ろ姿が目に入った。
ジブリールだった。
書架の奥では、ジブリールが静かに本を整理していた。
何万、何十万冊とある蔵書を前にしても、その動きに迷いはない。
棚から抜き取られた一冊は、まるで導かれるように元ある場所へ戻され、僅かに傾いた書物も、指先で触れるだけで真っ直ぐに揃えられていく。
ただ一人で、この果ての見えない図書館を管理していた。
その動きには一切の無駄がない。
だが、どこか機械的というより、人間らしい温かみがあった。
その様子を見ながら、フリーレンは改めて思う。
(……あれがゴーレムか)
初めて見た時は驚いた。
魔力で動く人形など珍しくない。しかし、彼女達は違う。
笑う、悩む、冗談を理解する。互いに会話を楽しむ。
もはや人形とは呼べないほど、人間らしかった。
それもレノストが作ったという。
フリーレンは未だに、その理由を知らない。
知ろうとも思っていなかった。
いや、正確には──聞く必要がないと思っていた。
だが最近は違う。
(……どうしてなんだろう)
自然とそんな疑問が浮かぶようになっていた。
魔族なら、もっと効率だけを求める。
道具は道具として扱う。
それが当たり前だ。
なのに、レノストは彼女達を家族と呼んでいた。
その言葉だけは、今でも耳に残っている。
理解はできない。
納得もできない。
それでも、その違和感だけは、少しずつ積み重なっていた。
まるで、一冊の本を読み進めるように。
◇◆◇◆◇◆
図書館の静寂とは対照的に、屋敷の厨房には穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが木製の調理台を照らし、焼きたての菓子の甘い香りが部屋いっぱいに広がっている。
今日もフェルンは、早坂と共に厨房へ立っていた。
魔法使いである彼女にとって、料理や菓子作りは決して得意分野ではない。
旅の途中で食事を作ることはあっても、こうして一から焼き菓子を作る機会はそう多くなかったが、早坂の教え方は丁寧で分かりやすかった。
「フェルン様、こちらをお願いできますか?」
早坂が木鉢を差し出す。
「はい」
フェルンは受け取ると、木べらでゆっくりと生地を混ぜ始めた。
さらさらだった粉は次第にまとまりを見せ、滑らかな生地へと変わっていく。
「そのくらいで大丈夫です」
早坂は中を覗き込み、小さく頷いた。
「混ぜ過ぎると焼き上がりが少し硬くなってしまいますので」
「なるほど……」
フェルンは木べらを止め、生地を眺める。
料理は理屈が分かれば応用が利く。
魔法と少し似ているのかもしれない。
早坂は棚から小さな硝子瓶を取り出した。
中には細かく砕かれた木の実や、乾燥させた果実の皮が入っている。
「こちらを少しだけ加えてください」
言われた通り、生地へ振りかける。
木べらで混ぜると、甘い香りの中へ爽やかな香りが溶け込んでいった。
「……香りが変わりました」
「はい。このくらいがちょうど良いんです」
早坂は穏やかに微笑み、生地を型へと流し込んでいく。
その一つ一つの動作には迷いがない。
長い年月を積み重ねてきた者だけが持つ、迷いのない手つきだった。
「早坂様は、お菓子作りがお好きなんですか?」
フェルンが何気なく尋ねる。
早坂は少しだけ考え、それから静かに首を横へ振った。
「好き、というより習慣でしょうか」
「習慣ですか?」
「はい」
焼き型を整えながら続ける。
「レノスト様やゼーリエ様がお好きですので」
その答えはあまりにも自然だった。
特別なことを語っているようには見えない。
ただ当たり前の日常を口にしているだけだった。
「レノスト様も、お菓子を作るんですか?」
「ございます」
早坂は頷く。
「私より上手なお菓子もあります」
「……少し意外です」
「フフッ……」
早坂は小さく笑みを浮かべる。
「研究の合間によく作られています。新しいお菓子を思いつかれると、私も一緒に試作をします。失敗することもありますけれど」
その言葉に、フェルンは少しだけ興味を抱いた。
「失敗、ですか」
「はい」
「砂糖を入れ忘れたり、塩を入れ過ぎたり、焼き過ぎたりと。意外と、そういうこともございます」
フェルンは思わず口元を緩める。
世界でも指折りの魔法使い。
ゼーリエと並び立つほどの存在。
そんな魔族が、菓子作りで失敗している姿など想像もつかなかった。
「ですが……」
早坂は焼き型を窯へ入れながら続ける。
「……失敗すると、とても楽しそうなんです」
「楽しそう?」
「はい」
「『次はどこを変えようか』と仰って。研究も、お菓子作りも同じなのだそうです」
その言葉に、フェルンは静かに目を伏せた。
魔法も。料理も。畑仕事も。
全て同じ。
そう考える人物なのだろう。
やがて窯へ入れられた焼き菓子から、甘い香りが漂い始める。
その間に、早坂は茶葉の缶を棚から取り出した。
「本日はこちらのお茶にいたします」
丁寧に計った茶葉を急須へ入れ、静かに湯を注ぐ。
立ち上る湯気と共に、爽やかな香りが厨房へ広がった。
「このお茶も、レノスト様が育てられている茶葉です」
「畑の、ですか」
「はい」
早坂は静かに頷く。
「研究だけでは気が滅入るから、と言っていましたね」
フェルンは思わず窓の外へ目を向けた。
あれほどの魔法を扱う魔族が、土を耕し、お茶を育て、菓子を焼く。
未だに、その姿が結びつかない。
「……本当に、不思議な方ですね」
思わず漏れた言葉だった。
早坂は湯呑へお茶を注ぎながら、小さく微笑む。
「昔から、あのようなお方です」
その言葉には誇張も、自慢もなかった。
何千年という歳月を共に過ごした者だけが口にできる、静かな確信だけが込められていた。
「そろそろですね」
早坂が扉を開けると、こんがりと焼き色の付いた焼き菓子が姿を現した。
「どうぞ」
差し出された焼き菓子を一口頬張る。
外はさくりと香ばしく、中はほんのりとした甘さが広がった。
「……美味しいです」
自然とそう口にしていた。
「ありがとうございます」
早坂は小さく頭を下げる。
その時だった。
────ガンッ!!
遠くから、乾いた金属音が響いた。
屋敷の窓がわずかに震える。
フェルンは自然と窓の外へ目を向ける。
森の方角。
この半月、毎日のように聞こえてくる剣戟の音だった。