結局、振り出しに戻ってしまった。
肩で息をするリカルドは、医務室のベッドに腰掛けた状態のまま、脇腹の傷口を止血パッドで押さえつけ、その上から包帯を巻いていく。
美梨は完全に気を失っており、隅のベッドに寝かされていた。フラッシュバンの音と光をモロに浴びたのもあるだろうが、それ以上に横島が目の前で殺されたショックの方が大きいのだろう。
「助かったぜ、警備員の嬢ちゃん」リカルドは疲れた声で礼を言った。彼の視線の先――ちょうど診察台に当たるところに、顔から尋常でない脂汗を流している少女がいた。「けど……」と僅かに言い淀む。「その傷は……」
「ああ、想像の通りさ」外ハネ黒髪の少女が薄ら笑いと共に答えた。その表情が痩せ我慢に由来するものである事は嫌でも分かる。「アタシはもう助からない」と自らの腹部を見やる。
猛獣の爪に引き裂かれたような悍ましい跡。リカルドとは比較にならない深い傷の下から、今もなお止まる事なく血液が溢れ出していた。もはや血管だけでなく、生存に必要な臓器の類も致命的なダメージを負っている事だろう。思わず目を逸らしたくなる有様だった。
「最初の会敵の時に、あの銀髪のイニシエーターにやられた」少女は忌々しそうに歯軋りする。「バラニウムの再生阻害のせいで応急処置もままならない……。痛み止めで無理矢理誤魔化してるけど……たぶん、もう一時間も保たないはず」
「くそっ……」
自らの無力感に打ちひしがれる。最悪な気分だった。目の前で友人を殺され、自分を助けてくれた恩人さえもすでに手遅れときた。
リカルドは俯きながら、「何で俺を助けたんだ?」と問う。「あの土壇場で閃光弾と痛み止めまで渡して……」
黒髪の少女は、ユーリャ・コチェンコヴァとリカルドの戦いに割り込んだ際、特殊音響閃光弾と薬液の入った注射器を投げ渡していた。自らの体を視線を遮る壁代わりとし、怒号に注目させ、乱暴に振った腕――投げ渡す動きから注意も逸らさせた上で。
それがなければ、リカルドは動く事もままならなかった。彼女が手渡してくれた閃光弾がなければ、逃げ出す事さえ叶わず嬲り殺しにされていた。
黒髪の少女は苦虫を噛み潰したような顔で、「頼みたい事があったからさ」と言った。「アンタ……民警じゃないでしょ?」
「ああ。俺は違う。あの子のプロモーターは……さっき殺された奴だ」
「やっぱりね。アタシの見立てに間違いはなかった」少女の瞳に微細な光が宿る。「アタシは占部里津。序列元五五〇位のイニシエーターよ。アンタは?」
「藤沢リカルド。元陸上自衛隊。今はしがない傭兵だよ」
「傭兵……傭兵か……」と里津は今にも死にそうな顔で無理矢理笑みを作った。傷口から血が滴るのも構わず、診察台から立ち上がり、吐息がかかるほどの距離まで詰め寄ってくる。鉄錆の臭いと、少女特有の甘い体臭が、リカルドの鼻を突いた。「傭兵ってさ、金さえ積めばどんな依頼でも受けて戦ってくれるんでしょ?」
「そりゃあ、さすがに買い被り過ぎだ。現実の傭兵なんて大したもんじゃない。自分の力量に見合った相手とやり合って小金を稼ぐだけの生き汚い連中だ」
そうだ。藤沢リカルドは単なる臆病者で卑怯者だ。何も変えられず、誰も救えず、課せられた責任全てから逃げ出して――こうしてまた何もかも失った。
「俺には何もできない。残念だが、いくら積まれようが、嬢ちゃんの頼みが何であれ聞き入れる事はできないんだ」
「あっそ。……それなら、やり方を変えてあげるよ」里津の声のトーンが一つ下がった。
瞬間、彼女は右手に持った曲刀を振るい、リカルドの首筋にピタリと刃を押し当てた。氷のような冷たさが皮膚を撫で上げる。
「交換条件だよ。アタシの頼みを聞き入れなきゃ、このまま首を落とす。死にたくなかったら……」
「そいつは困るな」リカルドは力なく笑った。「ここで死んじまったら、嬢ちゃんに拾ってもらった命が無駄になっちまう」
「……馬鹿にしてんの?」里津は眉間に皺を寄せる。
「大真面目さ。金で動く理由はないが、義理で動く理由はある」
「…………」
「とはいえ限度はあるぞ。あの銀髪の子や顎割れ男を嬢ちゃんの代わりに殺してくれと言われても、俺の実力じゃどうにもならない」
唇を引き結んだ里津は、しばし沈黙したのちに曲刀を取り下げた。「アタシが頼みたい事は一つだけ……。アタシの妹を守ってやってほしい」
「妹?」
「占部里緒……アタシの双子の妹。一応はイニシエーターとして公的身分を与えられてるアタシとは違って、まともな戸籍もない。だから内地では暮らせない。要するに……」
「外周区のマンホールチルドレンか」
里津は頷く。「旧品川地区外周区……そこのさらに奥の廃墟で里緒は暮らしてる。なあ頼むよ……! アタシが死んだら里緒を一人にしちまう……! それだけが心残りなんだ……」
「…………」
意図的か無意識かはさておき、里津は妹について明言しなかった点が一つある。それは彼女の妹が『呪われた子供達』か否かという事だ。
母体がガストレアウィルスを経口摂取するのが『呪われた子供達』が生まれる必要条件の一つなのは確かだ。しかし絶対ではない。先述の条件を満たしていたところで、必ず生まれる幼子が、赤目になる訳ではない。
すなわち。
双子の姉が『呪われた子供達』であったとして、妹もそうであるとは限らないのだ。
リカルドがその仮定に思い至る事を予期していたのかは定かではないが、里津はその事について言及はしなかった。
だが、おそらくは占部里緒もそうなのだろう。双子の片割れが普通の人間であれば、こんな状況には陥っていないはずだ。人目を忍んで外周区で生きる必然性などなく、そもそも両親と決別して姉妹二人だけで生きていく事もなかった。
彼女らは、この歪んだ世界の犠牲者だ。リカルド達大人が解決しなければいけなかった問題の数々を、無理矢理その小さな背に負わされ、華奢な細腕では抗い切れぬ理不尽を押しつけられる。
今にも世界に押し潰されそうになっている少女達が、最後の抵抗とばかりに伸ばした手。それを振り払う事は、人間の心の最奥に残った良心を根こそぎ滅却するに等しい。
そこまで自分という存在を見限った覚えはない。
リカルドは真っ直ぐ里津と目を合わせて、「分かった」と応えた。「嬢ちゃん……いや、里津ちゃんの最期の願い。俺が承った。約束する。里津ちゃんの妹は俺が責任を持って、このくそったれな世界から救い出してやる」
「……ふふっ、……あははっ。何よオッサン、格好つけちゃって」
思わず里津が吹き出していた。常に剣呑な雰囲気を纏っていた彼女だったが、やはり笑うと普通の女の子だった。
「からかってくれるなよ」リカルドは苦笑する。「男って生き物はな、レディーの前じゃ格好良く振る舞いたくなるもんなんだよ」
「レディーって……アタシまだ一〇歳だけど?」
「こんなむさ苦しいオッサンに真正面から脅迫かませる子は、もう十分大人だろ」
「褒めてる? それとも貶してる?」
「もちろん前者」
「はは。全く……調子狂うわね」ひとしきり笑ったあと、里津は改めて赤い瞳をこちらに向けた。「――信じて良いんだね」
「当然だ。約束を守るのが社会人のマナーだからな」
「分かった。信じるよ」
心に蟠っていたつかえが取れたためか、里津は穏やかな表情を浮かべて立ち上がる。彼女が何をしようとしているのかは手に取るように分かった。
「旧品川外周区にある大学病院跡……そこの非常階段近くのマンホールを訪ねれば良い。留守だったら戻ってくるまで待っとけ。それで里緒には会える」
里津は踵を返し、おぼつかない足取りで出口へと向かっていく。望みを託し、死へのカウントダウンが始まった彼女に唯一できる事――それは自身の命を燃やし切って次へと繋げる事だ。
端的に言うのなら時間稼ぎのための囮。リカルドを逃がすため、里津はその身を盾に立ち塞がるつもりだ。こうしている今も、リカルド達を始末するために追跡してきているだろうユーリャ・コチェンコヴァ達に――。
「アタシが奴らと接触したら、そこの眠り姫連れて死ぬ気で逃げ回れ。増援さえ到着すれば、この混乱は治まる。そうなんでしょ?」
リカルドは慇懃に頷いてから、里津を再度視界に収める。「……頼んだ」
「はッ、こっちの台詞だっての」
それが――リカルドが最後に見た占部里津の生きた姿となった。
午後一〇時三八分、洋上刑務所にて服役していた囚人三八〇名が脱獄。
彼らは逃げ遅れたスタッフや、メガフロートの住人合わせて一二〇名を人質に取って現地を占拠。
身代金とエリア外への逃亡を要求し、決められた時刻より一時間遅れるごとに人質を殺害すると宣言。
現着した警察官達の交渉も虚しく、人質の内一名が射殺される。
午前零時一五分、事態鎮圧のため、人工浮揚島の裏から特殊部隊が突入し、モニター管制室を奪還。
SATの突入によって錯乱した脱獄犯達により、人質から追加で四人の犠牲者が出る。
午前五時三〇分、アンドレイ・リトヴィンツェフを除く全ての脱獄犯を無力化、制圧完了。
件の囚人及び、彼の脱獄を幇助したと見られる一派は発見されず、SATの突入前に人工島を立ち去ったと見られる――。