空気が冷たい。日中とは比べものにならないくらいに気温が冷え込んでいた。
未だ耳鳴りが止まない耳孔に、爽やかな波の音が無遠慮に入り込んでくる。東から昇った朝日が生気を失った両目に沁みる。
「…………」リカルドは、ただ茫然と立ち尽くしていた。
先刻目にした光景が、一時間以上経っても脳裏にこびりついて離れない。
特殊部隊によって制圧されたメガフロート刑務所の中は、惨憺たる状況だった。囚人と刑務官達が苛烈な戦いを繰り広げた跡が至るところに見受けられ、両者の死体がそこかしこに散乱していた。SAT突入後にはさらに激しい銃撃戦が展開されたため、壁や天井には無数の弾痕が穿ち込まれていた。
ほとんどの特殊部隊員が撤退したあとも、人工島内は鑑識、所轄警察官、機動捜査隊などの面々で溢れており、皆一様に疲弊した表情で業務に当たっていた。
刑務所へ続く長い桟橋の上で、建物を仰ぎ見るリカルドは眩い陽光に思わず目を細める。
結論から言えば、リカルドと美梨はこの夜を生き延びた。
医務室で里津と別れたのち、ユーリャ・コチェンコヴァ達と接敵する事はなく、一晩中刑務所内を駆けずり回りながら脱獄犯達との戦いに明け暮れた。
ほどなくして特殊部隊の増援が到着し、最初に接触できた部隊員に事情を説明して美梨を保護してもらった。
事態が沈静化したあとに警察と共に現場を見て回っていた際、リカルドは占部里津と再会した。すでに事切れ、物言わぬ肉塊と化した彼女に――。
モニター管制室で倒れていた里津の腹部には、元々の傷を上から塗り潰してしまうほどの裂傷が刻まれていた。タイル地の床には赤黒い臓物が撒き散らされ、彼女を中心に乾いた血液の花が咲いていた。足を向けて寝られないほどの絶大な恩があるのにも関わらず、里津からは思わず鼻を摘みたくなるほどの悪臭が漂っていた。晩夏の外気に晒されて腐敗した内臓から発せられる臭いだった。
彼女の命にとどめを刺したのは、間違いなくユーリャ・コチェンコヴァだ。鋭い爪を持つ猛獣に引き裂かれたような痕は、あの銀髪の少女にしか作り出す事はできない。
生命活動の停止した少女の相貌を頭に思い浮かべ、リカルドは奥歯を噛み締めた。「……何でだよ」
「何がだ? 銃刀法違反のゴロツキ傭兵さんよ」不意に横合いから不機嫌な声がかかった。四角い顔に黒縁の眼鏡をかけた初老の男だ。風通しの良さそうな半袖シャツに、濃い色のチノパンを履いている。
この現場の責任者を務めている本庁の警視、阿久津義建だった。
「俺を捕まえにきたのか? 阿久津さん」
リカルドが問うと、阿久津はあからさまに不機嫌な表情を見せる。「普段なら問答無用で豚箱にぶち込んでやるんだがな。さすがに今日はそこまで手も回らねえ。それにテメエに助けられたって証言してるスタッフが大勢いるんだ。不本意だが、そんな状況で手錠でもかけようものなら、また警察の信用は地に落ちる」
「感謝します」
「ふん、全く……櫃間総監共のせいですっかり警察も息苦しくなっちまった」
「SATが鎮圧した死体の中に、侵入した連中はいましたか?」
「いいや」かぶりを振る。「生き残った刑務官の証言によると、占部里津にやられた奴もいたそうだが、そいつの死体さえ見つかってない。おそらくだが監視カメラ含めた電気系統が復旧する前に、くたばった仲間も連れて脱出してる」
「侵入者達の……いや、脱獄したアンドレイ・リトヴィンツェフ達の足取りは?」
「掴めてたら、とっくに東京エリア中に捜査の手を広げてる。全く見当もつかねえから、未だに現場で痕跡探してんだ」
「……阿久津さん」と、おもむろにリカルドは切り出す。「もし俺が……奴らの向かう先に心当たりがあるって言ったら、どうしますか?」
「……冗談抜かしてんなら、この場でとっ捕まえんぞ」
太い眉根を寄せて阿久津が凄むが、リカルドは怖気づく事なく、「確証はありません。これはあくまで俺の推測でしかない」と前置きする。「ただ、このまま手をこまねいていて良い状況じゃない。そうでしょう?」
「……ちっ」阿久津は黒縁眼鏡の奥にある瞳に、剣呑な色を宿す。
現場検証をしていく中で、警察や刑務官からアンドレイ・リトヴィンツェフなる人物が何者なのかは聞いていた。
東京エリアの政治家を始めとする権力者に近づいて賄賂を渡し、他エリアとの戦争をも辞さない過激派に転向するように仕向けるスパイ。また、同地域の重工業、経済、それらを含む国力を調査、解析してロシアに報告していたとされ、彼を支援する工作機関さえもいたらしい。
そんなアンドレイ・リトヴィンツェフが仲間の手を借りて脱獄した。
今現在、東京エリアが陥っている危機と彼を結びつけてしまうのは早計な判断だろうか。いずれにせよ、そんな危険人物を今野放しにしておいて良い理由は存在しない。
阿久津は腕を組んで、少しの間考える素振りを見せてから、「分かった」と言った。「テメエの考えを聞いてやる。着いてこい。会わせたい奴がいる」
「会わせたい奴?」
「さっきから現場を荒らしてくれてるクソ野郎がいるんだよ」ぶっきらぼうに言う。「そいつもアンドレイ・リトヴィンツェフの足取りを追ってる。……気に入らねえが、奴を追う上で戦力になるのは確かだ」
阿久津に連れてこられたのは、刑務所内にある食堂だった。厨房から芳醇なスパイスの香りが漂っている。何人かの警察官が、カレーの盛られた皿を手にしているのが確認できる。
「ちょうど良い。ついでに朝飯にするか」阿久津が厨房を覗き込む。「傭兵、テメエも食うだろ」
同意を求められるが、あの凄惨な現場を見たあとに食欲は湧いてこない。あくまで仕事としてここに来ている阿久津と、当事者としてこの場にいるリカルドとでは感覚が違うのだろうが、やはり警察官の心臓は強靭らしい。
とはいえ無碍にするのも忍びないので、リカルドは控えめに頷く。阿久津が軽い足取りで厨房の方へ向かっていった。
二人分ではあるものの、すでに出来上がっているルーを白米に盛りつけるだけなので、目的のものはすぐに出てきた。両手に湯気の立ち昇る皿を持った阿久津が戻ってくる。「ほらよ、テメエの分」と片方を差し出してきた。
リカルドは礼を述べてから皿を受け取る。
阿久津は二、三口ほど食事を掻き込んでから、食堂内を見回した。
すぐに、「ああ、いたいた」と食堂の隅に視線が向く。「あの野郎……俺達に用意された飯を我が物顔で食らいやがって。しかも何だあ? 自分の女まで連れ込んでやがるじゃねえか」
食堂の一角――目立たない席に、男女の組み合わせが見て取れた。黒い服装の男と、対照的な白い服の女性だった。
私服刑事はズカズカと近づいていくと、そこにいた男の方を押し除けて隣に腰掛けた。何事かを話しているが、食堂の喧騒に掻き消されてリカルドには聞こえない。阿久津が何か失礼な事を言ったのか、白い女性が椅子から立ち上がって、「――んの、オ、オンナなどではありません!」と叫んでいた。
とにかく彼らが阿久津の言っていた『会わせたい奴』なのだろう。そう結論づけると、リカルドも騒がしい一団の方へと足を向ける。徐々に会話の内容が鮮明に聞こえてくると共に、阿久津に絡まれている男の姿が正確に視認できた。
「――――――――――――――――――――」
知っている顔だった。
かつてリカルドが心を折った場所で、最後まで果敢に戦い続けていた少年だった。
ブラックスーツのような黒地のブレザーに、それに似合わぬ実用性重視のブーツ。癖毛混じりの黒髪の下には、造形は悪くないものの、今にも死にそうな不幸面が張りついている。
見間違えるはずがない。
東京エリアの英雄――里見蓮太郎本人だった。
英雄へ無遠慮に絡んでいる阿久津は目を細め、悪そうに笑う。「――喜べ、リトヴィンツェフ達の足取りを知っているかもしれない目撃者が出た」