視界が晴れ、耳鳴りが止んだ時には、すでに三人の姿はなかった。
「……逃げられましたか」ユーリャは目を何度か瞬かせながら呟く。
「賢明な判断だろう」
「大尉」
リトヴィンツェフは悠々とした様子でユーリャの方へ近づいてきた。
「申し訳ございません」と銀髪の少女は深く頭を下げた。「大尉の前でとんだ失態を……」
「構わない。数的不利が過ぎた。私が隠れている敵を警戒せずにお前を手伝えていたら良かったのだが」
「……?」
リトヴィンツェフの発した文字列の内の一部に対し、ユーリャは頭の上に疑問符を浮かべて反応する。
「お前が対峙した者達の他に、少なくとも三人いた」とハリウッド俳優のような男は、何もない虚空に視線を泳がせた。「最新鋭の光学迷彩か何かか……正体こそ分からないが、私達のすぐ近くで戦いを観戦していたお客様がいた事は確かだ」
表情にこそ出さなかったが、ユーリャは内心驚愕していた。イニシエーターとして人間以上の五感を持つ自分が、全く気づく事ができなかった気配に、彼は気づいていたというのか。
「……潜伏していた勢力はどこへ?」
訊くと、リトヴィンツェフは肩をすくめた。「さあな。イニシエーターが乱入する直前には、すでに気配が消えていた」
「そう……ですか」ユーリャは肩を落として俯く。
強烈な無力感が胸を穿った。ここまで来て、主人の手を煩わせてしまったという事実が、容赦なく少女の幼い自尊心を痛めつける。
――私は……大尉の完璧な道具で、武器であり続けなければならないのに……。
「ユーリャ」リトヴィンツェフが少女の名を呼んだ。「あの男はどうだった? 殺したプロモーターの方ではなく、もう一人の方だ」
「……多少は腕が立つようですが、力を解放した私の敵ではありません。次に接敵した際は遅れは取りません。必ず仕留めて見せます」
「それで良い」囚人服の男は薄く笑った。「お前は私の最も信頼する部下だ。『魔女部隊』――延いては元ベラルーシ最強のイニシエーター。全ては結果で示し続けろ。私と離れている間に、本分を忘れた訳ではあるまい?」
「……! もちろんです」
どうやらリトヴィンツェフは、ユーリャの僅かな感情の揺らぎを感じ取っていたらしい。不敵な笑みと共に吐かれた全ての言葉は、ユーリャの傾いだ感情を揺り戻すために計算されたものだった。
深海の色を切り取ったような深い藍色の瞳が、ちらりとユーリャを捉える。対峙する者によっては、心を鷲掴みにされて、生殺与奪の権利を掌握されたと錯覚するような視線――。それを向けられた少女の相貌が恍惚に染まる。この半年間、ずっと切望し続けていたものが、そこにはあった。
もう誰にも渡さない。――それは私だけのものだ。それを与えられるためだけに、ユーリャ・コチェンコヴァは、アンドレイ・リトヴィンツェフの優秀な道具であり続けるのだ。
「さて……それでは追うとしよう」とリトヴィンツェフは砂埃の降り積もった床に目線を落とす。砕けた床材の粉塵と欠片に混じって、点々と赤黒い染みが続いていた。「残された時間は少ない。これで仕留められなければ撤退する」
「了解しました」
血痕を辿るように動き始めたリトヴィンツェフの背中に、ユーリャは敬虔な従者としての所作で追従する。