ブラック・ブレット8 Träume 破滅の病巣   作:鏡之翡翠

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第n章 世界変革の銃弾 裏
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 東京エリア中に戦争の気配が漂っている中、そんな空気を一切斟酌(しんしゃく)しない天候は晴れ渡り、晩夏(ばんか)の虫の合奏(がっそう)は、全方位からそこに立つ人間を押し包むようだった。

 藤沢(どうざわ)リカルドは容赦なく降り注ぐ陽光に思わず目を細めた。半分閉じた(とぶた)の裏側に、全く減衰(げんすい)した様子のない光が焼きつく。筋肉質な体の(いた)るところに汗の玉が浮かび、それに比例して(のど)が干上がったように(かわ)く。

 家を出る前にシャワーを浴びたはずだが、もはやそんな事実はなかったかのように髪と肌はベタつき、男性特有の体臭が漂っている事だろう。全く嫌になる。

「ちくしょうめ。傭兵(ようへい)稼業(かぎょう)も楽じゃないな……」と(かす)れた声でひとりごちる。上半身を包むオリーブドラブのミリタリージャケットの(あつ)生地(きじ)の感触が不快(ふかい)極まりない。しかし、これがなければ、他人に見られてはいけないものの数々を隠せなくなってしまうので難儀(なんぎ)なものだ。

 黒のカーゴパンツと、同色のブーツタイプの安全靴(あんぜんぐつ)も、この灼熱(しゃくねつ)日光(にっこう)を余す事なく吸収し、生地の内側をサウナのごとく()し焼きにしてくる。

 左脇(ひだりわき)のホルスターに仕込んだSIG P220(九ミリ拳銃)や、腰の真後ろに(おさ)められた軍用ダガーナイフのシルエットが、ジャケットの裏側から浮き出てこないかと若干(じゃっかん)心配になるが、行き交う人々の視線は一瞬たりともリカルドへ向けられる事はなかった。

 ――まあ、一般人に見られて(こま)るもんじゃないよな。

 直近に起きた『第三次関東会戦(だいさんじかんとうかいせん)』――東京エリアの総力(そうりょく)()げて『ガストレア』なる怪物(かいぶつ)と、滅亡(めつぼう)瀬戸際(せとぎわ)を争った一件で、東京エリアの民間警備会社(みんかんけいびがいしゃ)自衛隊(じえいたい)は壊滅的被害を(こうむ)ったが、それでも今現在も残存(ざんぞん)した戦力はこの地を守り続けている。

 民警(みんけい)の社員は、今でもそこかしこで見かける。彼らは一様にワンオフの装備をぶら下げており、銃火器から刀剣類まで凶器の種類には枚挙(まいきょ)(いとま)がない。

 そんな連中が日々闊歩(かっぽ)する二〇三一年の現代において、武装した人間を不審(ふしん)に思う者はほとんどいなくなったと言っても良い。そもそも家屋内(かおくない)であれば、一般人の銃の携帯(けいたい)さえ認められているのだから。

 リカルドは熱波(ねっぱ)でローストされそうな脳味噌(のうみそ)を何とか稼働(かどう)させ、脳裏(のうり)に描いた地図の通りに勾田町(まがたちょう)の道を()く。リカルドの地図の精度がスマートフォンにプリインストールされているナビアプリと比べて、どれほど優れているのかは分からないが、どうやらもうすぐ目的地に到着するらしい事は確信できた。

 眼前に迫った景色を見上げる。

 背の低い雑居(ざっきょ)ビルが立ち並ぶ区画(くかく)――その片隅にひっそりと屹立(きつりつ)する建造物の最上階(といっても四階だが)の窓ガラスには大きく『横島民間警備会社(よこじまみんかんけいびがいしゃ)』のロゴが見て取れた。

 リカルドはようやく()いたのだと安堵(あんど)すると共に、(すた)れた屋舎(おくしゃ)のガラス戸を押し開ける。今どき自動ドアですらない扉は、蝶番(ちょうつがい)部分が()びて劣化しているのか、鼓膜に不快な音を響かせながらリカルドを迎え入れた。

 風俗店のチラシが散乱する床を踏み締めながら奥へと進む。

 やはりというべきか、廊下(ろうか)に空調の(たぐい)はしつらえてはいないらしく、さすれば外以上の熱気が充満していた。思わず吐き気を(もよお)しそうなほどの空気が気道に(まと)わりついた。

 右手にエレベーターはあったが、もはや定期点検がいつ成されたのかも分からないようなものを使う気には到底(とうてい)なれず、リカルドはどんつきにあったスチールの鉄扉(てっぴ)を開けて、外壁に設置された外階段の踊り場に出る。

 こちらもまともな手入れがされずに塗装は()げ、そこかしこに(さび)が見受けられたが、エレベーターに乗るよりはマシだろうと言い聞かせて足を踏み出す。

 おそらくはテナントの入っているフロアがガンガンにエアコンをかけているのだろう。フル稼働する室外機と、錆びついた階段板が(きし)む音の二重奏を聴きながら上階を目指す。

 鍛え上げた肉体が筋肉の疲労ではなく、暑さでやられそうになりながらも階段を登り切り、最上階の鉄扉の前の踊り場に辿り着く。リカルドは熱されたノブに手をかける前に、少しばかり高くなった場所から、雲一つない空の下に広がる東京エリアの景色を一望(いちぼう)する。

 繁華街(はんかがい)の高層ビル――それよりも圧倒的に高く(そび)え立つシルエットがより遠くに確認できる。

 モノリス。

 縦に一. 六一八キロメートル、横に一キロメートルある長方形の巨大な黒壁(こくへき)。それが奇怪な現代アートのように一定の間隔を置いて点在している。

 ガストレアに敗北した人類に残された最後の生存圏を守る(とりで)

 唯一(ゆいいつ)ガストレアに対抗する事が可能な物質――バラニウム金属で造られた防壁があれだ。

 モノリスは関東平野(かんとうへいや)――元東京都(とうきょうと)、元神奈川県(かながわけん)、元千葉県(ちばけん)、元埼玉県(さいたまけん)の一部にまたがって、上記の地域を取り囲むようにして存在している。

 ガストレアはバラニウムの発する特殊な磁場(じば)を極端に忌避(きひ)する。それに囲まれた空間に(とら)われ続けると衰弱死(すいじゃくし)してしまうほどに。この磁場が防壁となり、東京エリアへのガストレアの侵入のほとんどを(はば)んでいるのだ。

 東京、大阪(おおさか)仙台(せんだい)博多(はかた)北海道(ほっかいどう)――上記の五つの地域以外は、すでにガストレアによって徹底的に蹂躙(じゅうりん)され、人間の生存可能な条件は根こそぎ排除されている。もちろん、日本以外の地域も状況は似たようなものだ。

 五つに分かれたエリアは二〇三一年現在、独立国として扱われ、人の行き来もかつての時代のような旺盛(おうせい)さはない。それぞれの国家元首が常日頃から(にら)み合い、いつその均衡(きんこう)が崩れるかも分からない状態だ。

 リカルドは苦笑し、「いや……もう崩れちまってるのかもしれないな」と(こぼ)した。

 鉄扉を開けて四階フロアに入る。予想していた通りの()もった熱が歓迎(かんげい)してくる。

 リカルドは足早に事務所の扉の前まで向かうと、ノックする事もなく開け放った。

 さながら別世界に迷い込んだかのごとく、人間の感じる最適温度まで冷やされた空気が頬を叩いた。

 川の清流(せいりゅう)で顔を洗った時のような心地良さが顔面を包む。ここに来るまでに大量に発汗していたのも(こう)(そう)したのだろう。気化熱(きかねつ)によって、たちまちに血液の温度が下がっていくのが感じ取れた。

「あ、いらっしゃいませ。藤沢(どうざわ)さん」

 地獄の旅路(たびじ)を終えたリカルドを出迎えたのは、可愛らしいソプラノボイスだった。

 物こそ多いが、それなりに掃除は行き届いた一〇(じょう)ほどの事務所内のデスクに、小学生くらいの女の子が座っていた。

 小動物のようなくりくりとした(ひとみ)とサラサラの黒髪のボブカット。どこかセーラー服を思わせるような、空色の(えり)を持つ白地のワンピースに(そで)を通しており、胸の前にあしらわれた襟と同色のリボンタイが清楚(せいそ)さを(かも)し出している。黒のローファーと彼女の白い脚のコントラストが、とても良く映えていた。

「久しぶりだな、美梨(みり)ちゃん」とリカルドは先刻(せんこく)までの、今にも天に召されそうだった覇気のない顔を引っ込め、柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべて少女に挨拶(あいさつ)する。「横島(よこじま)の奴と約束があるんだけど、何か聞いてるか?」

 (たず)ねると、美梨と呼ばれた少女は可愛らしく首を縦に振り、「はい。社長から聞いています」とボブカットを揺らした。「ただ肝心(かんじん)の社長がまだ戻ってきてなくて……」

 言われてみれば、事務所内には美梨以外の人の気配がない。

 一応は会社という(てい)でやっている事務所内を、一〇歳になったばかりの少女一人に預けるのはどうかとも思ったが、良く良く考えればあの男よりも眼前の少女の方が会社員としても優秀なので問題はなかったと思い直す。

 リカルドはミリタリージャケットを脱ぎつつ、「それで横島は?」と問う。

「お昼ご飯の買い出しです」美梨(みり)は答えた。「一時間前くらいに出て行ったので、もう少しで帰ってくると思うんですが……」

「今行く事かっつうツッコミは置いといて……」リカルドは頭を()きながら、「とりあえず、あいつが帰ってくるまでここで待ってて良いか?」と美梨の方を見やった。「仕事の邪魔はしないからさ」

「いえ、私も今一区切りついたところなので」

 美梨は裏表のない微笑(ほほえ)みを見せると、自分の仕事用デスクから立ち上がった。

 部屋の一角に備えつけられた申し訳程度の広さの台所に向かい、戸棚(とだな)からマグカップと使い古されたヤカンを取り出す。「コーヒーで良いですか? それとも紅茶(こうちゃ)にします?」

「コーヒーで頼む。できればアイスが良いな」

「あはは。大丈夫ですよ。私もアイスコーヒーにするつもりだったので」

 そう言って美梨はヤカンに水を注ぐと、ガスコンロの火を着けた。

 

 

 事務所内をドリップ直後のコーヒーの(こう)ばしい香りが包む。まだ飲んでもいないのに疲れた四肢がリラックスするのを感じた。

 美梨(みり)はコーヒードリッパーに()まった深いブラウンの液体に、冷蔵庫から取り出したロックアイスを放り込み、抽出(ちゅうしゅつ)したそれを薄めながらゆっくりと冷やしていく。

「もう少しでできあがりますので、申し訳ないですけどもうちょっと待っていてくださいね」

「お構いなく。いつまでも待つさ」

 美梨は小さく笑う。「そんなにはかかりませんよ」

 リカルドは美梨の淹れるコーヒーが好きだ。彼女は趣味程度の腕だと自嘲(じちょう)するが、間違いなくそこらの喫茶店で出されるものよりも美味いと思う。

 横島がいたらこれを味わう事はできなかったと思うと、彼の留守に少しばかり感謝する気にはなる。

 すると、カランと氷が踊る音がした。音の出どころに目線を移すと、すぐ近くにいた美梨と目が合う。

「あっ、ごめんなさい……!」(ほお)を上気させた美梨が目を逸らす。「その……コーヒー、できました」

「ありがとう」

 リカルドはマグカップを受け取ると、美梨に許可を得てから応接スペースのソファに腰を下ろす。

 小さくなったロックアイスが浮かぶコーヒーを一瞥(いちべつ)してから、ゆっくりとカップの(ふち)に唇をつける。良く冷えたコーヒーが口内に流し込まれ、酸味と香ばしさが絶妙な割合でブレンドされた風味が口いっぱいに広がる。とどめに鼻腔(びこう)を突き抜ける香りが、()も言えぬ満足感を与える。

「うん」と一つ頷く。「やっぱり美梨ちゃんの淹れるコーヒーは最高だな」

「ありがとうございます……その、大した事は……ないですけど」

 やっぱり彼女はいつも通り謙遜(けんそん)する。しかし表情が悦楽を隠し切れていないのは明らかだった。

 リカルドがそんな少女を微笑ましく見ていると、勢い良く事務所のドアが開いた。

「今帰ったぞ! 美梨! 今日はアサリが安かったからな! 昼飯はボンゴレビアンコで異論はないな!? 問題なければ今から作るぞ!」

 パンパンになったスーパーの袋を抱えて現れたのは、ストライプグレーのスーツに身を包んだ若い男だった。額が出るくらいまで短い黒髪は整髪料(せいはつりょう)で整えられており、スーツと相まって、見た目だけなら、やり手のビジネスマンにも見える。だが短い付き合いながらも、この男がそんな理知的な人間でない事は嫌というほど理解していた。

「…………」リカルド、美梨の両名が冷めた目つきでスーツ男を()めつける。

「何だ何だ? 怖い顔して。ボンゴレじゃあ不服か? それなら酒蒸しにでもして……って藤沢(どうざわ)じゃないか。久しいな。今日は何か用か…………――あっ」

 一瞬にしてスーツ姿の男――横島民間警備会社の社長、横島秀貴(ひでき)相貌(そうぼう)が、水死体を思わせる蒼白(そうはく)に変わる。次いで、明らかに暑さにやられて噴き出したものでない汗がどっと流れる。

 美梨が冷ややかな表情のまま横島に詰め寄り、口を開く。「……秀貴(ひでき)さん」

「……はい」

「そこに正座」

「ええと……食材冷蔵庫に入れてからでも……?」

「正座」

「はい」

 有無(うむ)を言わせず、ぴしゃりと命じた美梨に、横島は(へび)(にら)まれた(かえる)のように(おび)える事しかできなかった。

 身長一四〇センチの少女よりも低い位置で両膝(りょうひざ)を折り(たた)んだ情けない成人男性に対して、腰に両手を当てた少女はリスのように頬を膨らませて言う。

「秀貴さん、昨日私に言いましたよね? 今日の昼前に藤沢(どうざわ)さんが来るって。大事な話があるから、ちゃんと案内するようにって。どうして肝心の秀貴さんがいないんですか?」

「それは……その……」

「出て行く前も言ってましたよね。買い出しだけ済ましてすぐに戻ってくるって。藤沢さんが訪問してくる前には帰るから問題ないって」

「…………」

「今何時ですか」

「一二時半です……」

「一二時四八分」

「……はい」

「一時間近くもお客様を待たせた自覚はありますか?」

 リカルドといる時は臆面(おくめん)にも出さなかったが、どうやらかなりご立腹らしい。美梨の眼差しには塵芥(ちりあくた)ほどの容赦もない。『自分と横島達の仲じゃないか。気にせず仕事の話に移ろうぜ』などとは口が裂けても言えない空気だった。

「普段から言ってますよね。時間を守る事は社会人の基本の一つだって。どうしてそれだけの事が一度も守れないんですか」

 美梨の容赦のない理詰めの説教が続く。

 いつも通り、これはしばらく終わりそうにないなと思いながら、リカルドは残り少なくなったコーヒーに口をつけた。

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