私、坂柳有栖は俗に言う天才です。
いきなり何を言うのだとお思いになられるでしょう。しかし事実なのです。
昔から凡そ理解できないことはなく、勉学も教科書をさらっと見ればそれで終わります。応用するにしてもやり方そのものを自分で考えられるので、基礎さえ読み終えればなんてことはありません。
凡人は教科書というマップを逐一見なければ先を歩くことさえままなりませんが、私は一度見ればそれでいいのです。道も自分で見つけられますし、歩き方も自分で考えられます。それが正しいか正しくないかも、自分で判断できます。
しかし、皮肉なことに私は先天性疾患を患っており、杖がなくては安定した歩行もできない脆弱な人間でもあります。こけてしまうだけでもなかなかヒヤリとするぐらいには、体が弱いのですよ。
そういうことなので運動はまるきりダメで、参加資格さえ与えられていないようなものですが…勉強はええもちろん、誰にも負けたことなどありません。
──私は天才です。その認識は今も変わりません。しかしかつては驕っていたのです。
幼い頃から私は、自分は誰にも負けない存在だと本気で信じていました。もちろん純粋な力比べは苦手です。が、そもそも力比べに持ち込まれないような絶対的盤面を創り出せるからこその天才。
…己は無敵なのだと思い込んだのは、やはり子供にすぎなかったから、なのでしょうかね。
さて、そんな私の驕り昂りを徹底的に破壊した人物がいます。
その人とは、白い部屋で出会ったのです。
父に連れられ、人工的に天才を作り出すという目標を掲げるホワイトルームの見学に行った時のこと。
その頃からすでに私はある持論を持っていました。それは、『天才に凡人は勝てない』ということです。
人間は受け継がれてきたDNAでその個体の限界能力が決定されており、その能力の限界値はどんなに努力しても突破できない。天才の賢さが百あるとして、十しかない凡人はどうやったって天才には勝てない。そう、ハエが恐竜に勝てる道理はありません。簡単に言えば、そんなものです。
しかし、ホワイトルームで淡々とノルマをこなしていくその男の子の姿を見て私は…今まで自分が信じてきたものが実は間違っていたのか、という不安感に襲われました。
その男の子は綾小路清隆という名前で、ホワイトルームの教育プログラムを受けている生徒の中で最も優れた成績を残しているそうです。
カリキュラムを滞らせるわけにはいかないため、私は彼と話すこともできずただ一方的に見ていることしかできませんでした。
そして今の私に大きく影響を与えたホワイトルームのカリキュラム。それは、チェス。
ただ机に向かって淡々と問題を解いていく彼の姿はそれだけでもなかなかに興味深いものでしたが、このチェスの時間だけは、何と例えるべきかもわからない、まるで神聖な光の世界を見ているかのような気持ちになったのです。
チェスを行い、勝てば勝つほどに加速度的に強い相手が出てきます。一度負ければもう終わり。そんな崖っぷちで彼は、ゾッとするような成長速度を見せつけました。
とにかく相手をよく見ている。盤面をよく見ている。駒をよく見ている。吸収速度が異常と言うべきなのでしょうか。トン、トンと無機質に駒を動かし、終始何の感情も見せず彼は『当たり前』のようにプロのプレイヤーを打ち破りました。
その姿はあまりにも鮮烈すぎて、今でも目を瞑ればその時の光景が完璧に流れます。そして清隆くんの影響を受けて、私はチェスを始めました。
単なる憧れか、それとも対抗心からか。それも自分では判断がつきませんでしたが、一つ確かなのは『あの人と戦いたい』という気持ちが心の芯に湧き出し、形を成したこと。
私は彼の姿を思い出しながら、チェスのルールブックをしっかりと読み込み、基礎はもちろんこれまでの歴史でたくさん生み出されてきた戦法を記憶し、それを基に新たにオリジナルの戦法をいくつも考えメモに書き起こし、それらをさらに複雑に組み合わせたりして地盤を整えました。
そこからはひたすら対戦です。コンピューターを利用してAIと対戦したり、今の時代はインターネットで世界中のアマチュアともプロとも気軽に対戦できます。義務教育の範囲などとっくに終わらせている私はひたすらチェスに耽って、たまに高校や大学の入試問題を暇つぶしに解いたりなどして生きてきました。
しかしどれほど勝利しても、インターネットの掲示板で『謎のチェスプレーヤー』として騒がれても、あの日の清隆くんの先にある世界は一向に見えてきませんでした。勝っても勝っても渇くばかり。勝利に飽き飽きしながら、勝利に飢えていた私は『清隆くんと戦うことでしかこの飢餓感は発散できない』という結論に至り、そこからはイマジナリー清隆くんを作り出して対戦を繰り返しました。
清隆くんならこうする、清隆くんならこう動かす、清隆くんならこう防ぐ……そんなことを考えながら一人チェスを繰り返すうち、私の記憶に清隆くんが現れるようになりました。
齢九か十の頃でしたか、私は確信したのです。坂柳有栖と綾小路清隆は幼馴染であると。
ええ、そうです。間違いありません。だって、こんなに私たちは狂ったようにチェスを繰り返しているんですから。私たちはお互いを理解しています。私は天才であり、彼は作られた天才。そこに差はありません。
チェスをしない時間はノスタルジーに浸るのです…
清隆くんとの思い出。昔から連絡を取り合ってきて、どんな小さなことでも報告し合い、それによる喜びや悲しみを自分のことのように分かち合いました。休日には二人で遊びに行きましたね。体の弱い私を、清隆くんがエスコートしてくれました。学校では、私の貧弱ぶりを嗤い嫌がらせをしてくる有象無象から、清隆くんは前に立って私を守ってくれました。
公園ではベンチで私の手作りのお弁当を美味しいと言って食べてくれましたね。あの時のあなたの笑顔が、今でも私が自炊をする理由になっているのですよ。
時々私がつまずいて転びそうになった時、あなたは私を抱き止めて助けてくれましたね。助かりはしましたしありがたいことこの上なかったのですが、抱きしめたまま心配の言葉をかけてくるものですから私は胸がいっぱいになってどうにかなりそうでしたよ?
帰り道、あなたと手を重ね合わせて夕陽に向かって歩いて行ったのも忘れられません。あなたの温もりが伝わってきて私は幸せでした…。
初めて出会ったあの日の白い部屋。そこで私たちはたくさん喋って、遊んで、笑い合って、時には喧嘩をしましたね。流した涙さえかけがえのない思い出として、心のアルバムに残っています。
まるで赤ん坊の頃から清隆くんと育ってきた気さえ…いえ、育ってきました。なぜなら、こんなにも清隆くんとの美しい思い出があるのですから。これほど仲の良い二人が、出会ったこともない他人だなんてありえません。
私たちの仲はもう親友をも超越した先にあります。その思考が間違っているはずはありません。なぜなら、私は天才なのですから。
白い部屋にいる幼馴染と、血の繋がりをも超えた運命の絆で結ばれている私は清隆くんのことを想いながら高度育成高等学校に入学しました。
クラス分けを見て私は自分の認識が間違っていなかったことを理解します。Dクラスに私の幼馴染、綾小路清隆の名前があるのですから!
AとDで教室が離れているのは寂しいですが、同じ学校にいるというだけでドキドキが止まりません。しかも、この学校は三年間外に出ることができないので常に彼と同じ空気を吸えることになります。これに喜ばずして何を喜べと?
しかし、こうも思いました。『清隆くんの方から来てほしい』と。ほら、私は体が弱いですから。こちらから出向かせるなんて、気遣いが足りてませんよ。赤ん坊の頃から共に育った幼馴染ですからね、その辺りは彼もよく理解しているはずです。
ところが幼馴染は何日経っても会いに来ませんでした。こんなのはおかしいです。
あまりにも退屈なのでとりあえず暇を潰すためSシステムの真相を看破して口止め料をぶんどり、万引きをしていた真澄さんを便利な足にして、さらにAクラスのリーダーに立候補し、わざと攻撃的なやり方を示すことで葛城康平くんと対立して派閥間闘争を起こしたのもまあいいですが、どうも刺激に欠けていました。当然ですね。常に同じ時、同じ太陽の下に過ごしてきた幼馴染がいないのですから。清隆くんがいない学校生活なんて退屈が過ぎます。大量のポイントも、清隆くんがいないと思えば無価値そのもの。私は太陽を失った太陽系のように暗く寒い世界に取り残されていました。
ついに一ヶ月経っても来なかったので、痺れを切らした私はこちらから出迎えることに決めました。断じてキヨタカニウムが足りなくなったとかそんなことはありません。毎回夕飯に回っていくもう一人分のお弁当に耐えられなくなったということもありません。天才の私がそう言うのですからそうなのです。
真澄さんに清隆くんを呼び出させ、私はプンプンしつつもワクワクしながら幼馴染の来訪を待ち望んでいました。
そしてついに運命の時が来たのです!
「お久しぶりです清隆くん。31日と13時間43分52秒ぶりですね」
「あんたがオレを呼び出したのか?」
変なことを言いますね。まるで初対面みたいに。ですが、幼馴染の一ヶ月ぶりの感動的再会です。今にも抱きついてやって私がどれだけ寂しかったか通しで三日間教え込んでもよかったのですが、今はグッと堪えて微笑みかけます。
「はい。まったく、私は怒っているんですよ。あなたに会えなかった一ヶ月間、それがどれほど無機質であったか。まるであの白い部屋のよう」
そう言った途端、彼は凄まじい殺気を放ってきました。一瞬動揺してしまいましたが、すぐに調子を取り直します。
「オレを連れ戻しに来たか?」
「あんなところに何があると言うのです。まあ、あなたと一緒ならどこでも楽園でしょうけど」
「…ふざけてるのか?」
…やはり何か変ですね。なぜ彼は初対面のように振る舞うのでしょう?あんなに濃密な時間を過ごしてきたというのに。あなたとのチェスは一戦たりとも忘れてなどいませんよ?全ての戦いを、チェス盤さえあればいつでも再現できます。
「清隆くん?一体さっきからどうしたのですか?もっと他に言うことがあるでしょう?」
そう、『オレの有栖、待たせて悪かった。今日の夜は一緒にいるから許してくれ』くらいのことは言ってほしいものですね。欲の出し過ぎはいけませんが。
「さっきからどうしたと言いたいのはオレの方だしそれもオレのセリフだ。お前が何を言いたいのかさっぱりわからない」
清隆くんはそう言ってため息を吐いてしまいました。ちょっと、ため息をつきたいのはこっちですよ。流石にイジワルがすぎるのでは?好きな子にイジワルをするのは小学校まででしょう?これはお仕置きが必要かもしれませんね。
しかし今は抑えましょう。もしかしたら、本当に忘れている可能性もあります。可能性として存在する以上見過ごすことはできません。
「清隆くん…もしかして私のことを忘れているのですか?」
「忘れるも何もお前の姿形も声も何もかも覚えがない」
そんなひどい。…ありえません!このようなことは!
「なぜ?なぜ忘れてしまったのですか!私たちは幼馴染のはず…!」
「冗談だろ。オレはお前のことなんて知らない」
「清隆くん?そろそろ本気で怒りますよ?」
「話は終わりか?時間の無駄だったな」
そう言って清隆くんは背を向けて去って行ってしまいました……。
…なぜ?なぜなのですか?嘘だと言ってください、清隆くん。今ならまだ許してあげますよ。まるひと月は私の手や頬、頭に触れ続けていなければいけませんが。
しかし清隆くんは戻ってきません。
嘘…こんなことは…ありえない。本当に…忘れられてしまっているなんて。
「い、いま、なら…今なら……」
それ以上の言葉はもう紡げませんでした。喉がひどく乾いて、舌もうまく動きません。歯がカチカチと震えて音を鳴らしています。
私はへなへなと力なく座り込んでしまいました。目頭が熱くなり、ひどく冷たいものが頬を伝って地面に滴り落ち、円形のシミを作っていきます。
「まって、ください……きよたかくん…」
今日までの思い出がひび割れ、ガラガラと崩れ落ちていくよう。全てが闇の世界に閉じ込められたよう。涙が溢れて溢れて、止まらない。ぬぐってもぬぐっても、また流れてくる。
幼馴染という、清隆くんという太陽を完全に失い、私はどうすることもできないまま死を待つのみの木偶の坊も同じの存在となりました。
しかし、そこに彼女は現れました。
「大丈夫?坂柳さん」
「ひっく……い、いち、のせ、さん…ぐすっ」
一之瀬帆波。確かBクラスのリーダー格で、クラス問わず人望の厚い人格者のはず。クラス闘争で余興にいたぶるぐらいしか価値はないと思っていましたが…その認識を私は改めさせられるのです。
「ごめんね、実は全部聞いてたんだ。坂柳さんと綾小路くんが幼馴染だなんて、知らなかったなあ」
……そうですよ、私と彼は…幼馴染なのです。
こんな情けない姿を見られてもう死んでしまいたいと思っていましたが、彼女は私に優しく寄り添ってくれました。
「でも、綾小路くんはひどいね。頭も良くて、可愛い幼馴染を…坂柳さんを忘れちゃうなんて」
「くすん…うぅ、……ええ。ほんとうに、ひどい人…」
なんとか涙を堪え、優しく背中を撫でてくれる一之瀬さんに私は縋りつきました。普段なら絶対に見せないような弱い姿を見られていることも気にならない。
「あのね、私にも幼馴染がいるんだ。悪原九郎くん、ていうんだけど」
──悪原九郎。
その名に嗚咽も涙もピタリと止まる。私より早くSシステムとAクラスの特権を見抜いた男子生徒。極めて優れた思考能力、非常に高い身体能力。おそらくは、私と同じ天才に分類される人間。
彼のことは色々と興味があり、真澄さんに調査してもらったのはもちろんとして私自らも少し動きましたが…そういえば彼は、清隆くんと仲が良かったはず。
「私ね、昔バカなことしちゃってさ。九郎くんから嫌われちゃって、すごく泣いたし、死にたいって思った」
「でも今はこうして生きてるし、償うために九郎くんのためになんでもしたいと思ってる」
「けどさ、そのためにまず邪魔者を取り除く必要があるんだよね」
縋りついた私を抱き返してくれた一之瀬さんの表情は窺えない。でもきっと悪いものではない。そう思えたのです。
そして、彼女の言葉で私は彼女が何を求めているかをすべて、理解しました。
「……だから手を組もう、と?」
私の言葉に一之瀬さんはフフフと笑って実質的な肯定の意を見せます。普段見せている様子とはずいぶん異なっていましたが、今の一之瀬さんの方が魅力的だな、と私はぼんやりそう思いました。
「悪い話じゃないでしょ?私にとっては綾小路くんは邪魔だし、坂柳さんにとっては九郎くんが邪魔になる。そこでお互い協力して、二人を引き離せばハッピーエンドまで一直線。そうは思わない?」
「綾小路くんが坂柳さんのこと忘れちゃったのもさあ、まだ取り返しはつくと思うよ?償うしかない私とは違って、坂柳さんには取り戻せるチャンスがある」
「お互い幼馴染に見捨てられた独り者。好きな人が離れていくことがどんなに辛いかは私も君も理解できてる」
「一緒に幼馴染を取り戻そうよ。誰も不幸になんかならないよ。むしろ、本来あるべき状態にしようとするんだからこれは正義の行いだよ。バラバラになっちゃった運命を、力を合わせて元に戻そうよ。一人じゃ無理でも、仲間がいればきっとできるよ」
「……」
思わず考え込んでしまった私に、一之瀬さんは甘い甘い言葉をかけてくる。
「考えてみようよ坂柳さん。君はいまとっても辛い思いをしてるよね。今は私がいるけれど、それはおかしいよね?辛い思いをして、悲しい気持ちになってる坂柳さんをこうして寄り添って、抱きしめて慰めてあげるのは本来、幼馴染の綾小路くんがすべきことのはずだよね?」
想像してみる。今私を抱きしめて甘い言葉をかけてくれているのが、清隆くんであるなら……
──ゾクッ
……いい。
──ゾクゾクゾクッ
なんて……快感。
──『有栖。』
這い登ってくる、この凍りつくような幸福感。
……そうだ、今の状況はおかしい。私が辛い目に会っている時、助けてくれたのはいつも清隆くんだった。なのになぜ今は一之瀬さんが?私の幼馴染の…清隆くんではなく?
天才の頭脳が、答えを導き出します。
「そうです…こんなことは、間違っています」
「そうだよね。おかしいよね。元に戻すために、坂柳さんはどうするの?」
私は一之瀬さんから離れ、彼女の暗い目を真っ直ぐに見て答えます。
「協力しますよ」
一之瀬さんはニッコリと笑いました。
「私も辛いですが、一之瀬さんも辛い思いをしてきたのですから。微力ながら、この坂柳有栖。あなたに力をお貸ししましょう。その代わり、あなたも力を貸してくださいね」
「もちろんだよ。そしてありがとう、坂柳さん。きっとそう言ってもらえるって信じてたよ」
私と彼女は手を取り合い、固い握手をして同盟を結成しました。嬉しいことです。一之瀬さんは笑顔です。私もきっと笑顔です。
けど、今の私の目はどんな風になっているのでしょう?
…いえ、瑣末な問題ですね。
今私がすべきこと。これから私が成すべきこと。
それはもう一人の天才である、悪原九郎から私の幼馴染、綾小路清隆を取り戻すこと。そして、清隆くんには私がどんなに辛い思いをしたのかよく理解してもらう必要があります。私の想いを、ようく理解してもらわないといけません。
かと言って悪原九郎の排除は簡単ではないでしょう。まず彼がどれほどできる人物か、データを集める必要がありますね。それまでは物理的に離れさせるような手段を使いますか。本格的に関係を破壊して清隆くんを取り戻すまでは長そうですが、焦ってはいけません。落ち着いて思考するのです、坂柳有栖。
相手は、私と同じ天才なのですから。
……そして、幼馴染を取り戻した時。まずはチェスをしましょう。この一ヶ月、新しい手がどんどん思いついてウズウズしてるんです。
──あなたに、リザインを宣言させる時が楽しみですよ。
普段よりボリュームが少ないのは、申し訳ないです…。