お詫びのしようもないですが、綾小路くんをやり過ぎなくらいに救済することだけはお約束します!
ストーカーはクソだ、と悪原九郎は心の底から思った。
なぜそんなことを思ったのか…想像するのはこれ以上なく容易であると思われるが、一応その結論に至った経緯を説明するとしよう。
ストーカーは後ろでこそこそとバレないように特定の人物を尾行するもの、という認識はきっと現代社会に生きるほぼすべての人に通ずるといっても過言ではない共通認識だろう。
…では、身を隠すことすらせず堂々と対象の人物の後をついて回ったり、そもそも目の前に現れたり、その人の行動を予測し先回りして待ち伏せしたりする行為などはストーカーに含まれないのだろうか?
答えは否。ストーカー規制法では、繰り返し付きまとう行為などもストーカーとして認められる。もちろん相手の位置情報を勝手に探って得たりすることも同じだ。
ストーカーは被害者の健康な精神を著しく脅かす凶悪な存在である。その存在に悩まされて心を病んでしまう人も少なくない。警察に行っても満足いく対処をしてもらえない、という話もしばしば聞こえる。
また、実際に被害に遭ったことのない人間からは理解を得られにくいことがあるのも厳しい現実だ。特にインターネットが発展して誰とでも簡単にやり取りがしやすくなっている昨今、ネット上で真剣にストーカー被害の相談をしている人に対して、対岸の火事として好き放題言う人間も存在する。
おまけに、男性が女性ストーカーに悩んでいる場合はなおさら野次がよく飛ぶのだ。
まあ、つまり。
「……………一之瀬」
「?どうかした?何かしてほしいことでもあるの?」
「…まあ、そうだな」
「何何?なんでも言ってよ、君のためなら私はなんでもするから!」
「おまえの顔見飽きたから、どっか行け」
「それは無理だよ」
一之瀬帆波は、性懲りもなく悪原九郎へのストーキングに傾倒していた。男子部屋に我が物顔で居座るのはすでに当然のことになっているし、便所にもついていく。流石に中に押し入ることはないが、男子トイレの入り口前で立ち塞がるように幼馴染が用を足すのを待つ一之瀬の姿はいっそ不気味ですらあり、外にいる男子はそこのトイレを利用できなくなって、すでに中に入ってしまっている男子は悪原が一之瀬を押し退けるまで出るに出られず立ち往生する羽目になって。
必然と言えば必然か、一之瀬のストーカー行為に悪原のストレスは尋常でない勢いで増大していき、おかげで普段でさえ怖い顔が今やギャングも道を譲るだなどと例えられるほどの状態になってしまっていた。
そんなだから悪原九郎の近くにはわずかな例外を除いて誰も近付かなくなっていき、そして一之瀬は何があろうと離れないため、結果的に誰の邪魔も入らない幼馴染同士二人の世界が出来上がることとなってしまった。
走って逃げようにも、あいにく松葉杖がまだ手放せない。スパで一旦手放したように軽く歩き回る程度なら無くても大丈夫なのだが、走るとなると話は違う。今の状態では、どんなに早歩きしても一之瀬から逃げることはできない。
綾小路は巻き込むわけにいかず、椎名は論外、柴田は役に立たない、残る神崎は最高の道連れ対象だが、どうも巧妙に姿を隠しているのか一向に遭遇しない現状に、悪原は一之瀬の脇腹に裏拳を喰らわせながら歯軋りした。この苦痛を共有できる仲間にしてやろうと思ったのに。流石に巻き込まれたくはない、ということか。
たまに出くわすクラスメイトが悪原の顔を見た途端驚異的スピードで回れ右をするのも、龍園が遠くからニヤニヤと無言で挑発してくるのも、尚更この苛立ちを助長させた。殴りかかりに行きたかったが高校生になった今ではそうもいかない。もう中学生時代とは違うのだ。
そしてそんな自分の苛立ちを理解していないはずがないのに、ニヨニヨとだらしのない笑顔でハートマークを振り撒きながら体をくっつけてくる一之瀬に、腹の底からムカついてしょうがない。
何度海に投げ落として魚の餌にしてやろうかと思ったかわからない。我ながらよく我慢できてるもんだ、と自画自賛しつつ一之瀬の右肩を掴んで徐々に握る力を強めていきながら、悪原はほんのわずかでも精神を落ち着かせる。そうでもしないと本当に船の上から叩き落としそうになってしまうのだ。
肩が壊れちゃうよ!と一之瀬は悲鳴こそ上げるも、それでもやっぱり幼馴染のすぐそばから離れる気配は依然としてなかった。
無人島試験中の話になる。テントの中では毎夜お年頃の男子たちが飽きずに会話の花を咲かせていたのだが、その話の中には一部とはいえ悪原への軽い嫉みがあったのだ。
普段から付き纏われていようが、相手が一之瀬というだけでお釣りが来るだろうと。
といってもその言葉自体に悪意はなかった。ただ『そうだよね』と一部の非モテ仲間の同意を得ようとしただけなんだろう。それはそれとしてものすごく頭にきたので、これ見よがしに拳の骨をパキッと鳴らして黙らせたのだが。
要するに、その人がどんなに可愛かろうが悪いことは悪いことで、ウザいものはウザいし、自分が精神的に苦痛を感じているのも紛れもない事実ということだ。
苛立ち任せに肩を掴む手を思いっきり後ろに引けば、無抵抗の一之瀬はスケート選手のようにくるくる回る。体の回転に従い、自慢のスーパーロングの髪も暴れまくる。なかなかの高速回転だったが、彼女の顔が正面にきた瞬間を完璧に捉えて悪原は一之瀬の首根っこを掴み上げた。
…ペシペシと当たりまくる髪の毛が微妙に痛かったのは内緒だ。
「おまえいい加減しつこいぞ、マジで」
「そ、そんなこと言われても…」
額に冷や汗を滲ませる。幼馴染なだけあり一之瀬は悪原の顔の怖さに慣れきっていたものの、流石に今回のレベルには若干気圧されたようだ。
しかしそれでも、目は逸らさずに口を開く。
「あ、あのね九郎くん?坂柳さんはね、綾小路くんを摂取しないと死んじゃうんだよ」
「その馬鹿馬鹿しい話はもう聞いた。で?自分もそうですなんてほざくんじゃねえだろうな」
「ううん、そうじゃなくて。…私はただ君がどこかに消えちゃわないか、心配なだけなの。言ったよね?私は君がいないと生きていけないって」
その言葉に、悪原は言葉を詰まらせる。彼女にそういうつもりがあるのかは定かではないが、自分たち二人しか知らない過去の話を持ち出されれば、どうしても悪原は一之瀬に頭が上がらなくなる。
いや、でも、なんて言い訳しようとしても結局は自分の過ちを認めるしかなく、そしてその被害者である一之瀬に従う他ないのだ。
とはいえイエスマンになっては一之瀬が増長を重ねて暴走し始めるのは明白。それに今の悪原にだって綾小路やら神崎やら、譲り難いものがある。
服従と反逆を両立させなくてはならないのは、如何な悪原九郎といえども困難なミッションだった。
「……ここは船ん上だよな?閉鎖空間の中どこに消えるってんだ、あ?」
我ながら苦しい反論──というかそれにさえ至っていない、明らかに論点のズレたセリフであったものの、言い返されること自体が想定外だったのか一之瀬は幼馴染の覇気にうっと息を詰まらせた。
「えっと……その、君のことだから、思いもよらない方法でこう、ドロンと!」
フィクションの忍者が術を発動する時に組む手印のようなポーズを取りながら焦ったように言う一之瀬だったが、悪原の口から飛び出した次のセリフに背筋を凍らされる。
「おまえをこの世からドロンさせてもいいんだが」
「そ、それは勘弁してほしいな〜……あ、あは、あはは」
いくら長年の付き合いがある一之瀬帆波であっても、悪原九郎の冗談は冗談に聞こえないことの方が多かった。
「あのな……言っただろ。俺はおまえを捨てないって」
「………うん」
ため息混じりにそう言えば、彼女は複雑そうな面持ちでやや俯く。
「もう少し信用してもらいたいもんだな」
「………ごめん」
しゅんと落ち込んだ一之瀬は遠慮がちに幼馴染のブレザーの裾を摘む。何とも言えないやりにくさに、悪原は忌々しさに顔を歪めて天井を仰いだ。
けれども一之瀬にうんざりしたままではいられない。半ば無理やりに気持ちを切り替えて口を開く。
「しょうがねえ、他のことをやってもらうか」
「他のこと?」
「まず俺が清隆をこっちに引き抜く話からするが」
「あ、知ってるよ。綾小路くんから聞いたから」
「うっざ…」
「え?」
「それなら話が早い。Dクラスは俺が脅すからおまえは坂柳に説明してこい。じゃあ解散」
「いやちょっと待ってよ!今の悪口は──」
「一之瀬」
「……な、何?」
「枝毛あるぞ」
「うそっ!!?」
弾かれたような勢いで女子トイレに駆け込む一之瀬の背中をため息混じりに見送り、悪原はやっとつきものが取れたかのように全身を目一杯伸ばしてその場を立ち去るのであった。
******
卯グループがいきなり終了したことに、船内はそれなりに騒ついていた。無関係のグループの生徒も何があったのかを話の種にして盛り上がっており、誰が裏切ったのか、当たっているのか外れているのか。様々な憶測が飛び交う中、卯グループを終わらせた張本人である神崎隆二は『自分は無関係です』と言わんばかりのポーカーフェイスでデッキにいた。
悪原九郎がいきなり『Dクラスの軽井沢恵が優待者だから当てろ』とメールで言ってきた時は驚いたが、彼は特に逆らうこともなく黙って従い軽井沢が優待者であると送信した。もちろん色々気になることはあるけれど、あのすさまじく優れた能力を持つ友人がポカをやらかすとも思えなかった。
ただ、同時に無力感のようなものも覚えていた。
無人島で悪原がいきなり身投げした瞬間を目撃した時から思っていたが、どうもあの友人は自分ひとりだけ泥を被ることで物事を解決しようとしているように見える。身投げの時も全く躊躇いがなかったことから、昔から同じようなことをやってきたのではと想像するのはたやすい。
すべて綾小路を移籍させるために必要なことだからやっているのだろうが、なんだろうか、もっと自分の身を気遣ってほしいというか…周囲の人間を頼ってほしいというか。
綾小路を移籍させることで脅迫悪徳教師の魔の手から助けたい、という気持ちは神崎だって同じだ。
けれども、その目標達成に関して自分は何もできていないような気がしてならない。
それがどうしたと鼻で笑う者がいるかもしれない。悪原九郎の能力が高過ぎるだけだと、無理ないことだと言う者がいるかもしれない。
でも…
「よう神崎」
はぁ、とため息を吐いたところに彼は現れた。
普段は眉間に皺を寄せてムスッとした顔か、チンピラ同然のヘラヘラした悪どい笑みを浮かべているかの二パターンなのだが、今回はいつにも増して悪役みたいに口角を上げていた。
それは、もし神崎と悪原の関係性を知らない者がこの場面を目撃したとしたら、まず間違いなく神崎がタチの悪いチンピラに絡まれているようにしか見えないだろうというほどの。
「……悪原。またずいぶんと……、……悪い顔をしているな」
「
ケッケッケッと悪原は笑う。一之瀬の本性を知っている神崎としては彼女に同情こそしないものの、この友人の悪役顔はもう少しどうにかならんのかと思ってしまう。
悪原はわざと怖い顔をしていることが結構あるのだ。眠っていたり本を読んでいたり、友人同士で話している時はずいぶん穏やかで、その限られたタイミングでのみ、彼の整った顔立ちが顕となる。それを直に拝めるのなんて今のところ神崎と綾小路だけだが。*1
ところで、と悪原は一之瀬に関する話題はいらないと言わんばかりに話を変えた。
「浮かない顔してんな。何かあったか?」
「…まあ、そうだな」
「………どうしたんだよ?」
やや口ごもる神崎の様子が気になり、何か厄介な問題が起きたのかと勘ぐる悪原。それを察知しつつ、神崎は重々しく答えた。
「坂柳が…」
「わかった、大変だったなご苦労さん」
その名前だけで悪原は全てを察した。どうせまた綾小路がストーカーでもされたのだろう。さらにそこから口論に発展したのかもしれない。となれば、神崎が妙に暗いオーラを纏っているのも合点がいく。
「その様子だと、無視も通じなかったみてえだな」
「ああ、驚くべき速さで回り込んで行く手を塞いできたんだ。…坂柳…本当に疾患を抱えているのか…?」
神崎は苦しそうに眉間を抑える。逃げようとしても先回りしてくる坂柳、実に容易に想像できる光景だ。嫌になるのも仕方ない…というより、嫌にならない方がおかしい。
悪原にはこの友人の気持ちが痛いほどわかる。彼も一之瀬のストーカー行為に悩まされているのだから。足を痛めている関係上、逃げたくても逃げられないことも共通する。
「どうすればいいんだろうな……あいつら…」
「わからん……学校から接触禁止令でも出してもらえれば…」
「…あまりガチガチに縛るとそれはそれで爆発しそうじゃねえか?」
「………想像できてしまう自分が嫌になる」
もし本当に接近禁止令が出されたとしたら、坂柳も一之瀬も一体何をしでかすかわかったものではない。職員室の前で一日中抗議するぐらいは確実だろうが、それよりもっとメチャクチャなことをやってしまっても不思議じゃない。
なんなら、ポイントを使って力づくで禁止令を撤回させにかかる可能性すらある。
神崎も悪原も、遠い目で海を見る。
「…………あの異常者どものことを考えるのはもうやめようぜ。そうだな、神崎、ひとつ頼みがあるんだ」
「なんだ?」
「清隆が移籍できたら、お祝いのパーティでも開いてやりたいと思わねえか?どこかいい店、見つけといてほしいんだよ」
俺はそういうのからっきしなもんでな、と悪原は自嘲する。
母子家庭で育った彼は外食時、値段と量で良し悪しを判断する。一之瀬と別れてからは絡んできた不良たちから逆カツアゲするなどして多少の小遣いが手に入るようにはなったものの、その判断基準はそれほど変わらなかった。趣味と公言する喫茶店巡りも、実は悪原にとっては結構な贅沢にカテゴライズされるものであったりする。
また、誕生日などの記念日ではいつもよりも豪華な食事とケーキを食べるぐらいはするものの、それもほとんど開催されるのは自宅か、一之瀬の家でだった。
そんなことだから、彼はお祝いにパーティを開こうという発想こそあっても、結局考えつくことは金のない庶民の域を出ないのだ。おまけに無意識のうちに『贅沢』を気にしてフィルターがかかり、選択肢を自分で狭めてしまう。
その点神崎は坂柳家も顔を出すぐらいには格のある社交パーティなどに出た経験がある。自分が主導してお祝いを計画するよりは、神崎に任せた方が立派で満足度も高いものができるんじゃないか、と悪原は考えたのだった。
それを聞いて神崎は数秒、友人の横顔を見つめる。そしてふと微笑をこぼした。
「……ああ、そうだな。任せてくれ」
微かな焦燥感は、もうとっくに消えていた。
******
「九郎くーん」
「うわ…なんでここにいるんだよ」
「私も辰グループだから!!ここにいるのはおかしいみたいに言うのはやめてよ!」
別に来なくていいのに、と悪原は心の中で吐き捨てる。一之瀬が来ないことによって連帯責任を問われ、クラスにペナルティを課せられようが正直どうでもいいとすら思えるぐらいに彼は今、幼馴染をうざうざしく感じていた。
「……それはそうと九郎くん。さっきね、ほんとに枝毛あってびっくりしちゃったよ」
「……あ、そう……」
さっさと追い払うために適当に言っただけなんだが、と思うがそれを言ったところで得はないため黙っておく。
「なんだかんだ私のことよく見てくれてるなあって……ふふ」
「なあ一之瀬、俺も殺人犯にはなりたくねえんだよ」
「……そこまで言うほどのこと!?」
(((今の会話はどういうことなんだ…?)))
そんな会話もありつつ、始まった二度目のグループディスカッション。依然会話のない時間が流れる中、坂柳がずっと携帯を──厳密には、写真フォルダを眺めていることに一之瀬が興味を持った。
「坂柳さん、何見てるの?」
「清隆くんの写真ですよ。一之瀬さんも見ますか?」
「いいの?」
「ええ、私たちは幼馴染を愛する仲間であり、友達でしょう?……ああ、あなたたちには見せませんからね」
「見たくねえよそんなもん」
なぜか龍園にだけ強い視線を向けながら坂柳が『羨ましいでしょう?残念でしょう?見せませんよ?』と言わんばかりにドヤ顔を決める。
龍園は気持ち悪そうに下唇を噛むが、そんなことは無視して坂柳は一之瀬に写真の説明を始めた。
「この写真は清隆くんが暑さに辟易している時のワンシーンです。見てください、この下がった眉の角度を。瞳の位置。滲む汗、きらめく肌。ギリシャ彫刻が小学生の粘土工作のように思えるほど美しいでしょう?」
「うーん…?」
これには流石の一之瀬も理解が及ばないようだったが、
「ふむ、一之瀬さん。考えてみてください。この写真に写っているのが悪原くんだったらと想像してみてください。私の言っていることがわかるはずですよ」
「なるほどね!!!!」
「おい、こいつらマジでやべえぞ。悪原テメェなんとかしろ」
「ふざけんじゃねえ龍園。恐怖を感じたことがないんじゃなかったか?おまえがなんとかしろ」
「恐怖と気持ち悪さは別物だぜ。それに自分が嫌なことを人に押し付けるなんて情けないとは思わねえのか?」
「は?黙れよ」
「黙るのはテメェの方だ」
「表出ろ龍園」
「一人で行ってろ……いや、一之瀬とお楽しみに興じてきたらどうだ?」
「嫌でも表に引きずり出してやる!!」
「おいおい落ち着けよ、ただでさえ元からカタギとは思えねえ顔が今や北のミサイルも踵を返すような……ちょ、おい聞いてんのかテメ──」
龍園の挑発をガン無視し悪原は彼の胴を両手でガシッと掴み持ち上げて部屋の外に放り出そうとするも、当然龍園は抵抗。しかし暴力沙汰として問題になることは避けたくあまり激しい抵抗はできず、一方の悪原も拘束を振り解こうとする龍園を押さえつけようにも今以上の行為には踏み出せず、結果として膠着状態に陥った。
事情を知らずに見た目だけ見ると友人同士でじゃれあっているように見えなくもないが、おそらくそのことを指摘すれば二人から強烈な仕置きを受けてしまうことであろう。
しかしそこにある意味で空気が読めない一之瀬が余計な口を挟んだ。
「ねえ龍園くん、私の許可無しに九郎くんとイチャつかないでくれるかな」
「真面目にやめろマジで吐きそうだ」
一息で言い切った龍園の顔色は実際だいぶ悪い──というか悪くなった。拾い食いをしてもこうはならないであろう、というほどだ。辰グループに配属された他のCクラスの生徒たちはどうすべきかもわからずオロオロするしかなかった。
悪原も龍園を文字通り放り出そうとするのをやめ、この致命的なバカを晒している幼馴染に対してまるで痴漢の現行犯を見るような冷たい視線を送った。
「気持ち悪いこと言うんじゃねえよバカ之瀬」
「さりげなく改名しないでほしいんだけど…」
ツッコむところそこなの?と津辺仁美は思ったが、この会話に参加する勇気はなかったためグッと指摘したい思いを人知れず堪えた。
「ああもう、バカ之瀬なんてどうでもいいんだよ。それより葛城、話がある」
「………なんだ?」
「ねえ、私今日からバカ之瀬になるの?嫌だよそんなの」
「悪原くん、一之瀬さんはバカではありませんよ。容姿はもちろんですが、何よりも彼女のあなたへの愛は私が清隆くんに抱いているものに勝るとも劣らない、美しく純粋で尊いものです。それを持つことができている時点で賢者と呼ぶにふさわしいことは言うまでもありませんが、それはこの星に息づく生命のように──、」
「龍園こいつら黙らせろ」
「悪いが俺はお医者様じゃねえ」
葛城が反応を示すと同時に、彼との会話を遮るように一之瀬が悪原のブレザーの裾を軽く引っ張りながら言い、さらに坂柳が早口で長話を始めた。
しかしそれを無視して悪原は一之瀬に素早くチョークスリーパーをかけながら葛城との話を再開する。
「とにかく、話ってのは試験のことだ。結論から言うが俺は結果1を推す」
「……………お前は裏切ると言っていたはずだが、どういう風の吹き回しだ?……それと一之瀬を離してやってくれないか、見ていて心配になる」
「疑うのはわかる。俺もおまえの立場ならおかしいって思う。まあ聞け」
自分の首に回っている太い腕を叩きまくって必死にギブアップを示す一之瀬。しかしそんな彼女を心配する旨の言葉を無視して悪原は説明を始めた。
「これは一之瀬の提案だ」
「一之瀬だと?」
「今回はクラスポイントよりプライベートポイントを選ぶんだと。本当、リアクション芸以外つまらねえ奴だ」
どういう意味!?と流石の一之瀬もこれには立腹したようだが、さっと口を塞がれてしまいモゴモゴと変にくぐもった声しか聞こえない。
ともかく悪原の説明に葛城は一応納得したようだ。
「そういうことか……だが、なぜ一之瀬を嫌うお前がその話に乗った?」
「自分の言うことを聞けば、鼻からパスタを食べる芸を見せてやるとこいつが言うから」
「そんなこと言ってないから!!!」
幼馴染の口から飛び出した、台本にない台詞。たまらず口を塞ぐ手を振り払って一之瀬が悲鳴を上げる。
「一之瀬さん!」
割り込むようにいきなり坂柳が叫んだ。全員の視線が集中した瞬間、彼女は宣誓した。
「私は清隆くんのためなら、目からパスタを食べてみせます!」
何を競ってるんだこいつ、と生徒たちの思考が一致する。
いや無理だろう、というか下手したら失明するだろう。葛城がそうぼやいたが、なぜか坂柳は彼に食ってかかった。
「愛さえあれば人は最強になれるんです。真の愛をもってすればなんでもできるはずです。葛城くん、あなたはそのことをわかっていません」
「いや、人体の構造的に無理というものが……」
「なんとかなります。愛さえあれば」
葛城は絶句した。それを反論材料が無くなったからとでも受け取ったのか、坂柳はしたり顔で自信満々に語る。
「メロスが沈みゆく夕日よりも速く走ったように、私もフルマラソンを一時間未満で走り切ります。それが清隆くんのためになるなら…私は…」
走れメロスは創作だろ、とか、疾患持ちの坂柳じゃどう考えても不可能だろ、とか至極真っ当な反論が生徒たちの頭の中に次々と浮かんでくるも、誰もそれを口にはしない。
坂柳に絡まれたくない、ただそれだけで誰もが無言を貫くのだ。あの櫛田桔梗でさえ声を上げようとしないのである。ある意味その制圧力は天才的と言えた。
「坂柳さん…!」
未だにチョークスリーパーにかかったままの一之瀬がなぜか涙する。それを見て、まるで汚いものから距離をとるような勢いで悪原は彼女を離した。
「坂柳さんならきっとできるよ…!私も頑張るから!見てて九郎くん!」
「……おまえ…なんか変な影響受けてきてねえか」
元からおかしいのが、坂柳とつるみだしてからさらにおかしくなってきている気がする。どうしてこう見習わなくていいところを見習うのか。
「類は友を呼ぶんだな…」
「え?そんな、急に褒めないでよ。は、恥ずかしいよ…」
赤面してくねくねと落ち着きなく体を左右に揺らす一之瀬。明らかに皮肉なのに、なぜ褒められたと感じたのか、悪原はもちろん誰もが全く理解できない。
くねくねする幼馴染の痴態を心底見下げ果てた目で見、悪原は吐き捨てた。
「気持ち悪い顔で気持ち悪い動きしながら気持ち悪いこと言いやがって。気持ち悪い」
「そんなに気持ち悪いって言わなくても!!!」
「悪原くん!流石にそれは聞き捨てなりませんよ!この坂柳有栖、幼馴染同盟の仲間としてではなく、一之瀬さんの親友として、あなたのDVを止めてみせます!」
ショックを受けた一之瀬の横に坂柳が進み出る。自信と決意を感じさせる不適な笑みで言ってのけた坂柳に悪原は顔を顰める。彼の内心を代弁するわけでは決してないだろうが、龍園がボソリとつぶやいた。
「綾小路からこれ以上ねえほど気色悪がられてるメスガキが悪原の野郎を止めるとは、何言ってんだか……」
「ごふっ」
「さ、坂柳さーーーーん!!!」
突如吐血してばたりと倒れた坂柳を一之瀬が抱き抱える。周囲がドン引きする中、必死に介抱する一之瀬を放っておき、悪原は葛城に向き直り説明を再開した。
「…さっきの続きだが…今回の試験で裏切らない代わりに一之瀬が得たポイント全額を俺に譲渡するって契約を結んだんだよ」
「………なるほどな」
ようやく納得のいく説明を聞くことができた葛城は頷いた。
「それとな、俺は一之瀬が嫌いなんじゃない、時々病院送りにしたくなるほどウザくてムカつくだけだ」
それって嫌いどころか憎悪に近いんじゃ、と龍園すら含めた辰グループ全員の思いが一致し、人知れず一之瀬の目が暗くなっていく。いつの間にか意識を取り戻していた坂柳は今のセリフでさらに何かを喚き始めたが、悪原は坂柳の声を無視した。
「…わかった、そういうことならば俺も反対する理由はない。CクラスとDクラスがどう思っているかは聞いておきたいがな」
とうとう葛城も坂柳をガン無視し始めた。
「俺は構わねえぜ。ククッ、こっちも得させてもらうからなぁ」
「…僕たちDクラスも、それでいいと考えるよ。みんなが得をするならそれが一番いいと思う」
怪しすぎる笑みを浮かべる龍園はともかく、平田がDクラスを代表して賛成の意を示したことにより、辰グループの方針はこの瞬間に決定されたと言えるだろう。
こうして坂柳と一之瀬と悪原と龍園以外は沈黙に徹するようになった。無論、後者男子二人が黙らないのが前者女子二人のせいであることは言うまでもない。
******
「おい悪原、面貸せよ」
「…おう」
ディスカッションの時間が終わった瞬間、扉に殺到していった辰グループの生徒らを見ながら龍園が苛立ち全開で悪原に声をかける。腐れ縁の発言の意図を察した彼は、私を置いてどこに行くのと足元に縋りつく一之瀬を虫や雑草のように蹴り払い、それを見てまた喚く坂柳を無視してついて行く。
道中、龍園が振り向きもせず話しかけてきた。
「俺は納得してテメェの案に乗った。坂柳のことも考慮した上でな」
忌々しさに満ちた声色からは、坂柳の狂気を甘く見ていた自分自身への苛立ちが強くこもっていた。悪原はそのことに心底同意するからこそ鼻で笑う。
「見積もりが甘かったなあ龍園」
「……そうだな」
不服そうではありつつも、悪態ひとつ吐かずすんなりと自分の甘さを認めた龍園。少しでも彼のことを知っている者が今の発言を聞けば驚くに違いない。
そんな龍園をフォローする気は微塵もないが、それでも悪原は同意の声を上げる。
「見誤ったのは俺も同じだ。あいつのイカレ具合は薬中も顔負けだろ」
「これから試験が終わるまであいつに付き合わされると思うと死にたくなるぜ。だがな悪原………ひとつだけ腑に落ちねえんだよ。なぜ辰グループで結果1を出そうとした?あのグループにはリーダー格の奴らが揃ってる。説得に成功さえできればどのグループでも構わなかったはずだ」
龍園の疑問はそれだった。
「おまえに言ってもわからねえよ」
「いいから言え」
「……坂柳がいるからだよ」
「あ?」
「坂柳が清隆…綾小路にご執心なのは充分理解させられてるだろ」
要するに、考え方を変えるだけだ。辰グループは試験期間中、毎日懲役一時間を二度くらうハメになる。だが、逆を言えばディスカッションで一日に合計二時間坂柳を拘束できることになる。その間綾小路はストーカーに悩まされずに済む。そういうことだ。
「………ハッ、甘いな。反吐が出るぜ」
「言っただろうが、おまえに言ってもわからねえって。俺にとっちゃ…坂柳の妄想にも耐えられるぐらい、価値がある存在なんだよ」
龍園には決してわからないだろう、と内心で再三吐き捨てる。
なぜ綾小路にそうまで入れ込むのか。どうして数多くいる生徒の中で彼を選んだのか。綾小路に何を見出したのか。
そんなことを悪原は考えながら龍園と歩き続け、やがてある場所に辿り着く。
そこは船の端に近いため監視の目が薄く、人気もなく、やや薄暗く、そして人間二人が過ごすには少し広い空間だった。少しぐらい走り回るぐらいは出来そうな程度のスペースはある。
つまり、これから行われるのは、不良ふたりによるストレス発散である。
「なあ、悪原………わかってんだろ?テメェの都合のために坂柳の妄想に付き合わせるっていうなら…」
「おう。宣言通り………連敗記録を更新させてやる」
足の痛みはまだ残っているが、大したことはない。松葉杖を放り捨ててパキパキっと拳の骨を鳴らし、いざ踏み込んだ悪原の左頬に龍園の右ストレートが直撃した。
しかし悪原はほぼ無反応で殴り返す。それを龍園はバックステップで回避。お手本のような先制攻撃を決めた龍園が訝しげに目を細める。
「何のつもりだ?」
それは、先制攻撃を受けたことに対する疑問。中学時代ならあんな攻撃、背後からでも避けられたはず。納得がいかない龍園に、悪原はへらっと答えた。
「こんな堂々と真正面からくるとは思ってなかったんだよ。昔自分が何やってきたのかもう忘れたのかよ?」
「ク、クククッ…つくづくテメェはイラつかせてくれるぜ」
その言葉で中学時代を思い返す。なるほど、確かに正面から仕掛けたことは二百を超える対戦歴の中でも数えるほどしかない。
くつくつと笑いが込み上げてくる。それに並んで闘志が漲ってくる。全身を駆け巡る血液が加熱していく。抑えることなどできない。
「イカレ女どものいねえ時間…存分に楽しもうぜ悪原ァ!」
仕切り直しと言わんばかりに、龍園が再度拳を握り込み突貫。何もかもを薙ぎ倒してしまいそうなほどに激しく吹き荒れる闘争心に反して、その顔はどこか青空のようにさっぱりとした愉悦に染まっていた。
不良同士のストレス発散が巻き起こっている部屋を世界から断絶している一枚の扉。その扉の前に、一之瀬が部屋に入ろうとするでもなく、声をかけることもなくただ立っていた。
扉の横の壁にもたれかかり、スカートのポケットからカッターナイフを取り出して顔の前まで持ち上げ、無表情で引っ込んでいる刃を見つめる。そのままカチ、カチ、とゆっくり刃を出していく。そうして2、3センチほども伸びた刃をゆらりと振った。
意味もなく
一之瀬はカッターナイフの刃を何度も出し入れしては縦に横に斜めにと振り続けた。部屋の中から絶えず聞こえてくる床を踏み鳴らす音、何か大きなものが壁にぶつかった音、たまに聞こえる罵声が途絶えるまで、彼女はずっとそうしていた。
そして音が聞こえなくなって数秒後、一之瀬はカッターナイフをポケットにしまいその場を立ち去った。終始彼女は無表情のままだったが、その瞳はひどく濁っていた。
一之瀬が抱いていた感情はシンプルなものだ。それはただの嫉妬だった。
一之瀬は悪原のことを誰より理解していると自負しているが、それは人格面での話だ。彼のあらゆる全てを知り尽くしていると自信を持って断言できるかと問われれば、これ以上なく悔しいが首を横に振らざるを得ない。
彼女が悪原の持つ暴力について何を知っているかと言えば、ただ誰にも負けないほど強いということだけだ。
だが龍園は違う。彼は悪原の圧倒的な強さはもちろんだが、その戦い方や追撃の癖、近中遠の様々な間合いでの行動パターン、敵への容赦のなさ、苛烈さ、何をすればどの程度まで彼の暴力を引き出すことができるか、彼が暴力を行使するに至るまでのラインは何か。悪原が持つ彼なりの暴力を龍園は総戦闘回数200以上にのぼる戦闘経験から研究し尽くしていた。
そうすることで龍園は悪原との喧嘩で主導権を握りやすくなっただけでなく、敵対勢力のあの男がこれをしでかしたから間も無く悪原に潰されるので相手する必要がなくなった、というような判断もできるようになったのだ。
悪原の暴力については、一之瀬よりも龍園の方がずっと理解できている。それが羨ましくて、悔しくて仕方がなかった。
好きな人のことをなんでも知りたいと思うのは当たり前のことだ、と彼女は思う。そして、一番の理解者で在りたいと思うこともまた当然であろうと。
特に悪原はあの性格だ。敵が増えやすい。そしてそれを本人が改善する気はおそらくない。
どれだけ敵がいても生き残れる、勝ち上がれる強さが彼にはあるが、無用に嫌われてほしくはないと一之瀬は思う。愛する人が周りから嫌われて喜べるものか。好かれるのもそれはそれで少し気に入らないが、そこは置いておこう。
一之瀬がどれだけリーダーとして頑張っても、悪原には勉強も運動も何をやっても勝てないのは結局変わらないし、そんな彼を内心頼りに思う生徒が出てくるのは避けようがない。どんなに彼が気難しくて扱いにくいかわかっていたとしても。
それが激しく気にくわない。
龍園も、神崎も、なんだかんだ悪原を見る目に好意が混じっているクラスメイトらも、一方それを面白く思っていなさそうなクラスメイトらも、みんな気に入らない。
特に綾小路は最大の敵だ。完全に昔自分がいたポジションを取って代わっている。その上坂柳のことがあるのはもちろん悪原からも好かれているので消したくても消せない。
単に排除するだけなら不意を突いて刺すなど手段はあるが、そんなことをすれば自分は間違いなく悪原から永久に憎悪されてしまう。それだけならまだ自分の存在が心に残っていると考えることで精神を保つことはできるものの、今後一切、完全に接触できなくなると思うと一之瀬は後の人生そのものの意味がわからなくなる。
(………綾小路くんを力づくで引き剥がせるようなことでも起きればいいのに。)
起きるはずもないことを夢見てため息を吐く。
ふと小学生時代を思い返す。音楽会当日、クラスで合唱曲を歌わねばならないことに不満を持っていた悪原が『体育館に隕石でも降ってくればいいのに』と言っていた。
…今の自分は、それと似たような思考をしているのだろうか。
昔の話とはいえ、大好きな幼馴染と同じことを考えていると思えば、ほんのちょっと気分が良くなった。
更新していない間、悪原まわりの設定を練り直したりプロットを組み直したりしていました。結果、彼が一之瀬に対して抱いている感情がさらに複雑に、そして大きくなりました。それに関するイベントも考えてあるのでお楽しみに!
ともあれ、次回で船上試験はおしまいです。夏休みも同じぐらいの話数で終わらせる予定です。
一之瀬も頭がおかしいということが周知されてしまうのでは、と不安を感じている読者の方々に説明しておくと、その件は坂柳の奇言と悪原の暴言暴力でお流れになりました。そして代わりに悪原と龍園と坂柳の悪評が広まりましたので、ご安心ください。